3-13.念仏すれば救われますか? の質問にどう答えるか。

 

A君 真宗において、なかなか救われずに苦労している人は、どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか、と真剣に問われることがあるよね。君なら何と答える?

 

B君 「救われる」という事をその人はどう考えているのでしょうか。浄土往生できるということでしょうか、それとも真実信心を得たいということでしょうか。

 

A君 そうだね。「救われる」というのは「浄土往生できる」という前提で考えてよ。

 

B君 分かりました。念仏往生とはいえ、そのような心で念仏を称えても浄土往生はできません。

 

A君 「そのような心」ってどんな心のこと?

 

B君 今A君が言った「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念をもった心、ということです。

 

A君 これは疑念なのかな。

 

B君 そう。これは本願を疑う疑念です。 

 

Cさん どうして、そういえるの。

 

B君 如来は「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているから、善導は「称念必得往生」と言われています。「念仏すれば救われますか?」という思いは、その如来の誓いに疑念を差し挟んでいるので、本願を疑う疑念なのです。

 

A君 「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

 

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。

でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

 

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

 

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。 ある人が、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

 

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては、先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

 

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

 

A君 では、そのような疑念のあるなしが問題となるということだね。 

 

B君 そうです。なくなればよし、無くならなければ往生は不可です。これを信疑決判というのです。

 

A君 どうしてその疑念の有無が問題となるのかな。

 

B君 その疑念が十八願の救いに向かうと疑情となって、如来の救いを妨げてしまうことになるからです。法然聖人はこんなことを言われていました。念仏往生要義抄に「問うていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。答えていわく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏はまたく往生すべからず。」その他力については「問いていわく、その他力の様いかん。答えていわく、ただひとすじに、わが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ。」と法然聖人は答えられた。これも「法然教学の研究」という本にでているよ。

 

A君 念仏を称える思いがひとすじに決定往生の思いになっているか否か、が問題だというのだね。では、決定往生の思いとはどういうものなのかな。

 

B君 決定往生の思いとは、十八願の至心信楽欲生の他力の信のこと。この他力の信に裏付けられている念仏が、乃至十念の念仏、法然聖人の言う他力の念仏のこと。「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」と思っている人は、この決定往生の思いがない。だから、そのような疑念でせっかくの念仏を称えても自力の念仏となってしまう。

 

Cさん 言い換えれば、「どうしたら救われるのですか、念仏称えたら救われるのですか。」という疑念は十八願の救いを妨げているものなのね。

 

A君 ではCさん、十八願の救いはどういうものか説明し、どうしてそのような疑念が十八願の救いを妨げるものになるのか、もう少し詳しく説明して下さい。

 

Cさん 十八願の救いというのは、御名を聞いて信心歓喜することなの。私が往生してゆく浄土が完成し、私はその浄土に往生してゆくことに何の間違いもないと告げているのが南無阿弥陀仏の御名であり、その御名が私に届いて私がそれを聞いていることがすでに如来の救いに遇っているということよ。だからその事を聞いて気づけば、私の往生は既に如来が定めおいて下されたのか、と歓喜して念仏を称えるようになるの。これを如来の救いにあった人というの。どうしたら救われるのかと思うのは、その救いに遭っていることに気づいていない人なの。如来の救いに遇っていることを信じられない人なのね。

 

A君 如来の救いに遭っていながら、なんとか救われたい、どうしたら救われるのかなどと言っているのは、実に滑稽なことだ。でも、誰もがそのような滑稽なことをしていたんだよ。僕もみんなもだ。このような思いは自分の心を覆ってしまい、せっかくの如来の救いを無為にしてしまうので、自力の迷情というんだ。

 

Cさん その自力の迷情が問題なのね。でも、如来の救いに既に遭っていることに気づいたとき、その迷情はきれいに消えてしまうわ。

 

A君 そこが如来の救いのおもしろいところだ。なんとか救われたいと思っている思いがかえって救いの妨げになっているんだからね。

 

A君 では、そうした疑念のまま念仏を称え続けたら、その疑念が晴れることはあるのかな。念仏行の効果ないし効用として。

 

B君 ないでしょう。

 

A君 でも、如来は、念我国諸植徳本(称名)の者について果遂させると誓っているよ。念仏するものはいつかその思いが遂げられるのではないのかな?

