6-4.質問と回答 4

質問4
 質問ですが、なぜ法蔵菩薩は、今現在救われていない人がいるにも関わらず、阿弥陀仏になることができたのですか? 48願が成就しなければ仏にならないと誓われており、10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。仏の世界は時間という概念がなく、過去から未来の時間において考えた場合、どこかの段階で、すべての衆生が救われるということで、阿弥陀仏になれたということですか?

回答4
 {48願が成就しなければ仏にならないと誓われており10劫前に仏になったとのことですが、救われていない人がいる時点で仏になれないと思ってしまいます。}{その誓いにも拘わらずどうして先に成仏されたのか。}との疑問は誰でもが抱く疑問だと思います。曇鸞大師は浄土論註下巻において火㮇(かてん)の喩えを使って如来の巧方便を説明していますが、それがこの疑問に対する回答になるかと思い紹介します。浄土論には「かくのごとくして菩薩は巧方便回向を成就す。」とあり、この巧方便について曇鸞大師は、
 「巧方便とはいわく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに菩薩すでにみずから成仏す。たとえば火㮇をして一切の草木を摘みて焼きて尽くさしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに火㮇すでに尽くるがごとし。その身を後にしてしかも身先立つをもっての故に巧方便と名づく。」
とし、菩薩はその願事を成就したと述べています。
棒の先に火を点火し草木を焼き尽くそうとして棒先の火を草木に押し当てて草木に火を燃え移らせたが、無尽にある草木はまだ焼き尽くされていないのに棒は草木よりも先に自ら燃え尽きてしまったという喩えです。棒が草木よりも先に燃え尽きたことを菩薩が成仏したと表し、一切衆生の煩悩を焼き尽くさないと成仏しないと誓いながらも一切衆生の煩悩という草木はまだ焼き尽くされていない先に成仏したことを菩薩の巧方便というとするのです。如来は一切衆生を一人残らず救い尽くすという摂取決定の心をもって一切の衆生を救いとる方便としての南無阿弥陀仏を成就し、衆生に回向した事を巧方便回向成就といわれたのです。南無阿弥陀仏という仏にならない限り一切衆生を救えないことから法蔵は「身を後にしてしかも身先立つ」ことにして先に南無阿弥陀仏という仏になられた。これは質問者の方が言われるようにどこかの段階ですべての衆生が救われるということが確定したことで阿弥陀仏になったということです。如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全に円満に欠け目なく確定してしまっているのです。先の火㮇の喩えで言えば、草木に火が燃え移り、棒が燃え尽きた時点ですべての草木が燃え尽くされる事に既に確定してしまったのです。祖師が信巻に引用する「一切衆生はついに定めて大信心をうべきがゆえにときて一切衆生悉有仏性というなり。大信心はすなわちこれ仏性というなり。仏性は如来なり」という涅槃経の文の意味もここに通じているように感じられます。阿弥陀仏が既に十劫の昔に成仏されたことから善導大師は十八願のとおり衆生が称念すれば「必得往生」であると言われました。善導大師もこの「必得往生」に表された法蔵菩薩の巧方便力、摂取決定心を感受されていたことでしょう。

 ちなみに、以下は私の味わいです。
 南無阿弥陀仏となっても菩薩の誓いは必ず守り通さなければなりません。仏になったからといって過去の自分の誓いを自ら破るような事があっては仏にはなれません。そこで、南無阿弥陀仏でありつつも法蔵は菩薩のままであり続けなければならなかった。その菩薩であり続けている菩薩とは一人一人の心の内にあって無量劫の過去から現在まで私に寄り添いながら修行している内なる法蔵です。私が畜生界に生まれたときは法蔵も私とともに畜生となり、私が地獄の住人となったときには法蔵も私とともに地獄にあり、常に私に寄り添いながら「仏にならん」「仏にさせん」と励み続けてきた。それは、法蔵から見れば私は法蔵であり法蔵は私であり、私と離れることができないからです。その法蔵の無量劫に亘る救済の尽力(内薫)と既に成就された南無阿弥陀仏の本願力(外薫)とが協働することによってようやく今生において私は信に恵まれた。私の内なる信となった法蔵は、それでも私が浄土に生まれるまでは浄土に環帰し再び阿弥陀仏にはなることはないのです。私とともにでなければ法蔵は仏にはならないと誓ったからです。だから信となった法蔵は私とともに浄土往生し、私とともに再び仏となるのです。法蔵菩薩の無限の大慈悲、摂取決定心、巧方便とはこのような救い方であると私は思っています。祖師は上記の信について「この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。」と示されました。法蔵菩薩の涯底のない大悲心を知れば、如来の大悲心が信であるからこの心が報土の真因となると釈された意が多少なりとも理解できるように思います。