3-21.論考 ある白道解釈 プラス 会話編

 以下において論評の対象にする白道解釈は次の引用文である。この引用文はある真宗系を自称している団体のホームページ(平成31年1月10日現在)からそのまま転載したものである。

 阿弥陀仏は、「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」と命を懸けてお約束なされている。ではどうすれば絶対の幸福に救われるのか。阿弥陀仏は「聞く一つで救う」と約束されているとお釈迦さまは明かされている。親鸞聖人も蓮如上人も、善知識方は一貫して 「仏法は聴聞に極まる」と教えられている。だが、どれだけ根拠を挙げられても、「この世で無上の幸せになるのに、本当に聞く一つでいいのだろうか?」と頼りない気がするのが実態ではなかろうか。そんな私たちに少しでも分からせようと、親鸞聖人が仏の化身と仰がれる善導大師は、二河白道の譬えで教示されている。「二河」とは火の河と水の河。その間に「白道」が向こう岸(彼岸)へと延びている。彼岸は極楽浄土、此岸は、私たちの住む娑婆世界である。この世のどんな道も「死ぬまで求道」だから、苦しみに終わりはない。やがて必ず死ぬ時が来る。いつまでも此岸にはいられないのだから、釈迦は「彼岸に向かって白道を行け」と勧められる。「白道を行く」とは、「阿弥陀仏の本願を聞く」ことである。ところが白道(聞法心)の幅は、四五寸と極めて細い。そのうえ、水の河と火の河の波が逆巻いて、常に白道を覆い隠してしまう。水の河とは欲の心である。私たちは欲の塊だから、順境には欲に溺れて仏法が聞けない。欲が邪魔されると腹が立ち、逆境には怒りの炎が、白道を焼き払う。進めば進むほど、水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも、果たして白道は向こう岸まで届いているのか、どうかも分からないから、「本当に聞く一つでいいのだろうか」と、善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。水火の波が細い白道を覆い隠す不安な時に、群賊が現れるから、なかなか仏法は聞けなくなるのである。その中を、此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。その弥陀の呼び声が聞こえた一念に、私たちは絶対の幸福に救われるのである。絶対の幸福に救われれば、水火の二河はそのまま煩悩即菩提と転じて、浄土へ向かう明るい白道となるのだ。この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。頼りない気がするのは、いまだ弥陀の本願を聞信していない証だから、水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと、善導大師は教導されているのである。

-引用終わり-

 

論評に入る。

 上記の引用文の趣旨を要約すれば次のとおりである。

①.阿弥陀仏は聞く一つで絶対の幸福に救うことを約束しているのだから、釈迦も

善知識方も真剣に聞くことを勧めている。

②.真剣に聞いてゆけば群賊が現れて聞法を邪魔する。

③.それに打ち勝って真剣に聞法してゆけば弥陀の呼び声を聞くことができる。

④.弥陀の呼び声を聞けば絶対の幸福になれる。

 

 これらを柱とする上記の引用文は、同文の最終行に述べられている結論のように「阿弥陀仏の呼び声を聞いて絶対の幸福に救われるためには真剣に本願の本末を聞きなさい。」ということを大テーマとし、この大テーマの下に善導の二河譬を援用してその二河に挟まれた白道を聞法心の事だとか、絶対の幸福に救われればこの二河は煩悩即菩提と転じて浄土に向かう白道になるとしている。しかし、これらのテーマは善導の二河譬のテーマとはまったく異なる。上記引用文は善導の二河譬のテーマとは異なる大テーマの下で論旨が展開されているので全体として二河譬とはまったく異なるストーリー展開に改変されている。それに伴い、白道や群賊の語句に異なった意味を付与している。上記引用文は善導の製作テーマや元祖らの釈とは異質であるから、以下この引用文を「本異釈」と略称する。

 以下において、元祖の釈などと異なる重要な点を簡単に列挙する。最初に善導の二河譬のテーマと本異釈のテーマの違いについて摘示する。その際に善導の二河譬を便宜上、前段と後段の2つに区分する。人が三定死に到り着くまでを「前段」とし、三定死ののち二尊の発遣と招喚を受けて白道を歩み出して浄土に到り着くまでを「後段」とする。以下「譬喩前段」とか「譬喩後段」と略称する。善導の譬喩については浄土真宗聖典第2版分冊七祖編466頁・観経疏上品上生釈回向発願心釈に出ているので、直接、原典で確認する事をお願いしたい。なお、この点に限らず原典が出版され入手が容易なものは必ず原典で確認するという態度が大事である。この態度が嘘や虚言による宗教心理的拘束状態からわが身とわが心や家族を護る盾になるから、必ず、原典で確認する事をお願いしたい。

 

異なる点その1-テーマと白道の語句の意味の違い

 本異釈は「この二河白道の譬えからも、善知識方の教えは聴聞の一本道であることは明らかである。・・・水火の難を突破して、真剣に弥陀の本願の本末を聞きなさいと善導大師は教導されているのである。」と結論を述べている。

 しかし、二河の譬喩は前段も後段も聴聞の一本道を教え勧めたものではない。また、聞法心とか絶対の幸福に救われれば二河がそのまま煩悩即菩提の白道になるということをテーマとしたものでもない。なお本異釈では弥陀の呼び声を聞いた後の白道とは絶対の幸福のことであるのか、二河が煩悩即菩提となってこれが白道になるのか判然としないが、両者のことであると理解しておく。

