1-30.他力信の特性

他力信の特性を列挙してみる。信の特性はこれらに限定されるものではないし、いくつかは重複している。感じるままに考えたもので教学的に整理したものではない。
①.大悲感受性
②.事実性
③.現在性
④.未来指向性
⑤.過去因縁性
⑥.純真性
⑦.意識非対象性
⑧.無所得性
⑨.非言語性
⑩.仰信性
⑪.信順性
⑫.分離性・委託性
⑬.静寂性
⑭.不変性・確定性
⑮.仏因仏果性
⑯.所与性・回向性
⑰.受動性・受容性・自力無功性
⑱.平等性・無縁性
⑲.念仏発動性
⑳.念仏一体性
㉑.機法一体性
㉒.無意識性
㉓.連続性
㉔.隔絶性

①の大悲感受性は、信は無量光寿の大悲を感受するものであるということ。大悲を感受しているのが信であり、大悲の感受以外に信と呼べるものは何もないということ。
②の事実性は、信は心に属する事実であるということ。信は単なる思想や考えなどではなく、無量光寿の大悲を受けていることを事実として実感できるということ。
③の現在性は、信は常に現在に属しており、過去の一時期のものではないし、未来に属するものではないということ。無量光寿の大悲はつねに現在において感受するものであるということ。
④の未来指向性は、信には往生決定という未来指向性もあるということ。
⑤の過去因縁性は、信は無量光寿との浅からざる過去からの因縁を喜べるということ。
⑥の純真性は、信は無量光寿の大悲を受けるときには一切の計らいが介在せず大悲を純真にそのまま受けるものであるということ。
⑦の意識非対象性は、信は意識の対象にはならないということ。無量光寿の大悲を受けているとの思いがあるものの、その思いと大悲が意識の対象となるだけであり、信が意識の対象になることはないということ。
⑧の無所得性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるだけであり、何かを得たという実感を伴うものではないということ。大悲には五感で感得できる実在感のようなものはないということ。
⑨の非言語性は、大悲の感受は概念として言語化することができないということ。大悲は言語化することができる対象領域にはないということ。あえて信と大悲を言語化すれば南無阿弥陀仏となるということ。
⑩の仰信性は、信はただ無量光寿の大悲を仰ぐばかりであるということ。
⑪の信順性は、信は任せよとの無量光寿の大悲に信順するものであるということ。
⑫の分離性・委任性は、信は後生の問題を如来の領域の問題であって私が解決すべき問題ではなかったと自分の責任領域から分離して、無量光寿に私の往き先を委ねきってしまうということ。
⑬の静寂性は、無量光寿は静寂であること虚無のごとくであり、信は動乱することがなく、静寂であるということ。
⑭の不変性・確定性は、信は変動せず変化がないということ。大悲を感受している思いが不変的にあり続けるということ。往生は確定したとの思いが不変的にあり続けるということ。
⑮の仏因仏果性は、信は無量光寿が成就した仏因仏果によって生じるものであるということ。信の全因縁は仏の無量光寿にあるということ。
⑯の所与性・回向性は、信は無量光寿によって与えられるものであって、自ら求めて得られるようなものではないということ。
⑰の受動性・受容性・自力無功性は、信はただ無量光寿の大悲を受け容れるしかないということ。自分から無量光寿を掴みにいこうとしたり、自分の心を制御・作動させることを手段として無量光寿に触れようとしても触れられるものではないということ。信には自力及ばずの思いが必ず伴っているということ。
⑱の平等性・無縁性は、信はいつでもどこでもどんな状況にあっても心の中に開け起こるものであるということ。能力、才覚、思い、善悪など自分の側に属する一切のものは信に関係するものではないということ。無量光寿の大悲はそれらに無縁の平等の大慈悲であるということ。
⑲の念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。
⑳の念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。
㉑の機法一体性は、信と念仏は無量光寿の大悲によってもともと一対の機受として仕上げられているということ。計らい煩うことがないように信と念仏は大悲が仕上げているということ。衆生に作為を求めるものではないということ。
㉒の無意識性は、信は無意識の領域に深く根をおろしており、意識せずとも大悲を感受し、また無意識のうちに念仏として発動するようになるということ。感受も念仏も自然になさしめられ、ことさらに作為を必要としていないということ。
㉓の連続性は、信は大悲が無量光寿へとわがいのちをつなげてゆくと感じさせるものであるということ。
㉔の隔絶性は、信は世間で起こる縁起の影響を受けることはなく、信もまた世間における縁起に影響を与えることがないということ。信を得た者の我執などの思いが三業として起業して世間に善・悪の影響を与えることはあっても、信と世間とは隔絶しているということ。

自分は大悲から隔絶されていると心から感じている方がいるとすれば、その隔絶感は、自力の思いに覆われた心が自力と他力が完全に断絶していることを素直に感じ取っている絶望感であると言える。この絶望感はやがて自力の思いが廃ることを予兆させるものである。この自力と他力の断絶を自分の力で乗り越えようとしても不可能である。ここに大悲からの救いを受け入れる回心が成立する契機がある。大悲は受け入れるしかないから、意図することなく自力が廃捨されて回心が自然と起こるものである。この回心ののちは、これまで感じていた仏との隔絶感は消失してしまい、大悲を感受する心の世界が開けて仏と自己とに連続性があることを感じられるようになる。ここに信の不思議と面白みがある。