6-2.質問と回答(2)

最初の質問1に対する回答に関し、さらなるご質問を頂きました。質問部分を いくつかに分割してコメントないし回答します。 

 

「質問前書き部分」

 ご回答をいただいての率直な感想を申し上げさせていただきますと、「非常に難しい」 もっと正直に申し上げさせていただきますと「まったくわからない」と感じました。大変恐縮なのですが、無論tkboo様のご回答が分かりづらいと文句を言っているわけではなく、まさに「言葉の限界」の問題、「分かった人には分かる理屈であり、分からない人には分からない理屈です」ということに尽きるように感じます。とりあえず今回のお返事をいただいて、せいぜい愚かな自分なりに如来の願心に思いを向けつつ(その気になっているだけのような気もしますが)、念仏称えることを続けようと思っているのですが、そのあたりの疑問についても含めて質問させていただきたく存じます。

 

「コメント」

 まったく分からない、というご感想はもっとも至極です。

 「如来の願心がある」「願心を聞く」などという信の表現のことは、すべて私の内心における出来事を表現したものに過ぎないからです。内心の出来事であっても誰でも経験しうることであれば共感されることもありますが、同一の経験のない内心の出来事は、誰(但し信を得ている人は除く)にも共感されません。

 信前は、私も「分からない」「分からない」といつもいつも聴聞の度毎に愚痴っていました。誰もがそうなのです。分かるまでは。分かれば、こんな簡単なことだったのかと分かります。

 

 

「質問部分その1」

 「如来の大悲」とか「如来は私に何を願っているのかを考える」とご親切に聞かせていただいても、私にはどうしてもそれを真受けにできない、そもそもまともに考える気が起きない私がいるというのが正直なところです。実は私にはそもそも仏願の生起本末というのでしょうか、その話を事実と信じることができず、悪く言えば架空のファンタジー、よくて方便としての寓話という程度にしか受け取ることができません。この仏願の生起本末というのは「たしかに事実(真実)である」と信じなければ、浄土真宗の他力の信というものは与えられないのでしょうか?

 

「回答その1」

 私にも、「仏願の生起本はたしかに事実である」との信や思いはありませんし、これが歴史的事実であるとの認識も、当然、ありません。仮に「仏願の生起本はたしかに事実である」との信や思いがあったとすれば、それは他力の信とは異なるものです。

 他力の信とは、事実に対する認識ではありませんし、事実認識を基礎として生じるものではありません。他力の信は事実認識から生じるのではありませんから、「仏願の生起本末はたしかに事実である」と信じるか否かを問わず、他力の信は生じるものです。

 では、「仏願の生起本・末」にはどういう意味があるのかと言うに、1つには如来の願心の起こりは全く無力な私を救済することにあり、私と大悲の一方的関係を示す。2つには大悲心が起こされた結果を示す。ここでの末とは、南無阿弥陀仏が私に届き、私がこれを受け取って御名を称しているということです。私や貴方が念仏を称えているのが末です。この称名は私や貴方の上に生じている事実です。つまり、「仏願の生起本・末」は私や貴方の上に願われている如来の大悲心が私や貴方が称名念仏を称える事実として私や貴方の上に実現化することを教えたものです。この大経所説の教えは信が生じたことによって、はじめて有り難く頂ける教えです。

 では、信後において、法蔵菩薩が歴史的事実として存在したと認識しているのかと問われれば、そのような事実認識は、当然、ありません。法蔵菩薩阿弥陀如来は信の上の味わいの中にある存在です。私が大悲があると申し上げているのも、私の味わいの中でのことであり、主観的な思いでのことです。私が大悲を味わい、その味わいから大悲があるという主観的な思いに住しているだけなのです。

 「仏願の生起本はたしかに事実である」と信じようとしても、分かることはそれを信じられない自分であるということでしょう。そのような努力をしても他力の信は得られないと分かることは進展の1つですが、このような無駄な努力を限りなく繰り返し行ってはダメだったと知らされてゆくのが信前の特徴です。この出来もしない無駄な努力を信を得るために行うことを真宗では「自力の計らい」といいますが、この計らいがきれいに廃った世界が信の世界です。信の世界においては、大悲の対象が出離不能な無力な私に向けられていることは本当であったと知らされますが(機の深信)、これは思いであり、事実認識とは異なるものです。

 

 

「質問部分その2」

 そもそも私のように仏願の生起本末を架空の話としか思えない人間には、その他の一切、浄土真宗の教えを受け取ることはできない、縁のない(それを無宿善というのかわかりませんが)人間なのでしょうか?