 さて善導は「マタ一切ノ往生人等ニマウサク、イマサラニ行者ノタメニ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテモッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン。」と述べて譬喩を説き始めている。ここに譬喩を製作した善導の意図が明確に示されている。祖師は愚禿抄下巻に「二河ノナカニツイテ一ツノ譬喩ヲ説キテ信心ヲ守護シテ、モッテ外邪異見ノ難ヲ防ガン」と善導の製作意図をキチンと押さえている。善導の製作意図は二尊が他力信心を群賊から守護する様相を表すことにある。他力信心は願力の白道として浄土に至り着くまで二尊によって守護されており、念仏往生の願生者は外邪異見の難に陥ることがない様相を表す所に善導の製作意図があり、これが善導の設定した二河譬喩のテーマである。善導の製作意図であるテーマと本異釈のテーマは明らかに異なっている。

 この点をもう少しつぶさに検討する。

 まず譬喩前段のテーマは凡夫には諸行往生に必要な至誠心が欠けているので凡夫往生はできないという事、譬喩後段は凡夫にとって弥陀の願意を聞くことが唯一の浄土往生の方法であり、この方法は自力が介在せずまったくの願力によるので聞がそのまま信となる信心が願力によって守護されているという事である。この各テーマに即して譬喩では異なる2つの白道が登場する。1つは諸行往生に必要な至誠心たる願生心を白道とし、2つは弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心を白道とする。前者の白道は至誠心の欠如によって潰えてしまい人は東岸に立ちすくんでしまい三定死に陥る。人はこの白道を進むことができない。これは凡夫の至誠心を用いた諸行往生は不可能であることを教えたものである。これが譬喩前段のテーマである。後者の白道は三定死を覚悟したのち人が二尊の発遣と招喚を受けてはじめて進んでゆける白道であり、この白道が浄土に一直線に繋がっている。善導は合釈において「アルヒハ行クコト一分二分スルニ群賊ラ喚バヒテ回ストイフハスナワチ別解・別行・悪見人等妄リニ見解ヲ説キテタガヒニアイ惑乱シ、オヨビミズカラ罪ヲ造リテ退失スルニ喩フ」と解説し、釈迦や弥陀はこの白道を群賊から守護している様相を述べている。これが譬喩後段のテーマである。この前段と後段の2つのテーマを対比すれば、凡夫の至誠心たる願生心は二尊によって守護されておらず、弥陀招喚の願意を聞くことによって生じる他力信心は二尊によって守護されていることが分かる。

 元祖は前者の白道を「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル」とし、譬喩後段の白道を願力の白道と釈している。昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「三心料簡事」の白道事において元祖は2つの白道について次のように述べている。①「雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」②「次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。」

 祖師も前段の白道を願力の白道と区別し、「自力小善の路」などと言われている。 教行信証真実信巻には「眞ニ知ンヌ 二河ノ譬喩ノナカニ白道四五寸トイフハ白道ハ、白ノ言ハスナワチコレ選択摂取ノ白業 往相回向ノ浄業ナリ 黒ハスナワチコレ无明煩悩ノ黒業二乗人天ノ雑善ナリ 道ノ言ハ路ニ対セルナリ 道ハスナワチコレ本願一実ノ直道 大般涅槃無上ノ大道ナリ 路ハスワハチ二乗三乗万善諸行ノ少路ナリ 四五寸トイフハ衆生ノ四大五陰ニ喩トフルナリ 能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ 本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ コレヲ金剛ノゴトシトイフナリ」(浄土真宗聖典第2版1の244頁三一問答法義釈欲生釈・カタカナ表記に変換)。愚禿抄下巻には「群賊悪獣トハ群賊トハ別解別行異見異執悪見邪心定散自力ノ心ナリ 悪獣トハ六根六識六塵五陰四大ナリ」「白道四五寸トイフハ白道トハ白ノ言ハ黒ニ対ス 道ノ言ハ路ニ対ス 白トハスナワチコレ六度万行定散ナリ コレ自力小善ノ路ナリ 黒トハスナワチコレ六塵四生二十五有十二類生ノ黒悪道ナリ」「能生清浄願心トイフハ無上ノ信心 金剛ノ真心ヲ発起スルナリ コレハ如来回向ノ信楽ナリ」とされている(同536頁・カタカナ表記に変換)。

 元祖のいう「願力の道に乗じる」というのは二尊の意に信順することである。願力の道は他力信のことである。この願力の白道はそのまま祖師に承継され、選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業とか本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道とされ、この大道については能生清浄願心トイフハ無上ノ信心・金剛ノ真心・如来回向ノ信楽ナリと表現されている。これに対して、雑行中ノ願往生心という白道については万行諸善の小路とか自力小善の路と名称を改められている。二河譬で行き詰まる白道と二尊によって守護されている白道を善導が対比されていることが、元祖が選択本願念仏集において「余行をもって往生の本願としたまわずただ念仏をもって往生の本願としたまえる」と述べる理由となっているし、祖師が念仏諸善比校対論において有願・無願対とともに護・不護対を挙げる理由ともなっている。諸行は二尊による守護を受けられない非本願・無願・不護の行であり、念仏は二尊の守護を受ける本願・有願・護の行とされているのである。このように元祖や祖師は善導の製作意図を正確に理解され、より明確に表現された。これに対し、本異釈では譬喩前段の白道を「聞法心」に改変し、譬喩後段の白道を絶対の幸福とか、絶対の幸福になれば二河は煩悩即菩提の白道になるなどと改変し、本来の意味を変更してしまっている。善導と元祖らの釈とはまったく異質なものである。譬喩前段の白道は聞法心ではないし、同後段の白道は絶対の幸福などではない。

