2-23.念を成じる

 元祖の十七条御法語は、元祖の晩年の御法語であるとされています。その第十条には、

往生の業成は、念をもって本とす。名号を称するは、念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す。心念の業、生を引くがゆえなり。

とあります。

 読んだ当初の感想として、違和感を感じました。信のほかに成すべき念というものがあるのか、という違和感でしたが、やがて違和感は解消されました。

 この念は大悲を憶念することですが、大悲を憶念するとは、大悲を感じつつ大悲に思いを致すことです。他力の信にはこの憶念が自然に伴います。でも、憶念することを忘れがちになります。称名すれば、憶念がふたたび醸成されます。そのため、元祖は、名号を称するは念を成ぜんがためなり。念すなわち懈怠するがゆえに。常恒に称唱すればすなわち念相続す、と言われたのでした。

 南無阿弥陀仏如来の大悲心であることから、この名を称することによって大悲心を感受し、大悲心を感受して大悲心を憶念する。大悲心を憶念して称名する。このような円環が始まります。

 その逆もあります。憶念の心が起こるがゆえに称名するという循環です。称名して憶念の心が起こるのとは逆です。

 しかし、いずれかが基点となるものであっても、その循環はつぎつぎに円環してゆくので、同じ円環になります。大悲心を受ける他力信がその円環の基礎にはあります。

 信があるので、称名から始まっても良いし、憶念から始まっても良いのです。どちらの場合でも大悲心に誘われて自然な円環が始まります。信がなければ、この円環が成立することはありません。