4-1.当たり前と妙好人

 私の数少ない法友仲間の1人がブログで書いています。妙好人という言葉を使わないようにしている、と。

 信がわかったといっても、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないし、だれでもが領解できる当たり前のことだという思いからの発想だと思いました。とても共感できます。

 そこにでてくる漫画とそれに合ったコメントもまた素晴らしい。以下、コメントを引用します。

  -引用開始

越前の竹部勝之進という方に以下の句があります。
 タスカッテミレバ
 タスカルコトモイラナカッタ
 ワタシハコノママデヨカッタ

-引用終わり

 おもわず、フッフッフとなります。そのとおりだなぁと。結局、私は前の状態と変わらないけど、大きな違いは、ワタシハコノママデヨカッタ、ということを理解できた点です。この違いは本当に小さいけれど、大きい。

 後生なんか考えても仕方ない、考えても結論は出ない。このような思いは今も昔もかわりません。しかし、今と昔とでは同じ意識ではありません。今は、如来の願心に思いをはせると、後生のことは自分にとってどうでもよいことで、これは如来の領分だった、自分の手の出せない領分だったと知ったのです。

 後生なんか考えても仕方ないという点では、振り出しに戻ったような気分ですが、もともと、一歩も進んではいなかったのです。凡夫が凡夫と知らされた。私がアレコレと気を揉んで心配したことは無駄だったと知らされた、ということに落ち着きました。自分は凡夫だという当たり前のことを当たり前のように知らされたのですから、人に自慢するようなものではないし、人から特別にほめられるようなものではないのです。

 さて、その思いを改めていざ文書を書き残そうと思いきや、きれいに化粧をほどこして、人からなるほどと言われるようにうまくまとめようと思います。外に賢善精進の相を現じようとするのです。祖師は「賢者の信は、外は愚、内は賢。愚身が信は、外は賢、内は愚。」と書かれていますが、私も外づらを賢に仕上げようと常に意識しながら書いています。

 しかし、法然聖人は言われています。愚者にかえりて往生す、と。よって、愚は愚のままでいいじゃないか、という精神でやってまいります。

 最後に、妙好人という言葉ですが、信の人を讃嘆した言葉ではなく、信の徳を讃嘆したものです。一実真如の徳を具足した南无阿弥陀仏が私の心の中で信となったものですから、三世諸仏から信の徳を讃えられるのです。