 

「回答その2」

 もし貴方がそうした人間であるならば、上記のように私もそうした人間の1人であります。「架空の話としか思えない思い」が、あるとき、「大悲はある。」という思いに転換してしまうのですから、信とは面白いものです。信とは、所詮は心の中の思いが別の思いに転換するだけなのです。法然聖人も、往生決定とおもわば決定なり、往生不定とおもわば不定なり(要旨)と言われています。思いが変わるだけなのです。認識する事実が別の事実に変わるということではありません。

 なお、宿善の有無と信とは関係がありません。信は善悪と関係なく生じるものです。それが如来の大悲というものです。

 

 

「質問者感想部分」

 そのような仏願の生起本末も信じていないような私がなぜ浄土教について調べているかと言うと、浄土教には行としての念仏というものがあると思ったからです。私は元々は禅の教えや悟りということに深い興味があり、一週間泊りがけの接心などに参加したこともあるのですが、まったくどうにもならず、そんな自分や自力というものに絶望した挙げ句、それなら神仏の他力にどうにかしてもらおう救ってもらおう、というか、もはやそれしかないという依頼心で神仏に興味が向かいました。私の中にも言葉では神としか言えないような、何かこの世には世を超えた究極的な真理とか尊い何かがあるのではないかということは感じており、身も心もそれにまかせて救われたいという気持ちがあります。ただ正直に言うと特定の宗教への信仰を持っていない私にとって、それが必ずしも阿弥陀仏である必然性は感じられず、神でも仏でも、イエスでもアラーでも、シヴァでも大日如来でも救ってさえくれるならなんでもいいといういい加減な気持ちでいました(お気を悪くさせてしまったら申し訳ございません)。その中で浄土宗や浄土真宗を特別深く関心を持って調べていた理由は、称名念仏という行が私のような者にでも簡易に行じることができて便利だと思われたからです。しかし浄土真宗門徒の方のお話や蓮如上人の御文章など少しずつ勉強させていただいているうちに、どうも「それじゃいかん、そんなことじゃいかん、そんな念仏ではだめだ」と否定されているような気がしてきて、その点に関しても迷いがあります。

 

「コメント」

 「称名念仏という行は私のような者にでも簡易に行じることができて便利だ。」という思いに似た思いは私にもあります。それは、「この簡便な行によって往生浄土させて頂くとは何と容易いもので有り難いことか。」という思いです。貴方は「そんな念仏ではいかんと否定されている気がします。」という思いのようですが、私にはそのような思いはありません。この部分が貴方の思いとは異なっています。

 どうして、貴方が「そんな念仏ではいかんと否定されている気がします。」という思いになるのか、といえば、浄土往生させるとの願心に応じた決定往生の思いがないからでありましょう。その思いが欠如しているために「否定されている気がします」と感じるのです。決定往生の思いがあれば、如来から与えられて称える念仏を自ら否定するようなことはしません。

 「この簡便な行によって往生浄土させて頂ける」という決定往生の思いがあるか無いか、だけの差ですが、その差が問題です。

 先に「依頼心で神仏に興味が向かいました。」とありますが、依頼心を頼りとして救済されたいという思いなのだろうと推察しました。大悲に向かって救いを求めるときは、この依頼心がくせ者になります。この依頼心で救いを求めるとき、自力と言われ嫌われるのです。他力回向の大悲心を受け入れることのできない障害となるからです。

 なお、「正直に言うと特定の宗教への信仰を持っていない私にとって、それが必ずしも阿弥陀仏である必然性は感じられず、神でも仏でも、イエスでもアラーでもシヴァでも大日如来でも救ってさえくれるならなんでもいい」という点については、貴方が信を得られたのちに私の考えを内々に述べたいと思います。今は誤解されるので言及しません。

 

 

「質問部分その3」

 端的に伺って、「念仏称えれば救われる」とだけ信じていくら念仏を称えても救われることはないのでしょうか? そんな念仏はまったくの的外れ、無駄なのでしょうか? 「すべては信じきれないながらに念仏称えれば救われると信じて念仏を称えているうちに、いつか信も与えられて救われる」というようなものではないのでしょうか?

