1-26.行の否定

 観経下々品の称名念仏の勧め(転教口称)から分かることは、如来の救いにおいては、称名する以外のすべての行は往生の行として廃(廃立の廃)されている、あるいは廃されるべきだということ。大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えから分かることは、聞く以外のすべての行は往生の行として廃されている、あるいは廃されるべきだということ。つまり、称名行も聞という行も、ともに往生行としての意味は否定されることになります。いうまでもなく称名や聞以外のすべて行は一切廃されていますので、あらゆる凡夫としての往生行は廃されることになります。

 称名や聞には凡夫のなす行としての側面はあるものの、往生行としての意味が完全に奪い取られているのです。誰によって奪い取られてしまっているのかと言えば、仏によってです。仏は、これらは往生行にはならないと否定しているのです。もとより仏は凡夫の行を往生行としては無功であるとして南無阿弥陀仏を成就したのですから、私達は凡夫としての行に往生行としての意味を求めることはできません。これを知らされることを機の深信ないし自力無功といいます。凡夫の往生行としての意味を否定され、奪われたあとの称名や聞に残されるのは、ただ、南無阿弥陀仏だけです。この南無阿弥陀仏如来からの救いの手だてとして残るだけです。これを知らされることを(救いの)法の深信といいます。

 観経下々品の称名念仏とは救いの手だてである南無阿弥陀仏を称えることでありますが、自力の往生行としての意味はありませんから、聞こえてくる南無阿弥陀仏が救いの手だてであると聞くことだけが残ります。大経願成就文の聞とは南無阿弥陀仏を救いの手だてであると聞くことですが、聞くことに自力の往生行としての意味はありません。救いの手だてが南無阿弥陀仏そのものですから、救いの手だてが南無阿弥陀仏であると受け入れるしかありません。他に選択肢は残っていないのです。他に選択肢が残っていないことに気づけば、それが信であり、二度と自力の思いが交わることはなくなってしまうのです。

 こうして、観経下々品の転教口称の教えや大経願成就文の「聞其名号信心歓喜」の教えには、自力を廃して信を生じさせる働きが自然に備わっているのです。この働きに触れている限り、信は自然に生じます。

 以上、真宗において、富山まで行って真剣に聞かないと信仰が進まないとか、宿善を積むために寄付財施を奨励するなどは、往生行という観点からは如何に意味のない行いであるかが分かります。