3-17.浄土真実の行

B君 行巻の願名の下に「浄土真

実の行」と書かれているけど、この浄土真実の行をどう理解すればよいだろうか。名号のことか本願念仏のことだろうか。

A君 その前に仏様の救いのありかたを見てみようよ。祖師が言われている仏願の生起本末を広く解釈すれば次のように示すことができるよ。
   
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左側に①と⑥⑨⑩と書いているのは私のあり方について、右側の②から⑤と⑥から⑩は仏様の大悲のあり方について書いたものだよ。④の機受成就というのは十八願に誓われている往生の因たる衆生の三心と行は仏様が成就し南無阿弥陀仏として用意したということ、⑥はその十八願の往生の因がそのまま私の上に実現し南無阿弥陀仏がそのまま私の三心と行になったことをいうよ。それは私のあり方に変化が生じ、大悲を聞いたことによる聞信と本願念仏を称えていることを表しているよ。仏様の救いを簡略化して言えば①から④の南無阿弥陀仏の成就のいわれと⑤⑥の浄土往生決定を聞かせて信じさせ念仏させて救うということになるけど、それが私の上に実現されているのが⑦と⑧だよ。⑨と⑩は仏様の救いがこれから私の上にさらに現実化してゆくことを示しているよ。全体としては私に向けた仏様の大悲が私の上で実現し、私のあり方が変わってくる、また変わってゆくことを示したものだよ。連続する矢印がその変化を表していると思って下さいね。⑥までの左側の矢印と右側の矢印が⑥から1本の矢印になっているのは仏様の働きが苦悩し続けている私の上に⑦の信と⑧の念仏という形になって現れていることを示しているよ。⑦⑧においても私が苦悩する存在であり続けていることに変わりはないが、⑦⑧において仏様の働きによって浄土への往生決定の思いをもって生きられるようになったことがありがたいことだよ。

A君 さて以上を踏まえて言うと、浄土真実の行というのは仏様の行う救済行が真実だということ。真実は仏様にしか使えないよ。浄土というのは仏様の悟りの世界のこと。その悟りの世界に生じさせるというのが仏様の救いであり、浄土真実の行というのはその仏様の救いをいうのだね。私に向けた②から⑨までの一連の救いと⑩の大菩薩に仕上げるまでのすべての働きが浄土真実の行ということになる。空華学派では大行とは単なる固然たる名号(静態の名号)ではなく、現に信ぜしめつつあり念仏させつつある動態の名号をいうとされているが、それは⑦と⑧を実現させている名号ということだけど、もう少し広く②から⑦や⑨と⑩の仏様の働きも含めて浄土真実の行といって良いのではないかと思うよ。僕はこのすべての働きのことを南無阿弥陀仏というのだと考えているよ。仏様というのもこの働きに名づけたものだと思うんだ。仏様という救済の主体、仏様の大悲と救済の作用に分けて理解するのではなく、その働き全体に名づけたものが仏であり、南無阿弥陀仏であり、大悲であり、浄土真実の行であり、みな同じものだという理解だね。

B君 浄土真実の行を⑧本願念仏に限るというのは適当ではないということかな。
A君 本願念仏には⑩までの仏様の働きのすべてが具足しているので本願念仏を浄土真実の行と言っても良いんだと思う。大行を南無阿弥陀仏の御名を称することだと祖師が言われていることからすれば、それは当然のことだと思うよ。ただ浄土真実の行を本願念仏としてしまうと、⑧以外の⑩までの仏様の働きがあるということが裏に隠れてしまい、仏様の行であるということを見過ごしがちになるよね。だから浄土真実の行というのは①から⑩までの仏様の働き全体をいうのだと理解し説明した方が丁寧で誤解を招かずにすむよね。祖師が行巻に大行は称名だと言われつつも念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏は正念であるとされているのも、仏様の働きに対する深い理解があったからだと思うよ。

