1-25.観経と大経の信・行一致2 安心と起行

 観経の上品上生に、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれていますが、善導の指南によれば定散十六観に共通する三心であるとされています。しかし、下々品に登場する臨終の悪人は善行はなく悪行ばかりの愚人であるとされていますので、自前で三心を具すことは不可能です。ここから、悪人に具足される三心とはどのようなものか、という疑問が生じることになります。

 観経下々品にでてくる愚人の至心が自前で用意すべき至誠心であれば、末代の悪人にこの至心を用意することは困難です。自前で用意すべき至心ではないとすれば、如来が用意した至心ということになります。元祖は、聖道の至誠心を総の至誠心、浄土他力の至誠心を別の至誠心と理解されていたようです。前者は自ら至誠心になってゆく、後者は如来から至心が至り届けられているという意味で至れる至誠心ということです。如来の誠の心が凡夫に至り届いた他力の至誠心というものがあるのです。これは、如来の至心の願心を受け入れて計らいの廃った凡夫の心に至誠心と名付けたものです。愚人が具すべき至誠心とはこの他力の至心の他はあり得ません。

 この至心が十八願の至心と同じであるならば、愚人の至心には深心と回向発願心が備わっているはずです。深心と回向発願心は十八願の信楽、欲生です。祖師は、三重出体釈において、至心は至徳の尊号を体とせるなり、至心をもって信楽の体とするなり、欲生は・・真実の信楽をもって欲生の体とするなり、と釈されていることを考えますと、他力の至心には自ずとこの信楽と欲生も備わっていることになり、また祖師が至心・信楽・欲生その言異なりといえども、その意はこれ一つなり・・・ゆえに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づくとも釈されていることをも考え合わせると、如来の願心を受け入れた心は、至心、信楽、欲生と名づけられる区々の三心があるのではなくただ一心があるのみということになります。

 このことを念頭に置いて善導のさきの指南を考え直してみますと、上品上生に登場する至誠心、深心、回向発願心の三心は定散十六観に共通して具足しなければならないという説示は、定散十六観を行じるといえども、他力の至心、信楽、欲生を具さなければ浄土往生は不可であること、観経に説かれている定散十六観の定善散善の各種の業行は、実に他力の真実信心を得た上で(安心)、その行を行じるべきこと(起行)を密かに説かれたものであると理解することになります。安心の上の起行であると理解することは、自力の行による浄土往生を説いたとする観経の読み方を完全に逆転する理解です。祖師には、定散十六観が信後の行を説いたものだとの説相はなさそうですが、善導の上記の指南に従い、定散十六観に共通し、臨終の悪人もが具さなければならない三心というものを考えてゆくと、他力の三心を具した上での起行に応じて機が区別されるとの理解に到達します。元祖晩年の教えとして、

 

問ふていわく、余仏・余経につきて結縁し助成せむ事は、雑となるべきか。答ふ。我が身、仏の本願に乗じて後、決定往生の信起こらむ上は、他善に結縁せん事、全く雑行たるべからず。往生の助業とはなるべきなり。                 

醍醐本 禅勝房への答


というものがあります。このような元祖の理解は、定散十六観の行は信後の起行(正定業としての念仏とそれ以外の助業)であるとの思想に立脚したものではないかと思われてきます。