5-2.地獄に堕ちきった所で呼び声を聞く?

地獄に堕ちきった所で呼び声を聞く?

 “ 自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の  釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。”
と説き、だから、“ 精一杯善をせよ。” と勧める人がいる。

これって、本当?それとも間違い?

 間違いです。しかも極めて悪質な嘘です。

A君 どうして、間違いといえるのかな?

B君 これは地獄秘事をベースにした異義だね。

A君 地獄秘事ってなんだい。

B君 「真宗異義異安心の研究」という本が永田文唱堂から出版されていて、その420
頁に記載されているよ。
「地獄一定と落ち切った上で、法を信じて浄土へ往生を遂ぐ。吾が身は悪しき徒らものなりと思いつめてとあるによりて、なにかはすてをき、機を強く信ぜねばと云ふたは、邪義と云ふではなけれども、甚だ心得違いと云ふものぢゃ(真宗系大系本28頁)」
ってね。

A君 地獄秘事の特徴は、信機を地獄に堕ちきるだと理解し、この信機を先とし、信法を後とする異義のことだけど、冒頭の見解は同時であることを注意しているが、それでも間違いなのかい?

B君 言葉では「同時に助かる」と言っているが、同じ系列の異義だと思うよ。
   だってさ、悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると(同時に)如来の呼び声を聞いて助かるというのだから、悪人と知らされて地獄に堕ちるのが先で、如来の声を聞くのが後であることは明らかだよ。 
A君 (納得できない様子で)う~ん。マーそうなんだけど、 どうして異義だというのか、もっと説得的な理由が聞きたいなぁ。

B君 まず、他力信心とはどういうものであるかを正しく理解しないとその誤りは理解できないよ。

A君 では、君は他力信とはどういうものだと理解しているのかな?

B君 他力信心というのは、浄土に生まれさせるという如来の願心である摂取決定心を無疑の心で受けとめることだよね。

A君 無疑の心で受けとめることを信楽というんだね。それで無疑の心で願心を受けとめると、どういう思いになるのかな?

B君 無疑で受けとめるから、私の浄土往生は決定し、浄土に生まれられるという思いになる。これが信法。

A君 信機は?

B君 無疑で受けとめるから、如来の願心によって浄土に往生できる。だから、自力は無功という思いにもなる。これが信機だね。

B君 信法も信機も、ともに如来の摂取決定心を無疑の心で受けとめるところから生じる思いだね。無疑の心で受けとめることから同時に生起するんだ。「無疑で受けとめるから2つの思いが同時に生じる」というところが大切な所だね。
 冒頭の異義は、この大切な所をすっぽりと抜かしてしまっているよ。それに信機とは地獄に堕ちきることではないんだ。

A君 なるほど、君の言う他力信とはどういうものか分かったよ。だから、信機を先とし信法を後とする地獄秘事も冒頭の異義も、君の言うところの「最も大切な所」が抜けているので、間違いだというんだね。

B君 そうで~す。

A君 さて、他力信とはどういうものか分かったところで、冒頭の異義はどこが間違っているのかな。1つ1つ順番にいこうか。冒頭の異義は、この地獄秘事に「自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされたとき」ということを付け加えている。この点が地獄秘事とは違っているね。

B君 1つめは、地獄に堕ち切って如来の呼び声を聞くというところが間違いだ。

A君 地獄の堕ち切って聞く、というところが間違いなのかい、それとも、如来の呼び声を聞くという所が間違いなのかい?

B君 両方とも間違いだね。

A君 へー。面白いね。「如来の呼び声を聞く」という所も間違いなのかい。

B君 うん、間違いだね。如来の呼び声を聞くことはないよ。

A君 少し説明してよ。

B君 声を聞くというのは、通常、聴覚器官に音波が届き、そこから電気信号に変換されて脳に伝達され、脳内において音声として認識され、その音声のもつ言語的な意味を理解するということだよね。

A君 そうだね。

B君 そのような意味で如来の声を聞くことはない。
 如来の呼び声を聞く、というのは、人から如来の願心のあることを聞いて、その願心を無疑の心で受けとめている状態を指しているのであって、文字通りに如来の声を聞くのではないよ。

