3-25.会話編 念仏往生(続々) 南無阿弥陀仏 妙味と教学

B君 信の味わいは教学とは別だと考えている人は多いように見受けられるが、君はどう考えているのか。

A君 信の妙味とは大悲を感受していることから味わえる感じや思いのこと、摂取不捨の阿弥陀仏に南無(信順無疑)となっている心の状態を基点として生じる思いのことだ。最近法友となった人から「南無阿弥陀仏を与えられている実感があるからそこに喜びが生じる。」とのコメントを貰ったが、その実感や喜びが信の妙味だね。

B君 自分の信を語るに教学を語る事で代替しようとする人もいるが、自分の妙味を感じるがままに話をしてくれる人もいるよね。
A君 妙味を感じるがままに話をしてくれても見事に教学に合致している事に気づくことがあるよ。信を明かした大経の教説を学問化・体系化したのが教学だから当然といえば当然なんだが。

B君 何か身近な例を挙げてくれないかな。
A君 先日アップした「3-24会話編」についてお便りをくれた人がいた。その方が述べている妙味を紹介するよ。
-引用-
南無阿弥陀仏が往生の証拠とお聞きして「南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のおいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと」を、よかったなぁ嬉しいなーって思えるまでお育て頂いたことを改めて喜ぶご縁になりました。われとなえわれ聞くなれどつれてゆくぞの親のよび声。お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。
-引用終わり-

A君 以上を分節して解説してみようか。
①.南無阿弥陀仏が完成して南無阿弥陀仏という証拠が届いている世界に生まれさせて頂けて南無阿弥陀仏のいわれをお聞きするご縁に恵まれて私の往生が決まってしまっていることを喜べるまで阿弥陀さまが全部お手回しして下さっていたこと。これを①とする。
②.よかったなぁ嬉しいなーって思っていること。これを②とする。
③.お念仏はいつもお慈悲に満ちて頼もしいですね。これを③とする。
①は法蔵菩薩が因願を成就し、果上の御名を回向したことと信の発得は仏の全因縁であることを語ったもの。
②は回向された御名が信となったことを語ったもので、十八願成就の聞信のこと。③は十八願の称名のことで、大利を得るとされている念仏と信が不二であること。を述べている。

B君 妙好人の話される言葉の中には教学とぴったりと一致する内容が含まれているということだね。もう少し詳しく説明してよ。
A君 大経には、法蔵菩薩四十八願、ことに十二願と十三願、十七願と十八願・十一願が成就されて光の仏となられた事が説かれている。その十二と十三の願成就は法蔵菩薩が正覚を開き、無量の光と無量のいのちの仏となったことを、それらの願と十八、十一の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となったことを、十七の願成就は法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった不思議を諸仏が現に讃嘆・証成していることを意味している。釈迦の大経所説の説法はその十七願成就の証ということになる。

B君 「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」とはまま言われていることだが、その真に意味するものはなんだろうか。
A君 法蔵菩薩が無量の光といのちの南無阿弥陀仏となった、その南無阿弥陀仏を因願に対して果上の名号というのだが、この名号は、仏覚を開かれた阿弥陀仏智慧と大悲の世界においては衆生の往生成仏がすでにこの名号によって完全に決まってしまっていることを意味している。説法でしばしば聞くと思うが、「名号のおいわれを聞く」とは「法蔵菩薩の正覚成就の因果がそのまま衆生往生の因果となった」ことを聞くということなんだ。衆生からすればどんなに仏の摂取決定心にあがらい続けても必ず仏になることが決まってしまっているということだ。私の未来の果は既に定まっているので何ら自力の行を必要とすることなく仏の救済にあずかることができる。これこそが真に意味する所だ。

B君 私の未来の果が成仏という果となることが決まっているのであれば、その因は何だというのか。
A君 その因が南無阿弥陀仏だ。

B君 南無阿弥陀仏が因とはどういうことか。
A君 法蔵菩薩が無量光・無量寿南無阿弥陀仏となったことによって衆生を摂取するに何の疑心疑退もない仏の摂取決定心が果上の御名として成就した。この仏の摂取決定心を聞いて無疑の心となり、この信となった南無阿弥陀仏が往生の因となるということだ。
B君 つまり阿弥陀仏の願心が成仏の因ということか。
A君 そうだ。

B君 そうであるならば、どうして信心正因ということをいうのか。往生浄土が既に決まっているのであれば信は不要ではないのか。
A君 仏の摂取決定心中において私が浄土往生することは既に決まっているが、それが現に実現して次生に私が成仏するか否かは、仏の摂取決定の大悲を受け入れた現在の信によって決まる。だから信心正因ということをいうのだ。

