6-3.質問と回答 3

※6/3公開のものから加筆しましたので差し替えます

 

質問3
 わかりやすい文章で、 いつも読ませていただいています。 質問ですが、18願を読んでいる限り、救われるには念仏をすることが必要だと思われますが、念仏せず、聞くだけで救われる根拠はなんでしょうか? どこからそれが読み取れるのでしょうか?

 

回答3
 「救われるには念仏をすることが必要だ」との部分は、自力の行としての念仏を行じることに加えて(自力の念仏を行じつつ)仏の加被力を受けることによって浄土往生できるという趣旨なのか、念仏を称えているままが十八願力によって浄土へと摂取されつつあると理解されたものであるのか判然としないところではありますが、南無阿弥陀仏の願心を聞信することで救われる根拠、正確には南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠を端的に申し上げます。

 その根拠を申せば、十八願成就文の
 ①聞其名号 / ②信心歓喜 / ③乃至一念 / ④願生彼国 / ⑤即得往生住不退転の文と①の聞其名号、②信心歓喜、⑤即得往生住不退転、並びに十八願の乃至十念に関する祖師の釈に求められます。

 祖師は、この成就文の文意として①と②につき聞名の聞は即信であること、③の一念は信一念であること、⑤の即得往生住不退転は現生正定聚不退であり、これは信の益であることを読み取られました。

 聞名が信であることについては「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心というはすなわち本願力回向の信心なり。」と釈されています。聞名は疑心の無い聞(如実の聞)であり有疑心の聞(不如実の聞)ではありません。疑心がないことを信といいますから聞名は信であると分かります。また疑心のないことが信であることから信は疑心のない聞名(如実の聞)であることも分かります。ここから成就文の聞名は即ち信、信は即ち聞名であるという理解がでてきます。仏願の生起本末とは、如来が一方的な救済行として南無阿弥陀仏を成就し衆生南無阿弥陀仏を回向し、衆生がこの南無阿弥陀仏を受け取り念仏を称えている様、つまり如来の一方的な大悲の働きが現実化してゆくことを表しています。このため信は本願力回向の信ということになります。信が本願力回向の信であるならば聞名も本願力回向の聞です。本願力回向の聞ということは、私があれこれと願心を計らいつつ聞く聞(不如実の聞)ではなく、如来から大悲心を回向され聞かされるままに聞く如実の聞だということです。「聞其名号」とは名号のいわれ・如来の願心を聞かされるままに聞く、回向されるままに聞くということです。信もまた同じです。摂取するとの願心に計らいをまじえることなく願心を受け入れるのが信です。十八願の信は御名を回向されるままに聞く成就文の聞名であり、成就文の聞名は十八願の三信です。以下、聞名即信を通常の用語の「聞即信」と表記します。
 この聞即信には即得往生住不退転という現生正定聚不退転の信益があるとされました。現生において正定聚になるということは邪定聚でもなく不定聚でもなく正しく仏になることが定まった者の数に入り、再び退転することがないということ。そして、この現生不退の信益のある御名の聞信が一心であるとして「一心は清浄報土の真因なり」「涅槃の真因はただ信心をもってす」「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる」「報土の真因は信楽を正とするが故なり」「証大涅槃の真因」などと釈されました。十八願の三信は願成就文に「聞其名号信心歓喜・・願生彼国」とあるように「南無阿弥陀仏を聞いて信心歓喜」する聞信です。この聞信は如来から与えられ願心から生じた信ですから、信巻においてこの信を大行と並んで「大信」と呼ばれています。この大信について祖師は「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文を信巻に引用して大信の属性ないし本体を紹介されています。この大信が報土往生決定の真因となる理由は上記の釈にあるように「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と祖師は示されました。如実の聞名が即ち大信であり、大信は即ち如実の聞名であるということは、如実の聞名以外に大信はないということ。如実の聞名以外に大信はないということは如実の聞名以外に即得往生と報土往生の真因はないということです。