A君 そのとおりだね。昔から、阿弥陀様の呼び声を聞く、ということが言われていたようだけど、如来の呼び声を聞くというのは実に間違いやすい表現だ。

A君 次に、「地獄に堕ち切ったところ」で聞くというのが間違いだというんだね。

B君 そう。地獄に堕ちることはない。地獄に堕ち切らなくても他力の信は生じる
よ。
 それに「地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされる」のが信機ではない。信機とは、「浄土に往生できるのは如来の願心である摂取決定心によるのであり、自力の思いでは往生は不定、自力は無功」という思いになることだよ。

A君 でも、悪人であるとの自覚のない善人も、他力信を得るときには、如来の働きによって、本当の自分の姿は極悪人で地獄の釜の底に落とされるような自分だと知らされるということがあるんじゃないのか。

Cさん 「地獄の釜の底に落とされる」というのは、どうも私の実感とは違うのよね。

B君 真宗でいう信機というのは、さっきも言ったけど、自力では如来のお救いには預かれないという自力無功の思いのことをいうんだ。極悪人と知らされて地獄に落とされるという我が身の本当の姿(実機)を知らされた、ということではないんだ。 

A君 そこなんだね、問題は。
 地獄秘事や冒頭の異義は、善導の二種深信を誤って理解したことから生じた異義であると思われるのだが、善導の二種深信のうちの信機を「自分の本当の姿(実機)が知らされることだ。」と誤解しているから、「自分は善ができぬ悪人と知らされ地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされる。」などと間違ったことを言うハメになるんだね。そして、さらには自分は善ができぬ悪人と知らされるために、自力一杯善を求めよと要求するようになるんだ。

B君 善導が「出離の縁あることなし」と言われたのは、「自力で出離できるようなことは過去には一度もなかった。これから先の将来においても自力で出離するなどということがあることはない。」ということであって、自分の善などでは往生は不可と知らされたことを言っているんだ。これを自力無功というんだ。

A君 では、どうして自力無功という思いになるのかな?

B君 さっきも言ったけど、如来の大悲心を聞いて受け入れるとき、これまで自分の自力の思いは何の役にも立たなかったと知られるのだが、それは、大悲心によって往生が決定していたと知られるからだよ。自力一杯善を求めた結果ではないんだ。

Cさん そう。大悲心を受け入れるだけでいいのよ。だから、罪悪感が深まることもなく、また善人にもなれないまま往生できると私は分かったの。

A君 各自の実感の上でも、機の深信の理解の上でも、冒頭の異義は間違っているということだね。それに、「自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄は一定と地獄の釜の底にたたき落とされると同時に如来の呼び声を聞いて助かる。」なんてことを言っている人は、元祖、祖師、蓮如上人らの中には一人としていないよね。

A君 冒頭の異義では、「自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされたとき、地獄に堕ちきって如来の声を聞く」と言っているが、自力一杯求めて、自分は善ができぬ悪人と知らされる、という所も間違いなのかい。

B君 そこも大きな間違いだね。
 この異義は、自力一杯求めれば誰でもが自分は善ができぬ悪人と知らされるということを前提としており、善ができぬ悪人と知らされるために自力一杯求めよと勧めるのだが、そこが間違っている。

A君 どうしてそこが間違いなの。

B君 それでは自力が間に合う、ということになってしまう。

A君 もう少し詳しく説明してよ。

B君 自力一杯求めてゆけば自分は善ができぬ悪人と知らされて地獄に堕ちる、そのとき助かるというんだから、悪人と知らされることに自力が役立つことになる。だけど、自力は役立たない。

A君 そうだね。往生は如来の願力ひとつで決定するのだから、自力が役に立つことはない。そのことが自力は無功という思いになるんだ。

B君 冒頭の異義は、悪人の自覚を要求する点で間違いだ。
 自分は善人であるという自覚のある人でもその自覚のあるままで助かるからね。冒頭の異義は、善ができぬ悪人と知らされれば助かる、知らされなければ助からないということだけど、自分は善人であるという自覚のある人でもその自覚のあるままで助かる。だから、悪人と知らされて助かるというのは間違いだね。

A君 君の言う善人というのは、実は悪人なんだけど悪人と認識していないだけの人なのかも知れないが、元祖は、「善人は善人ながら往生する」と言われているし、「罪は十悪五逆のもの、なをうまると信じて、小罪をもをかさじと思うべし。いかにいはんや善人をや」(つねに仰せらける御詞)と言われているね。

A君 B君は、悪人と知らされるまで善を求めたことがあるのかい?