B君 私が浄土往生することが既に決まっているということは、いずれ信を得ることも決まっているということか。
A君 そう。確定している。誰もがいずれ今生か次生か遠生に仏の大悲心を領解することが確定している。

B君 いずれ信を得ることが確定しているのであれば、信を求める事は不要ではないのか。
A君 「阿弥陀仏の報土に往生することが確定している」ということをどのように受け取るかは人それぞれになるが、「報土往生することが既に決まっている」ということを聞いて無疑の心で受けとめて歓喜する人もいる。同じことを聞いても不定の信に留まる人もいる。或いは、信を求める事は不要だと考える人もでてくるだろう。それが宿縁というものだ。大経には不定の信に留まり疑情胎宮に閉じこめられた人であっても「仏智乃至勝智を信じ、諸々の功徳をなして信心回向すれば自然に化生する」と説かれ、これに対し、南無阿弥陀仏の成就によって私の往生は決定していることを聞いて信心歓喜し浄土往生を願ずるようになれば弥陀浄土に蓮華化生したのち「智慧明らかにしてみな自然虚無の身無極の体を受けることになる。」と説かれている。現在の信不信がその報土往生の岐路となるので信心正因という事が言われるのだ。

B君 つまりどんな人であっても南無阿弥陀仏の成就によって将来の報土往生は決定しているが、信不信によって次生の報土往生か、遠い先の報土往生かが分かれてくるということだね。

A君 ここで私が面白いと思うのは、仏の大悲心である摂取決定心において決定している果が現在の無疑信を開くということだ。
B君 普通は現在の因によって未来の果が決まると考えるのが常識的だよね。
A君 常識的にはそうなんだが、真宗の信は逆なんだ。既に仏によって報土往生が決定しているということを聞いて無疑となる信なんだ。果上の御名によって私の浄土往生が決まってしまっており、それを聞くことで信が生じる。未来の果が現在に影響を与えて無疑の信を開くとも言えるし、果上の御名によって報土往生が決まってしまったという思想が無疑の信を開くとも言える。仏の大悲心や果が変わることはないので無疑の信も変わることがない。これは通常の理解を超える信だよね。もう一度言うと、果上の御名によって報土往生が決まった。そのことを聞くことで無疑の信が開けた。その信が次生の報土往生を決める正因になる。その全因縁は法蔵菩薩の大悲心と御名の成就にある。だから祖師は遠く宿縁を慶べと言われている。

B君 決定要期という言葉があるが、今のことと関係しているのかな。
A君 関係しているよ。往生成仏という未来の果が決定していることを無疑の心で受けたとき、その決定した果を期する思いが生じる。その思いは元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて」と言われる往生決定の思いだ。未来の果が不定な状態で往生を期待するのではなく、既に決まった浄土往生を期待する思いだ。不定な状態で往生を期待する思いを不定希求の思いという。この不定希求の思いがあるために不足を補おうとして念仏を称えるのだが、その称名は自力の行に堕してしまうのだ。既に決まった報土往生を期待する思いの念仏には不足の思いがないので自力の思いが混じることがない。これが如実の行であり如実の信だ。南無阿弥陀仏の願心に相応しているから如実と言われる。

B君 諸仏が御名を不可思議真実功徳であると称讃するとはどういうことか。
A君 凡夫が仏として生まれる因縁はすべて願力成就の御名にあるから御名の不可思議功徳を諸仏は讃嘆し証成している。祖師は大悲の成就たる御名を大悲回向と言われ、浄土往生の真因は願力回向によるとされている。この大悲回向によって信が次々に開けてゆくので、弥陀の因果が衆生世界に縁起して無限の菩薩を生み出していることになる。この不可思議を讃嘆しているということだ。その讃嘆は、法蔵菩薩の願心のとおり現に信を生ぜしめている南無阿弥陀仏の不可思議を証成することにもなる。

B君 上記①は御名の成就と諸仏の讃嘆によって大悲が回向されており、釈迦弥陀の大悲によって調熟されてきた全因縁を悦ぶものだということになるかな。
A君 そう。釈迦弥陀は慈悲の父母種々に善巧方便しわれらが無上の信心を発起せしめたまひけり、という和讃のとおりだ。仏の大悲を感じ取っているから言えることだ。この感受が信のすべてなんだ。

