3-18.本尊と助業

B君 A君は本尊についてどう考えているの?

A君 名号本尊であれ、木像本尊であれ、絵像本尊であれ、阿弥陀仏の大悲を表現したものであればどれでも良いと思うよ。大悲を表すものである限りはいずれがダメだということはないよね。

B君 名号本尊固執しないということだね。
A君 そう固執しない。御本典に本尊についての記述はないよ。だから本尊を設置するかどうか、設置するとしてもどのような本尊を設置するかは教義に反するものではない限り、各人の思いに委ねられていると考えて良いよね。だから固執しない。

B君 「聞其名号」は本尊を指定したと解釈できないのかな。

A君 名号本尊固執する者は「聞其名号」を根拠にするのだろうが、それは根拠にならない。南無阿弥陀仏という御名を聞くとは大悲の起こりが私にあり私に大悲が懸けられていると聞く事だよ。本尊に関する教えではない。

B君 大行を南無阿弥陀仏とする教えは本尊を指定したとは解釈できないのかな。

A君 本尊を指定したとは解釈ではない。南無阿弥陀仏とは仏様の最勝真妙な無形の働きに名づけたものであり、最勝真妙な働きは心の内に大悲を感受する働きとなるものだ。大悲を感受していることがその働きであり大行なのさ。その働きは称名へと展開するから、祖師は大名とは無碍光如来の御名を称することだと言われつつ、その称名は大悲の働きであるとして称名は南無阿弥陀仏であると言われた。南無阿弥陀仏という記号を本尊にするかどうかとは関係ない。

B君 南無阿弥陀仏という御名をどう理解すれば良いんだろうか。
A君 大悲の持つ摂取不捨という無形な仏様の御心を言語的な認識ができるようにあえて意味化した語が南無阿弥陀仏だよ。南無阿弥陀仏は無形の大悲そのものとの関係では大悲を指し示す名称であり、大悲を指し示す指示語になる。大悲という語も心に感受している大悲との関係ではその大悲を指し示す指示語になってしまう。南無阿弥陀仏とか大悲という語が指し示しているものは、心で感受している大悲のことだ。それ以外に南無阿弥陀仏を観念的実在として理解するむきがあるかも知れないが、意味はないよ。感受している大悲ですら悟性で捉えようとしても捉えがたいものであり、何か確かなものがあるわけではないが、何もないわけでもない。捉えようがないのが大悲なのだ。だから大悲は感受するしかないのだ。感受しているところに大悲が現れるんだな。このような大悲を指し示したものが南無阿弥陀仏という語であり、その語は大悲は感受している様をも表しているんだ。それが南無阿弥陀仏という語の持つ意味なんだ。それは浄土の成就を告げる仏様の心を表しているのだよ。南無阿弥陀仏という語そのものは指示語だからその指示語そのものが大事なわけじゃあない。仏様の御心を表わす意味が南無阿弥陀仏にはあるから名号を粗末にすることができないだけだ。仏様の御心を表しているのは名号だけじゃない。

B君 「あえて意味化した」というのはどういう意味なのかな。 

A君 例えば私が絵師であれば、私が感受している大悲を表すとすれば摂取不捨を意味する光明を基本的図柄として採用し絵にするだろうし、仏師であれば大悲を垂れる仏を人格化してその姿を彫刻にするだろうし、書道家であれば南無阿弥陀仏を書によって表現するだろうね。自分の感じることを表現し人に伝えたいと思うのが人の性さ。そうして大悲を形象化したものを礼拝の対象物としたのが本尊なのだが、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。その大悲を感じるがままに大悲を具象化することはできない。本尊という言葉をどうしても使ったり考えたいというのであれば、この形象化できない大悲こそが本尊だね。これを根源的本尊といってもよいと思う。「あえて」というのは形象化できない大悲を無理に具象化しようとするのだから「あえて」ということになる。

B君 具象化とはどういう意味なの。

A君 摂取して捨て給わぬという無形の大悲を認識可能な具体的な形象や言語に置き換え、代替させることさ。大悲を言語的意味をもつ記号に置き換えたのが南無阿弥陀仏。その言語的意味が大悲を指示している。言うなれば言語能力を有する衆生に大悲の言語的意味を了解させるのが南無阿弥陀仏という記号。木像本尊は摂取して捨て給わぬという大悲の意味を視覚に訴える形象にしたもの。絵像本尊も同様だね。これらは視覚を通じて大悲の意味を了解させるものだね。意味を了解させるという点ではみな等価値だよね。

