3-15.信-有るものと無いもの

他力の信に有って自力の信に無いもの。

自力の信に有って他力の信に無いもの。

 

A君 祖師は「聞というは本願の生起本末を聞きて疑心あること無し。」と言われ、この如実の聞を本願回向の信であるとされているよね。

 

B君 うん。そうだね。

A君 祖師は、どうして他力信を「疑心あること無し」という表現で指定されたのだろうか。考えたことあるかい。

 

B君 質問の趣旨はいったい何だろう。チョット待ってくれないか。えっと、例えば存在する物を特定するときは、その物の色、形状、材質、性質、構成要素、特性、特徴、作用などを積極的に記述することで他の物と区別するよね。でも、祖師の先の表現は信のもつ積極的な特性などをもって記述する仕方ではなく、「疑心がない」といういわば消極的な方法で記述されているよね。A君が言いたいのは、どうしてより積極的な記述をして他力の信を指定しなかったのかということなのかな。

 

A君 そのとおりだよ。

B君 それ以外に記述の仕方がなかったからじゃないかなぁ。

A君 どうして、そう思うの。

B君 だってさ、考えてもごらんよ。どうすれば信を積極的に言語化できるんだい。

 

A君 他力の信を他と区別するということになると、他力の信と区別されるべきものとは「自力の信」ということになるよね。

 

B君 そうだね。そうであれば自力の信と他力の信を明確に区別する方法としては自力の計らい心を意味する「疑心」がないと指摘するのが最も良い方法なんじゃないかな。

 

A君 うん。つまり、それは「自力の信に有って他力の信に無いもの」という観点からの区別だよね。他力の信の積極的な特徴を挙げるという方法ではなく、自力の信のもつ特徴に注目し、その特徴を完全に無くしてしまったのが他力の信だという思考だね。いわば、消極的な方法での指定だよね。

 

B君 そうだね。

 

A君 では、「他力の信に有って自力の信に無いもの」という観点から区別することはできないのだろうか。つまり、他力の信の本質をもって他力の信とするという方法はないのだろうか。

 

B君 う~ん。

A君 他力の信の本質となるべきものはなんだろうか。

B君 それは如来の本願・願心だね。

A君 うん。

B君 つまり、他力の信は仏様の願心そのものだということ。

A君 それらしい根拠を祖師に求めるとしたら、何かあるかな。

B君 う~ん。根拠と言われるとなぁ。

 

A君 「本願の生起本末を聞きて疑心あること無し」という中に他力の信に特徴的な要素を読み取ることはできないかい。

 

B君 疑心あること無し、という以外にかい?

A君 うん。疑心なしという状態になっているときの心の状態を考えてよ。

 

B君 疑心なしという部分を除外すると「本願の生起本末を聞いている」ということになるよね。本願の生起本末とは私の意向と関わりなく、仏様が大悲を起こして一方的に私に大悲をかけられているということだよね。そのことを聞いて無疑の状態になれば仏様の大悲を感受しているということになるね。うん。そう、それが僕の感じている感触なんだ。

 

A君 そうかい。それは良かったね。それと同じような発想で根拠となるようなものがないか考えてみてよ。

 

B君 そうだな。帰命を「本願招喚の勅命」と解釈されていることが根拠になるかな。二河白道の喩えにある西岸からの呼びかけをヒントにされたものであるとは思うが、祖師は自分に本願招喚の勅命が向けられており、その勅命を受けている実感があったんだろうね。それで帰命を如来の招喚と表現されたのだろうと思うね。

 

A君 うん。祖師は愚禿抄(下)に「また弥陀の悲心招喚したまふるによるというは信なり。」と言われている。このことからも祖師は自分に本願召喚の勅命が向けられており、その勅命を受けている実感があり、この実感から悲心招喚を信と言われたのだろうと推測できるよね。

 

B君 祖師も仏様の大悲心を受けていた。だから、帰命につき仏様の「本願招喚の勅命」と言われたのは仏様の勅命を受けているままが信だという意味だと思うよ。

 

A君 うん。同感だ。

 

B君 それから、正念を「選択摂取の本願」とし、また「金剛不壊の心」としていることも根拠になるんじゃないかな。

 