B君 ②は、①の大悲の回向を受けて信順無疑となって大悲を受け入れて歓喜している様を表している。これが他力の信相であり、願成就文の「聞其名号信心歓喜」ということだね。南無阿弥陀仏が届いているいう実感があるから喜べるというコメントも同じことを言われたものだね。
A君 摂取するという大悲に南無(信順無疑)しているので、この心相を南無阿弥陀仏と名づけて良い。
B君 ③は自力を交えずに念仏を称えている様相を述べたものだね。
A君 そう。南無阿弥陀仏の心相のままに称えている如実の念仏行だ。これが信具足の称名大行だよ。大悲を感受するままがままに称える念仏だから念仏が頼もしいという表現ができる。真に頼もしいのは、念仏を称える心の中に感じている大悲なのだ。

B君 それが念仏往生ということだね。
A君 法蔵菩薩の正覚成就の証である南無阿弥陀仏が私の往生成仏の因果となって私の往生が決定し、次生に報土往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり行となって往生してゆく。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏 往生の業が念仏往生だ。もっと短く言えば、南無阿弥陀仏という一言になる。この一言の南無阿弥陀仏に私の往生と弥陀の両因果のすべてが収まっていると言うことだね。これが念仏往生だということだよ。

B君 つまり、南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就の証。南無阿弥陀仏は報土往生の因果。私の信行は既にこの南無阿弥陀仏に用意されている。このため現象界に私の信行となって必ず現われる、ということだね。
A君 南無阿弥陀仏は弥陀正覚成就と報土往生の因果の証であるから、南無阿弥陀仏から行を出すと「南無阿弥陀仏 往生の業」となる。さらに信を出すと大行と大信となる。信行を御名に摂して言えば「弥陀正覚成就の証 南無阿弥陀仏」になる。弥陀正覚成就の証を御名に摂して言えば、「南無阿弥陀仏」になる。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞ」と言われたのはそういう心だと思う。

B君 阿弥陀仏の正覚成就の証である南無阿弥陀仏を名号大行、南無阿弥陀仏を称名する行を称名大行というよね。でも南無阿弥陀仏の信となったのを大行とは言わないのは、なぜなんだろうね。
A君 さあね。でも私は南無阿弥陀仏の信となったのを大行と言って良いと思う。信も南無阿弥陀仏だからね。名号大行たる御名に自力疑心がまじわらずそのまま大悲を心に映し取っている如実の信だ。喩えれば、御名が鏡に映り込み、鏡の中に映し取られた御名が御名そのものであるように両者はぴったりと相応して何の差異もないようなものだ。そうはいっても信は御名の複製物であるというのとは違う。無形の大悲がそのまま私の心中に入り込んだのが信であって、信は大悲だ。大悲を感受している味わいを表現するとそうなる。

B君 君が「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という言い方をするのは、そういう味わいからなんだね。 
A君 そう思う。それにね、表現を簡潔にすることは議論する際に効率的だし、思考するに適している。誤解の無いように言っておくが、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」という捉え方や思想は古くからあったことだ。

B君 君の発想や物事を考える視点は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということに尽きてしまうのかな。
A君 そう。たったこれだけを基点にして考えてゆくと観念的になりがちな行信論を自分なりにきちんと整理することができるようになるよ。念仏往生という教説も「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信行となった」ということを忠実に伝える教えであるはずだという単純な発想にも繋がってくる。

B君 その表現は信の味わいをなるべく忠実に表現しつつ、教学的使用にも耐えられるようになっているということかな。
A そう。法蔵菩薩の大悲の願と私の往生の因果が同時に成就されていることを表し、かつ自力疑心が一点も混じることのない他力の信の境地を端的に表している表現だと思うよ。南無阿弥陀仏とはもともとそういうものなんだ。

B君 僕は教学と味わいは別だという発想をする人が多いのは残念であり、それは誤った風潮だと思うが、どう思う?
A君 信が開けた者にとっては、本来、教学と生きた味わいとは融合しているはずだ。仏と大悲と信と念仏について、大悲を感受している思いに照らし合わせながら、その思いに忠実に組み立てたのが教学だから、教学は信を表現した1つの方法だと思う。そういう視点に立つと、紹介したような方々が教学の修得に力を入れて勉強し、教学を味わい深い視点から解説できるようになって欲しいと思うんだ。元祖が「南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとりて申す他に別の仔細なきなり」と言われているのは、法蔵菩薩の正覚と衆生往生の因果の同時成就という教説やその味わいを背後に控えた信の深みを簡潔に表現されたものだと思うが、このような親しみやすく信の妙味を表現してゆくことが信を受けた人に課せられている使命ではないだろうか。