3-19.会話編 執持鈔を通じて-仏にまかせることと決定往生の思い

執持鈔二章

 往生ほどの一大事凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず・・まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちからにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふべきなり。されば、われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。

 故聖人、黒谷源空聖人の御ことばなり の仰せに「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。このたびもし善知識にあいたてまつらずば・・われ地獄に堕つるといふとも・・・善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。・・・生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず・・。善悪の生所わたくしの定むるところにあらずということなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

 

A君 上記に「われとして・・定むべからず」「わたくしの定むるところにあらず」「わたくしの定むるところにあらずということなり」と三度にも亘って私が往くべき所を「私が定めるものではない」と強調されているよね。この「私が定めるものではない」とはどういうことなんだろうね。

 

B君 私は悪業を造っているから地獄に堕ちると勝手に決めてはならないし、善行をしたから極楽に往けると勝手に決めてはならないという意味だよね。

 

A君 元祖は決定往生の思いによって往生は決定すると言われているけど、どうして自分の行く先を自分で決めてはいけないというのかな。

 

B君 仏様の大悲を聞きながら自分の行く先を自分が決めるのは自力の計らいになるからだね。これを上記の一行目に「凡夫のはからふ」とか最後の方に「自力」と言われているよ。

 

A君 もう少し丁寧に説明してよ。

 

B君 仏様の大悲は私を浄土に生まれさせるというものなのに、私は悪業を造ったから地獄に堕ちると思うことは、その大悲に背いて大悲を無駄にしていることになるよね。悪業を造ったから地獄に堕ちるとの思いは、仏様から見たら仏様の大悲を無視した自分勝手な思いとなる。だから、仏様の立場から見たら自力の計らいとなるんだ。

 

A君 うん。じゃあ善行をしたから極楽に往けるという思いはどうなんだい。

 

B君 それも自分の勝手な計らいになるよ。仏様が為すのと同じような真実の善であるならば浄土にも往けようが、凡夫が善行をしたからといって浄土に往けるということはないんだよ。仏様の大悲によらなければ浄土には往けないのに、凡夫のなす善で浄土に往けるとの思いを持つことは、その大悲によるのではなく、自分の善行をあてにして浄土に行こうとしているのだから、せっかくの大悲をないがしろにしにしてしまうことになるんだ。だから仏様から見たら大悲に反した勝手な計らいになる。

 

A君 つまり凡夫の善人悪人というものは、仏様の目から見たら大差はないということかな。

 

B君 自力で浄土へは往けないという点では、大差はないというのではなく、全く差はないというべきだね。全く差はないのに善を頼りにしたり、悪がやまらない自己を卑下したりして浄土に生まれる事ができないなどと考えることは、ともに大悲をないがしろにする思いだから、凡夫の浅智による愚かな自力の計らいという事になるのさ。

 

A君 そう言われても、自力で計らう思いを自ら離れることが出来るのだろうか。確かに、そのような思いが捨てられたならば自力を捨てて他力に帰する姿になるのだろうが、それは自分の力では無理なことだよね。そのように無理なことを覚如上人は言われているのだろうか。

 

B君 他力に帰するというところがポイント。他力というのは仏様の御力のこと。他力に帰するというのは自分の力で他力に帰するということじゃないんだ。自力は自然と廃るものであって自分の力で捨てることができるものではないんだ。浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしの力にあらずと言われているだろ。

 

A君 ほうほう。わたくしの力じゃなければ何の力なんだい。

 

B君 それが如来の御力といわれているものだよ。わが身とわが行き先を仏様にゆだねると仏様の力によって自分の行く先が決まるということだよ。私の行き先は私ではなく仏様が決めることなんだね。仏様の力によって行く先が決まるというのは、仏様の力によって行く先が決まるという思いになることだ。

 

A君 うん。じゃわが身とわが行き先を仏様の力にゆだねているとの思いになったら、自分の行く先は地獄でもなく浄土でもなく不定ということになのかな。

 

B君 そうじゃないよ。仏様の力によって行く先が決まるとの思いになったら「浄土の生まれがたきを一定と期する」ということになるのさ。これは元祖が言われている「決定往生の思い」のことなんだ。

