3-22.会話編 念仏往生 念仏の勧めとは?

B君 「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」とある布教師が言ったことを契機として、阿弥陀仏は念仏を勧めていない、いや、勧めているという議論が始まったばかりだが、君はどう考えているのか。

 

A君 「阿弥陀仏は念仏を勧めているか否か」という問題の立て方というか、その表現がどうもしっくりと来ない。阿弥陀仏の場合には、「念仏を勧めているか否か」という言い方ではなく、「我が名を称えられん。称えん衆生をば摂取せんと願われているか否か」という言い方であればとてもしっくりとくる。このような問題の立て方をすれば、どういう展開になったか興味深いね。ただし、答えはどちらも願われていると回答すると思うけどね。この問題は阿弥陀仏の願いとはどういうものかがポイントになりそうだね。

 

C子さん 私には大悲を感受している思いがあるから、南無阿弥陀仏を称えると仏様と悲喜交流しているような感じになるわ。気づけばいつのまにか称念している自分に気づくのね。仏様が称えるなと言われたとしてもこの称念は止まることがないと思う。常に感じている大悲の感受がその念仏に先行しているのね。感受に応じて念仏しているので私の称える念仏であっても私の行ではないという思いにもなるのよね。私の行であるなら行を勧められているという言い方には何の違和感もないけど、念仏は大悲感受の自然の行であって私の行ではないだから、阿弥陀仏が念仏を勧めるとか勧めないとかという範疇の問題ではないように思えるの。その議論には仏の悲願とか大悲という観点が抜けているように感じるわ。

 

B君 そんな感じもするが、どのように論理的に説明してゆけばよいのだろうか。

 

A君 阿弥陀仏の救いのあり方を出発点として考えてゆくしかないだろうな。新たな問題が生じたときは、常にそうした思考が求められる。議論の展開次第では、議論の前提となっている阿弥陀仏の救いのあり方に関する理解の仕方が相互に異なっていたことに原因があったのかとあとから気づくことがあるし、前提となっている理解は共通しているけれども、その後の論理展開の過程で異なる意見に枝分かれしていったことに気づくこともある。だから、最初に行うべきは、議論を始める前提となる阿弥陀仏の救いのあり方に関する基本的な理解を明示しておくことが大事になる。これが本題を考える上での出発点だ。これをおろそかにすると議論が空転するばかりで、互いに悪感情しか残らなかったという結果にもなりかねない。

 

A君 もうひとつ大事なことがある。それは「念仏を勧めている」とか「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧められていない。」とは、それぞれどういう意味で言われたのかを確定しておかなければならない。議論がしっくりと来ない原因はここにもある。また「念仏は勧めていない。」とはどのようなシチュエーションで言われたのかによっては答えは変わってくる。

B君 シチュエーションやその意味によってはあり得る表現だということかな。

A君 そうだね。

B君 「まかせよと勧めているのであり、念仏は勧めていない」とは必ずしも念仏往生を否定する趣旨にはならないと考えているのか。

A君 そう考えている。

B君 どうしてそう思うのかな。

A君 そのことを理解するには、私の理解する「阿弥陀仏の救いのあり方」を最初に聞いて理解して欲しい。次に願成就の文と観経下々品の文について考えてみよう。

 

B君 阿弥陀仏の救いのあり方について、どう考えているのかな。

 