 私にとっての「阿弥陀仏」という存在は、唯一神とか絶対神的な存在というニュアンスであり、この世を超えた究極的な真理とか慈悲そのもの(の象徴)、くらいの考えでおり、その「阿弥陀仏」に対して南無阿弥陀仏とひたすら帰依恭順の意を示すのが念仏くらいのつもりでいたのですが、そんな自分勝手な考え方はまったくの的外れであり、そんな心づもりでいくら念仏を称えても少なくとも浄土真宗でいうところの「他力の信」や救済というものは永遠に与えられないのでしょうか?

 

「回答その3」

 「称念必得往生と知りぬれば自然に三心は具するなり。」と法然聖人が言われたことが「諸人伝説の詞」に出ています。また念仏の行に具足する三心という意味で行具の三心とも法然聖人は言われています。三心とは他力信のことです。行具ですから、他力信は称名念仏から離れたところにあるものではありません。称名念仏する姿の中に見いだされるものです。但し、念仏称えたから信が生じる、というものではありません。仏願に順じて称えるのが念仏ですから、仏願に順じなければならないのです。この仏願とは「称念必得往生」と願われている願いのことです。仏願に順じるとは「必得往生」の思いになるということです。「称念必得往生と知りぬれば」とは、必得往生と理解し、計らいなく、そのまま受け取り「必得往生」の思いになる、ということです。この思いがあることを三心を具すると言われたものです。

 先にも述べたことに関連しますが、「念仏称えれば救われるとだけ信じていくら念仏を称えても救われることはないのでしょうか?」という思いは、決定往生の思いを欠如した思いです。この貴方の思いが自力の計らいというものであり、祖師が疑蓋といわれたものです。その疑念の存在自体が問題であり、その疑蓋がある限り、他力の信に恵まれることはありませんし、救済されるとの思いも起こりません。

 さて、自分の思いが疑蓋であると理解できたとき、では、どうすれば良いのか、という思いが続けて出てきます。それも疑蓋ですから、どこまでいっても疑蓋が続くことになります。疑蓋が続く限り、永遠に救われないことになります。

 そのような思い(疑蓋)に囚われ続けるのは、自分の心を問題としているからです。自分がどのように信じれば良いのか、どうすれば救われるのかなどと考えるのは、自分の側のあり方を問題としているからです。自分の側のあり方を変えればよいのではないか、という思いが根底にあるからです。自分の側のあり方を変えて救われようとすると疑蓋の連鎖が始まります。そこから抜け出るには自分の力では無理です。ですから、自力では助からないと言われています。

 「称念必得往生と知りぬれば自然に三心は具するなり。」をもう一度、味わって下さい。ポイントは「称念必得往生と知りぬる」というところです。特に「必得往生」の「必得」に注目して下さい。必得である理由は「如来の必得往生の願心」にあります。親鸞聖人は「必」の言は信を表す貌せであると言われています。この「必得往生」を理解できるかどうかが、自力の思いの無限の連鎖から抜け出るポイントになるところです。

 なお、「阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏とひたすら帰依恭順の意を示すのが念仏」という箇所がありました。この「ひたすらな帰依恭順の意」というところですが、我が心を、ひたすら、ひたむきな純粋な思いに昇華させて称えるということを意味しているのであれば、それは自力の計らいと言われるものに堕することになります。必得往生の仏願に信順しているという意味であれば、正しいものになります。

 

 

「質問部分その4」

 阿弥陀仏というのは、はるか昔に法蔵菩薩という方が四十八願を成就させて成仏した姿である」といった話も含めてすべてを真実として信じなければ救われないのでしょうか?

