4-9.いただけた

 慈悲には形がありません。そもそも慈悲というものがどういうものか、分かりません。分からないものをいただくことはできません。ここが乗り越えられない壁でした。八方塞がりでした。法話を聞いても、「分からない、分からない、全く分からない。」といつもこぼしていました。

 如来の慈悲が私に届いていると分かったとき、もらい方を問題としなくて良いことが分かりました。慈悲が既に届いていたので、届いていると分かっただけで良かったのでした。救うという慈悲であることが分かれば良かったのでした。如来が救うとされている私の「救われるべき状況」がどのような状況なのかを理解していなくても良かったのでした。「救われるべき状況」が解消されて安心したということもありませんでした。ただ、慈悲があることが分かれば良かったのでした。慈悲が届いていると分かったことが慈悲をいただくということでした。

 せっかく慈悲をかけられていても、その慈悲を分かってあげられなければ、慈悲はなんにもなりません。慈悲をいただくとは、慈悲に気づいて分かって上げられることだと気づきました。