1-27.念仏-念仏に付与される主観的意味合いは何によって決まるのか。

※7/5に修正し、差し替えました。

 

 真宗でいう念仏とは口で南無阿弥陀仏と称えることです。口で称えるというのは、自分の体の声帯を使い、聴覚によって知覚され得る音に変換することをいいます。念仏は称える者の心相ないし思いという心的要素、南無阿弥陀仏を音声化する神経学的・生化学的・物理学的運動過程と音声化された南無阿弥陀仏の音声の3つの要素から構成されています。ある思いに基づいて音声化して称えているのは私ですから、念仏はまぎれもなく私の行為であり、私以外の誰の行為でもありませんし、音声化された南無阿弥陀仏はその私の行為の一部(最終形態)です。心的要素と音声化する過程と音声とは切り離すことができませんから、この三者は分かちがたく一体のものになっています。これらのすべてはいわば物質的現象に還元できるものばかりだと推測されますが、このような念仏にどのような意味があるのでしょうか。ポイントは心的要素がどのようなものであるかによって念仏に付与される意味あいが決まってくるという事です。心の状態や思いが念仏の意味を決定するのです。

 念仏は私の行ですから、信前において念仏行をわが浄土往生の行との思いで念仏に励むことがあります。祖師が「本願の嘉号をもっておのが善根となす」と言われている自力念仏のあり方がそれです。我が行を往生の資助にできるとの思いから南無阿弥陀仏に手を伸ばし、念仏を往生の善行としての意味合いで励むのです。信後においてはわが行をわが往生の行とする思いはありません。このような思いの違いは何によってもたらされるのかといえば、私には浄土往生の行はなし得ないとの思いになっているか否かによります。私には浄土往生の行はなし得ないという思いになれば、私の行じる行に往生行としての意味合いを付与することができなくなってしまいます。私の行じる行から往生行としての意味合いを付与する思いが完全に消え去ってしまうと、あとに残るのは南無阿弥陀仏だけです。ですから、他力信心の願生者にとって意味のある念仏とは南無阿弥陀仏だけになってしまうのです。祖師が「称名はすなわち・・・念仏なり、念仏は南無阿弥陀仏・・なり。」と釈されているのは、こういう理由からであると推測されます。
 ではその南無阿弥陀仏からどのような意味を受けとられたのかといえば、祖師は同じ箇所で「称名は最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏・・・なり。」と言われています。最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏であると理解されていたことがわかります。最勝真妙の正業というのは仏様の衆生救済行のことです。南無阿弥陀仏は仏様が最勝真妙の救いとして成就されたものです。仏様の救済行が南無阿弥陀仏であることから、往生行の意味合いが完全に消し去られた私のなす行にそれまでの自力往生行としての意味合いとは全く異なった私の往生行としての意味が新たに南無阿弥陀仏によって付与されることになるのです。元祖聖人が「南無阿弥陀仏 往生の行は念仏を先と為す」と言われたのはそのような意味合いからでした。

 では、どうして祖師は「最勝真妙の正業が南無阿弥陀仏である」との理解に達したのでしょうか。「しかれば御名を称すれば衆生の一切の無明を破し衆生の志願をみてたまふ。」と言われている所から推察すると、祖師には無明と呼ばれるような本願疑惑心が晴れて心から仏様の大悲心を悦び、大悲心による浄土往生を喜ぶ思いがありました。この思いは、摂取せんとの阿弥陀仏に南無した心相になったところにのみ生じる思いです。南無阿弥陀仏の救済行は、これを受けた者の心相を阿弥陀仏に南無する心相へと完全に転換する働きがあります。きれいさっぱりに自力の思いを消し去り南無する心相に転換させてしまいますので、この心相から大悲を感受し往生は決定との願生の思いが生じることになります。仏様の救済行にあるこのような働きを実感されていたため、南無阿弥陀仏が最勝真妙の大行であると言われたのでしょう。この念仏者の胸の内にある思いとは、何を差し置いても仏様の最勝真妙の大悲を感受する思いであると言わなければなりません。その思いには大悲によって往生できるとの思いもありますから、「本願の嘉号をもっておのが善根となす」ような思いが起こらなくなってしまうのです。「念仏は浄土にうまれるたねか、地獄におつべき業か総じて以て存知せず」という祖師の言葉を歎異抄は紹介していますが、人の智恵で最勝真妙の大行を理解することはできません。最勝真妙の大悲によって南無阿弥陀仏の心相となり、ここから浄土に生まれられるとの思いが生じる心の仕組みはもとより、その仕組みから将来どのようなことが引き起こされるのか、に関しては人間の知恵で計り知ることはできません。そのため上記の歎異抄の言葉になったのでした。