 

A君 じゃ詰まる所、浄土へまゐるべしともまた地獄へゆくべしとも定まらないのではなく、浄土往生は決定と思いが定まるということなんだね。

 

B君 そうだよ。

A君 それじゃ、覚如上人にも往生決定の思いがあったということなんだね。

B君 そうだね。

A君 覚如上人に決定往生の思いがあったことは、どの文で分かるのだろうか。

 

B君 「浄土の生まれがたきを一定と期する」というところかな。

 

A君 正確にはそれは祖師のお言葉として引用しているものだね。よく読むと分かるよ。覚如上人はその祖師のお言葉を引用され結論として「これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。」と言われている所から覚如上人にも同じ「浄土の生まれがたきを一定と期する」思いがあったということになるだろうね。

 

A君 執持鈔五章には「もし弥陀の名願力を称念すとも往生なお不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す。往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆえに臨終にふたたび名号をとなへずとも往生をとぐべきこと勿論なり。・・しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」って書いてある。「往生の業すでに成弁する」「往生をとぐべきこと勿論なり。」「平生のとき不定の思いに住せばかなうべからず。」というところが覚如上人の思いが述べられている所だね。  

 

A君 「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも定むべからず。」と言われながらどうして「往生をとぐべきこと勿論なり。」ということになるのだろうか。

 

B君 それはね、浄土に生まれさせるという大悲があるからなんだよ。そのような大悲を無疑で感受しているから往生決定の思いとなるのさ。他力に帰するとは仏様の願いを受け入れてその力にわが身とわが行き先をゆだね、往生は決定との思いになるという事だよ。

 

A君 じゃ君は確実に間違いなく浄土に往けると考えているのかい?

 

B君 自分の理性では浄土に往けるかどうかは分からない。が、しかし他方では往生決定の思いがあるんだよ。不思議だね。どうしてそうなるのだろうか。

 

A君 理性とか悟性というのは、脳の機能のうち認識した事実や経験則などを根拠として論理的に推論して予測や判断する知的機能のことだが、確信というのはそうした悟性によって得られた予測や結論の確かなことを指している言葉だと思うんだ。根拠や推論の確からしさが誤りようがないという程度にまで達したとき人はそれを確信したと言うのだと思う。そのような悟性で浄土に往けると考えているのが往生決定の思いじゃない。往生決定の思いは悟性ではなく、別の何か、言うなれば感性とか情を司っている脳の機能ないしは心が大悲を感じ受けているのだろう。だから、君のように「悟性では浄土に往けるかどうかは分からないが往生決定の思いがある。」ということになるのだろうね。

 

B君 ここが他力の信の面白い所であり、分かりにくい所なんだろうね。

 

A君 そうなんだ。往生決定の思いを確信というには違和感がある。それは浄土へ往ける根拠や推論の確からしさが誤りようがないというほどに明確になったというものではないからだ。しかし、往生決定の思いがないのでもない。往生決定の思いはある。往生決定の思いには悟性による確からしさというものはないが、往生は決定と感じられるものなんだ。

 

B君 決定往生の思いの根拠をいうのであれば、大悲があるからということになるだろうね。

 

A君 そういうことだね。大悲があるというのが根拠だとしても大悲はあると何故言えるのかと問われると、自分がそう感じているからとしか言いようが無くなってしまう。それが大悲を無疑で受けているということだよ。他力の信を無根の信という理由はここにあるんだろうね。

 

B君 覚如上人はひとすじに如来にまかせたてまつるべしと勧めているが、如来にまかせたてまつれば、「浄土の生まれがたきを一定と期する決定往生の思い」になると覚如上人は言われていると理解しても良いよね。

 

A君 そう。結局は元祖と同じことを言われているんだ。そのことは執持鈔五章の先の文からも分かる。他力の信とは単に如来にまかせたということではないんだ。如来にまかせれば必ず往生決定の思いが生じる。決定往生の思いがなければ如来にまかせたことにはならないんだよ。

 

