1-23.正定業と助業との違い

 善導大師は、正行を「阿弥陀仏への礼拝、浄土三部経の読誦、阿弥陀如来の浄土の観察、称名念仏、讃嘆供養」をいうと指定され、そのうちの称名念仏を正定業、その他は助業とされました。

 称名念仏を正定業とするのは、称名念仏が十八願に誓われているからですが、この称名念仏と他の助業とはどこがどう違うのでしょうか。

 十八願で誓われている称名念仏は、至心信楽欲生我国、乃至十念と誓われた念仏であることから、信の上の他力念仏です。この信は、阿弥陀如来の大悲心を心で受けとめたことをいいます。そのため、称名念仏は、如来の大悲心を感受しつつ唱えるものになります。他の助業もまた如来の大悲心を感受しつつ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養するものです。

 大悲心を感受する他力信が内心に起こりますと、心相として南無阿弥陀仏となり、如来の大悲心を憶念する心が起こります。この憶念の心があることから心の中の南無阿弥陀仏を拝み、大悲心成就を味読し、信が生じた不思議を内心で讃嘆する思いになります。信が憶念となり、体に現れ出ると礼拝、読誦、観察、称名、讃嘆供養の行となります。いずれも大悲心を感受し、自己の行いの功徳を求めない、自力の計らいの廃った行です。この点は称名念仏と助業とは共通します。

 称名と他の助業とが決定的に違うのは、称名は南無阿弥陀仏の信が南無阿弥陀仏と口称に現れる点です。他の助業においては、口称のように行中に南無阿弥陀仏が現れることはありません。

 繰り返しになりますが、他力の信とは「阿弥陀仏を南無」と信受していることをいい、ここに私が南無阿弥陀仏となった心相があります。この心相としての南無阿弥陀仏は、如来が私の心中に顕現したものです。如来が顕現したものですから、この如来が浄土に環帰してゆきます。私はこの如来によって浄土へと連れられてゆくのです。ですから、この南無阿弥陀仏が私が浄土往生する往生の行となるのです。私に内心の心相としての南無阿弥陀仏があることによって、私は如来を憶念し、これが称名念仏となります。この称名念仏は凡夫の行としての側面はあるものの、心中の南無阿弥陀仏が憶念の心となり、声となって顕現したものですから、善導は称名念仏を正定業とされました。称名念仏が正定業となるのは、南無阿弥陀仏の心相が往生浄土の行だからなのです。祖師は、これを仏の救済行であるという意味で大行と言われました。

 礼拝、読誦、観察、讃嘆供養の行には、このような如来の顕現ということはありませんので、これらの行を正定業と位置づけることはできません。

 ところが、選択本願念仏集において、称名を五助業の1つとしている箇所があります。

初めに同類の助成は、善導和尚の観経疏の中に、五種の助行を挙げて念仏一行を助成す、これなり。・・・・
上輩について正助を論ずれば、「一向に専ら無量寿仏を念ず」とは、これ正行なり。またこれを所助なり。「家を捨て欲を棄て、しかも沙門となって菩提心を発する」等はこれ助行なり。またこれ能助なり。いはく往生の業には念仏を本とす。故に一向に念仏を修せんがために・・。

善導は、称名を除いて前三、後一を助業とすると述べているので、「五種の助行を挙げて念仏一行を助成す」というのは元祖の見解です。「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを所助とするので、五種の助行は「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するものであるとの見解であることが分かります。称名もこの「一向に専ら無量寿仏を念ずる」ことを助成するということです。

 別のところで元祖は

本願の念仏には、ひとりだちをせさせて、すけをささぬなり。すけといふは智恵をもすけにし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて念仏する人を念仏にすけささぬとはいう也。
つねに仰せられる御詞

と言われています。ここで助(すけ)させるというのは、念仏以外の行などを往生の資助とする自力の計らいのことを言います。これは信前の思いです。自力の行人は、念仏だけでは往生の行として足りないと思うことから、往生の資助として智恵や持戒をアテにして念仏をすけさせることになるのです。念仏はそれだけで往生の正定業だから、他の助(すけ)は必要ありません。選択本願念仏集にいう五助業の助業とは、自力の計らいとしての往生の資助のことではありません。では、「念仏は五種の助行に助成される」とは、どういう意味でしょうか。

 元祖の晩年の御法語であるとされている元祖の十七条御法語の第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。これと関係があるように思います。

ここでは、称名は念を成ぜんがためとありますが、念とは如来如来の大悲心を憶念することです。称名をはじめ、礼拝、読誦、観察、讃嘆供養は、いずれも大悲心を憶念する心へとつながってゆきます。ですから、称名も他の助業と同様に仏を憶念する心を助成すると言われたものではないかと思われるのです。

 以上の同類の助業に対して、異類の助業というものもあります。

 これは信後の止悪諸善のことです。悪行をすれば自ら苦しむことになります。そのような苦悩する状態で念仏を唱えることはできません。やはり幸せを感じる順境の中で念仏を唱えるのが一番です。止悪修善の生活それ自体が念仏を唱えやすい環境となります。その意味で、止悪諸善は信後の念仏を唱えやすくするので、念仏を助成する助業としての意味があります。上輩・中輩に「一向に専ら無量寿仏を念ずる」以外の諸行が説かれていますが、これが助業になるというのです。信を得た後は、諸善は雑行ではなく、助業になるとの元祖の御法語が残されています。

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。 
醍醐本 禅勝房への答え

 この他にも、次のような助業もあります。

現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくば、なになりともよろずをいとひすてて、これをとどむべし。いはく、ひじりで申されずば、めをまうけて申すべし。妻をまうけて申されずば、ひじりにて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。・・・・・・。
衣食住の3つは、念仏の助業也。これすなわち自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事も念仏の助業也。
                           禅勝房伝説の詞

この助業も念仏を唱えやすくするという意味です。この元祖の詞によれば、念仏を唱えることを生活の中心に考えよ。念仏を唱えられるように止悪修善を行い、生活をととのえて生きてゆけ。収入を得るのも念仏を唱えんがため、家庭を持つのも念仏を唱えんがため、ということになります。

 元祖のお考えでは、大悲心を憶念し称名する以上に価値のあるものはない。念仏者の生活は、その生活の全てが大悲心を憶念し称名することに費やされてゆく。大悲心を憶念し称名するという唯一最高位の価値を頂点として生活の1つ1つが整序されてゆくのだ、というのでありましょう。