 元祖が白道と言われているのは上記①の雑行中の願往生心をもって往生する方法と同②の仏の願力をもって往生する方法の2つであるが、白道とは阿弥陀仏誓願に定められている阿弥陀仏の浄土に生まれるための浄土往生の方法、言い換えれば、弥陀の浄土への生因のことである。弥陀の誓願には十九願、二十願、十八願の三願があり、それぞれ特有の生因が規定されている。生因はいずれの願においても行と信から構成されている。上記①の方法は十九願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば前段の白道である。凡夫ながらの至誠心をもって諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ事を生因とする。十九願には菩提心を発し諸々の功徳を修して至心に発願して我が国に生ぜんと欲せんとある。元祖はこの白道は貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セラレルとする。だから祖師はこの道を万行小善の小路、不護などとされた。上記②の方法は十八願に定められている生因である。二河の譬喩で言えば後段の白道である。その十八願の生因とは十七願にその成就が誓われている南無阿弥陀仏の御名そのものを凡夫の信行とする生因である。この御名が弥陀の悲心招喚である。この招喚を受けて生じたのが他力の信であり、この信が願力の白道である。十八願には至心信楽して我が国に生ぜんと欲して乃至十念せんとある。十七願の南無阿弥陀仏が十八願の信となり行となったことをいう。元祖が火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとされる白道とは、この願力による浄土往生の生因のことである。南無阿弥陀仏が信になるとは摂取不捨を表す阿弥陀仏に信順(南無)することであり、南無阿弥陀仏が心の心相になったことを至心・信楽・欲生我国の三信というのである。南無阿弥陀仏が行になるとはその信に伴って念仏申すことである。元祖は専修正行ノ人の願力ノ白道は火焔水波ニヨリ損セラレルことがないとしているが、元祖の言う専修正行ノ人とは弥陀の悲心に信順して念仏を称えている者のことである。十八願の生因がその人に具現している者のことである。この南無阿弥陀仏の信行はいずれも願力たる南無阿弥陀仏によって生じた生因であり、南無阿弥陀仏そのものであるから貪嗔水火ノ難に害されることがない願力の白道とされるのである。だから祖師は真実信巻において、この白道を白ハ選択摂取ノ白業・往相回向ノ浄業、道ハ本願一実ノ直道・大般涅槃無上ノ大道ナリとしつつ、その大道を能生清浄願心トイフハ金剛ノ真心ヲ獲得スルナリ。本願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと明示されたのだ。祖師が上記①の方法を小路などと表現を改め、願力の白道と区別されているのは①の方法は仮の方法であるのに対して、②の方法が真実の生因であることを明確にするためである。仮とは正しい浄土の生因ではないことを表している。浄土への生因には真と仮があるので、それに対応した願にも真と仮がある。祖師は十八願を真実の信願、十七願を真実の行願とされているのに対して、十九願を仮の願とされている。それぞれの願にはそれぞれの生因が別々に定められているが、それらの生因はいずれの願においても行と信から構成されるものである。元祖が本願・非本願、祖師が有願・無願対とともに護不護対を挙げるのは、十九願の仮の生因と十八願の真実の生因を対比されて言われたことである。ところが本異釈でいう聞法心とか絶対の幸福などという代物は十九願にも十八願にもない異物である。いずれも十九願や十八願の生因の信行ではない。聞法については二十願に「我が名字を聞きて」とあるが、それは念仏を行じる基底となるものであり、二十願の願意を広説した阿弥陀経には執持名号一心不乱若一日乃至若七日とあるので、二十願の生因は執持名号一心不乱の不断念仏行である。絶対の幸福というものは行でも信でもない。得体の知れない意味不明の抽象概念に過ぎない。また、煩悩即菩提も真実の信行とはされていない。

 重ねて強調しておくが、元祖は譬喩後段の白道を願力の白道と言われているが、これは十八願の至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる信と行を生因とするものである。この真実の信行を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置き換える事には賛同しかねる。絶対の幸福などでは往生の生因が何であるのかまったく分からなくなってしまうからである。そもそも阿弥陀仏の十八願は絶対の幸福に救うとか煩悩即菩提にさせるという誓願ではない。至心・信楽・欲生我国の信をもって乃至十念の念仏を行じる者を浄土に生まれさせるという誓願である。その生因たる信行はともに十七願にその成就を誓われた南無阿弥陀仏がそのまま凡夫の信行になったものである。念仏を行じる者の自力は一切介在しない。この願力たる生因は南無阿弥陀仏そのものであると明示するところに真宗の至極があるのに、その生因を絶対の幸福などと言い換えることはその至極を失わせるばかりか、信の味わいにも合致していない。

 

異なる点その2-群賊の意味やストーリーの展開の違いなど

 次に、本異釈では自力の聞法心を励ますために次のように説く。「私たちは欲の塊だから順境には欲に溺れて仏法が聞けない。・・逆境には怒りの炎が白道を焼き払う。進めば進むほど水火の波は激しく白道をかき消し、欲や怒りの煩悩が聞法を妨げる。しかも・・本当に聞く一つでいいのだろうかと善知識方の教えであっても頼りない心が出てくる。そんな心に付け込んで現れるのが群賊である。「なぜそんな危ない道を行くのだ。手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。・・その中を此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている。断固その道を行けとしている道とは聞法心のことである。