B君 つまり祖師は無疑をもって真実信とされたけど、それは本願の三心のうちの信楽という語を根底に据えて信を解釈されたという事であって、欲生を真実信から除外ないし無視されたのではないということだね。

 

A君 そうさ。決定往生の思いは本願の三心の一つの欲生だ。無疑たる信楽と欲生たる決定往生の思いとはもともと分離不可能な一つの心なんだ。無疑の信を欠いた決定往生の思いはないし、決定往生の思いの生じない無疑の信はないのだよ。天親菩薩が一心と言われたように信楽と欲生とはもともと一心なんだよ。

 

B君 じゃ祖師が浄土往生は決定と言われずに、「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所わたくしの定むるところにあらずといふなり。」と言われているのはどういうことなんだろうか。

 

A君 祖師には決定往生の思いがありつつも、地獄に堕つる身という根強い思いがあったのだろう。

 

B君 つまり?

 

A君 「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いどころか、祖師には「地獄に堕つる身」という根深い思いがあり、この思いと対峙しなければならなかった。祖師はこの思いをどのように受けとめて理解したら良いのか、ハタと考え込まれたのだろうと想像できる。往生は決定したとの思いが生じたことによっても消え去る事がなかった地獄に堕つる身という思いについて祖師が出された答えが、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」と言われた源空聖人の仰せに信順し、「とたしかにうけたまわりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまいらすべしとおもふなり。」ということだったんだよ。そして「われ地獄に堕つるといふとも・・・悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり」という結論に至ったんだね。

 

B君 つまり?

 

A君 「源空があらんところへゆかんとおもはるべし。」との源空聖人の仰せに信順した思いとしてご自身の心の中に「たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」がかたまり、それでよしという思いになられたんだ。この思いは決定往生の思いが大悲に対する信順無疑の心から生じる思いであるのと同じように、元祖の仰せに対する信順無疑の心から生じた思いだ。祖師は元祖を阿弥陀仏の化身と思われていた事から元祖の仰せは阿弥陀仏の仰せであると受けとめて信順していたんだよ。

 

B君 大悲に対する信順無疑の心から生じる思いは決定往生の思いだけでじゃなく、わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねた、ないしゆだねているとの思いや元祖や祖師と同じ所に参らせていただくという思いなど多様な思いが生じるんだね。

 

A君 そう。そして、それらの多様な思いはすぐに浄土に往生できるとの思いに収斂していくんだが、再び「浄土に往けるかどうかは分からない」という思いや「地獄に堕つる身」という思いが繰り返し生じたときでも、「わが身とわが行き先を仏様の大悲にゆだねている」という安堵感やわが行き先は仏様が生まれさせると言われている浄土であるとの思いで心が満たされるようになってゆくんだ。信の者はこのような思いを胸に抱えている事から、祖師は「故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとのおもひ」になっていたんだよ。

 

B君 「善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらん」というお言葉はそうした思いの中から出てきたお言葉なんだね。

 

A君 祖師のこのお言葉をわたくしなりに言い換えると、「仏の仰せにすかされたてまつりて悪道へゆかばひとりゆくべからず。仏とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、仏の生まれさせんと仰せられるところへまゐるべし」と言い換えることができる。これは大悲に対して無疑となっている事から生じる大悲と私とは一体であるとの思いなんだが、これと同質の思いが、私の行く先が地獄であろうとどこであろうと元祖の往かれた所と同じ所に参らんという思いなんだろうと思われるんだ。ここに祖師は心の落ち着き所を見いだされたのだと思う。それで「生死のはなれがたきをはなれ浄土の生まれがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。」と祖師は言われ、「浄土往生は一定と期」されていたんだ。往生一定を期するとは一つに定まった往生を期する思いのことで、決定往生の思いのことだ。

 

B君 覚如上人はこの祖師のお言葉に、自力が廃って他力に帰した姿とはそうした姿であると言われたんだね。

 

A君 そう。善悪の思いに囚われることなく、ただ仏様の御力にまかせて決定往生の思いに住している事を自力が廃って他力に帰した姿になったというんだ。