B君 お恥ずかしながら、やりませんでした。
 でも一生懸命に善を行えば、善ができない自分が知らされるというのは本当のことだと思うけど、それで地獄の釜の底に叩き落とされる、という悲痛な思いになるとは、チョット考えられないなぁ。

C子さん 私は悪人という自覚があったわ。だけど、その自覚があったために阿弥陀仏に救われることはないと思っていたの。
 でも、元祖は、自己の罪を卑下して往生は不定だと思うものは、本願他力を知らない者だと言われているわ。自分の悪性を卑下していたことが間違いだと知ったわ。

A君 それで、自分は地獄の釜の底に叩き落とされたのかい?

Cさん そうじゃないけど。

A君 じゃあ、悪人と知らされたときに救われたのかい?

Cさん 私はずっと自分は悪人だと思っていたから、救いから漏れていると思い続けていたの。突然、悪人だと知らされたわけではないわ。

A君 B君とCさんの話を聞いていると、悪人であるという思いや善人であるという思いとは関係なく、救われるということかな。

B君 関係ないよ。問題は別の所にあるんだ。

A君 どういうことかな。

B君 自力の計らいって奴が大問題だね。善悪は問題ではない。

A君 ふむ。

B君 善人であれば、自分の善を頼りにして救いを求めるということが問題になるんだし、悪人の場合は、悪人だから救いからもれているという思いを持っていることが問題となるんだ。

A君 詳しく説明してよ。

B君 如来の大悲は、上は龍樹・天親から下はダイバまで一切の者を救うという慈悲だから、大悲から漏れている人はいない。いないけど、Cさんのように「自分は悪人だと思っていたから、救いから漏れている」という思いを抱えている人はその大悲が信じられないから、往生は決定という思いになれないんだね。だから、Cさんのような思いは大悲を疑う疑心なんだ。
 逆に、自分は善人だと思っている人には、自分の善をアテにして助かろうという思いがある。この思いがあるために往生は決定という思いになれないんだ。だから、このような思いも大悲を疑う疑心なんだ。その疑心こそが大問題なんだ。

A君 それで?

B君 元祖は、念仏往生要義抄にもこう言っているよ。
問うていはく、他力の様いかん。
答えていはく、ただひとすじにわが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんと思ひて申すを他力の念仏といふ。            
善悪をかえりみないということは、それに囚われないということだね。

A君 それは分かったけど、それと冒頭の異義の誤りとどう結びつくんだい。

B君 もう少し待ってね。如来の大悲は、善人を善人のまま救うという大悲だから、元祖は、
「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとはいふなり。」
と言われているよ。

A君 念仏にすけささぬ、とはどういうことかな。

B君 念仏を独り立ちさせることをいうのだけれど、念仏ひとつで往生できるということに不信がある者は、念仏に自分の才覚や修善などを加えないと助からないという思いを持つことになる。そのような人は自力疑心のために往生不定の思いになる。
 これに対して、念仏は如来が私の往生のために与えて下さったものだという信のある人は、往生は決定したという思いがあるために自分の才覚や修善などを念仏に加えることはない。これを念仏にすけささぬ、というんだ。

A君 そうすると、元祖は、「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人」を他力の念仏を称えている人であるといっているのだね。

B君 そう。だから、自力疑心のなくなった善人は、善人のまま決定往生の思いで念仏申せばいいんだよ。

A君 君の言いたいことはわかったよ。善人のまま救われるというのだから、「自分の姿は極悪人で地獄の釜の底に落とされる」ということはないし、「信を得るために自力で善を一生懸命に求めることも必要ない」と言いたいんだね。