 この本異釈は善導の譬喩における群賊に聞法心を妨害する者との意味を与えているが、譬喩前段や同後段の群賊の意味とは異なっている。しかも群賊の登場と聞信との順番を前後逆にしている。さらに本異釈は白道を進んでいる途中の者に「弥陀の呼び声が聞こえる」というストーリーを登場させているが、二河の譬喩にはそのような出来事は登場しない。

 まず、群賊の意味に違いがある。

 二河の譬喩では群賊は二回登場するが、いずれにも聞法心を妨害するという意味はない。そもそも譬喩前段の白道は至誠心のことであり、同後段の白道は十八願における生因たる真実の信行のことである。いずれも聞法心ではないからそこに登場する群賊に聞法心を妨害する者という意味は出てこない。最初の群賊は譬喩前段に登場するが、譬喩前段では群賊悪獣によって身を滅ぼされてしまうことを怖れた人が浄土往生を目指し、浄土に諸行を回向して西方に向かおうとするのであるが、煩悩のために往生に必要な至誠心が損なわれて、この人は三定死の状態に陥る。善導の合釈では「群賊悪獣詐り親しむ」とは衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩えるとされている。聞法心を邪魔する者という意味はない。次に出てくる譬喩の群賊とは譬喩後段の二尊の発遣と招喚を受けたのちに登場する群賊である。弥陀の悲心招喚に信順し諸行を廃し念仏行者として願力の白道を歩み始めたのちの異見・異解の者からの呼び戻しを群賊としている。この群賊とは念仏往生とは異なる異見・異解の者達のことである。譬喩後段のテーマは、既に願力の白道を進んでいる者の他力信は二尊によって群賊から守護されているので、その信を損なわせるものは何一つとしてないことを表すことにある。譬喩後段の群賊を具体的に想定すると、聖道門を離れて浄土往生を目指す人には聖道の者からの呼び戻しがあり、浄土門に入り念仏往生を目指すと聖道の者や諸行往生の者からの呼び戻しがあり、真実信心による念仏往生の者には聖道の者や諸行往生の者や自力念仏の者からの論難がある。善導はそれらの者から論難を受けても二尊による守護を受けているので真実信心は破壊されないということを譬喩後段のテーマとしているのである。善導はすでに観経疏上品上生釈深信釈において「解行不同の人」「地前の菩薩ら」「初地以上の十地以来」「化仏・報仏」の四重の破人が真実信心の念仏行者を論難して真実信心を破壊しようとしても破壊されないことを述べていた。そのため祖師は、譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえている。これは祖師が二河に挟まれた白道を人が歩んでいることを解釈するあたり上記の善導の深信釈にある四重の破人を意識したものであり、その破人によっても願力の白道たる他力信は破壊されず金剛の真信であると指南されたのである。しかし、本異釈では自力の聞法をする者に対して聞法を妨害する者として群賊を登場させて改変している。また次に見るように本異釈は、譬喩後段に登場する弥陀招喚を聞いて歩み出した信心の行者に対して呼び戻す群賊を登場させていないのである。

 次に、前後逆の違い。

 善導の譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて白道を歩み始め、そののちに東岸の群賊が呼び戻したとある。群賊の登場は弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前に群賊を登場させ、それを聞いたのちには群賊を登場させていない。群賊の登場と弥陀の招喚を聞く出来事が前後逆になっている。このように群賊の登場を逆にしたことには2つの問題がある。1つは上述したように、譬喩後段の最も重要なテーマを完全に消去した点である。善導の二河譬のテーマは、二尊が群賊からの論難から他力信心を守護しているので他力信心は四重の破人によっても破壊されず浄土にまっすぐに向かっているということにあった。祖師が譬喩後段の白道を願力回向ノ大信心海ナルガユエニ破スベカラズ。コレヲ金剛ノゴトシトイフナリと押さえられているこの譬喩のテーマを意図的に消し去ったのである。2つめの問題は、弥陀の悲心招喚の前に群賊を登場させ、その群賊の呼びかけに対抗して「此岸の釈迦は「断固その道を行け」と専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される。」としている点である。これにより聞法心という自力の白道を行けと二尊が勧めているという意味に変えてしまった。しかし、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧めるものではないし、群賊の呼び返しに対抗するためのものではない。本異釈は、群賊によって白道たる聞法心を妨害されてはならないと戒める目的に合わせて出来事の順序を変え、かつ、二尊の発遣と招喚は自力聞法を勧める趣旨へと改変してしまっているのである。しかも本異釈では群賊は「手っ取り早く助かる道を教えてやる。おまえは騙されているのだ。戻れ戻れ」と呼び止める。」としている。ここから、本異釈では、群賊に自分の団体で聞法することを妨げる外部の者に異安心者との意味を与えて本来の意味を変えてしまっているように推察される。先に述べたとおり、譬喩後段の群賊とは他力信心を破壊しようとする四重の破人のことであり、聞法を妨げる者という意味はもともとない。

