3-12.明信仏智

“他力の信を得たら、明信仏智の働きで、他力の信だと分かるから、人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない”

A君 今回は、この点について議論してみようか。信を得た人は、直ちに他力の信を得たと分かるものなのかい?

Cさん そんなことはないと思うわ。

B君 僕も、そんなことはないと思うよ。

A君 そう思う理由を説明してくれるかい?

B君 説明するのは難しいけど、僕自身、アレコレといろいろな思いが生じて、心が落ち着くまでにしばらく時間がかかったからね。

Cさん 私もそうだったわ。

A君 じゃ、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、というのは間違っているのかい?

B君 そこが間違っているといっているのじゃなくて、人に尋ねてこれが信かどうかを確認する必要はない、というところが間違いなんだ。

Cさん もう少し、説明をしてよ。

B君 う~ん。

A君 じゃ、代わりに言うね。
 他力の信という言葉を聞いて、どのように思っていたか、考えてごらんよ。たいていの人は想像しかできなかったはずだ。或いは、地獄一定となったときに如来の救われるというイメージで信をとらえていたと思うんだ。つまり、どのようなイメージを持っていたとしても、それはすべて間違ったイメージだね。

Cさん それは、その通りね。それで・・。

A君 それでって、まだ、分からないのかい?

B君 僕も分からないよ。もっと親切に教えてよ。

A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

B君 そう言ってくれれば、よく分かるよ。

A君 だから、蓮如上人は、信心沙汰をするようにと言われたんだと思うよ。

Cさん 自分の身の上に起こったことが他力の信かどうかは、よくよく、聞いてみないと分からないわよね。

A君 他人からいろいろと、他力の信について聞いていくと、ただ如来の願心を仰ぐだけだとか、本願を聞くことだとか、聞いていることがそのまま信だとか言われて、あぁ、やっぱり、私も信心を頂いたんだな、と分かってくるんだね。

B君 僕もそうだったね。

A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

A君 まったく同感だね。自分が問題とすべき問題はなくなっているということに気づき、分かったから、ただ如来の願心を聞いて仰いでいるだけでいいんだと心が落ち着いてくるんだ。心の落ち着き場所は、常に、ここなんだね。だから、僕は自力無功と知らされることは、如来の願心に心を留めさせる働きがあると考えているんだ。自分の心が如来の願心に虫ピンで留められ、動揺しなくなったと言ったら、分かるかな?

Cさん そんな感じね。

B君 そうだね。同感だね。

A君 このことについて、法然聖人は、二種深信の最初の機の深信についてこんな事を言っているよ。最初の機の深信は、「のちの信心を決定せしめんがために、はじめの信心をあぐるなり(「往生大要抄」昭和新修法然上人全集58頁11行目)。この文は誤解しやすいけれど、機の深信とは、わが身をたのみ、わが心の善悪、罪の軽重をはかって本願を疑うような自力心から永久に離れることをいうので、機の深信には、自力心によって再び本願を疑うようなことにはならない効用があるということなんだね。言い換えれば、のちの信心、つまり法の深信を決定せしめ、動揺させないという効用があるということだ。

A君 じゃ、納得して貰ったところで、最後に質問するよ。蓮如上人は、他力の大信とは明らかに知られたり、と言われているが、これは、どういう意味なんだろうね。また、“人に尋ねて、これが信かどうかを、確認する必要はない” ということの根拠になるのかな?

Cさん 根拠にはならないわね。蓮如上人は他力の信心であることが明らかに知られたと言われているだけですからね。私も、いろいろと思った疑問が聞いて解決するにつれ、これが他力の信心であると理解してきたわ。これは後からの理解だけど、私が如来のまことの心を聞き受けて歓喜していることは、以前も今も変わっていないわ。これが他力の信心だと呼ばれていることが後から分かってきたということなのね。

A君 そう。つまり、自分の心に開け起こった信が信前に聞いていた他力信というものに相当するのかどうか、後から認識し始めたということだね。その理解に至ったのは、さっき言ってくれたように、自力無功と知らされて如来の願心から心が動揺して離れてしまわないようになってしまったことと関係があるんだ。常に自分の心が如来の願心を仰ぐという状態にあることは、とても不思議なことなんだね。これは自分の意志や心によって現れた精神現象じゃないということだけは分かる。だから、如来の願心から生じた信心と理解するしかないと思うようになるんだ。願心を信受した者であれば誰しもがこのような理解に至るのだと思うが、それは、如来の願心が働いている結果だと思う。その意味で、蓮如上人は、他力の大信心とは明らかに知られたり、と言われたのだと思うね。

Cさん それで、明信仏智の働きで、他力の信だと分かる、という言い方は間違いだとは言えないのね。

A君 僕は、そう考えている。
 それに、明信仏智とは、他力の信のことだから、明信仏智の働きで他力の信だと分かるというのは、他力の信自体に他力の信と分からせる働きがあるということなんだけど、それが他力の信であるということは、自力無功と知らされたことで時間の経過とともに次第に認識されてくるものであって、信一念にたちどころにこれが他力の信だと認識させられてしまうようなものではないんだね。