B君 心の内に大悲を感受しているとはいったいどういうことなんだろうね。
A君 そう問われても悟性では答えようがないんだよ。それは南無阿弥陀仏とか仏様の大悲と呼ばれているものであるとしか言いようがない。南無阿弥陀仏とか大悲という仏教用語を用いないとすれば、心の内に感じているものを「それ」とか「これ」としか言いようがなくなってしまう。自分自身では「それ」「これ」が何を指しているか分かるが、「それ」「これ」では人に分かって貰えない。だから大悲とか南無阿弥陀仏という言葉を使って「それ」「これ」を説明することになるのだが、大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使って説明すると説明したような気になるだけで、本当には説明したことにはならない。だから感受している大悲は感受して貰うしかないのだ。だけど大悲とか南無阿弥陀仏という語句を使うと説明したような気になってしまうのさ。説明される方も分かったようで実は分からないままになってしまうんだ。大悲とか南無阿弥陀仏という語句が指し示しているものが分からないままだからね。説明される方はとてももどかしい思いになるんだ。説明される方も困るだろうけど、説明する方も実のところもどかし思いをしているのさ。このようにしか説明できない仏様の働きを聞くという事と形象化した本尊をどうするこうするという事とはまったく次元の違う話なのだよ。

B君 そう言えば、以前、君は胸の内なる大悲が尊く感じられ、寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないと言っていたね。

A君 うん。確かにそう言った。

B君 本尊はどうでもよいということなのかな。

A君 どうでもよいというと語弊があるのでそういうことは言わないよ。ただ本尊に関して確実に言えることは、胸の内に感じている大悲こそが本当に有り難く頂けるものであり、その大悲をあえて形象化したのが名号本尊であったり、木像や絵像本尊であるということだね。

B君 寺院などにある本尊はあまり有り難いとは思わないという理由はなんだい。

A君 さっきも言ったように、胸の内で大悲を感受している者にとってはその感受している大悲が仏そのものなのだよ。だから、その無形の大悲が根源的な本尊なんだ。その根源的な本尊に比べたらあまり有り難いとは思わないという意味だよ。名号・木像・絵像本尊がちっとも有り難くないと言っているのではないよ。名号・木像・絵像本尊はそれなりに有りがたいものさ。

B君 比較の問題なのかな。 

A君 そう比較の問題なのさ。それにね、どうして名号本尊や木像・絵像本尊が有り難いと思えるのかと言えばね、そう思わせる心の仕組みがあるのだよ。

B君 どんな仕組みなのかな?

A君 それはね胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みさ。この大悲の感受があることで、大悲を意味する名号や木像・絵像本尊がその心の仕組みを刺激して大悲を再び感受させるところにその本尊を有り難いと思えるのさ。
B君 卑近な例でも良いから分かりやすく言ってくれないかい。

A君 そうだなぁ。あっと、そう言えば君はC子さんのことが好きだよね。

B君 えっ。突然なにを言い出すんだい。そっ、そんなことないよ、絶対に。

A君 隠さなくてもいいさ。君のC子さんに対する表情や態度を見ていれば誰でもすぐ分かるよ。みえみえだよ。 

B君 んで、それが何だっていうんだい。

A君 うん。君が好きで好きでしょうがないのは生身のC子さんだよね。

B君 笑顔や仕草がかわいんだよ。

A君 その笑顔が写っている写真のC子さんを見て、君は嬉しそうにしているよね。どうしてだい。

B君 写真の笑顔もかわいからさ。

A君 写真は生身のC子さんじゃないよね。

B君 生身のC子さんじゃないけど、写真の笑顔は生身のC子さんそのものだよ。

A君 C子さんの笑顔や仕草に接したときにある種の感情や思いが芽生え、その笑顔や仕草がその感情とともに記憶されたことだろうよ。感情とともに記憶されたときその記憶は非常に強固なものとなり、感情も会う度毎に深くなり常に意識してしまうほどに強いものになってきたのだろう。そのような状態になったときに写真の笑顔に接すると、C子さんへの感情や思いが写真に触発されてわき上がってくるんだろ。だから写真を見ると、そのときの思いが繰り返される。写真があたかもC子さんであるかのように感じるくらいにね。

B君 まあー、そういうことかな。

A君 それと同じだよ。

B君 つまり、名号や木像・絵像本尊のもつ意味を理解し、その意味に触発されると君の言う根源的本尊への有り難い思いがわき上がってくるということだね。その思いが自然と対象物へと向かうと言うことだね。

A君 そういうことさ。大悲を感受している根源的な思いが中核となり、それに浄土往生決定の思いなどが一体となった思いが日常的につねづね感じられることから、対象物にすぎない名号や木像・絵像本尊でも有り難く思えるんだ。有り難いと思う気持ちが大悲そのものではない対象物にも及ぼされてゆくという心理作用なのだろう。思いの対象が感受している大悲から物体としての対象物へと拡張してゆくと言っても良いと思うんだ。名号や木像・絵像本尊に対する思いは二次的なものであり、かつ拡張されたものだから、この心理作用を「二次的拡張作用」と言っても良いと思う。世間でも坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというじゃないか。この二次的拡張という心理作用は世間でもよく見られる現象なんだ。ここでついでに言っておきたいことは、もともと人が持っている心理作用に大悲を感受する思いが働きかけることはあっても、その思いが心理作用を変質させるものではないということ。仏様の大悲をあらわす物や話や言葉にだけに反応を示すだけ。だから何の害もなく健全で至福でいられるんだ。