 次に、三定死を登場させない違いがある。

 譬喩には三定死の状態に陥った人が「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになった直後に弥陀の悲心招喚を聞いて二河に挟まれた白道を歩み始めたとある。白道を歩み始めたのは三定死ののち弥陀の悲心招喚を聞いたあとのことである。これに対し、本異釈では釈迦の発遣と弥陀の悲心招喚を聞く前から聞法という白道を歩み始めたことになっており、三定死を登場させていない。聞法心という白道が途切れるのではなく、そのまま続いていることになっている。群賊が「戻れ戻れ」と呼び止める。」と記述している事からもそれが分かる。しかし、自力の思いが完全に行き詰まるという意味での三定死がある。それは、自力と願力の白道が完全に断絶していることから生じる苦悩である。私の浄土往生の生因は南無阿弥陀仏として成就されている仏の一方的な慈悲を私達が聞き入れるしかない。これ以外に私に残されている浄土往生の方法はない。聞法心という自力を励ますことと仏からの一方的な慈悲とは相容れない。十七・十八願力は私の自力の思いを受け入れることはないからである。そのため両者は完全に断絶しているのである。聞法心をいくら励まして真剣に聞いても、その真剣さのゆえに願意を聞き入れることには繋がらない理由がここにある。自力は捨て物であると言われるゆえんである。本異釈はこれに反して聞法心という自力を励ますことを勧め、自力の思いに三定死があるという点を完全に無視している。自力の思いの故に行き詰まるということを教え、その自力の思いとはどういうもので何が問題であるのかを分かるように説明しなければ自力と他力の分斉を説いたことにはならない。本異釈の重大な問題点はこの点にもある。

 

 以上、本異釈は、善導の製作意図とは異なる意図の下に、譬喩前段にある至誠心たる願生心という諸行往生の生因たる白道とはまったく異なる聞法心を至誠心になし替え、譬喩後段にある十八願の生因を願力の白道とはまったく異なる絶対の幸福などという異物に置換したことで元祖や祖師の釈とは異なる解釈や意味を二河譬に与え、全体として二河譬とは全く異なった別の造り話を創作したものといえる。テーマの設定からストーリー展開や語句の意味に至るまで、ことごとく異なるものに改変しているので、もはや二河譬とは言えない異物になっている。

 

会話編

A君 上記について少し議論しようか。

B君 二河の譬喩を造り替えることはそもそも許されるのだろうか?

A君 造り替えることが絶対に許されないとする理由はない。それが許されるかどうかは真宗教義に合致しているかどうかで判断すべきだと思う。合致しなければその造り替えには何の価値もないし、かえって有害である。

 

B君 本異釈の問題点はどこにあるのか?

A君 まず形式的なことを指摘すれば、善導の製作した二河譬とは異なっていることを明示しつつ、その改変が真宗教義に合致していることを示した上で団体会員にその改変理由を説明すべきだ。だがそのような手続きを踏んで説明している箇所は見られない。

B君 ストーリーを改変したことを明示しないまま団体会員を教導すると、会員は教導されたストーリーが善導が製作した二河譬そのものであると誤信してしまう。団体内部だけに留まるならば誤ったストーリーでもいいのかもしれないが、会員がそれを善導の二河譬であると外部の知識人に話をしたときその会員は思わぬ大恥をかくハメになってしまう。

A君 そうだね。大恥をかかせないために改変した点と改変理由を明らかにしておかなければならないだろうし、それを説明しないのは宗教者として誠実な態度であるとは言えない。それにもまして最大の問題は会員の獲信を妨げるものに改変してしまっていることにある。

B君 真宗教義と合致しているのかという実質的な観点からも認められないというんだね。

A君 そこに入る前にもう少し説明を続けるよ。善導の二河譬は、諸行往生を目指した人が自身の至誠心の欠如に直面して頓挫してしまったのちに願意を聞いて浄土往生を果たすというストーリーだ。真宗内には諸行往生を目指す人はいないはず。念仏往生を求めている人しかいないはず。だから、念仏往生を目指している自力の念仏の行人が善導のいう譬喩前段の三定死、つまり至誠心の行き詰まりに直面することは考えられない。この点が二河譬をそのまま当てはめることができない理由となる。また、念仏往生を求める自力の行人に合った二河譬に改変することが必要となる理由にもなってくる。この意味での改変は許されると思う。

 

B君 改変するとすれば、君ならどのように改変するのか?

A君 善導の譬喩を改変する気にはならない。善導の譬喩は譬喩としていただき、善導の製作意図を正しく理解していれば良いことだからね。ただ自力念仏往生を願う人には、教行信証化身土巻において祖師がどのような思いが自力の思いになると言われているのかを正しく理解し、その自力の思いが自分の心の中にあることを内省して明確に自覚することが求道(ぐどう)における重要な転換点になるということを知っておいて貰いたい。祖師は「本願ノ嘉号ヲモッテオノレガ善根トスルガ故ニ信ヲ生ズルコト能ハズ」と言われている。念仏を仏が回向した仏の真実の行であると正しく理解せず、念仏を自らの往生の資助たる善根にする思いを述べたものだ。もっとひろく言えば、弥陀の十七願・十八願の願意を聞きながら自分の思いや努力、真剣さなどおおよそ自分の側に属するものを自分の往生の資助にしようとする思いのことを自力の計らいとする。仏が一方的に救済するものだと受けとめれば信が生じるのに、この思いがあるが故に信が生じないのだ。いくら真剣に聞法しようと、真剣になろうとする心そのものが自力である以上、信が生じることはない。このため自力念仏往生を願う者は自力の思いから抜け出る事ができないという意味での三定死に直面することになるのだよ。

B君 じゃ本異釈は自力念仏往生を求める人に合ったストーリーになっていないというのか?

