2-25.真実の自己って何だ?

 真実の自己を知れ、という人がいます。「真実の自己」というのは、どういうことでしょうか? 真実の自己を「知る」とはどういうことでしょうか?

 「真実の自己」とは、自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する自己のことでしょうか。

 「知る」とは、そのような因縁の存在であることを経験的に知ることでしょうか。
 自己という固有のものは存在せず因縁に従って生起し滅する因縁の存在である自分は罪悪にまみれた悪人の姿をしていることを経験的に知ることでしょうか。何をどこまで知れば、真実の自己を知ったことになるのでしょうか?

 いずれにしても、上記の真実の自己という言葉には確からしさがなく、さまざまな内容を含みうる多義的な言葉であるため、雲を掴むような漠とした感じを受けます。

 ところで、聖道の修行をした者が智慧を得て自己という固有のものは存在しないと智見することがあるのかもしれません。また、聖道の修行をした者が結果的に自分は罪悪にまみれた悪人の姿を経験的に知るということがあるのかもしれません。

 しかし、浄土門においては、そのようなことを問題とすることはありません。

 真宗においては、如来の救いに遭うに際して自力の計らいは無力であると分かった、という経験をすることがあります。自力無功という信の体験がそれですが、それを真実の自己を知ったと表現するのはあまりにも多くの誤解を招くことになります。信を得ても三世を知ることはできません。信を得ても真実の自己を知ることはできません。信を得て分かることは、自力は役に立たず、自力で信を得ることはできなかったということと如来に大悲心があるということだけです。