4-12.こだわるところが間違っている。 未信の者がこだわり、信の者がこだわらないこと 信の者がこだわり、未信の者がこだわらないこと

未信の者がこだわるのは「わかりたい」「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」ということですが、信の者はそういったことに対するこだわりはまったくありません。未信の者がこだわるべきなのにこだわらないのは大悲への理解です。大悲への思いがないために大悲を理解しようとの思いが不足しているのです。

 

信の者がこだわることと言えば、例えば善を求めなければ信は得られないとか、三願を転入しなければ信は得られないなどと言われると「バカなことを言うものじゃない。大悲とはそういうものではない。」と強く反発します。これが信の者のこだわりです。信の者には大悲が見えているので、信はそういうものではないことが理屈抜きで体感で分かっています。信に関する誤った主張に対して信の者が批判するに際しては聖教の文をその批判の根拠にしますが、実のところは、大悲の救いを実感しているところと違うことを言われるとその違いを敏感に感じるのです。だから、間違いだと即座に判断できるので、その間違いにこだわってしまうのです。聖教の文はその体感していることを都合よく書いているので利用しているに過ぎません。実感していることがまさに聖教に書かれているから、そのような利用ができるのです。これに対して未信の者には大悲が見えていないので「救われたい」「信が欲しい」「後生の不安を解決したい」とこだわっていること自体が間違いであることが分からないのです。信の者には大悲が見えているが故のこだわりがあり、未信の者には大悲が見えないが故のこだわりがあるのです。