3-24 会話編 念仏往生(続編) 南無阿弥陀仏が往生決定の証拠になるとは?

〔設 問〕

御文(四帖目8通)に次の文がある。この文と念仏往生の教えとは異なるのか。

当流の信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますときその正覚すでに成じたまひしすがたこそいまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

 

A君 上記の文には口称の念仏は一度も登場していないため、念仏往生を教えたものであると理解することに困難を感じる向きがあるかもしれないね。

B君 整合性をとりにくいとすれば、上記の文をどうとらえるのだろうか。

A君 某所ブログで、南無阿弥陀仏が(決定往生の)証拠だと述べた某氏に対して上記文を挙げつつ文証はこの一箇所であり、「この1箇所のみを殊更に重視する」と反論するコメントが投稿されていた。

 

B君 真宗教義上の問題を文証の多寡で決着を付ける態度は良い事なのだろうか。

A君 文証が何カ所あるかという数の問題ではない。その内容が念仏往生の教えにとってどういう位置づけになるのかを考える事が大事だと思う。

 

B君 上記の文は念仏往生の教えとは異なってはいないと君は考えているのだね。

A君 そう。元祖法然聖人の念仏往生の教えを理解するに際しては、あまり口称に拘泥せず、南無阿弥陀仏による往生が念仏往生であると理解しておけば良いと思う。

 

B君 念仏往生をどう理解すればそういう結論になるのかな。

A君 元祖の念仏往生の教えは十八願による往生のことで、念仏とは十八願の乃至十念のことだが、この念仏は至心・信楽・欲生の三信を具備した念仏であり、御名を如実に行じる念仏のこと。大経の十七願及び十七願成就文と十八願成就文とを一連に理解し、得られたところの阿弥陀仏の救いの在り方に照らせば、念仏往生を如来大悲の願力たる南無阿弥陀仏による往生とか、如来の御名を往生の真因とする往生の事だと理解して良いと思う。

 

B君 念仏往生は大経に由来すると理解して良いのかな。

A君 そう。十八願の往生については上記の成就文の他にも大経下巻の「衆生往生因往観偈」に「その仏の本願力、御名を聞きて往生せんと欲へば皆ことこどく彼国に到りて自ずから不退転に到る」とある。「胎化得失章」に「もし衆生ありて明らかに仏智ないし勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生七宝の華のなかにおいて自然に化生し・・身相・光明・智慧・功徳もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん」「弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは大利を失すとする。この故にまさに明らかに諸仏無上の智慧を信ずべし」とある。「流通分弥勒附属章」にも「仏弥勒に語りたまわく、それかの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」とある。念仏往生の淵源は以上の文にある。

 

B君 御名を往生の真因とするとは、どういうことかな。

A君 御名を往生の真因とするとは機受の上で御名が信となり行となることをいう。

 

B君 それはどういう意味か。称名は如実の行と言われる理由と合わせて述べてよ。

A君 御名が行者の行となっていることを如実修行というのだが、祖師の高僧和讃曇鸞讃」に次の和讃がある。

不如実修行といへること鸞師釈してのたまわく、一者信心あつからず若存若亡するゆえに。二者信心一にならず決定なきゆえなれば、三者信心相続せず。余念間故とのべたまふ。三信展転相成す。行者心をとどむべし。信心あつからざるゆえに決定の信なかりけり。決定の信なきゆえに念相続せざるなり。念相続せざる故決定の信を得ざるなり。決定の信を得ざる故信心不淳とのべたまふ。如実修行は信心ひとつに定めたり。

祖師は浄土文類聚鈔において淳心・決定心・相続心の3つを「淳一相続心」とし、「一心すなわち深心、深心すなわち堅固深信、・・無上心、無上心はすなわち淳一相続心、淳一相続心はこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば・・」と言われ、「二尊の大悲によりて一心の仏因を得たり」と言われている。淳一相続心は一心のことだと言われ、その一心が仏因だとされている。仏因とは仏になる因ということで一心が仏因であるというのだ。「如実修行は信心ひとつに定めたり」と同じ意味の文章は本典にもある。本典には「一心これを如実修行相応となづく」と言われている。