B君 君が大行には大信があるというのは、上記の考えと関係があるのかな。
A君 関係あるよ。大行というのは私という苦悩する者の存在に向けられている⑩までの大悲による救いのあり方のことだよ。大行と浄土真実の行とは同じものだよ。だから、大悲たる大行は大悲たる大信であるし、大悲たる大信は大悲たる大行であるんだ。例えば、金太郎飴のどこを切っても金太郎の顔の特徴を見ることができるのと同じように仏様の救いのどこをとってもその働きはすべて円満に揃っているのだ。御名をとっても信をとっても念仏をとっても同じ働きがあるのだ。だから、あるいは御名をとっても、あるいは聞信をとっても、あるいは本願念仏をとってもいずれも仏様の浄土真実の行ということができる。大信は仏様の真実の浄土の行のあらわれたものそのものだ。心の中で大悲を仰いでいる状態になっているままが大行の現れだ。その大行が大悲だよ。だから大行には大信があり、大信は大行だと言えるよ。

B君 祖師は本願力回向を往相と還相に分けて往相回向としての大行を称名行とされている。だから還相回向の働きを大行の中に含めてはいないのではないかな。
A君 そうだね。教巻に「浄土真宗を案ずるに二種の回向あり。一つには往相二つには還相なり。」とし、行巻に「往相の回向を案ずるに大行あり大信あり。」とされているから君のような考えになるよね。でも、祖師が称名大行を最勝真妙の勝行とされているのは知っているだろう。凡夫を報土往生ののちに仏とさせ大乗の大菩薩に仕上げるというのは仏様の最勝真妙の行の最たるものではないだろうか。仏様によって救われながら衆生救済に向かわないという存在のあり方は仏様の最勝真妙の勝行として画竜点睛を欠くことになるのではないだろうか。仏様は私を仏様と同体にすると言われるのだから、還相の大菩薩に仕上げるまでが大行だといって良いと思うんだ。また先に上げた六願成就はすべて南無阿弥陀仏として成就され衆生に回向されているという理解に立てば、仏様の往還二回向の働きを浄土真実の行と言って良いのだと思うんだ。

A君 上記は、仏様の救いをいわば外側から眺めて思考したものだよ。これは悟性による理解だよ。その救いの内側に入り込んで仏様の大悲を直に受けて大悲をもう少し感じ入ってみよう。大悲の内側に入り込むと言っても自分の努力で入り込むのではないよ。例えば説法の場で大悲が説かれるのを聞くことが入り込むということだ。それが⑥、⑦と⑧だよ。ここでは悟性によって理解するのではなく、大悲を感じ受ける世界なんだ。悟性では理解し切れない感覚(情感)による理解の世界に入るんだ。祖師は御消息(13)に「雑行雑修自力疑心のおもいなし。無碍光如来の摂取不捨の御あわれみのゆえに疑心なくよろこびまいらせて一念までの往生定まりて誓願不思議とこころえ候ひなん」と言われているよ。よくよく味わうべきことだね。何度も言ったことだけど大悲への無疑と大悲への思いということに尽きるよ。平たく言うと、浄土に往生させるという仏様の気持ちが分かるということだよ。祖師が本願招喚の勅命と言われているのもその受け止め方の1つだよ。大悲を受けて仏様の気持ちをそのように感じられたんだね。そのように感じつつも祖師は仏様の働きを「自然」とか「法爾」と呼ばれ、自然法爾の事(14)において「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば義なきを義とすということはなお義のあるになりぬべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」(浄土真宗聖典第2版768頁)と言われているよ。信が生じたことや報土への往生決定は自然の働きや自然の法則によってなるべくしてなったことだと言われつつその働きを不思議であり沙汰することはできないと言われている。これらは悟性では理解しきれない感覚の世界に入ったときの受け止め方だよ。またこの大悲は⑨報土(真仏真土)往生、⑩還相の大菩薩へと進展させる私に向けた導きとして受けとめられるんだよ。祖師が言われた本願一乗は私を報土往生させて還相大菩薩に仕上げるという証果をも意味しているよ。信は終わりではなく、大悲は私を未来へと導き示す教えになるんだ。これは仏様の大悲心に導かれている思いだよ。