A君 まったくなっていない。

B君 どんな点が?

A君 譬喩前段の十九願の生因たる至誠心を他のものに替えるならば、二十願の願意を広説した阿弥陀経の執持名号一心不乱の念仏に置き換えるのが適当であると思うのだが、聞法心に置き換えるのもいいだろう。しかし、聞法心を励ますというのは自力の計らいであり、この計らいは捨て物であり、聞法心は自力の故に三定死に行き着くという点を明示しなければ真宗教義に合致したものにはならない。

B君 その自力というのが、弥陀の十七・十八願の願意においては本願疑惑心になってくるのだね。

A君 弥陀の十八願の願意は十七願に成就を誓った南無阿弥陀仏をもって救うということにある。本願疑惑心とは、そのように聞いて南無阿弥陀仏で救われたいと願って念仏を称えつつ聞き求めている人にだけ生じる思いだ。十九願や二十願のように自力の思いや行をもって生因とする救済の原理とはまったく異なっているんだ。この救済の有り方を聞いた人は十八願の生因のとおりの身になろうとするので行因としての念仏行を行うようになるが、心因としての信心が欠如している。だから信を求め、そのために聞き求めて信を得ようとするのだが、その思いは本質的に自分の思いを資助にして助かりたいということだ。そのため、その自己の思いに囚われることになり、願意を無視してしまうことになる。聞き求めるという自分の思いがまったく不要なように阿弥陀仏南無阿弥陀仏を成就されたのだが、その願意を正しく理解せず、大きな思い違いをしている思いが聞いて助かろうという思いなのだ。聞き求めることで弥陀の願意を聞けるという思いこそが願意に背く大きな誤解であり、本願疑惑心なのだ。

B君 だから、そのような思いは思いとしていったん横に置いておいて、十七・十八願の願意を説く説教師の声が聞こえるままに願意を聞くということが大事になってくるのだよね。

A君 そうだね。聞法心を励まして聞くというのは一見すると良いことのように思えるのだが、その実は弥陀の願意を願意として聞くことを妨げてしまうクセ物なんだ。このことに気づかないといけない。聞法心を励ますことがどうしてクセ物になるか、C子さん、C子さんなりの説明を聞かせてくれないか?

C子さん 南無阿弥陀仏という御名が完成したということは私が浄土往生できる浄土の完成と私が浄土往生できることを意味しており、弥陀の願意はそのことを知らせて信じさせて救うことにあるのよね。凡夫の力を借りずに浄土往生できることを知らせるメッセージだと言っていいわ。そのメッセージを聞いて心に受けとめて受け入れるだけで自分の往生は決定することになっているのね。それなのに自分の聞法心を励ましたり、微弱な聞法心を強くしなければ願意を聞けないと思ってしまうとすれば、それは図らずも弥陀の願意に反することになってしまうの。だからその自力の思いを本願を疑惑している本願疑惑心とか疑情と名づけているのよ。

A君 そうだね。だから聞法心を励まして聞くことを奨励するのは、弥陀の十七願・十八願の願意とは逆のことを奨励する結果になってしまうんだ。そうではなく、聞法心とか真剣に聞くとかいう思いは自力の思いであり、その思いのためにいつまでも疑情が廃ることはないとまず気づいてもらう事、次に自力の思いすらも必要としないように弥陀の救いは円満に出来上がっていると聞いて気づいてもらう事が大事になってくるんだ。真宗において説くべきことはその一点だけなんだよ。聞法心を励む事を推奨することではない。ところが、本異釈では、「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改竄しており、自力の聞法を勧める内容にしてしまっているんだ。とんでもない改変だ。

B君 自力の聞法は行き詰まることに気づいてもらうには、譬喩前段にある至誠心の行き詰まりを表している三定死に代えて、自力の思いから逃れられずに苦悩し行き詰まってしまうという三定死を登場させるストーリーが必要になってくるんだね。

A君 そういうことになると思うよ。

B君 真剣に聞くのは自力だというと、じゃ何もしないでいいのか、という反論が予想されるが、それに対してどう答えるのかな?

A君 そういう反論をする人は、これまで述べた事がまったく耳に入っていない人だ。十七・十八願の願意を願意のままに聞くことを勧めているのであって、何もしないでいいと言っているのではない。その違いが区別できないというのでは、とてもとてもおぼつかないよ。

 

B君 じゃ、大経に「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎて、この経法を聞いて歓喜信楽し受持読誦して説の如く修行すべし」とあるのをどう解釈すればいいのか問題になるよね。これは釈迦が聞法心を励ましているのではないのかな?

A君 「経法を聞いて歓喜信楽し」とあるのは、この経法とは仏の御名の南無阿弥陀仏の法を広説した大経のことだ。この聞くについては祖師が「経に聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり」と教えられている。聞くとは聞がそのまま信となるように聞き方をいうのだ。聞即信という聞き方だ。この聞を如実の聞ともいう。「聞いて歓喜信楽し」とはその聞即信のことだ。「三千大千世界に充満すとも必ずまさにこれを過ぎる」というのは自力の思いが廃り、他力の信が生じるのはそれほどに難しいものであることを教えたものだ。他力信は極難信であることを表している。自力の思いでは他力の信の世界には入れないことを教えたものだ。火宅無常の自力に囚われた世界を離れて仏の御名を如実に聞くことを教え勧めたものだよ。自力の聞法を真剣に励むことを教えたものではない。

 

B君 他に問題点は?