A君 安心決定抄には、名号や形像本尊から得られる意味や思いについて述べている箇所があるよね。

B君 ちょっと読んでみるよ。
かるがゆえに念仏の行者、名号をきかば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるが故に」と思うべし。また弥陀仏の形像をおがみたてまつらば「あは、はやわが往生は成就しにけり。十方衆生、往生成就せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵菩薩の成正覚の御すがたなるが故に」と思うべし。極楽と聞かば「あは、はやわが往生すべきところを成就したまひにけり。衆生往生せずは正覚を取らじと誓いたまひし法蔵比丘の成就したまえる極楽よ」と思うべし、とあるよね。

A君 それそれ。

B君 心の内なる大悲への思いがあることによって名号とか極楽という言葉を聞いたとき、我が往生を定めた仏様の大悲が想念され、形像をおがみたてまつらば我が往生を定めた仏様の大悲を憶念するということになるんだね。

A君 そうだね。

B君 それはお聖教を読んでいても同じことが言えるよね。同じような心の仕組みが働いて自然と心に歓喜が多くなるんだね。

A君 そうさ。君がC子さんの写真を見るたびごとに心に喜びがわくようにね。そして大悲への思いがいよいよ嵩じてくれば、さっき言ったように僕が絵師であれば大悲を絵にしただろうし、仏師であれば仏の姿を彫刻にしただろうし、書道家であれば名号を書によって表現しただろう。僕にはそんな能力がないからしないだけだ。それにそうして作った本尊はいつもいつも持ち歩くことができない。胸の内にある根源的な本尊はいつも心で憶念し念仏することができるからそれだけでいいんだ。

B君 そうすると、本尊はいらないということになっちゃうんじゃないか。

A君 そうだね。私には礼拝の対象物となる本尊はなくてもよいよ。根源的な大悲を心で憶念し念仏することで仏の救いは完結しているからね。本尊を持つか持たないかはその人の自由であって往生には関係ない。祖師は総序にもっぱらこの行に奉え、この信を崇めよと言われているよ。この行や信とは感受している如来の大悲の働きとして現れた信や称名のことだが、一言で言えば大悲のことだよ。これに対して本尊は助業のうちの礼拝行に関する対象物だ。助業は助業、往生の正行ではない。本尊は助業として位置づけられるべき問題なのさ。

B君 じゃ、本尊の意味はどこにあるというのかな。

A君 さっき言ったように大悲の思いを喚起するきっかけになり、心多歓喜を得るというところに意味がある。それが助業の本来の意味だ。助業は最勝真妙の正行という仏様の働きの添え物だから力を入れなくてもいいんだよ。

B君 それは信後の人にとっての意味だよね。信前の人にとっては意味あるのかな。A君 仏の大悲を理解するきっかけになるというところに意味があるかも知れないし、心を仏に向かわせることになるというところに意味があるのかも知れない。あるいは理解を超える何らかの自然な働きがあるかも知れないという感覚に身をゆだねることが大悲を領解する縁になるかも知れない。だからおろそかにはできない。B君 信前と信後で意味が違ってくるのかな。

A君 そうだね。大悲への思いを中核とする心の仕組みに働きかけて大悲を感じるきっかけになるものであれば何でも助業になると思う。それは礼拝行などの人の行でなくてもいい。先の心の仕組みを刺激し大悲を偲ぶものになるものは何でも助業になると思うよ。元祖流に言えば念仏を促すものであれば何でも助業になる。助業は最勝真妙の正行という仏様の大悲の働きを感じ受けた上での助業だよ。信前には大悲を感受するということがないから大悲を表す名号や木像絵像は助業にはなり得ない。せいぜい仏縁になったり大悲を感受する縁になるかも知れないという程のものだ。

B君 どうして祖師は本尊を指定されなかったのだろうか。

A君 本尊は信後における助業の地位に位置づけられるからだと思う。仏の救いに直接かかわるものではない。だから御本典において言及されなかったと思う。

B君 大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから、本尊を設置するかどうか設置するとしてもどのような本尊を設置するかは各人の考えに委ねられているというんだね。

A君 うん。そうだね。
B君 最後に本尊を設置するとすれば、名号が最も良いのだろうか。

A君 それは君がいま言ったように、大悲を感受している人の感受の仕方に関わる問題だから何とも言えない。私にとっては一番しっくりと来るのはやはり名号だね。念仏として称えやすいように仕上げられてもうすっかり慣れ親しんでいるからね。また摂取不捨を無疑という心の態度で受けている心の姿は南無阿弥陀仏という姿だという理解の上でも名号が一番なじみやすい。でも、そうだからといって大悲を表す木像や絵像を否定することもできやしない。それは先に述べたように胸の内で無形の大悲を感受している思いを中核とする心の仕組みが人それぞれにあるからね。だから名号でなければならないということはないんだ。木像が有り難いと感じられ る人もいるだろうし絵像が有り難いと思う人もいるだろう。人が感じているところに他人がずけずけと入り込んで大悲を感じ受けている感情を否定することはできることじゃないよ。