B君 それはどういうことか。

A君 如実修行相応とはもともと真如法性に適った修行の事だが、阿弥陀仏たる摂取不捨の大悲に南無した心相は南無阿弥陀仏となり、この南無阿弥陀仏の心相が南無阿弥陀仏の口称となる。この信行はともに南無阿弥陀仏という真如法性に適った如来の大行に相応している。如来の大行に相応した心が如来回向の一心であり、この一心から顕現している口称の念仏は御名の大行がそのまま顕現したものだから大行と呼ばれるに相応しいものになる。如実修行相応とは真如法性に適った修行の事ではあるが、それは信の有無によって決まるので「如実修行は信心ひとつに定めたり」とか「一心これを如実修行相応となづく」と言われたのだと思う。御名がその行者の信とならなければ称名が如実修行となることはないから、真宗では信が往生の真因とされている。

 

B君 つまり蓮如上人が言われる「六字の心」とは「摂取せん」との大悲の招喚に「南無」したことをいい、南無阿弥陀仏が私の心相となればその心相は「如実修行」となるが、そうでなければ「不如実修行」になってしまうということかな。

A君 そう。「六字の心」となった心相が他力の信。この信の有無次第で称功を見ない如実の念仏行となるか、不如実修行とされる念仏行となるかが分かれる。心相が南無阿弥陀仏の相になっているから南無阿弥陀仏と称える口称の行はその心相と相応するので、その行も「如実修行相応」と言われ、そうなってなければ「不如実修行」になる。このことをまずもって理解しておくことが必要だと思う。

 

B君 その信について蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなりと落居す」と言われているんだね。

A君 そう。摂取不捨の大慈悲たる南無阿弥陀仏に帰命する状態は南無阿弥陀仏の心相となった状態であり、その上で南無阿弥陀仏と称する行は南無阿弥陀仏に相応するので、その称名は南無阿弥陀仏如実に行ずる行相となって「如実修行相応」と言われる念仏となる。南無阿弥陀仏そのものが信となり行となる。その信行は南無阿弥陀仏そのものだ。信と行が不二であると言われる理由はここにあるし、信即称名・称名即信とされる理由もここにある。

 

B君 そのことと念仏往生とはどう関係するのかな。

A君 念仏往生の念仏とは南無阿弥陀仏に相応する如実の念仏のことだが、如実念仏の行者は信の決定によって十八願力の往生が決定することになる。善導大師は信を各所で強調されている。①「一心に信楽して往生を求願すれば上一形を尽くし下十念を収む。仏の願力に乗じてみな往かざるはなし」②「信を生じて疑いなければ仏の願力に乗じてことこどく生ずることを得(観経疏玄義分)」③「無量寿経にのたまふがごとし。仏阿難に告げたまわくそれ衆生ありてかの国に生ずるものは皆ことごとく正定の聚に住す。十方の諸仏みなともに彼の仏を讃嘆し給う。もし衆生ありてその名号を聞きて信心歓喜すなわち一念に至るまでせん。かの国に生ぜんと願ずれば即往生を得て不退転に住す」と。またこの経をもって証す。またこれ証生増上縁なり(観念法門)」④「弥陀の本弘誓願は名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで定めて往生を得と信知して即ち一念に至るまで疑心あることなし。故に深心という」⑤「然るに弥陀世尊、本深重の誓願を発して光明・名号をもって十方を摂化し給ふ。ただ信心をもって求念すれば上一形を尽くし下十声・一声等に至るまで仏願力をもって易く往生を得。」⑥「名を聞きて歓喜して讃ずればみなまさにかしこに生ずることを得べし(往生礼讃)」などを紹介できる。

B君 上記の下線部分が帰命の一心を表しているんだね。既に摂取不捨の大悲に帰命していることで摂取不捨の利益にあずかっているので称名以前に往生は決定となっている。この決定した往生が念仏往生といわれるんだね。