B君 前回「教も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏、信も南無阿弥陀仏、証も南無阿弥陀仏」と言っていたことだけどね、「教も南無阿弥陀仏」というのは、大経の教えを煎じ詰めれば仏願の生起本末の教え、つまり南無阿弥陀仏のいわれを説く教説であったり、諸仏が南無阿弥陀仏を勧めている教説ということになるのかい?
A君 う~ん。本来はそういうことなんだろうけど少し違うんだ。
B君 どういうこと?
A君 自分の心の内に届いている大悲と言ったらよいのかな、感じている大悲と言ったらよいのかな、その仏様の大悲や気持ちのことを僕は教と言っているのだよ。
B君 大悲が教なのかい?
A君 そう。仏様が私に向かって言われているお気持ちは摂取するということなんだね。「摂取する」という大悲は私を導くものなんだ。大経が教え勧めたり布教師が説く大悲の救済の教えというよりも心の中に感じている大悲のことだよ。
B君 それは信のことではないのかい?
A君 うん。大悲は信を構成するものでもあるんだが、教でもあるんだ。大悲が信を構成するという意味はもう分かるよね。
B君 うん。大悲を無疑の状態で受けとめているのが信だ。信は大悲を抜きにしては成立しない。大悲は無疑と一体となって信を構成しているということだね。
A君 そう。無疑で受けとめた大悲は無疑の故に心の中では大悲があると感じられるようになるんだよ。その大悲は未来へと私を導く教えになるんだ。大悲を有り難いと思っているままが浄土への導きなんだよ。これを教と言っても良いのだと思う。B君 大悲と無疑とは一体のもの。それが私の心の中の心相としての南無阿弥陀仏ということだったよね。そして口に出た南無阿弥陀仏が大行たる称名ということになれば行も南無阿弥陀仏ということになるよね。
A君 そう。だから信も行も南無阿弥陀仏という理解になるんだが、同時にその摂取するという大悲は私を導く教えなんだね。祖師は本願招喚の勅命と言われているが、心で受けている勅命が浄土へと生まれさせる導きになるのだね。
B君 それは欲生という信の思いのことだね。
A君 そうだね。その通りだ。

B君 祖師は教と機を明確に区別されているのではないのかな?
A君 ん?
B君 行巻に念仏と諸善を比較している箇所があってそこでは教と機に分けて対論し、教は本願一乗・円融満足極速無碍・絶対不二の教、機は本願一乗の機・金剛の信心絶対不二の機といわれているよ。だから祖師は教と機を明確に分けているよね。A君 そうだね。でも南無阿弥陀仏の救いにおいては、機法一体といわれるように教(法)と機はもともと一体のものなんだよ。教である本願一乗というのは大悲のことだよね。機とはその大悲を無疑で受けとめている状態のことだから信のこと。信は大悲と一体となっている状態のことで、無疑になれば、無疑で受けとめている大悲が心の中に存在することになるのだよ。
B君 君は心の中に存在する大悲が教だというのだね。
A君 そうさ。無疑の故に心の中に存在している大悲が信でありつつ教でもあるというわけさ。その大悲と無疑の一体性を言葉として言い換えたら、機法一体の南無阿弥陀仏ということになるよね。祖師は心相である南無を解釈して本願招喚の勅命と言われている。私に向けた勅命と感じられているんだ。勅命とは仏様の教ということだよ。だから、自分が称える南無阿弥陀仏も本願招喚の勅命として受けとめられるということになるわけさ。

B君 祖師が行巻において教の対比をされているということは行が教であるということを意味していると解釈されているようだが、君の考えに従えば、信が教の位に位置づけられるということなのかい?
A君 信が教の位に位置づけられるとは、どういう意味?
B君 信が教の位に位置づけられるというのは、信が教になるという意味だよ。
A君 そういうことになるね。また、信は教の位だけではなく行の位にも位置づけられるよ。行も教の位や信の位にも位置づけられるし、教は行や信の位にも位置づけられるよ。