 これに対して、十八願の念仏は「乃至十念」とあります。乃至は少ない方から多い方へという意味の「従少向多」とその逆の「従多向少」の意味があり、また「一多包容」の意味などがあるとされています。このことから、如来が「乃至十念」を誓った誓意は念仏の数を問わず浄土に生まれさせることにあり、念仏の多少を問わず浄土に救うとするところに大悲心が表れていると理解されます(本願寺出版発行の安心論題に「十念誓意」の項)。信を得た上には生きながらえば上尽一形の念仏(一生涯続く念仏)となり、信を得た直後に臨終を迎えれば十念ないし一念の念仏となりますが、その一声ごとの念仏には如来の無上大利が備わっていますから、一念の念仏にも十念の念仏にも上尽一形の念仏にも同じ無上大利が備わっており、念仏の多寡による違いはありません。大経には「それかの仏の名号を聞くこと得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人大利を得とす。」と説かれています。ここにも御名の聞信がでており聞信の上の一念の念仏につき無上大利があるとされています。この無上大利が私の往生の大利となるかどうかが大事な所ですが、私の大利となった最初のときを信の一念といい、無上大利が私の大利となったあかしが大信です。信の上には、その後の念仏の多寡・多少によって往生が決まるものではなく信によって往生の得否が決まるので、祖師の教えを信心正因称名報恩と言います。念仏の多寡・多少は往生の得否に関係しませんから、一声の念仏も称えられないままに臨終に臨んだひとであっても信の決定により浄土往生が決定しています。この決定の信を得た者には十八願と十一願によって真実報土への往生が約束されているのです。

 以上が南無阿弥陀仏の願心を如実に聞信することで救われてゆく根拠となる御文と祖師の釈の骨子です。質問者の方が言われる「聞くだけで救われる根拠」の聞くとは、如実の聞信のことであり、如来回向の信であることを述べてきました。この他力回向の信なくば凡夫の報土往生はありませんので、如実に聞くことが救われる根拠となるのです。