A君 うん。他にはないかな。

A君 他力の信の本質ときたら、三心釈を思い出さないか。

B君 あ~、そうか。疑蓋無雑の根拠は如来の三心にあるということだったよね。

A君 そうだね。

B君 如来の三心がそのまま疑蓋無雑の衆生の三信になるということだったね。

 

A君 そうだね。如来の心が至心だから衆生の心は如来の至心に対して疑蓋無雑となる。これを衆生の至心という。如来の心が衆生を摂取するに何の危ぶみも不安もなく決定している心だから衆生如来信楽に疑蓋無雑となる。これを衆生信楽という。如来の心は衆生を浄土に生まれさせたいという大悲心だから衆生如来の大悲心に疑蓋無雑となる。これを衆生の欲生心というんだったね。

 

B君 そうであれば、他力の信を積極的に記述するならば、如来の至心・信楽・欲生心を「会得する」という言い方になるかな。会得というか、仏様の心が解ったというか、領解というか、感得というか、感受というか、願心が心にあらわれたというか、心中に大悲が印現したというか、仏様が心にあらわれたというか、南無阿弥陀仏の心相になったというか、どういったら最も適切な表現となるのかよくわからないけど、摂取不捨の大悲心を感受したとか、摂取不捨の大悲心が胸にあるということかな・・・。

 

A君 うん。

B君 そんな感じ、かな。

 

A君 大悲を感受している信、つまり感受しているありのままを積極的に正確に表現することはとても難しく不可能だけど、他力の信に有って自力の信に無いものという観点からいえば、他力の信に有って自力の信に無いものは仏様の悲心だと言えるよね。

 

B君 では、どちらの方が適切なんだろう。

A君 ん?

B君 「他力の信に有って自力の信に無いもの」「自力の信に有って他力の信に無いもの」という2つの特徴のうちどちらが大事な特徴なのだろうかってことさ。

 

A君 どうしてそんなことを考えたのかな。

B君 だって、他力の信を積極的に記述する適切な表現となると言葉につまってしまうだろう。さっきのように。それに対して、大悲に対して疑心無しと言った方が概念的に明確だと思うんだよね。それまで心の中にあったある思いが無くなったという方が白黒のコントラストがはっきりして分かり易いよ。

 

A君 一理あるけど、他力の信に有って自力の信に無いものという観点からの区別も必要不可欠だよ。両方とも他力の信の特徴なんだからね。

 

B君 でも、願心に対して無疑の状態であれば、当然に大悲を感受しているということになるんじゃないか。

 

A君 うん。君や僕にとってはそれは至極当然のことだけど、例えば本願を疑っていないと本気で思っている人がいるとしようか。

B君 うん。

A君 その人はそのままの救いだから求めることは何一つとしてありません、ということも言っているとしようか。他力の信か自力の信か区別できるかい。

B君 難しいよね。

A君 でも、その人が大悲は感受していないとしたら。

 

B君 大悲を感受しているか否かはその人でなければ分からないことだけど、疑いがあるかないか自分の心の内を探してみて、それらしき疑いの心はないという感触を持つ人はいるかも知れないよね。

 

A君 うん。

 

B君 そういう人には、大悲心が心の中に満ちているのが信だよということを伝えて、はたして自分はどうなんだろうかと内省して貰うことが必要になってくるよね。

 

A君 そうだよね。そして、その逆もありうるよ。つまり、大悲がありがたいと思いつつも、念仏を一生懸命に称えることで往生の足しにしたいと思っている場合だね。

 

B君 うん。そうか。だから他力の信に有って自力の信に無いもの、自力の信に有って他力の信に無いもの、という2つの観点からの自己検証が必要になるんだね。

 

A君 うん。そう思うんだ。もともと他力の信を表す「帰命」というのは、大悲の感受と大悲への無疑という2つの特徴を備えたものだと理解したいところだね。

 

A君 覚如上人は、次の様に化導されていることは知っているよね。

「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり」「善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず。」(真偽検証様ブログからの転載)

 

B君 うん。これは自力無功の思いとなったところから生じている放下(ほうげ)の思いを述べたものだと理解しているよ。「仏様に自分の行く末をおまかせ」という状態だよね。仏様のなされるがままにまかせるという心境だね。

 

A君 うん。ではどうして「如来におまかせ」できるのだろうか。どういう心理状態にあるからおまかせできるようになるのだろうか。

 