A君 最初に大経の所説や教相から考えてみよう。大経思想を要約して阿弥陀仏の救いのあり方を言うと十七願・十八願とその各成就文に集約される。「十七願の誓い」は我が名を諸仏に称讃されんという願いだが、これは一切の衆生を浄土往生させる働きのある我が名の成就を誓い、諸仏に我が名の成就とその功徳を証成讃嘆して貰い、諸仏に我が名が讃嘆されるのを衆生に聞かせて信心歓喜させるという大悲を顕している。「十八願の誓い」は「十七願の誓い」に従って我が名が諸仏に讃嘆されるのを聞いて我が救いを至心に信楽して我が国に生まれられると思うて我が名を称えられん。かかる機の衆生を浄土往生させるという大悲を顕している。その各成就文は御名たる南無阿弥陀仏による救いが円満に成就されていることを仏が保証し証成したものだ。この大経思想を真宗の教学風に構成し直せば、「十八願成就の相である南無阿弥陀仏は、摂取不捨の大悲を具現し十八願力として作用していることを今まさに諸仏は讃嘆しており、讃嘆されている南無阿弥陀仏はこれを聞いた衆生の上で十八願に誓われた信因と行因となり浄土往生が決定する」となる。これは大悲を受け入れた者の心相が南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏を称念する念仏行が往生行になるということだ。これが衆生の上に顕現する大悲心の現れ方だ。

 

B君 うん。

A君 次に、本願成就文の「聞其名号信心歓喜」は浄土往生の真因が成就されるのは大悲の成就を告げる御名を聞くことによる、と教えたものだ。信因と同時に行因も成就する真宗の至極を教えたものだが、「心相と行相に現れた南無阿弥陀仏の御名が真実浄土往生の真因である」ということになる。これをひと言でいうと「南無阿弥陀仏を聞かせて救う」となる。

 

B君 じゃ次。観経下々品の悪人往生の文だ。観経下々品には「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」「かくのごとく心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。」と説いているが、その教説は先の大経思想と整合するのかそれとも相反するのか。

 

A君 表現上の差異はあるものの、その勧める信因・行因は完全に一致している。「無量寿仏の御名を称すべし」と釈迦仏が勧めているのは、一切の自力の行や一切の自力の思いを廃捨させ、ただ仏の御名を称すること、ただそれだけで往生は決定して往生行となる大悲を教え勧めたものだ。「心を至して声をして絶えざらしめて十念を具足して南無阿弥陀仏と称する」の信は十八願の信すなわち「聞其名号信心歓喜」と同じ信であり、その行は乃至十念の本願念仏と同じだ。信行とも一致している。その信行について祖師は大行・大信の順番で教えられているが、大行・大信とは阿弥陀仏の大悲たる南無阿弥陀仏のことだ。

 

B君 じゃ念仏往生とは?

A君 念仏往生という思想は、阿弥陀仏の救いのあり方を端的に表現したものだが、十八願による往生を念仏往生という。十八願は信因として三信を、行因として乃至十念の念仏を定めているが、この十八願の信因と行因はともに「南無阿弥陀仏」であるから、南無阿弥陀仏を真因とする浄土往生のことを念仏往生というと理解して良い。大悲たる南無阿弥陀仏の大行と大信を浄土往生の真因とする往生のことだ。念仏往生は大行と大信から構成されることを明らかにしたのが祖師の本典だ。

 

A君 念仏往生の念仏とは信を具足した称名あるいは信を内包している称名のことだ。行者の外形に顕現している念仏行をとって念仏往生というのだろうが、元祖が「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には別の子細候わず」とともに「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いと(る)」と言われている信行によって浄土往生するというのが念仏往生の思想だ。

B君 念仏往生とは南無阿弥陀仏を往生の信因とし行因とする浄土往生のことだね。短く言えば南無阿弥陀仏で往生するということが念仏往生なんだね。

A君 そうだよ。念仏往生の念仏とは称名としてあらわれた南無阿弥陀仏のことだ。衆生が声帯を震わせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと一語一語を連続して発語する行いは南無阿弥陀仏の大悲が私の上に作用している行である、と心に領解しているか否かで往生の得否が定まる。領解すれば往生が定まる。領解していなければ往生不定となる。この領解によって定まった往生を念仏往生というんだ。この領解によって仏の御名が称名念仏に全顕されたものになって、称名が即大行となるんだ。「全顕」とは御名の働きの全てが顕れているというほどの意味だ。

 