 まず、ここで押さえておきたいことは次のことです。
 浄土に生まれられるとの願生の思いが生じたことによって、念仏の「私の行じる行としての側面」に報恩行としての意味を付与することがはじめて可能となります。自力往生行としての意味合いが完全に否定された念仏に報謝の行としての意味を新たに与えることができるようになるのです。祖師は「至徳を報謝せんがために真宗の簡要をひろふて、つねに不可思議の願海を称念す。」と言われましたが、これは念仏行の「私の行じる行」としての側面に報謝の意味を新たに付与したものです。信心の行者の念仏は、仏様による清浄最勝真妙の働きから南無阿弥陀仏の心相と願生の思いが生じ、南無阿弥陀仏の心相からはそのありのままに南無阿弥陀仏の念仏が称えられ、私の往生は決定されたとの浄土願生の思いからは報謝の念仏が称えられることになります。南無阿弥陀仏がもともとは仏様の領域に属するものであることを考えれば、念仏の本義はあくまでも仏様の最勝真妙の正業であり大行であるとしつつも、その大行をわが往生の大行として受けとった信の者の念仏にはその仏様の大行たる救済行に呼応した報謝としての意味合いが念仏に込められることになるのです。仏様の大行と私の報謝の行とがみごとに呼応して分かち難く一体となって醸成されているのが私の称える念仏なのです。
 次に、念仏は報謝の行という意味だけにとどるものではありません。より根源的で重要なことは次のことです。私の報謝の行としての念仏は仏様の救済行である南無阿弥陀仏を受け入れてそれに感応し、私の心相が南無阿弥陀仏となったありのままに称えるものです。その南無阿弥陀仏の心相のままに南無阿弥陀仏を称えることは仏様の大行そのもの、南無阿弥陀仏がそのまま現れ出でたものです。このため、あるがままに口に現れ出でた南無阿弥陀仏の念仏は仏様の大行であり、かつ、それがそのまま私の往生行になるとの意味が念仏に与えられることになります。南無阿弥陀仏となった心相は、南無阿弥陀仏が仏様の大悲であるとのメッセージを南無阿弥陀仏から受け取り大悲心のありのままを感受している心の状態です。この心の状態になった私は、この南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく心の相(すがた)であり、この相が大悲そのものであると受けとめているのです。この心相を大信といいますが、この心相になったことによって、念仏は仏様の大悲であるとの意味合いを念仏に与えることになります。念仏には音声化された最終形態である南無阿弥陀仏が現れているからです。南無阿弥陀仏を感受し受けとった南無阿弥陀仏の大悲心が念仏に現れていると理解し、この念仏となった南無阿弥陀仏が私を浄土往生させると受けとめることになるのです。南無阿弥陀仏から受けとった大悲の意味を今度は念仏に付与することになるのです。この意味を付与された念仏を大行念仏と呼ぶことにします。私を往生させる働きのある仏様の大行たる南無阿弥陀仏がそのまま私の大行となったとき、南無阿弥陀仏は私が浄土往生してゆく相であると受けとめたところの至心信楽から欲生心たる願生の思いが生じ、念仏に仏様の大行に対する報恩行としての意味合いが加わるのです。さらには、仏様からすれば私が念仏を称えないことには南無阿弥陀仏を成就した意味がなくなってしまいます。だから、どうしても私に念仏を称えて貰い浄土往生を果たさせなくてはならない宿命を仏様は背負っています。