 次に救いの法の顕現の仕方から上述した所を見直してみますと次の如くです。顕現の仕方は、大行(御名)→大信→大行(称名念仏)です。御名と称名念仏はともに同じ大行です。
 ここで救いの法というのは御名すなわち南無阿弥陀仏のことです。南無阿弥陀仏如来の救いの手だてとなっているということです。南無阿弥陀仏は摂取し捨て給わぬ如来の願心を表したものですが、この願心を聞かせ南無阿弥陀仏を与えて救うというのが如来の救いの手だてです。
 先の大信とは私の心相が「南無阿弥陀仏」となったことをいい、念仏とはこの心相から心相中の南無阿弥陀仏が口から出たものです。南無阿弥陀仏という如来の救いは、大行たる御名を私が聞き私の心に至り届いたとき私の心のすがたは摂取不捨せんとの「阿弥陀仏」に帰命する「南無」の心となりますので、私の心が南無阿弥陀仏の心相となってゆきます。この心相を大信といいます。この南無阿弥陀仏の心相はその本体が南無阿弥陀仏であることから如来回向の信心であるとされます。本願力回向の信心なりという祖師の釈は十七願の成就によって諸仏が称讃する名号を聞くままに信心歓喜南無阿弥陀仏の心相となるので「聞其名号信心歓喜」の信心を本願力回向の信心といわれたものです。如来の救いを「大」と表現すれば、「大」である南無阿弥陀仏が私の心に働きかけて「大信」となったときに如来の救いが私の心の中にまで届き私が南無阿弥陀仏を領受したことになります。この信が仏性であり如来です。その大信を味わってみますと南無阿弥陀仏にて往生するという思いとなります。その後の念仏は浄土往生が決定したこと(即得往生住不退転)を喜ぶ念仏となります。祖師はこの如来から与えられた南無阿弥陀仏称名念仏となった所を指して「称名大行」とされました。祖師の釈には大行は念仏であり、念仏は南無阿弥陀仏であるとあります。行巻の「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」がそれです。他にも弥勒附属の一念釈もあります。称名念仏は御名そのものであるという理解です。 称名念仏ばかりではなく信もまた南無阿弥陀仏であると釈されていると理解することが可能です。それは「南無阿弥陀仏はこれ正念なり」とある「正念」とは念仏を表すこともあれば信を指すこともあるからです(梯実円師聖典セミナー教行信証「教行巻」201頁)。ここでは正念は大信を指すと理解したいと思います。称名念仏たる大行は南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が大信である。大行・大信ともに南無阿弥陀仏であると構成することが御名をもって救うという如来の救い方として貫徹したものになり、また、祖師が信を信心仏性と理解されたことにもよく合致するからです。蓮如上人は十八願を南無阿弥陀仏の願と釈されています。衆生の信も南無阿弥陀仏衆生の行も南無阿弥陀仏と誓っているのが十八願であると理解されたからでありましょう。
 これらの釈から読み取れることは如来の救いを単に称名行として理解されたのではなく、「動態」として理解された事が分かります。動態とは、南無阿弥陀仏の御名が仏様の救いの大行であり、この大行は私の心中で働けば大信となり、信一念から臨終まで信は相続され(金剛心・正定聚不退転)、同時に生涯に亘っての大行たる念仏行になるということです。私の信や念仏は如来の救いが働いている具体的な活動相であり、私の上に常に働き続けているその有様のすべてが南無阿弥陀仏の働きです。この如来の救いの働きは私の信(南無阿弥陀仏の心相)となったところで私をとらえて離しませんから(摂取不捨)、この信となった所を指して信を清浄報土の真因とするのです。先に信とは無上大利が私の大利となったあかしだと書きましたが、そのあかしとは私の心が南無阿弥陀仏の心相となったことをいいます。この心相となった南無阿弥陀仏如来回向の大信であり、如来の大悲心であり、仏性であることから大信には無上大利が具足し、私の心相が南無阿弥陀仏となったとき如来の救いとして私の浄土往生が定まるのです。そのことを十八願成就文では信を得て歓喜する者は即得往生住不退転の身となるとされています。歎異抄にも「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」とありますが、同じ趣旨です。
 祖師は成就文から十八願を眺められて十八願を真実の信願であると言われました。十八願の願事は浄土に生まれさせると誓っている対象は聞信して大悲を喜ぶ者であるという理解です。十八願では「至心信楽欲生」と表現されています。そして、祖師は十八願の念仏については真実の大行としつつもその行を誓った願を十八願に求めずに十七願に求められました。これは私が称える念仏にはその由来ないし淵源があり、それは十七願にその成就を誓われた御名にあると理解されたものです。如来が誓った真実の行と真実の信とはともに南無阿弥陀仏です。この南無阿弥陀仏が浄土往生の大信であり大行であるのです。南無阿弥陀仏はもともとすべての者にとっての往生行ですが、この往生行が私の往生行となるのは私の心相が南無阿弥陀仏となったときです。ですから、祖師は信を報土の真因と言われたのでした。救いの法である南無阿弥陀仏が我が往生の行となるか否かは信の有無によって決まります。これを信疑決判と言いますが、南無阿弥陀仏が私の報土往生の信因となったとき大行は当然に信に具足されています。南無阿弥陀仏の心相が信でありかつその心相の南無阿弥陀仏が大行であるからです。大行の御名→大信(御名の救いを計らい無く聞き受ける)→即得往生を喜ぶ称名大行、称名大行は御名そのもの、と如来の救いが展開する中において大信に大行が円満に具備していると理解するものであります。大悲心を如実に聞くところに大信と大行が同時に備わってしまうのです。聞名といい信といい、実は同じ事象を指し示していることが分かったでしょうか。如来の救いッぷりに対する計らいが廃って私の心の相が南無阿弥陀仏となった事象に対して聞名とか信心とかの語をあてて説明しているのです。同じ事象を指していう語ですから、聞は即信、信は即聞と言えるのです。念仏を一声も称えるいとまがないままに臨終に臨んだとしても浄土往生の無上大利である南無阿弥陀仏は、これを聞信して御名を領受した信の者の心と一体となっているので往生は決定です。この南無阿弥陀仏を領受した心を元祖法然聖人は選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」と書かれました。南無阿弥陀仏が往生の業であるということです。通常は口称の南無阿弥陀仏の念仏が往生の業であると理解するのでしょうが、私はその文字のとおり私が領受した南無阿弥陀仏が往生の業であると理解したいと思います。元祖の一枚起請文にあるとおり「南無阿弥陀仏にて往生するぞ(と思う)」ということです。南無阿弥陀仏を聞いてその南無阿弥陀仏のとおり私の心が南無阿弥陀仏となったとき、「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」との思いとなり、私の口から南無阿弥陀仏が出てきます。これが信具の念仏であり十八願の如来真実の大行たる念仏であります。
 聞信という視点を前面に出して、この視点から十八願を読み直してみますと、「摂取不捨の我が大悲を聞信し大悲を歓喜する者であれば浄土に生まれさせる。(念仏の多寡を問わない。)」と読み替えることができます。これを如来の救いのあり方から見ると、御名が私の信となりこの信から如来が化現している有様が念仏です。この念仏を大信海化現の念仏といってもよいのではないかと思われます。