A君 善導の光号摂化の教えは光明・名号の働きによって往生することと光明・名号の働きが信因となって往生することを顕したものだ。ここから両重の因縁というのだが、光明・名号という大行と光明・名号の働きによる信という大信の2つを明かした浄土往生だから、これは念仏往生と同じ思想だということが分かるだろう。また浄土論註の覈求其本釈も阿弥陀仏の十八願力による浄土往生を顕したものだから、これも念仏往生と同じ思想だ。表現が異なるだけで、大悲他力で浄土往生するものだから、念仏往生と同一の思想だ。同じ事象を指す語としていろいろあることが分かるだろう。

 

B君 いよいよ本題ね。まず「阿弥陀仏はまかせよと勧めている」とは、君はどういう意味に理解しているのか。

 

A君 「阿弥陀仏にまかせる」というのは、南無阿弥陀仏に全顕されている本願大悲、善導の二河喩にはその大悲を「呼ばう」と喩えられ、祖師は行巻の六字釈で帰命は本願招喚の勅命とされているが、この大悲招喚に呼応して大悲を心に受け入れることや大悲を受け入れている心の状態のことだ。「まかせる」とはその大悲を心に受容し大悲の働きにゆだねきっている他力信のことを表現したものだ。元祖の言う「南無阿弥陀仏にて往生が決定するぞと思い取る」思いのこと。この思いは南無阿弥陀仏と完全に相応しているので「一心」といわれる信となるんだ。信は摂取せんの大悲たる南無阿弥陀仏に相応するものなんだ。

 

B君 阿弥陀仏に我が往生のいかんをまかせるとどうなるのか。

A君 大悲を聞いてその大悲にまかせると、浄土往生の真因としての南無阿弥陀仏が行者の上に信因・行因として成就されるので、その後には後念相続としての本願念仏が全顕する。これが十八願の念仏往生だね。この意味で「阿弥陀仏にまかせよ」と勧めるということは念仏往生を勧めるのと同じことになる。

 

B君 祖師の六字釈は、称名行が不回向の行であることをあらわされたものであると理解しているが、この釈は行に関する釈にとどまらず、信にも関わってくるのか。

A君 当然信に関わってくる。祖師の六字釈は称名行は行者にとっては不回向の行であることをあらわされたものだが、裏を返せば、称名は実には南無阿弥陀仏そのものであるから行者の行ではなく、仏から回向された大行だということだ。その仏の大行は行者に対して大悲招喚の大悲として現れ出て全顕されているから、そこに信が開け起こっており、行者の大行には大信が具足している。これは称功として信が生じたのではない。大悲の願力たる南無阿弥陀仏によって信が開けたのだ。南無阿弥陀仏による信が開け起こって称える念仏が南無阿弥陀仏の大行そのものとなるのだ。行者の大行となったその大行に大信は当然に備わっており、行者の大行は行者にとって大信となっている。祖師は六字釈中に善導の「必得往生」の必得を釈して「即得」とし「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」と言われている。行者の大行となった称名から大信を別開しているのだ。大行は大信の故に大行となるのだよ。信がなければ称名は大行とは言われない。

B君 つまり、もともと行者側の心相である帰命を如来大悲の招喚として理解されたのは、念仏行者の心相たるべき帰命は大悲招喚を受け入れた行者の信を表し、その信のうえの念仏行はもはや行者の行ではなく、仏の大行そのものだというんだね。

A君 そう。だから祖師の六字釈は称名行が大行であるということを表すと同時に行者のものになった大行には大信を具備していることをも表しているということだ。大悲の招喚によって大信と大行がともに成就されていることを表されているんだよ。

 

B君 じゃ「阿弥陀仏にまかせる」が念仏往生と同じことを勧めているのだとしたら、「念仏は勧めていない」をどのように理解したら、念仏往生を必ずしも否定した趣旨にはならないというのかな。