B君 そう。だから、善ができぬ悪人と知らされれば助かるということが救いの条件になることなど一切ないんだ。ただ大悲心を聞くだけなのだよ。 

A君 君も、なかなかハッキリというようになったね。

B君 君の影響だよ。

ここからはAの独り言

① まことの善ができないということは、真宗を聞く前から既に気づいていたことではないでしょうか。無条件のそのまま救うという如来の大悲を聞きながら、どうして、そこからさらに地獄に堕ちるという思いが生じるまで善をしなければならないのでしょうか。如来の救いとはまったく関係のない廃悪修善の教えに振り回されているだけではないでしょうか。
 如来の願力によって既に浄土往生が決まっているということを聞くのが真宗であり、廃悪修善をすることを要求するものではありません。

② 善を追究したその極限において自分は悪人と知らされて地獄に堕ちるという思いに至ったとしても、その思いは他力の信ではありません。悪人と知らされて地獄に堕ちるという思いになったことを機の深信というのであれば、この機の深信は他力の信ではなく、自力の信です。

③ 冒頭の異義は、「自力一杯求めて自分は善ができぬ悪人と知らされたとき以外には如来に救われることはない」ということを含意しているが、これは「善ができぬ悪人と知らされたこと」を条件として助かるということを主張しているのと同じです。
 しかし、如来の救いには、そのような前提条件はありません。悪人と知らされた者だけを救うという本願ではありません。

④ 如来の呼び声を聞くというのは、如来の大悲心を聞くということです。大悲心を聞くことに何の条件もありません。大悲心を聞くということは、大悲心を心に聞き受けて無疑の心となり、この大悲心に乗託する思いとなり、また、自力の計らいが廃ることです。大悲心に乗託する思いが法の深信であり、自力の計らいは何も役立つものではなかったという自力無効の思いが機の深信です。他力の信においては法の深信も機の深信もともに大悲心を無疑の信で聞き受けていることから生じる思いです。ですから、他力の信における法の深信には機の深信が、機の深信には法の深信が必ず伴っていますから、一具の信といいます。どちらかがどちらかの前提条件となるものではありません。

⑤ 地獄の釜の底にたたき落とされることが呼び声を聞くための条件だというように、如来の呼び声を聞くための条件を1つでも設定してしまいますと、如来の呼び声を聞くために必要な条件が無限に必要になってきます。地獄にたたき落とされるには、自分は悪人と知らされなければならない。悪人と知らされるためには死にものぐるいで諸善に励まなければならない。善をするには睡眠時間を削っても励まなければならない。また、健康でなければ善は励めないから、健康にも注意をしなければならない。いつになったら、他力の世界に入ることができるのか分かりませんから、臨終に間に合わないということにもなりかねません。

⑥ 善を追究すれば悪人と知らされて地獄に堕ちる思いに至ることができる、その先に如来の呼び声を聞くのだ、ということであれば、自力を尽くした結果として他力の世界に入ることができるということを承認することになります。しかし、自力で他力信の世界に入ることはできません。これを祖師は、「しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲難く、極果証しがたし。何をもってのゆえに。往相の回向によらざるがゆえに、疑網に纏縛せられるがゆえに。いまし如来の加威力によるがゆえに、博く大悲広慧の力によるがゆえに、清浄真実の信心を獲」と言われています。如来の大悲広慧の力によるがゆえに、自力疑心が廃るのです。如来の大悲によってのみ自力が廃るのです。

⑦ 冒頭の異義の大きな誤りは、如来の救いを聞く条件として、「善ができないと知らされる所まで自力一杯善を求め、地獄の釜の底に堕ちるという思いになること」という条件を設定したことにあります。この間違いから、「如来の大悲広慧の力によるがゆえに自力疑心が廃り清浄真実の信心を獲る」という教えに反するものとなり、また、平成業成という教えでありながら、臨終までに救われないかも知れない、臨終にも救われないかも知れないという大きな不安を抱かせたまま会員に宿善を求めるさせる間違いを犯しているのです。