 南無阿弥陀仏が、これを聞信する人の心相の南無阿弥陀仏となり、口称の南無阿弥陀仏を行じる念仏者の上に現れるという南無阿弥陀仏の救いのあり方から願成就文の「聞其名号信心歓喜・・即得往生住不退転」の文を見直し、また、十八願を読み替えました。その救いの働きは、御名に表れた如来の願心を計らいを交えずに聞信するところから始まり、御名を聞信したことによる信心歓喜、信心歓喜の内容としての即得往生住不退転、そして一声の念仏行へと発動し、上尽一形の念仏として働き続けているさまが多少はいきいきと感じることができたでしょうか。また、祖師が自らの上に現れた南無阿弥陀仏の生きた救いのあり方を自らの悟性によって理解し整理されてゆかれた結論が「念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念(大信・仏性)」と言い切られた釈であると理解されたでしょうか。教学上の根拠や聖語などは悟性に頼った理解ではなく、救いの働きの核となっている南無阿弥陀仏の救いに対する感性によって聖語の意味が裏付けられたときにその語の背後にある生きた救済の法理が理解されると思い、ながながと述べてきました。その意をご理解いただければ幸甚です。
 以上が、南無阿弥陀仏の願心を聞信しない限り凡夫は十八願の救いを受けられない根拠と法理です。