A君 信が開け起こるのは大悲にまかせ、大悲を受け入れる以外にない。大悲は摂取不捨の願心として顕われる。南無阿弥陀仏はその摂取不捨の願心成就を全顕し、衆生の浄土往生に万に一つの間違いもない大悲成就を伝えるものだ。称名行をあとまわしにしても南無阿弥陀仏として伝えられている大悲の成就を聞いて心から受領し安堵すれば信は生じ、念仏は自然に後続する。この考え方を端的に表しているのが成就文の「聞其名号信心歓喜」の文だ。この文は衆生が大悲を稟受する究極の信の成就を表し、その信の因は大悲を聞く聞そのものであると教えたものだ。「念仏は勧めていない」を、大悲の聞信を先に勧め、その後に称名行は自然に発露するという考えを示したものであるとすれば、念仏往生を否定したことにはならないと理解できる。つまり機相の上では最初に大信が生じ、そののちに大行たる称名念仏が称えられるという事象の起こる時系列で考える考え方に立ったものと言える。

 

B君 観経下々品の教え方はそれとは異なっているよね。

A君 異なっている。観経では「汝もし念ずるにあたはすばまさに無量寿仏の御名を称すべし」だからね。

B君 教え方は異なるが、そこから生じる結果は同じということか。

A君 そう。教え方は違っているが、願心を受けとめるという結果は同じだ。善導の「一心専念弥陀名号・・是名正定之業」に続いて「順彼仏願故」とあるように無量寿仏の御名を称すべしとの教えを受け入れることは、「称名しつつ」その称名が阿弥陀仏の悲心招喚の願心にかなうことだとしてその願心たる摂取不捨を聞き受けているということだ。大経ではその「称名」を省いているだけで、南無阿弥陀仏の願心を聞くことを勧め、それを聞いて受け入れていることを聞其名号と言われているんだ。表現は異なれど摂取不捨の願心を領受し自力が廃捨されて信が生じる結論は同じだ。

 

B君 教え方が異なるのに、どうして同じ結果が生じるのだ?

A君 そのようなことが可能になるのは、念仏は大悲たる南無阿弥陀仏が全顕したものであり、南無阿弥陀仏は念仏として顕現するからだよ。名号がその働きによって称名へと全顕するので名号即称念といい、称念は名号が全顕したものなので称名即名号という。同じように名号はその働きによって信心へ全顕するので名号即信心といい、信心は名号が全顕したものなので信心即名号という。だから、称名即信心、信心即称名ということも言える。これが真宗の至極だ。ここで名号を仏願と言い換えても良い。仏願・名号とその機受の相である信心称名、これらはすべて南無阿弥陀仏の大悲が大悲のままに働いている大悲の諸相だ。だから大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって大経の「聞其名号信心歓喜」が成立するし、念仏に現れた大悲たる南無阿弥陀仏の働きによって観経下々品の教え方が成立する。いずれの教えであっても、その教えから生じる機受の結果は同一の信行(南無阿弥陀仏)となる。

 

B君 大経と観経の説かれ方の差異は、願心を受け入れる際に、称名しつつその称名が仏願にかなうことだと受け入れるか、南無阿弥陀仏の成就を聞いて仏願を受け入れるかだけの違いだというんだね。

A君 そのとおりだよ。ともに摂取不捨の願心を受け入れることに違いは生じない。だから、善導の十八願取意の文のように信を省いて念仏を称える者を救うのが大悲だと言い換えてしまってもよいし、祖師のように願成就文に立って十八願を信願であると理解してもよい。それは称える念仏も大悲を仰ぐ信も南無阿弥陀仏という大悲たる大行の働きによるものだからだ。信に働く南無阿弥陀仏によって如実の称名は称えられるし、念仏に働く南無阿弥陀仏の大悲によって信は開け起こる。そのいずれの場合も南無阿弥陀仏の働きによって浄土往生の真因たる信因と行因が完全円満に具備されるのだから、念仏を先に出して信を後にしても良いし、信を先に出して念仏を後にしても良い。その先後によって仏の救いのあり方に異なるところが生じることはないのだからね。いずれも南無阿弥陀仏による往生決定だ。名号たる念仏を先に出して信を後にする場合には、その先に出した念仏は救いの法という意味合いが前面に出てくる。名号による信を先に出して念仏を後にする場合には念仏は報謝という意味合いが前面にでてくるが、機受の相の上で信と称名に先後をもうけているだけで、本来は信と称名は一体のものだ。念仏はつねに救いの法として感受され、同時に報恩行となるものだ。それは信がそのように感受させているのだ。その信もまた大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名となるのだ。

