6-4(2).質問と回答 4の続き

質問4の続き
 法蔵菩薩から阿弥陀仏になるにあたり、48願成就しなければ仏にならないと誓われていますが、全ての衆生、虫、鳥、草木等の類全てを救い終えて初めて法蔵菩薩から阿弥陀仏になれるという意味ではなく、全ての衆生を救うために、法蔵菩薩が修行をし、準備を整え、さぁ、どんな衆生でも救ってあげるから、どんと救われなさいと、待ち構えている状態ということでしょうか? 全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になれたということでしょうか?

 

回答4の続き
 回答4でも書きましたが、如来の摂取決定心においては、如来から見れば既にすべての衆生を救うことが完全円満に確定してしまっています。ですから、質問者の方が言われるように「全ての衆生を救い終えたから阿弥陀仏になれたではなく、全ての衆生を救う準備ができたら阿弥陀仏になった」ということです。その如来の救済の準備は予想外に用意周到なものですから、よくよく注意して聞かなければ気づきません。
 如来の摂取決定心は南無阿弥陀仏として既に私に回向されていますから、私や貴方は南無阿弥陀仏と称念することができます。この称念が如来の摂取決定の現れです。念仏という形をとった如来の摂取決定心に気づくことによって必得往生の信が生じます。私が称える念仏が如来の救済でありその他に救済はないと気づく信です。私の救いは南無阿弥陀仏として既に成就されていると信知する信です。言い換えれば、南無阿弥陀は「必得往生。必ず浄土往生させる。」との如来の摂取決定心であり、この南無阿弥陀が私の救済であると受け入れたことを信と言います。
 この如来の摂取決定心・願心は南無阿弥陀仏として私や貴方に既に届いているのですが、私から離れた所に届いているのではありません。極めて身近な所、これ以上に身近な所はないというほど身近なところに届いています。そのため私や貴方が受けとろうと努力しなければならない行は何もないのです。ただ私がその願心を聞くだけでよいように仕上げられている救いです。これ以上にはないというほど極めて身近なところに救いがすでに届いているのです。それが私の称えている念仏です。如来は「南無阿弥陀仏は成就した。あとは衆生、自ら救われる努力をせよ。」と突き放し、衆生の行を要求する仏ではありません。私が力んで如来の救いをつかみ取ろうとして行じる行がまったく無用なように完全・円満・欠け目のない救いを南無阿弥陀仏として成就しています。私の称える念仏がそのあかしなのです。そのため私が行じるべき行は何一つも無いと知り、私が称える南無阿弥陀仏如来の救済であると受け入れるだけです。この受け入れによって現生不退となります。南無阿弥陀仏如来の救いであると聞くだけですから、これ以上に用意周到な救いは他にはありません。如来の摂取決定心は私に何らの行も要求していないので、あとは如来の摂取決定心ありと聞き、摂取決定心・願心を受け入れるだけ。これを受け入れた信について蓮如上人は「取りやすの安心」と言われています。私や貴方がなすべきことは念仏のうちに如来の摂取決定の願心ありと聞いて受けとめるだけです。聞けば「我が往生ははや成就しにけり」との信が自然に生じます。この信が私に成就されれば現生での救いは完了です。あとは上尽一形の念仏を臨終まで称えつつ「辛かったこの世さらば。」と臨終を迎え、わが行く先にある浄土に如来とともに往生するだけです。
 以上が如来が用意した救済の準備です。救済の準備といっても如来が私の浄土往生をすでに円満に成就しているので、南無阿弥陀仏の成就の他に如来の方で足すべきものは何もないし、衆生の方で何かを足さなければならないものも何一つとして残されていません。南無阿弥陀仏一つで私の救済は完全なものとして完結してしまうのです。私の往生のために私がなすべき行は何一つとしてない、南無阿弥陀仏一つで救済を果たし遂げるところが如来の救いの真骨頂です。これが如来の救いっぷりです。如来が救済のために準備し成就した南無阿弥陀仏の救済がいかに用意周到なものであるかを理解いただければ幸甚です。