 これに対して、善導大師は観経下々品の転教口称を根拠として十八願の文につき三信を省略して「もしわれ成仏せんに十方の衆生わが名号を称せん、もし十声に至るまでもし成仏せずば正覚をとらじ。」と読み替えたあとに「かの仏いま現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓重願むなしからじ。衆生称念すればかならず往生を得。」と言われました。これが善導大師の十八願と成就文の理解と言えます。善導大師が祖師のいう称名大行を願文の前面に出して願文を解釈されていることを念頭に置かれて質問者の方は「救われるには念仏をすることが必要だ」と思われたのであろうと推測されます。ここには聞信ということは言われていないのではないかと思われるかも知れませんので、少し触れておきたいと思います。
 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁に、ある人が善導の本願取意の文には三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき、法然聖人は「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたとあります(「諸人伝説の詞」)。「衆生称念必得往生としりぬれば」の知るとは「弥陀仏が成仏したことで衆生は称念すれば必ず往生を得る」と聞いて理解して称念すれば必得往生と信知するということです。この知ることで自然に三心を具足するというのですから、知るとは疑心無く往生を知る、すなわち信知するということです。また衆生の称念とは自然に三心を具足したうえの称念であると分かります。善導大師の上記の文には聞信という言葉は使われていなくても、元祖はそこに「信知」を読み取っていました。善導大師の念仏は信を具足した念仏であると理解されていたのです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏」の願心を聞信して心相が南無阿弥陀仏の大信となる、或いは、「称念必得往生」との救いであると信知して彼の仏願に順じる、というのは表現の違い、ないしは視点の違いに過ぎません。必得往生の仏願を信知してその願いに順じるとは如来の願いを計らい無く聞き受けて願いのとおり念仏の行者となるということですから、私の心が阿弥陀仏に南無したということです。「摂取不捨の南無阿弥陀仏の願心を聞く」と言っても、或いは「称念必得往生との仏願を信知する」と言っても、そのいずれの場合であってもともに如来の願心をそのとおりと受け入れて無疑信となることなので、いずれも願心を聞信ないし信知していることに少しも変わりはないのです。聞信も信知も疑いなく計らうことなく仏願を受け入れることですから同じ意味です。南無阿弥陀仏の働きが信という心相(聞信ないし信知)となり、次いで大行たるにふさわしい自力の思いの廃った称念となって南無阿弥陀仏が口から出てくる。南無阿弥陀仏が口から出てくるとその称名に願心をみて願心を疑うこと無く信順し、再び念仏を申すという展開となって続いてゆくのが如来の救いのあり方です。如来の救いはこのような救いのあり方をしているという所ををしっかりと押さえて理解すれば、善導大師の取意の文であっても成就文であってもそこに流れている如来の救いの有様に何の違いはないことが分かります。聞名信心歓喜から念仏行への発動という説明の仕方と念仏を行じることによる必得往生の信の発動という説明の仕方の違いは、前者は御名→聞信→念仏という論理的な順序で如来の救いを説明し、後者は念仏行→願心への信順という論理で説明するものですが、後者は「念仏申すところに回向された御名があり御名の回向に表れている願心に信順する」のですから、前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」を含んでいます。前者の「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」はそのあとに必ず「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」という流れが続きます。前者は後者へと続き、後者は前者を含むものなので、同じことになるです。このうちのどこをとらえるかによってこの救いに対する説明の仕方が違ってくるようにその救いの名づけ方も違ってきます。南無阿弥陀仏を称名する念仏者の上に現れた如来の働きを口称念仏の所でとらえて「念仏往生」といってもよいし、善導大師流に「称念必得往生」といってもよいし、南無阿弥陀仏を聞いた所をとらえて「信心往生」とか「聞名往生」といっても「名号往生」といっても差し支えはありません。いずれも如来の大悲の働きが私の上に具体的に働くことによって往生するということを意味しているからです。このようなことが可能であるのは、如来の救いは「回向された御名を聞いて信心歓喜し念仏申す」「念仏申せばその念仏を聞いて仏願に信順する」「信順すればまた念仏申す」というように円環しつつ上尽一形の念仏となって展開してゆくからです。信は念仏となって念仏とともに相続され、念仏は信を伴って信とともに相続されてゆきます。念仏と信は互いに不離の関係にありますが、念仏に焦点をあてて念仏を先に出して説明するか、信に焦点をあてて信を先に説明するかの違いによって、称念必得往生というか信心往生というかの説明上の違いとなって現れてくるだけのことなのです。いずれの説明であっても他力回向の(聞)信
や信(知)がなければ報土往生は不可ですから「信心が正因」であることに変わりはありません。

 私の心が南無阿弥陀仏の心相となったときに仏願の生起本末を聞くとどのように思えるのか、について他にも言いたいことがありますが、ご質問の意図から外れてゆきますので省略します。また祖師がなぜ③乃至一念の一念を信楽の一念と理解されたかに関しても同様の理由から省略しましたが、これについては本願寺出版部発行の大江淳誠師の「安心論題講述」の三心一心の項を読んで下さい。