2-24.あっちとこっち

 普段の思いや臨終の思いは信と無関係である、といわれます。臨終にどのような思いになっても信を得ていないとは言えないし、信を得たとも言えない、ということです。

 どうして、そのようなことが言えるのか、考えてみましょう。

 私の内心の意識や思いを仮に「こっち」としましょう。信は「あっち」なのです。あっちもこっちも私の内心のできごとなのですが、信を「あっち」というのは、こっちとは異なっているからです。

 こっちはいつも変わります。あっちはいつでも変わりません。
 こっちはいつもざわついています。あっちはいつも静寂です。
 こっちはいつも喜怒哀楽が絶えません。あっちはいつも平静で起伏がありません。
 こっちはいつも面倒なことばかりです。あっちは何もありません。何も起こりません。
 こっちはいつも時間の流れがあります。あっちはいつも今です。過去も未来もありません。
 
こっちは凡夫の側、あっちは仏の側のことです。こっちとあっちですが、同じ心の内です。

 如来の真実心が私に至ったのが私の至心です。その関係は、変化する泥水の模様とその泥水に宿った月影の関係です。泥水の模様が変化しても月影は変化しません。臨終の思いは、いわば変化する泥水の模様です。

 如来の間違いのない真実心に依拠し、依存しているが信です。ですから、心の中にある信と如来の真実心とは同じものです。如来の真実心が変わらなければ、信は恒常です。如来の真実心は変わることがないので、信は常恒で静寂で平静で、何もありませんし、何も起こりません。いつも現在だけです。普段の思いや臨終の思いは、こっち側の意識の中で起こることです。信は私の心の内にありながらも如来の側の領域にあるので、こっちの思いに影響されないのです。
 
 では、念仏は、こっちでしょうか、あっちでしょうか。

 念仏はあっちであり、こっちでもあります。その理由は、念仏は如来の救いが私に届いたものですから、もともと念仏は如来の側に属します。念仏は信に依拠しつつも私の思いで称えるものだから、私の側のものです。でも如来の側に属する念仏ですから、称えて功をつのる思いはありません。