A君 十八願力による往生決定は信によって決定するという事だ。

B君 つまり願力の信心による往生決定の事だね。

A君 そう。念仏往生とは願力の信による往生決定とまったく同じなのだ。蓮如上人が「信心決定すといふ体はすなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。」と言われているように南無阿弥陀仏の六字のすがたとなった信心による往生の事だ。

 

B君 その心相が発露した称名念仏行と諸善とを行として相対し、そのどちらを往生の行として定めるかを明確にするときに、往生の行は称名念仏行であるとされたのが善導であり元祖なんだね。

 

A君 そう。その念仏行が往生行となるか否かは信いかんによる。だから善導を継承した元祖も称名行だけではなく信をも強調されている。例えば①「煩悩のうすくあつきをもかえりみず、罪障のかろきをもきをも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と唱えて声につきて決定往生のおもひをなすべし(法然聖人つねに仰せられる御詞二十七条御法語)。」②「ただ心の善悪をもかへりみず罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなえば声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりてすなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へばやがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり(往生大要抄)。」③一枚起請文には「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず。」といわれている。「南無阿弥陀仏にて往生するぞというおもひ」とか「決定往生のおもひ」が祖師の言われる「一心の仏因」のことだ。祖師は念仏正信偈で元祖について「生死流転の家に還来するはこと決するに疑情をもって所止とす。速やかに寂静無為の楽(みやこ)に入ること必ず信心をもって能入とすと」と言われている。

 

Cさん 蓮如上人は五帖目8通(浄土真宗聖典1195頁)に十八願を「南无阿弥陀仏といふ願」と呼ばれていたけど、念仏往生と関係があるの?

A君 おおありだよ。ちょっと考えてみて。

 

Cさん エッと十八願は「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」よね。「至心信楽欲生我国」は真実信心、「乃至十念」は数を問わない如実の念仏行よね。

A君 「至心信楽欲生我国」は真実信心、それを蓮如上人の言葉でいうと・・・。

Cさん 蓮如上人の言葉で言うと、タノム。

A君 タノムを別の言葉で言うと・・。

Cさん アッそっか。帰命とか南无だわね。

 

A君 「若不生者不取正覚」が成就されると・・・。

Cさん 摂取不捨ね。ってことは阿弥陀仏だわね。摂取して捨てざれば阿弥陀と名づくと観経にあったわよね。

 

A君 となると・・・。

Cさん 「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」が成就すれば、タノム者を摂取して捨てたまわず、だから、南无阿弥陀仏というわけね。

A君 そう。それを機法一体の南無阿弥陀仏という。しかも「乃至十念」も如実の南无阿弥陀仏だろ。

Cさん 十八願では信ある者が摂取されるから南无阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏ね。

A君 そう。だから十八願は私の身の上に南无阿弥陀仏の成就を誓った願なんだ。

 

Cさん じゃ十七願はどうなの。十七願も御名の成就と回向を誓った願なんでしょ?

A君 そうだけど十八願は私が南无阿弥陀仏になることを誓った願だと理解できる。

Cさん 十七願で誓われた御名の成就と諸仏の讃嘆による回向が私の上に働いて私が南无阿弥陀仏になったって訳ね。

A君 そう。十八願の信行が成就された姿が十七願に誓われた南無阿弥陀仏の御名ということだ。蓮如上人は「信を得るとは本願を心得るなり、本願を心得るとは南無阿弥陀仏を心得るなり」と言われているけど、この意味はもう分かったよね。

Cさん ええ。十八願が私の上に成就すると、私の心相が南無阿弥陀仏になるのよね。私の心相が南無阿弥陀仏になるということは、タノム者を助けるという南無阿弥陀仏のおいわれのとおりになるということね。それは私が阿弥陀仏に摂取されて浄土往生してゆく私の姿なのね。それが南無阿弥陀仏なのね。

 

B君 だから南無阿弥陀仏が真実浄土往生の証拠となるというのだね。

 

A君 そう。私が阿弥陀如来に摂取されている心相が南無阿弥陀仏、その心相が行となったのが南無阿弥陀仏称名念仏。ここで気づくことはないかい?