B君 そうすると教とか信とか行とかまったく区別がない状態になるね。祖師は大行の出処を表す願名は十七願、大信の出処を表す願名は十八願とされているから教学的にはマズいんじゃないのかい。五願開示という組み立てを破壊することになるからね。それでも良いのかい?
A君 別に破壊しても良いとは言っていないよ。祖師の教行証という組立は通仏教において使用されているものに合わせて真宗の綱格を定めたものだ。綱格というのは教えの組立てということだけど、これは元祖法然聖人の開設された浄土宗が大経に正当な根拠を持ち、念仏行によって清浄報土往生の証果を得ることができることを対外的に明らかにしたものだ。だから教は経典にその根拠を求めなければならないんだ。僕の言っているのはその綱格をどうのこうのするということではないんだよ。内心の大悲が浄土往生へと導いてくれるという思いを申し述べているだけなのさ。さっき君が言ったように教は本願一乗・円融満足極速無碍・絶対不二の教、これは南無阿弥陀仏のことであり、機は本願一乗の機・金剛の信心絶対不二の機、これも南無阿弥陀仏のこと。教信ともに本願一乗の南無阿弥陀仏なんだ。信はその教を受けているので心の内において本願一乗の南無阿弥陀仏によって浄土へと導かれているという思いがあるんだよ。
A君 概念的思考に先だって存在しているのは大悲を感受している状態であり、それはただ1つしかない心理的事実だ。その心理的事実をどのような視点から指し示すのかと言えば、僕に言わせれば、真実の教というときは無疑となり感受している大悲が暗愚な私を教え導くという視点から大悲に名づけた呼び方、信は無疑の状態を私にもたらせ無疑と一体になった大悲の呼び方、行は私の心相となった南無阿弥陀仏の呼び方のことだよ。教と行と信はいずれも同じ大悲、同じ浄土真実の行を指しているんだ。大悲を教、行、信という視点から説明できるということだね。だから信は大悲たる教として位置づけられるし、行も大悲たる信や教として位置づけられるということなるのだね。

B君 上に君の言う行とは称名行のことではないんだね。
A君 そう。ここで言っている行とは仏様の浄土真実の行のことを言っているのだよ。仏様の行が信となっているところを指してその信を行と言っているのだよ。その浄土真実の行が口称の称名ともなっているのでこの称名を大行ということができる。それと同じだよ。信を仏様の大行と言うと称名行と混乱するので信を大信と呼び方を変えているだけで、信も称名行も仏様の浄土真実の行なんだよ。

A君 称名(能行)を大行とする石泉師が行信ともに衆生の願力を稟受したものであり、行は教位であると述べている。その通りだと思う。このことに関し、本典研鑽集記上巻78頁には行信ともに衆生の願力を稟受したものであり、行が教であるというならば信もまた教であると言わざるを得ないと批判している。この批判は真宗の綱格に関わる問題として提起した批判だと思われるのだが、僕にはこの批判が指摘するとおり信も仏様が導く教であると言いたいのだ。しかしそれはさっき言ったように綱格にかかわる問題としてではないんだよ。真宗の綱格という観点からではなく、心の中の現象として存在し、あると心が感じている仏様の大悲というものを悟性で理解しようとすると、その大悲は私を導く教であり、無疑となっている私の信そのものであり、その信は仏様のなされる浄土真実の行であると理解できるのだということを言いたいのだよ。

A君 ちなみに本典研鑽集記上巻76頁には、石泉師が「信巻はその行(称名大行)の如実なることを知らせんがために別開したるものにして行巻の注釈にすぎずとなすなり。」と述べたことを紹介しているけど、これは大行を称名念仏とし、称名行を中心にして考える石泉師の立場からはごく自然な帰結となる。これも文の当面解釈からすればその通りだと思える。だけど信も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏と理解する立場からは、行巻と信巻とが互顕しあって南無阿弥陀仏の救いを表すものであるから、信巻が行巻の注釈という位置づけになることはないと思う。

A君 祖師が教行信証において使用されている教・行・信という概念は、事実状態となっている大悲の実現という出来事について、その実現を説いた真実の教が大経であるとし、十七願成就による諸仏称讃に由来する大行が我が称名大行・大信となって実現していることを行・信とされたものだ。だけど、先に言ったように大悲に恵まれた思いからすれば、大経の教える大悲が我が心の中の大悲になっていることから、この大悲が教であると思えるのだよ。だから大悲たる南無阿弥陀仏は我が教であり、我が行であり、我が信であるということになるのさ。証は肉身が滅び南無阿弥陀仏だけになって無碍になったことを言うんだね。だから証も南無阿弥陀仏。感覚的に言えば、「ただただ南無阿弥陀仏」という気持ちになるんだ。そういう訳だから、南無阿弥陀仏が一人居て一人悦べる法ということになるのさ。また同じ理由から蓮如上人が4帖八通に南無阿弥陀仏が我が往生の定まりたる証拠だと言われているのはその通りだと思えるわけさ。いずれも大悲への思いがなければ悟性だけでは到底分からないことだけど、大悲の救いの内側に入り込んでしまうと、その意味がとてもよく分かるようになるよ。先にも言ったけど、大悲の内側に入るのは何も難しいことじゃないんだよ。仏様の大悲が説かれるのを我が救いと聞けば良いだけなんだよ。