 

「回答その4」

 そのようなものではありません。信じる、ないし、信じようとするという心理作用と真宗の信とはまったく異なるものです。信じるなどという自前の心理作用を働かせて得られるものは自力の信であり、他力の信ではありません。必得往生の大悲の前には自前のものは一切不要なのです。

 

 

「質問部分その5」

 「信というのは自分の方で起こすものではなく、弥陀の大悲なり願心なりの方から与えてもらうものだ」という理屈は一応わかるような気がするのですが、「だからそれを聞け」、「自分の方のはからいではなく弥陀の願心に思いを向けよ」と言われると、そのためには信が必要な気がしてしまい、本末転倒というか、解決不能な矛盾に突き当たってしまったような気になってしまいます。

 

「回答その5」

 仰るとおり、それは矛盾になってしまいます。信を得るために聞く、聞くためには信が必要ということになれば、循環論法のようになるだけです。どこで間違ってしまったのかと言えば、大悲を聞くのに信がいると思ってしまったからです。願心を聞くのに信はいりません。願心を聞くのがそのまま信です。願心を聞くとは、如来が私に必得往生の大悲をかけていると聞くから私の浄土往生は決定していると受けとめられるということです。必得往生の願を自らの思いや計らいを交えずに聞けば、それがそのまま信といわれるものになります。聞が即信なのです。

 なお、願心に思いを向けよというのは、願心を聞こうとしない人には願心は聞けませんから、願心に思いを向けさせるための注意喚起です。注意喚起されて願心に思いをかけようとしたとき、どうなるのかといえば、思いがかからない自分だとわかると同時に、その思いをかけようとした思いが救いを求める自力の思いであると気づくきっかけとなります。自力であると気づけば、いよいよ、ここからが他力信を知る世界へとつながってゆくのです。このきっかけが大事なのです。そのきっかけが信の世界へのターニングポイントになるのです。

 

 

「質問部分その6」

 よく言われる「仏願の生起本末を聞け」というのは、「阿弥陀仏というのははるか昔に法蔵菩薩という方が四十八願を成就させて成仏した姿である」といったお話も含めて文字通りすべて事実として真受けにせよということなのでしょうか? そういった自分にはある種の寓話とかものの例えとしか思えないようなことまで「事実(真実)」として真受けにする必要があるのでしょうか?

 

「回答その6」

 上記の回答その1などのとおりです。他力の信と事実認識とは異なります。「寓話とか、ものの例えとしか思えない」という思いは、その思いがあるままで信は生じます。信が生じれば、そのおとぎ話は単なるおとぎ話ではなく、大悲を伝えるための方便であったと理解できます。

 また、「真受けする」というのは、事実として信じるという意味ではありません。私が願心を聞いて願心を真受けせよ、というのは、自力の計らいを交えることなく、必得往生と聞いて、そのとおりと受けとめよ、ということです。

 そのとおりと受けとめよ、というのは、そのとおりと事実認識せよということではありません。私の認識力が事実として認識できるのは、私が今念仏を称えて浄土往生できるという思いをもっているという内心の主観的な事実だけです。この念仏を称えて浄土往生できるという思いは、思いであり、何らかの事実認識ではありませんし、事実認識を基礎にした思いでもありません。

 

 

「質問部分その7」

 自分には現状どのようなものかさっぱりわからずにいる他力の信というのは、「とにかく阿弥陀仏が救ってくれると信じて念仏を称えていればいつか与えてもらえる(=救ってもらえる)」というようなものではないのでしょうか ?

 

「回答その7」

 回答その3などのとおりです。自分で信じようとする心も念仏を称えて助かろうとする思いも、必得往生の大悲を前にすればすべて自力の計らいとなります。この計らいが廃ったのが信です。如来の大悲を前にしては、自分で信じようとする心も念仏を称えようとする思いもまったく必要なかったと知らされます。この思いを機の深信といい、他力信の一側面を表しています。

 信じて念仏を称えていればいつかは救われるという思いが続く限り、他力の信はわからないままでしょう。その思いが、わが往生は決定との思いへと転換されなければならないのです。

 

 

「質問部分その8」

 信というものを持ち合わせていないところからスタートせざるを得ない自分としては、強いて順番にすれば「まず念仏称える→それ自体が如来の願に順じた姿であり、信が与えられる→救われる」と理解していたのですが、中には「まず本願を聞いて(信じて)→ただちに救われて→その感謝が念仏になる」という順番を説く人もいます。こうなると念仏はただ単に救われることだけを目的とするならそのための行でもないし必要なものでもないということになってしまい、神仏への手がかり足がかりとして念仏を考えていた私からすると、それが失われて方策も何もないままにいきなり「まず信をもらえ」と言われているような不可能さを感じてしまいます。

 