Cさん 何かしら。分からないわ。

 

A君 Cさんは、元祖の至心釈を知らないかい?

Cさん よくは知らないけど、善導大師の有名な御文に関する釈ね。

A君 そう。法然聖人は至心とは内外相応をいうと理解しているよね。私の心相も南無阿弥陀仏、行相も南无阿弥陀仏だよ。これは内外相応だよね。

Cさん アッそうか。信を得て念仏する姿が凡夫の至心なのね。分かったわ。

 

A君 信を得て念仏を称えている姿のほかに凡夫の至心はないんだよ。その凡夫の至心は仏様の至心なんだ。本願のまことを深信し念仏を称えることを元祖は、聖道における総の至誠心と区別され別の至誠心と言われている。祖師は念仏のみぞ真実にておわしますと言われた。念仏は称えられる御名が真如にかなったものだという理解を示されたものだと思うが、心相も外相もただ南無阿弥陀仏の真実あるのみだということなんだろうね。

 

B君 ますます南無阿弥陀仏は真実浄土往生の証拠になってくるよね。

A君 そう。信ある人は南無阿弥陀仏が往生決定の証拠であることを信によって領解するが、信の無い人にはそれが自らの往生決定の証拠であるとは分からないものなんだ。

Cさん 「南無阿弥陀仏が往生決定の証拠」という文は御文章に多くは書かれていないけど、真宗教義にとってとても大事なことを教えている御文だと分かったわ。それは念仏往生の教えと同じ意なのね。

 

A君 御名の成就によって往生は確定した。それが南無阿弥陀仏という意味だから、蓮如上人は「他力の信心獲得すといふもただこの六字のこころなり」と言われたんだ。

-上記のCさんの会話部分は既出の「会話編6」の字句を若干に修正したもの

 

Cさん 信心正因称名報恩という教えは念仏往生の教えと異なっているの?

A君 違いはないよ。いずれも南無阿弥陀仏を真因とする往生の事だ。

 

Cさん どうして言い方が違ったものになるの?

A君 念仏往生の外相として現れた念仏を諸行に対比して元祖は念仏を勧められた。それは聖道自力仏教が仏教の中心であった時代に念仏による浄土往生を浄土仏教として独立開宗するために念仏を強調する言い方になった。祖師は念仏往生の教えを本願力回向という観点から念仏を大行大信として組み立て直され、またその称名大行たる念仏に報恩としての意味を与えた。蓮如上人は自力称名念仏が盛んな時代にあって信を強調して他宗と区別する必要があったので称名を報恩行として強調された。

 

Cさん 言い方の違いだけなの?

A君 元祖、祖師、蓮師三者三様であるが、いずれも願力回向の南無阿弥陀仏を浄土の真因とする大経往生を言われたものだ。大悲を感受する信を心に収めた称名は大行であり、かつ報恩行なんだ。称名大行を強調するか称名報恩を強調するかはそれぞれの時代の要請に合わせて変容し得るが、どの時代にあっても南無阿弥陀仏たる大悲を信行の因とする聞名往生という本質部分は少しも変わることはない。その本質部分が念仏往生であると理解しておけば言い方に拘泥する必要はないし、その言い方の違いで念仏往生の理解に違いが生じることはない。拘泥すると無用な論争になりかねない。

 

B君 最初に君は「あまり口称に拘泥しない」と言ったが、それはどういう意味か。

A君 称名報恩と言っても、報恩たる念仏行は大悲の感受に伴って相続されるものだ。それは淳一相続心での念仏だから如実の大行であることに違いはない。報恩行だからこそ自力疑心の混じらない如実の大行だと言える。称名を報恩行と位置づけても念仏を軽視することにはならない。つまり口称念仏に与える意味に拘泥する必要はないということが一つ目。二つ目は「憶念の心つねにして仏恩報じる思い」があれば心で憶念しているだけでも良いということ。外相に声として表さなくても良い。憶念の心が常にあれば声にしなくても念仏往生となるから、念仏の軽視にはならないよ。