私には仏様から南無阿弥陀仏を頂かないことには往生できるすべは一切ありません。仏様と私とは私が浄土往生できるか否かの一点において運命共同体の関係(相互相依の関係)に入ってしまっているのです。大行念仏は私からすれば仏様の大悲心に誘発されて大悲を悦ぶ行や報謝の行としての意味合いで称え、仏様からすれば私を浄土往生させる大行たる働きが生身の私の上に生きた念仏として私に称えられることによって、その所期の目的を果たすことができるのです。大行念仏は、私の称える念仏あっての大行念仏です。この意味で大行念仏は仏様と私の協働の行とも言えます。仏様と私とはともに大行念仏を共有し、仏様は大悲をもって称えさせ、私は大悲に触発されて称えさせられたりして称えているのです。これが十八願文にある「至心・信楽・欲生我国」の大信となった上での「乃至十念」の念仏です。この念仏においては、南無阿弥陀仏となった心相とこれによる願生の思いという心的要素が大行としての意味や浄土往生行としての意味を念仏に付与し、派生的に報謝の行としての意味を付与するのです。念仏に付与された根源的な意味は、摂取不捨の大悲を南無する者の心がその感性(心情)で受けとめてその意味を領解してしまうので、念仏に仏様の大悲と救いを見いだし、この度の浄土往生を悦んで南無阿弥陀仏を称念し、声となった南無阿弥陀仏に仏様を見いだして仰信するようになるのです。このことを善導大師は「行に就(つ)きて信を立つ。」と言われ、元祖聖人は「声につきて往生の思いをなせ(す)。」と言われました。南無阿弥陀仏の声(行)が私を浄土往生させる仏様の大悲心の現れであると受けとめるので行に就きて信が生まれ、声につきて浄土往生の思いが生じるのです。
 念仏に以上の意味付けをしているのは、仏様の大行たる南無阿弥陀仏のとおりに南無した心相とそこから生じた願生の思いですが、そのような意味づけをしているもともとの根源は南無阿弥陀仏(の働きや意味)にあります。言い換えれば、南無阿弥陀仏にある大悲が私の心に自らの大悲を刻印し、心に刻印された大悲が私の心理作用を介して念仏に上記の意味付けを新たに与え、私の心はその大悲の意味を感受して念仏を称えるのです。この過程には自力の思いという夾雑物が一切混じることがないので、この大行念仏を他力の念仏と言ったり、この働きを南無阿弥陀仏の一人働きと言ったり、全分他力と言ったりします。

 以上が冒頭の問いに対する答えとなりますが、詰まる所、仏様の働きは南無阿弥陀仏に込められている言葉の意味にあるということになります。言葉の持つ意味は人の心に働きかける作用をもつものです。この意味が仏様の命になっているのです。言葉の意味を理解できる心を持つ人類の心を救う唯一の手だてはこの言葉の意味だけなのでしょう。仏様は言葉のもつ意味に姿を変えられて、私の心に働きかけているとも言えます。真宗の信の局面とは異なりますが、世間においても「あの人の一言で救われた。」などと言うことがあります。精神的に行き詰まってしまった人が人の言葉によって心が軽くなって救われたということはよくある現象なのでしょう。まして南無阿弥陀仏は人の心を表した言葉ではなく、仏様の心を表した言葉ですから、その言葉から仏様の摂取し捨て給わぬ心の意味をそのまま受けとればよいだけです。それを聞き受ければ現世での仏様の救済は完了し、そののちは仏様の心光によって常に照護されるがごとく凡夫のありのままで喜び喜び南無阿弥陀仏を称念する生活となります。