2-22.声につきて決定往生の思い

声につきて決定往生のおもいをなせ。

 

煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて、声につきて決定往生のおもひをなすべし。

             法然聖人 つねに仰せられる御詞(二十七条御法語)

 

 声につきて決定往生の思いをなす、とはどういう事でしょうか。

 

 法然聖人は、善導の「行住坐臥不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順被仏願故」を拝読して回心された方です。南無阿弥陀仏と唱えることは、彼の仏願に順じていることになります。仏願に順じているとは、念仏申して浄土に生まれることがなければ正覚を取らないと誓った本願に順じているということです。順じているとはその仏願のとおり念仏しているということです。念仏申す私の声が私の耳に聞こえたら、本願のとおりになるということが確認できます。本願のとおりになるとは、私の往生は如来の誓いのとおりに決定したということです。私の往生は如来の誓いのとおりに決定したのだから、念仏の声に、自身の往生決定の思いが生じるのです。

 

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を本願召喚の勅命と言われました。唱える声となった南無阿弥陀仏は、如来が私に向かって浄土に往生せよと呼びかける勅命だから、その命に従う思いが生じます。如来の命に従えば、往生決定の思いが生じることになります。

 

 蓮如上人は、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり、と言われました。南無阿弥陀仏のすがたとは、摂取するとの如来の願いを私が受け入れたことであり、南無阿弥陀仏は私が浄土に往生してゆくすがたそのものだったと知られます。そのため、南無阿弥陀仏と唱える我が声を聞くと、私は往生してゆけることを自ら確認するのです。ですから、念仏の声に、決定往生の思いが生じるのです。

 

 法然聖人の法語の中には、「源空の目には、三心も、五念も、四修も皆ともに南無阿弥陀仏とみゆる也」との法語があります。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いて念仏するほかに別の子細なきなり、です。決定往生の思いの源泉は、法然聖人にとっても南無阿弥陀仏なのです。