「回答その8」

 自分の持っている力を使って信を得ようとか、助かろうとすることを「往生の資助とする」と言いますが、そのようなことはもともと不可能なのです。 「まず念仏称える→それ自体が如来の願に順じた姿であり、信が与えられる→救われる」という理解にも、「まず本願を聞いて(信じて)→ただちに救われて→その感謝が念仏になる」という理解にも、いずれにも「まず」とありますが、ここに救済のための「初めの一歩」と貴方が理解されているように感じられました。初めの一歩のあとに救済があると考える考え方は、救済される道筋をつけているものであり、これは某会でよく言われる「救済の予定概念」と呼ばれものになります。救済のための計画を自分で作って助かろうとしているので、救済のロードマップという意味で救済の予定概念と呼んでいます。自ら救済の予定を立てることは、「既に浄土往生は決定させたぞ」との如来の大悲を前にすれば、大悲を覆い隠す疑蓋であり、本願疑惑心です。 救済の予定を作ること自体が間違いということになれば、救われるための手がかりも足がかりも無くなってしまいます。念仏を称えても何しても助かる手かがりにならない、というのは不安な心理になりますが、もともと自分の力で何とかしようとすることが誤っているのです。

 貴方は、いきなり信をもらえと言われても不可能であると感じますと言われますが、自分がなすすべもない状態のままで信を貰うことは不可能だと思われているのでしょう。それはごく自然な感情です。自分になすべき何かが残されており、そのすべを使えば救済されるとの思いをお持ちになっているからだろうと推察されます。しかし、自分にはなすすべなど、もともとないのです。出離不能がもともとの自分の立ち位置です。それを八方塞がりの状態であるかのように不安に思うのは、大悲を見ずに自力の計らいに囚われているからです。また、聞くということの意味を誤って理解しているからです。必得往生の願心を聞くことがそのまま信となるのですから、浄土往生の道は私の前に既に開かれているのです。そのことに気づいていないだけなのです。「既に浄土往生は決定させたぞ」との如来の大悲を文字通りに聞けば、それが信なのです。

 八方塞がりの苦しい思いから、次第に願心に目が向くようになるのですが、必得往生の願心を聞くことが如来から垂らされた救済なのです。そのように聞いて理解すれば如来の願心はすでに自分に届いていたと気づくのではないですか。それに気づいたとき、「まず称名して」ということではなく、「称名の一行で必得往生であったのか」と分かります。また、「まず聞いて」ということではなく、「ただ願心を聞くだけでよかったのか」と分かります(法の深信)。また自分にはなすべき行など何もなかったと分かります(機の深信)。

 

 

「質問部分その9」

 「聞かせてもらう」とか「聴聞」というのは、たとえば今すでにtkboo様よりお返事いただいたことのみで足りていて、それをそのままに聞くということでしょうか?

 それとも浄土真宗のお寺などに出かけていって善知識と呼ばれる方を探したり、そうした方から直接「聞かせていただく」といった必要があるのでしょうか?

 

「回答その9」

 文字を読んだだけで信が開ける方もいらっしゃるかも知れません。法然聖人は善導大師の「一心専念弥陀名号・・是名正定之業・順彼仏願故」のご文を拝読して回心された方です。現代にもそのような方がいらっしゃるかも知れません。聴聞しているときに信を得られるかも知れません。あるいは、牛を引いている最中に「ふいとわからしてもらいました。」と言われた妙好人もおります。

 信が開けるタイミングはその人その人の機縁・機縁ではないでしょうか。ご自分の心が惹かれるところで聴聞を続けられれば宜しいかと思います。但し、必得往生の大悲が説かれる所でなくてはなりません。

 

 

「質問部分その10」

 また、浄土真宗において目的のように言われる「極楽往生」というのは、他力の信をいただくということと同じ(正確には他力の信をいただいた人が亡くなると極楽往生する?)なのでしょうか?

 

「回答その10」

 このご質問に対しては、祖師親鸞聖人の理解をもって代えさせて頂きますが、祖師は信の現益として正定聚不退転、当益として真実報土往生と言われています。信を得た人の信は現生不退であり、死後には報土往生するということです。

 

 

「質問部分その11」

 またそれは唐代の禅師の悟りやお釈迦様その人の解脱とか涅槃、成仏といったこととはまたまったく別のことなのでしょうか?