 

B君 そうすると「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、念仏は勧めていない」との言い方は十八願を信願と理解する立場や聞其名号の教えと親和性があるというのか。

A君 そう理解することが可能だ。機受の相の先後に着目した言い方だ。この場合、念仏は報恩行という理解につながりやすい。

 

B君 シチュエーションによってはあり得るということを言ったが、それはどういうことか。

A君 例えば「念仏往生を勧められて念仏を称えて助かりたいと思っているが、なかなか救われない」と信仰を吐露した人がいたとしようか。ここで問題となっている念仏は自力の念仏であることは明らかだ。しかし、南無阿弥陀仏の御名だけが真実浄土往生の真因である以上、それと異なる自力の行や自力の思いは廃されなければならない。諸行はもちろん念仏行も自力の行に留まっている限り往生の真因にはならない。「念仏を称えて助かりたい」と思っている心を廃捨させて願心を聞き受けて貰うには、念仏では助からないことを明確に伝えるしかない。この人に阿弥陀仏は念仏を勧めていると伝えても、その人はそれまでと同じ気持ちで念仏することを続けるだろう。この場合には「阿弥陀仏はまかせよと勧めており、(自力)念仏は勧めていない」と勧めることは大悲を受け入れ、自力念仏の思いを廃捨させるのに有効な説法になり得る。これは大経の「御名を聞きて信心歓喜」するように導く大経所説に親和性がある説き方だと言える。念仏という自己の行に重きを置く思いを改めさせて、大悲を聞く事に力を入れて大悲を勧める教え方になる。

 

B君 対機説法としての説き方として有効であり、許容できるということだね。逆に阿弥陀仏は念仏を勧めているという説き方が有効である場合とは、どういう場合なんだ。

A君 例えば、「聞其名号と聞いていますが、聞いても聞いても救われません。」という人がいたとしようか。その人に大悲を聞き受けるんだと勧めても、きっとこれまでと同じような聞き方をこれからも続けるだろう。その場合には、聞き方が問題ではないと知らせるために「阿弥陀仏は念仏を勧めているから念仏を称えることが阿弥陀仏の願いに称(かな)うことなんだ。」と教え勧めることが有効になるのではないだろうか。

 

B君 つまり、そのどちらの説き方が有効であるのかは、説教を聞く人の心の置き所によって変わってくるということだね。

A君 聞という行や称名という行が自力の行として行われる限り、浄土往生の真因はその人に成就されることはない。その自力の思いを廃捨してもらい大悲を受け入れて貰うにはその人の心の置き所が念仏行か聞法かに応じて「聞き方は問題とならない。ただ念仏を称えることが大悲に称うことだ」と勧めたり、或いは、「阿弥陀仏は念仏を勧めてはいない。ただ大悲を聞くだけだ」と勧めることになる。大経の説き方や観経下々品の説き方は真実大悲を受け入れて貰うための仏の便法であると思う。

 