B君 それは大悲心を感得しているからだ。感得している大悲があるから、その大悲におまかせできるということだよ。大悲を感得してもいないのに「自分の命の行き先をおまかせする」ということはないんだ。もしあったとすればそれは深信因果による聖道の智恵によるものか、或いは、自己の運命を受け入れざるを得ない状況下におかれた者がその運命を受け入れるときの心境だよ。浄土門においては仏様の大悲を介在しない信や道はないんだ。仏様の本願を聞き胸に摂取不捨の大悲をじかに納めるから、大悲に私の命をおまかせできるんだよ。

 

A君 うん。そうだと思うが、おまかせには2つの種類があると思うんだ。一つは君が言うように自己の運命を受け入れざるを得ない状況下におかれた者がその運命を受け入れるときの心境であり、もう一つはその受け入れざるを得ない運命を如来の手にゆだねるという心境。この2つが大悲におまかせしている者の心境だと思うよ。後者があるから前者のおまかせという思いが生じるのだと思うけどね。

 

B君 祖師が地獄は一定住みかぞかしと言われたのはその前者だと考えられるね。

 

A君 うん。ところで、これまで他力の信たる帰命には、必ず、大悲の感得と感得している大悲への無疑の2つの特徴があると説明して誘導してきたけれど、実はこの2つは同じものなんだ。大悲を感得しているということは大悲に対して無疑であり、大悲に対して無疑であるということは大悲を感得しているということなんだが、実感としては内心に大悲があると感じているだけだよ。南無阿弥陀仏というのはその実感に名づけたもので、摂取不捨の大悲を胸に頂いている状態のこと、或いはそのように感じさせている働きのことをいうと理解したいね。祖師が仏願の生起本末を聞いて疑心有ること無しと言われていることはこの1つのことを指していると思うんだよ。

 

B君 祖師が無疑というだけに留まらず、帰命を本願招喚の勅命とか言われたり、無疑心を開示するのに仏様の三心を先行して釈されているのは、その1つのことを2つに分けて言われたものだということだね。

 

A君 うん。そうだね。そして、冒頭の本願回向の信とは仏様の大悲が胸中におさまっている状態をいうんだ。祖師は同箇所で無疑の心のほかに仏様から回向され私の胸に納まっている大悲をちゃんと押さえておられるんだよ。大悲と大悲への無疑はただ1つのことだから、祖師は一心と言われたんだと理解したいね。

 

Cさん じゃあ、どうすればその大悲を頂けるの。大悲を感じることができない、自力の計らいは依然と続きまくる。どうすりゃ良いんだと思っている人にはどう言ってあげれば良いの。そんな人に計らいを捨てよと言っても、大悲を感得せよと言ってもとうてい無理なことよね。

 

A君 うん。だからこれから僕の言う言葉を、イヤ、誰の言葉であってもいいんだけど、その言葉の意味をよく考えてね。

 

 仏様の大悲は苦悩する私と共にある完全無欠なお慈悲です。それは地獄の最下層の底の底にまでゆき届き地獄の底からすくい上げてくれる涯底のない深い深いお慈悲 /どこまでも私に追いついてくる無限のお慈悲 / 私がどこに生まれ変わろうと地獄に堕ちようとも私と共にあり続け私を摂取する無始から続く永遠のお慈悲 / 浄土往生は百即百生で欠け目がなく万に一つ取りこぼすことがない完全円満なお慈悲 / 一人も欠けることが無くみなみな救う無窮のお慈悲 / 条件をつけることのない無限定この上ない極善のお慈悲 / 私の方で足すものは何一つとして無いこの身このままの完成された円満なお慈悲・・などなど。他にもいろいろなバリエーションがあるけどね。

 自力の思いに囚われて苦悩している人は、この言葉の意味を来る日も来る日もよくよく考えて欲しいな。苦悩が深い人ほど何かしら気がつくことがあるよ。そのとき思いもかけず大悲心を感得するかもしれない。気づいたら、いつのまにか自力の思いが無くなっていたということになるかもしれない。そのとき、もう一度「他力の信に有って自力の信に無いものとは仏様の大悲心」「自力の信に有って他力の信に無いものは大悲心に対する私の計らい」ということを思い出して欲しいな。その両方が心にストンとおちて解ったらそれで信のことは終わり、だよ。