1-28.信心定まるとき往生定まる。往生定まるとき信心定まる。

①.御消息に次のような祖師のお言葉があります。
真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚の位に住す。このゆえに臨終待つことなし。来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。

②.往生大要抄に次のような元祖法然聖人のお言葉があります。
ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

この①②を読んでスッキリと理解できたでしょうか。前者には往生の業はでてきません。真実信心の行人についての摂取不捨と正定聚の位、信心と往生決定だけです。真実信心の行人は摂取不捨によって正定聚が定まり、信心によって往生が定まるという理屈です。後者は決定往生のおもいによって往生の業が定まるという理屈です。決定往生の思いがなければ往生の業は定まらず往生不定となります。

いったい真実信心の行者の信心・決定往生の思いと往生決定・往生の業と摂取不捨と正定聚の位とはどのような関係にあるのでしょうか。

まず後者②について
決定往生の思いによって往生の業が定まると言われています。往生の業が定まるとは南無阿弥陀仏の声つまり自分の念仏行が往生の業として定まるということです。念仏が往生の業として定まるかどうかは決定往生の思いの有無次第ということになります。念仏を称えるから決定往生の思いになるというのではなく、決定往生の思いがあるから念仏が往生の業となるのです。信があれば念仏は真実の大行となり、信がなければ念仏は仮の行になると祖師は言われていますが、もともと元祖の教えにあったことです。決定往生の思いになればその当人は往生は決定したとの心情から念仏を称えるとともに往生は決定したと口に出して言うようになります。そして決定往生の思いによって念仏を往生の業であるとの思いが定まるのです。これを「決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり」と言われているのです。このような言い方になる適例として、例えば目の前にリンゴが1つ有るのを見たときリンゴは客観的存在物であるように思えます。そのためリンゴがあると言いますが、正確には脳内にリンゴの像が認識されているだけです。その像は脳内で作り上げられたものです。人類の脳は共通した構造を持っているため同じようなリンゴの像を造ることができますが、昆虫の脳で認識されたリンゴの像はずいぶんと違ったものになっていると想像できます。つまり、私達の認識のそとに認識を離れて映像通りのリンゴが客観的に実在しているとの確証はどこにもありません。脳内のリンゴの像は脳内にあるだけです。脳はリンゴの像を自ら造り出した映像であるとはちっとも思っていないのでリンゴがあるという言い方をしますが、それはリンゴが客観的に存在していると脳が判断し、そのように思い込んでいるからです。これは脳の錯覚の一種です。これと同じようなことがここでも言えます。誰かが「私の往生は定まった」というとき、その人は往生は定まったと思っているので往生は定まったと言っているのですが、あたかも脳の錯覚によってリンゴが客観的に存在しているかのごとく、往生が定まったという言い方になってしまうのです。正確に言うとすれば、往生が定まったとの思いを心に抱いているというのが適当です。だから聞いている方も、あの人は往生が定まったと言っているが、往生が定まったとの思いを持っているのだなとその言葉を脳内で変換して理解するのが適当です。摂取不捨の大悲によって信の決定たる決定往生の思いが生じ、その思いよって念仏が往生の行であると心から大悲を受けとめることができるようになります。これが往生の業がさだまると言われている意味です。決定往生の思いのあるなしによって往生決定、往生不定が決まるので、思い次第ということになりますから、祖師は次に見るように往生の業定まるという言葉は使われず、信心が定まることによって往生が定まると言われています。
以上、信の者の思いというものには決定往生の思いや念仏が往生の行であるとの思いがあります。この思いが生じた理由や証拠について信の者に聞いてみて下さい。大悲があるからとか南無阿弥陀仏が往生の証拠だという回答がされますが、それも大悲があるという思いであり、南無阿弥陀仏が往生の証拠だという思いがあるだけです。どこまでも思いから離れることは出来ません。このように信の者の思いというのは多様な様相を呈します。

つぎに前者①について
真実信心の行人は摂取不捨の故に次生仏となることが定まると祖師は言われました。真実信心の行人ですから、真実の信心をもって念仏行を行じている者ということですが、元祖の言う決定往生の思いとなり、念仏が往生の業であるとの思いが定まって念仏を行じている人のことです。その信心につき祖師は、信心が定まることによって往生が定まると言われています。往生が定まるとは上記のとおり私の往生は決定したとの思いになることです。「信心の定まるとき往生また定まる」とは、信心が定まるとき決定往生の思いまた定まるということです。その信心が定まることと往生定まる思いとは同じ心の状態を指しています。信心とは大悲に対する無疑の心の態度をいいます。大悲は私を往生させるということですから、その大悲に対して無疑になるということは大悲によって往生が定まったという思いになることです。逆に、決定往生の思いには大悲に対する無疑の心があります。祖師が信を上記の多様の思いをもってしてではなく、大悲に対する無疑をもって信であるという理解を示されたのは誠に卓見だと思います。上記に見た多様な思いの根底に共通してあるものは何か、祖師はよくよく洞察されて上記の結論を示されたのだと思います。しかし、無疑の心とそれらの思いとは別々の心ではありません。決定往生の思いは大悲に対する無疑の心から生じている思いであり、無疑の心と一体となった思いです。その他の思いも無疑の心と一体であり、それら全体でひとつの心であると言っても良いかと思います。この決定往生の思いになっていることを祖師は正定聚の位と言われました。信心と決定往生の思いと正定聚の位は同じ心の状態を指しているのです。信は決定往生の思いであり、決定往生の思いに定まった心の状態を正定聚の位というのです。信は即正定聚です。それにしても祖師が信とは無疑であるという論述を教行信証に残されていなければ祖師の亡き後真宗内で信を巡って激しく紛争が勃発し、その対立の結果、真宗はさまざまに分裂していたであろうと思います。ここに祖師の偉大さが伺われます。

さて決定往生の思いになる理由について焦点をあてて明確にその理由を理解しておかなければなりません。焦点をあてるべきは摂取不捨の大悲です。この大悲を抜きにして決定往生の思いになることはありません。念仏を称えることが往生の行であると深く信じると言っても、念仏を称えることが大悲に順じることであると大悲を直に受け入れなければ始まらないのです。大悲は私を浄土に生まれさせるという事につきてしまいます。その大悲は私が感じ受けられるように私に向けられているですから、向けられている大悲をただ感受するばかりです。大悲に思いを向けようと心を仕向けることなく一方的な大悲をただ感受するばかりです。往生は大悲たる仏様が既に定めて下さいました。ですから仏様の心においては私の往生は既に一定となっているのです。ここが理解され心情において受けとめることができれば決定往生の思いが定まり、このとき信心は定まります。仏様の心において私の往生は決定であると理解し、そのように心情として受けとめられるかどうかという所が要です。元祖が言われるように罪悪の有無や軽重は関係がないのです。また善行に励むことも関係ありません。これを明確にされた元祖に敬服するばかりです。

冒頭に「信心定まるとき往生定まる。」と並んで「往生定まるとき信心定まる。」と書きました。信心も決定往生の思いも同じ心の状態を指した言葉ですから、「信心定まるとき往生定まる。」といっても「往生定まるとき信心定まる。」といってもどちらも真です。