B君 そうすると、大経の説き方や観経下々品の説き方のいずれが良いのかということを議論すること自体意味が無くなってしまうんだね。

A君 そう。意味がなくなってしまう。理解しておきべきことは最初に言ったように「南無阿弥陀仏の御名と大悲だけが真実浄土往生の真因である」ということだ。大悲を心から受け入れて貰うための便法としての説き方は、機に応じて念仏を強調する説き方になるか、聞くことを強調する説き方になるか、の違いはあるが、大悲を聞き受けて貰う事が最も大事なことだ。そのことを聞き受けた精神世界では、先の大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称念・称念即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称念即信心・信心即称名の意味がすんなりと分かるようになる。これが阿弥陀仏の救いの現れ方だからだ。ここに真宗の至極があると思う。最初にC子さんが言ったように、大悲を領解すれば、大悲を感受して南無阿弥陀仏を称念することで仏と悲喜交流している思いになり、わが行ながらもわが行ではないという思いになる。勧められるべきは、このような大悲への思いを現実に生じさせる働きをもつ如来の大悲たる南無阿弥陀仏である、ということを強調したい。あとは観経下々品の「称名しつつ」阿弥陀仏の悲心招喚の願心を受けることを勧めるのか、称名行をあとまわしにして大悲たる南無阿弥陀仏を受領すれば信は自然に生じ、念仏は自然に後続するという考え方に立って大悲を受け入れることを勧めるかは機に応じて使い分ければよいことだと思う。このような理解に到達すれば、それ以上の議論は不要になると思うんだ。

 

C子さん 念仏の先後が重要な問題ではなく、念仏の先後を問わず大悲を領解することが大事だと言ってくれれば、とてもよく納得できるわね。大悲という観点が抜けると議論がおかしな方向に進んでいくのね。

 

A君 信前の人に仏の説く説かれ方に2つの説かれ方があるということを述べたが、信後はどうかというと、心の中に阿弥陀仏の大悲を常に頂いているので、C子さんが言うように自然に南無阿弥陀仏を称念するようになる。これが十八願成就の姿だ。そのため阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていると聞かされると、その仏の大悲を感受し念仏をまた称えることになる。また、摂取するとの仰せであると聞かされるとその大悲を感受して念仏をまた称えることになる。どちらも信心の行者にとっては仏の大悲を感受させる言葉としてすんなりと受け入れる事ができるんだ。大悲を感受している者にとって、それらの言い方はともにしっくりと心に落ち着く言い方になるから首肯できるんだ。信も称名もともに大悲の顕現であるから、大悲即名号・名号即大悲、名号大悲即称名・称名即名号大悲、大悲即信心・信心即大悲名号、称名即信心・信心即称名ということが容易に理解できるのだよ。

 

C子さん 阿弥陀仏の願いとは「摂取せん」という願いであるといえるし、「念仏を称えられん。念仏を称える衆生を摂取せん」という願いであるとも言えるということね。どちらも摂取せんという願いであることに違いがないから、すんなりと受け入れることができるわね。

 

A君 「念仏を称える衆生を摂取せん」という大悲を聞き受けるときは称名が信の内容になるが、単に「摂取せん」という願いを受け入れるときは称名は報恩行となるのだから信の内容にならないのではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、前者の称名も後者の称名も南無阿弥陀仏と相応した信の上の行であり、その南無阿弥陀仏が称名として顕現しているだけであるから、何の違いはない。さきに言ったように信とは南無阿弥陀仏と相応するものなんだよ。また、後念相続する念仏によって阿弥陀仏は念仏を称えられんと願われていることを感受することになるから、称名は信の内容にもなってくる。いずれの場合であっても何の違いは生じない。称名は救いの法の顕現であると同時に報恩行という意味合いをもっている。前者より念仏往生といってもよいし、後者より信心正因称名報恩といってもよいのだが、どちらも南無阿弥陀仏を信因・行因とする浄土往生に違いはない。言葉は異なるが、心の中に生じている同一の事象を指し示している。

 

A君 ちなみに、選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の業には念仏を先とす」とあるが、この「先とす」は諸行や助業をうしろに置き捨てて念仏行を先とするという意味だから、ここでの議論には関係しないよ。

 

B君 冒頭の「念仏往生 念仏の勧めとは?」に対する回答としては、どうなるのかな。

A君 仏の大悲たる南無阿弥陀仏を心から頂く事を勧められているということ。それは、諸仏や善知識が摂取不捨の大悲を聞くことを勧めらている、あるいは、念仏を称えられんと願われている念仏を称えつつその摂取不捨の大悲を頂くことを勧めているということだ。阿弥陀仏はただただ摂取の願心を受けとめて我が名を称せられんと願われているだけだよ。