A君 絶対の幸福が白道だとか、弥陀に救われたら煩悩即菩提となり二河が白道になるいうのはまったく頂けない。これでは往生の生因が何であるのかまったく皆目分からないものになってしまう。せっかく元祖や祖師が十八願の往生の生因は他力信心に伴う念仏行であると懇切丁寧に教えてくれているのに、その甲斐をまったく無にしてしまう大改悪になってしまう。改悪という言葉では言い尽くせないほど悪質だ。弥陀の願意がまったく分からないものになしかえてしまい、浄土往生の生因を隠蔽してしまうからだ。この生因を隠蔽するということは獲信を妨げるということだ。このような言い換えは真宗人として誠実な態度であるとは言えないばかりか、あるまじき態度だ。十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えるのも、往生の真実の生因を隠蔽してしまうので許されない。善導が本願取意の文として「十方ノ衆生、我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ我ガ願力ニ乗ジテ、モシ生マレズハ正覚ヲトラジ」と言い換えたのとは訳が違う。善導の取意の文には往生の生因が「我ガ国ニ生ゼント願ジテ我ガ名字ヲ称スルコト下十声に至ルマデ、我ガ願力ニ乗ジテ」と明示されている。我ガ名字ヲ称スルとは念仏の行、願力に乗じるとは聞がそのまま信となったことで行信が明記されている。しかし、十八願の願文を絶対の幸福に救うと言い代えると何が生因であるのは皆目分からなくなってしまう。これが最大の問題点だ。先にも述べたが白道とは浄土往生の生因ことだ。その生因は行と信から構成されている。十八願、十九願、二十願の生因は真と仮があるもののいずれも行と信として願文や三経に記載されたり開示されている。十八願の信行としての他力信と念仏行を生因として定めている願意を絶対の幸福とか煩悩即菩提に置換してしまうのは浄土往生の行信を隠蔽してしまうことになる。

B君 本人は分かり易く言い換えたつもりになっているのだろうが、トンでもなく思い上がっているとしか言いようがないということか。

A君 いや、そうではない。巧妙に隠された意図や本心がある。会員を自己の主宰する団体に勧誘したり団体会員として求める気持ちになって貰うためには、いくつかの条件が不可欠だ。求める希望や求める目的を会員に与える事、求めなければ大きな弊害が待ち受けている事の2つを心に強く印象づける人的操作が不可欠になる。この団体の長の場合、生きて絶対の幸福になるという希望や人生の目的を与えること、死んで地獄に堕ちるという将来の行き先を会員に対比しつつ呈示し、心にその印象を植え付けて求めさせる操作をしているのだ。強烈なコントラストをつけてね。堕獄という畏怖と人生の目的の付与によって人の心を印象操作しようとしているのだ。絶対の幸福という訳の分からぬ代物であるが変わらぬ幸せという響きをもった幸福になることが人生の目的であるとして誘引し、求道を動機付け、それを正当化するための手法が実に十八願の願文を絶対の幸福に救うと改変することであったり、十七願・十八願の生因を隠蔽して善導は二河譬で聞法を励ましていると改変することなのだよ。あるいは信一念の体験を、地獄に堕ちて地獄の釜の底をぶち破った一念にそのままという弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福に助かるという黒白・明暗ハッキリとしたコントラストをもったストーリーに造り替えることなのだ。さらにそれが間違いだと指摘する者からの話を聞かせないためにこの団体の長は自らを蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせり、外部には正しい願意を教える者はいないと印象づけて会員が他団体で聴聞する気持ちにならないようするために二河譬を改変し会員を操作してきたのだ。「此岸の釈迦は断固その道を行けと専ら勧め、彼岸の弥陀は「水火の難を恐れず直ちに来たれ」と招喚される」と改変し、釈迦・弥陀も自力の聞法を勧める内容に改竄してしまったんだ。二河の譬喩は聞法の一本道を教導していると虚偽のストーリーに造り替えて利用することも厭わない人物なのだ。もっと言えば、団体会員に対し、真剣な聴聞をしてゆくと群賊が現れることを予め刷り込んでおき、それらの者との会話を拒絶するよう巧妙に誘導する意図の下に本異釈を創作し、会員を囲い込む目的で改変を施したのだ。その結果として、退会する者に対しては人生の目的を放棄した人生の落伍者であるとの烙印を押し、押される方はそれが心の深いトラウマとなり、十年、数十年と心の傷を抱えて生きてゆくことになる。実際には退会しても何の不都合はなく、どこに行っても聴聞できる自由を得たのだと思えば良いことなのにね。本異釈はそのようなトラウマを抱えさせてしまうように二河譬喩のテーマからストーリー展開から語句の意味まで改竄してしまっているのだ。

 弥陀の願意を説く者が真宗教義に忠実である限り、私達には誰からでも弥陀の願意を聴聞する自由がある。弥陀の願意が説かれていなければそこを離れる自由もある。元祖や祖師らの著作から願意を頂く事もできる。私達にはそうした取捨選択の自由が保障されているのである。正当な真宗団体であるならば、弥陀の願意について真仮の分斉が正しく説かれている限り、どこに行って聞かれてもよいと押し出してくれる。自分の所でしか真仮の分斉を聞くことはできないと教導するのは正当な真宗の団体が行うことではない。まして、蓮如上人以来の大善知識、絶対無二の善知識などと会員に崇めさせるように教導していたのはありえないことである。この人物は以上に述べた改変や手法を巧みに組み合わせて会員を心理的に拘束してきたのであり、この改変と手法が会員を団体につなぎ止める力の源泉になっているのだ。だから、原典で確認する作業を地道に行い、自分で真宗教義を確認して理解してゆく事がこの力に対抗できる唯一の策となるのだ。