 

B君 今救われたいと願っている人には、その誓いは意味がないよね。その人は、今の今、如来に救われたいと思っているのだから。今の今、救われるような救いでなければならないでしょう。

 

Cさん じゃ、念仏称えてもいつかは救われるかも知れないが、今の今は救われないってことね。

 

B君 そうですね。救われないですね。法然聖人が言われているようにね。

 

A君 法然聖人は、行具の三心といわれていることを知っているかい。

 

B君 さっき、善導の本願取意の文に、三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由を法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えたってことを紹介したけど、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足」することから、この三心は行具の三心と言われている。

 

A君 念仏行を行じる人には自然と三心を具すということだね。

 

A君 三心とは観経の三心のこと、つまり至誠心、深心、発願回向心のことだけど、行具の三心は十八願の至心信楽欲生の信と同じだ。念仏にはその徳として自然に信が伴うということだね。

 

Cさん じゃ、念仏を称えていれば他力の信が自然と生じるということなの。

 

A君 さぁ~。そこだよ。大切な所は。

 

B君 そこだよね。大切な所は。

 

B君 他力の信が自然と生じるには、必得往生との如来の願心を聞いて、その願心を心で受けるしかないのですよ。

 

A君 そうなんだよね。如来は、浄土往生は決定していると衆生に聞かせて信じさせて救うという願いをもっているんだ。その願いをそのまま聞くしかないのだ。その願いを聞いて心で受けとめない限り、信が生じることはないんだ。

 

B君 如来衆生に聞かせるところまでお手回しされているから、衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけなんですよね。そう聞いて、私の浄土往生決定との思いが生じたことを信というんだ。

 

A君 じゃ、B君としては、そのような回答をするということだね。

 

B君 そうです。それ以外には回答のしようがありません。称名という行の効果として疑心が消滅するということではなく、往生は決定との如来の願心を聞くことから信が生じるのです。

 

Cさん じゃさ、法然聖人が言われた行具の三心とか「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」というのは、間違いなの?

 

B君 もちろん間違いじゃないよ。法然聖人がね、「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足する」と言われているのは、「衆生称念必得往生」と願っている如来の願心を聞けば自然に信が生じるということなんだ。念仏を称えるということは如来の願心に順じるということだよ。如来の願心に順じて念仏を称えるから、当然、そこには信順の思いがあるんだ。この思いが信だよ。

 

A君 次ね。じゃあさ、「衆生如来の大悲心と浄土往生が決定していることだけを聞くだけ」という回答を聞いた人は、聞いても聞いても如来の願心が分からないと言ってくるんじゃないかと思うが。

 

B君 そうですね、僕もそうでしたから。

 

Cさん じゃ、どう言ってあげればよいの?

 

B君 それでも、誤ることのない如来智慧で救いとるお慈悲があるから、そのお慈悲をそのまま聞くんです。大事なのは、私の浄土往生は如来の願力によって決定したと聞かせて頂くこと。これだけ。善導・法然流に言えば、念仏は必得往生させるとの如来の大悲に沿う行だから、念仏を称えるということはその慈悲を領受したということ。

 

A君 そうだね。私の浄土往生は決定した、必得往生と聞かせてもらい、聞いている人はそれを真受けすること。この真受けするというところは、言葉では導けないところだ。だから、最初の質問者に対しては、如来の間違うことのない真実の願心があること、必得往生だから私の往生は如来の願力によって決定していると聞くことだ、と助言し続けるしかないのだよ。