6-4(3).質問と回答 4の続き(2)

質問4の続き(2)
 質問ですが、法蔵菩薩阿弥陀仏になる際に、私を救うために、果てしない時間修行をし、阿弥陀仏の名号を作られたとのことですが、阿弥陀仏の視点で考えた時に、私に名号を渡す苦労と名号を作ったときの苦労を比較したら、渡す苦労なんて大したことのないくらい簡単なことだと思います。(名号を作って、私のところまで届けるまで相当大変ですが、そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのではと思います。)ですが、私は名号を受け取れていません。仏願に順じないと救われないとのことですが、仏願に順ずるということがどういうことなのかいまいちわかりません。詳しく教えていただけないでしょうか?

 

回答4の続き(2)
 質問者の方は南無阿弥陀仏と称えることはまったくないのでしょうか。南無阿弥陀仏と称えているのであれば、名号を既に受けとっています。受けとっているから南無阿弥陀仏と称えることができるのです。ですから、仏名を称えることが如来の大悲に既に遇っていることであり、仏名を称えることで既に如来の救いに遭っているのです。仏名を称えることが如来の救いであると知り、仏名を称えさせんという仏願を聞いて計らうことなく仏名を称えることを仏願に順じるといいます。仏名を称えさせんというのが仏願ですから、仏願に順じるとはその願いの通りに仏名を称えることをいいます。
 では、仏名を称えながらも「私は名号を受け取れていない」と思ってしまうのは一体どういうことかと言えば、仏名を称えさせるのが如来の願いであるということを知らない、理解していない、心からそのように受けとめていない、まったく誤認してしまっているということです。これを不信(疑蓋)といいます。これに対して、仏名を称えることが仏願に従うことであると知り、その仏願を計らうことなく仏名を称えているのを信(疑蓋無雑)といいます。同じように念仏を称えながらも、その称名の意味を正しく領解しているか否かで信と不信とが分かれるのです。信の人は仏名を称えさせんという仏願を文字通りそのまま受け取り、不信の人は仏願に気づかないため皆目仏願が分からない状態にあり、私はまだ救われていないと思い込んでしまっているのです。この疑蓋に生死を繰り返して流転してきた原因があるとして祖師は正信偈に「生死輪転の家に還来するは決するに疑情をもって所止とす」と言われています。信は阿弥陀仏の大悲心から生じるものですが、これを信じようとする心のない者のために阿弥陀仏は南無の信じる心を摂取不捨の阿弥陀仏と一体に称える南無阿弥陀仏として成就してあります。阿弥陀如来は信じる心も往生浄土の徳も円満に用意されているので衆生にとって何の不足もありません。三世諸仏は南無阿弥陀仏の救いを信じるようにと如来の救いが円満であることを衆生に証成しています。この証成の有様を善導大師は「十方恒沙の仏舌を舒(のべ)てわれ凡夫の安楽に生じることを証したまう」「悲心は利物の大悲心なり。慚愧す恒沙の大悲心」と法事讃に言われています。これは阿弥陀仏も諸仏も衆生に信が生じることに向けて一心同体の大悲を抱かれている有様を述べたものです。衆生がこの救いを信ぜず流転してゆくことについて諸仏が嘆く様を善導大師は「もしこの証によりて生じることを得ずは六方諸仏の舒舌(じょぜつ)ひとたび口より出でて以後ついに口に還り入らずして自然に壊爛(えらん)せん。」と言われました。不信な私がいるために諸仏の舌を壊爛させていたのでした。阿弥陀仏もまた涙を流して嘆き給うたことでありましょう。大悲心に触れたとき、大悲心を知らない人の心がはじめて大悲心を感受するのですが、ここに大悲と信の不思議があります。それまでは如来の大悲心に触れることがないために質問者の方のように「そこからあと一歩、私に名号を受け入れさせるなんて今までの苦労と比べたらよっぽど簡単なのでは」との思いを抱くのですが、善導大師は「ただ衆生の疑ふべからざるを疑うを恨む」と言われています。
 如来の大悲心から「称えさせん。救わん。」として成就された南無阿弥陀仏の御名を如来の大悲心であると受け取り称名するのが信であり、仏願に信順することです。仏願に順ずるとはどういうことか詳しく教えて欲しいとのご要望ですが、この外に特別な子細はありません。法然聖人が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の子細そうらわず」「三心四修と申す事の候ふは、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候なり」「この他におくふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし」と言われているとおりです。南無阿弥陀仏如来の救いであり如来の大悲であるとの外に何の子細もないのです。この信・不信のことは学問、知識、理解の浅深といったたぐいのことで解決がつくような問題ではないため、とてつもなくやっかいです。祖師が難信であると言われ、大経にも往きやすい浄土に人がいないと説かれています。信を頂くことが簡単でないことは、これから先、否応なく身に滲みて知らされることでしょうが、お近くに信を得られた人や信を得られた布教師の方がいらっしゃるならば、直接面談のお願いをして自らの心の内を吐露し、よくよくお話しを聞いて下さい。聞いたからといって言葉で容易に信まで導くことができるものではないので、しばらく時間がかかるかも知れませんが、称える称名とともに如来の大悲が私に届いていたと気づけば瞬時にして今生での救いは完了します。そのとき「聞其名号信心歓喜」はそのとおりであったと知られます。