B君 南無阿弥陀仏が真実の信行として往生の生因になるということを正しく理解している人であるならば、このような改変は絶対にしないよね。

A君 この本異釈は団体の抱える問題点のほとんどが網羅されていると言っても良い見本だ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 本異釈では絶対の幸福になったら煩悩即菩提になるとされているが、元祖や祖師が教えている他力信心においては念仏の行者が現生で煩悩即菩提になるとはされていない。この点も大きな異なりだ。煩悩即菩提とは聖道の証果つまり仏の証果として仏の智慧の世界から煩悩を眺められて言われたことだ。凡夫の身にあっては煩悩は煩悩のまま、煩悩が菩提になることはない。これも絶対の幸福があるという心象操作のための重要な手段となっている。苦悩は苦悩のまま味わいつつも、つねに大悲を頂き感受して生きてゆくのが念仏者の生き方なんだ。それを祖師は念仏者は無碍の一道なりと言われている。この無碍の一道とは、他力の生因たる信が誰にも破壊されず浄土への一本道となっていることを表しているんだ。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 阿弥陀仏の呼び声を聞くというのも頂けない。現に阿弥陀仏の呼び声が聴覚に聞こえてくるというものではないし、心の声として聞こえてくるというものでもない。善導が「西の岸の上に人ありて喚ばふといふは、すなわち弥陀の願意に喩ふ」「弥陀悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意(御心)に信順して」と言われているように呼び声を聞くのではなく願意を心で受けとめて信順することしかない。この他に信の体験はない。この事が分かっている人に対して弥陀の呼び声を聞くというのはいいかもしれないが、何も知らない人が聞いたら本当に弥陀の呼び声を直接聞く体験があると大きな誤解をする事になってしまう。或いは、意図的にそのように誤解することを誘発するのを狙っているのかも知れない。絶対の幸福にはそうした不可思議な超自然的な出来事であるかのように思わせて、その体験をした者としての自らの権威を最大限にまで高める目的のためにね。

 

B君 他に問題はあるかな?

A君 重要な問題点はあらかた言い尽くしたと思うが、仏法は聴聞に極まるとか聞く一つという意味について触れておきたい。極まるとは聞法の真剣さが火中を突破するような命がけの心境に達したことをいうのではない。真剣に聞くというのは聞く心構えや態度のことであるが、これは自力で聞くという行のあり方を指している。前にも述べたが、自分の側に属している心の属性の一つだ。他力の願力を聞くとはその自力を廃して聞くことを意味している。極まるとは、自力の思いが廃されて願意を願意のまま受けとめて聞いている聞信のことだ。聞く一つという意味も、聞がそのまま信となるような如実の聞のことだ。この聞信以外の聞き方をしていても決して浄土往生の真因にはならない。真因になるのは聞がそのまま信であるような聞のことだ。この聞が極まった聞であり、聞く一つと言われるところの聞だ。仏法は聴聞に極まるという本来の意味の聞だ。火中を突破するような命がけの心境に達したとしても自力を離れることはできない。自力では極まった聞になることはない。だから極まるとは聞法の真剣さのことではない。また真宗では「真仮の分斉を説くとか聞く」と言われるが、その意味は、信に時剋の一念があって地獄の釜の底に堕ちた瞬間に弥陀仏の呼び声を聞いた一念に絶対の幸福に救われるという意味ではない。正しい意味は、聞法心や念仏行をもって弥陀仏に助けられたいなどの思いに代表される自力の思いの正体は実には十八願に対する本願疑惑心である事、この本願疑惑心が弥陀の願意を受け入れることを妨げるものであるからその思いに囚われず、既に私の往生は決定しているという弥陀招喚の悲心を聞く事、聞いて受け入れる事、これによって本願疑惑心は一念にすべて消滅してしまうという事を説くことであったり、そのように聞くことを意味している。真宗が他の宗教と区別される点があるとすれば、この点だけだ。自力が廃って他力へと転換する、他力への転換により自力が廃る、というのが真宗の至極だ。白道を聞法心だとか真剣な命がけの聴聞によって弥陀の呼び声を聞いて絶対の幸福になるなどというのは、その真宗の至極を明らかにするのではなく、真宗の至極を完全に隠蔽してしまうものなのだ。この団体の長も自力が廃り他力に帰するというが、それは言葉だけでその内実が伴っていないのだ。

 

B君 そうすると本異釈には最初から最後まで真宗らしいところは一つも無しということか?

A君 そう、一つもない。かけらもない。

B君 真宗を標榜しているのだから、どこかいい所は1つ位はあるんじゃないか?

A君 皆無だ。真宗を標榜しているものの中身は似て非なるものだ。いや似ても似つかない偽物だ。悪臭ふんぷんとし、とても清浄な信から等流してきた釈ではない。心が汚染された人物による汚染された釈だ。

C子さん ほんとうよ。真宗の教義に暗く、無知すぎるほどのクソミソ知識よね。

B君 また言うかな。美人らしく、もっと上品に振る舞えよ。

C子さん 無理。まだまだ言い続けるつもりよ。

A君 願力の他力信は汚染を嫌うんだよ。自力の計らいを嫌うようにね。