 

「回答その11」

 祖師は真実報土に往生すると言われていますが、この真実報土とはどのようなところかは私には知る智慧がありません。また、唐代の禅師の悟りやお釈迦様その人の解脱とか涅槃とはどのようなことを言われたものなのかも智慧がないために分かりません。その両方とも分かりませんので回答できません。

 

 

「質問者感想部分」

 ・・・本当に自分の中にある疑問や混乱をすべてぶつけさせていただいて しまったため、長い上に脈絡もなく根掘り葉掘りという感じになってしまって誠に申し訳ございません・・・。法然上人の一枚起請文など拝読していると、自分のような者にもこれならできると感じられて大変ありがたいのですが、他にもいろいろな方の言っていることを勉強すればするほど、「ただ念仏称えたっていくらやってもだめだ」というような人もいて、一体誰が正しくて何が間違いなのかなどなど、非常に混乱しているというのが私の現状です。

 

「感想へのコメント」

 信というものを知力で捕まえようとすると実に難しくなります。難信といわれる理由はここにあります。法然聖人の一枚起請文はその難信な信を分かり易く説かれております。法然聖人の偉大なところは、博学でありながら難しい用語を用いることなく、分かり易く他力の信と行を教えられたところだと思っています。「南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもいとりて」というところなどは信の極みを表現しているところです。これがわかれば信が分かったということになるでしょう。これがなかなか分からないから難信と言われるのですが、信を難信にしているのは自分自身の計らいです。計らいを離れると信はとても易信なのです。蓮如上人が「取りやすの安心」と言われているように取りやすい信なのです。これ以上に取り容易いものはないのです。極楽には往きやすいと大経に記載されています。その極楽に人がいないと大経に記載されているのは、自力の計らいのために得やすい信を難信にしてしまっているからです。

 如来の大悲は私を浄土へと救う、だから、私の浄土往生は決定している。なんと極楽には生きやすい。これだけのことなのです。実に簡単なことなのです。必得往生の信です。ここが肝要であり、この他には肝要はありません。

 最初の冒頭に「如来の願心がある」「願心を聞く」などいう信の表現のことはすべて私の内心における出来事に過ぎないと書きましたが、「如来の大悲は私を浄土へと救う(と聞いた)、だから、私の浄土往生を決定させた(如来の願心がある)。(その願心を知れば)なんと極楽には往きやすい(ことか)。」というのが私の思いなのです。

 念仏を称える際にも、この念仏は仏様が私の浄土往生を決定してくれたお知らせと思い、ただ念仏だけで往生させていただけるとはありがたいなぁという思いで称えればよいのです。

 願心を聞くということと、決定往生の思いで念仏を称えさせてもらうことは実は同じことです。前者は大経の願成就文に依り、後者は観経下々品の教説に始まり、善導・元祖法然聖人流の説き方(就行立信釈に立った説き方)ですが、説かれ方に違いがあるだけです。ともに「至心信楽欲生我国ないし十念」の信であり行なのです。前者の願成就文の「(私が往生すべき浄土の完成を聞いて)信心歓喜」したとは十八願文の「至心信楽欲生我国」の信であり、信が生じたあとには信後の乃至十念としての行が続きます。後者の決定往生の思いも、これが「至心信楽欲生我国」の信なので、信後の乃至十念の行が続きます。このため、いずれの場合でも、十八願の願文がそのまま私の上に信・行として実現していることになるのです。この気づきがあるため、両者は同一の信と行とを指し示していると理解できるのです。

 「ただ念仏称えたっていくらやってもだめだ」というのは、自力の思いで念仏を称えてもダメだということを教えたものだと推測されますが、必得往生の願いに相応する決定往生の思いで念仏を称えるときは、ただ念仏を称えて往生させていただけるとは有り難いなぁという思いで称えるので、人からダメだと言われても一向に気にならなくなるはずです。これを決定心といいます。決定心は、衆生称念必得往生と知りぬれば自然に具する三心のことです。この決定心は、念仏の一行で必得往生できるとの法の深信と私のなすいずれの行も無功(無力)であったと知らされる機の深信とによって支えられている思いですから、不定な心ではなく決定した心なのです。この決定心は、如来の至心を信楽した心であり、如来の摂取決定心を信楽した心であり、我が国に生まれさせるとの如来の欲生心を信楽した真実信心であると祖師は教えられております。まことに祖師の教えは懇切丁寧に他力信の極致を表してくれたものと感動いたします。