3-27.会話編 他力信の特性(現在性)-平生業成とは-

B君 平生業成と念仏往生の法義の違いについて布教師が解説した音声録音の文字起こしが、あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に掲載されていた。

 

A君 私も読んだが、そこで述べられていた平生業成と念仏往生の各法義を簡潔に要約して紹介してくれないかな。

 

B君 平生業成は、「阿弥陀さまのお助け」と「私が浄土へ参ることが定まる利益」との関係において阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないことを表した法義であるということだった(要旨)。

 

B君 念仏往生は、浄土往生の果に対する因は如来の徳が私に備わっている事であり、その徳が私に備わっている事を、聖道の行に相対させるために念仏行で表す法義であるということだった(要旨)。

 

B君 この両者の法義は異なっており、区別しなければならないという趣旨の解説だったが、君はどう考えているのか。

 

A君 両者の名目が表そうとしている法義は互いに異なっているというのは理解できるが、異なっているというだけでは物足りない気がする。

 

B君 どういうこと。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目やそれが表そうとしている法義は一体どういう具体的事象について述べたものか、またその事象の何について注目した概念であるのか、どのような意図の下に作られた法義であるのか、もっと深掘りしてみることが必要だと感じた。

 

B君 具体的事象とは、平生業成や念仏往生という法義を考える上で考察の対象になる現象の事だね。

 

A君 そう。考察の対象となる具体的事象とは大まかに言えば、元祖・祖師や妙好人の内心に大悲を感得し、念仏している事象のことだ。「内心に大悲を感得している状態」を以下、単に「内心の現象」ということがあるよ。

 

A君 平生業成や念仏往生という名目は、その内心の現象を観察し、その時代時代に応じた要請を受けて、宗教上の一定の目的の下に造語された用語だ。最初に押さえておかなければならない事は「内心の現象」とその現象を「観察」するということだ。次に考えなければならない事は、その内心の現象のどこに着目し、どのような時代の要請を受けて何を表すために成立した名目であるのか、ということだ。

 

A君 まず、「内心の現象」を「観察する」ということから議論しようか。

 

B君 平生業成や念仏往生の名目や法義の成立に先行して「内心の現象」が存在している、というんだね。

 

A君 その現象が先行して存在しているから、それを表す名目や法義が登場してくるんだ。

 

B君 「内心の現象」を大まかに言えば、仏の大悲を感得している現象の事だと言ったが、大まかにではなく、もう少し詳細に言えばどういうことになるのか。

 

A君 内心に生じている事象のことだから正確かつ詳細に述べるのは困難だが、共通項として言えるのは、自力の思いと言われるようなある種の思いや計らいが無くなり、大悲を感得している内心の現象のことだ。自力の思いとか計らいに関しては、私の場合に限定していえば別項(3-26)で詳しく述べたから、そちらを参考にして欲しい。

 

B君 大悲を感得するとどういう思いになるのか。

 

A君 大悲を感得すると、その大悲は私を浄土往生させるという大悲であると分かるから有り難いと思うとともに、その大悲に命の行き先を委ねてしまう思いになる。そのため浄土に生まれられるという思いになる。この浄土に生まれられるという思いを「決定往生の思い」という。「大悲の感得」と「決定往生の思い」に着目してほしい。また両者にはどのような関係があるのかにも着目して欲しい。

 

B君 次に、内心の現象を「観察する」とはどういうことか。

 

A君 内心の現象を意識を用いて眺め、思索し一定の評価や意味づけを与えるという事だ。ある事象に焦点をあてて仔細に眺めて分析し評価する心の機能のことだ。注意力といっても良いと思う。

 

B君 観察している状態とは、具体的にどのような状態なのか。

 

A君 そのことに答える前提として前置きしておきたい事がある。大悲を心で感受しているときに関する心の有様についてだ。その心の有様を大まかに言うと、①大悲を感受している意識状態と②意識が大悲から離れて「内心の現象」を眺めてアレコレと考えている意識状態の2つがある。意識状態は①から②へ、また②から①への切り替えが自由にできる。意識が大悲から離れたり、再び意識が大悲に向けられて大悲を意識している意識状態へと、意識は自由に移動できる。外界に意識を集中しなければならないときは大悲の事は忘れているが、外界に注意を向ける必要が無くなってぼんやりしているときには、意識が自然と大悲に向き、大悲を感受するようになる。いや、大悲を微弱ながらも感受しているから意識が大悲に自然と向かうと言うべきかな。

 

B君 意識を大悲に向けて大悲を意識している状態とは、どんな状態なんだ。

 

A君 観察者としての意識を大悲に向けると、大悲を感受する明確な意識状態になる。それで大悲の内側に入ったように感じになり、ただ大悲を仰ぐことになる。そこでは観察する自分という存在(自我)が薄れてしまう。大悲に委ねるという思いになるから、意識を集中させる事がなくなる。このため観察対象と観察者という2項対立の関係が緩んでしまい、自分という存在(自我)が薄れてしまうのではないかと思う。

 

B君 その状態では観察する自分という存在(自我)が完全に無くなってしまうのか。

 

A君 自我意識は薄れるものの、完全に無くなる事はない。自我は自我として存在している事を感じている。

 

B君 大悲を仰ぎ、大悲を感受する状態のまま、自我は自我として存在している事を感じているということだね。

 

A君 そう。そして意識が少し大悲からそれると、内心の現象と意識とが観察対象と観察主体とに分離されて、意識はアレコレと疑問に思ったり、考えたりする。これが観察している状態だ。この観察作用は、唯識で心所法の中の不定法に位置づけられている「尋・伺」に相当すると思う。講談社学術文庫「世親」(三枝充真)260頁の「推求」と「推究」参照。

 

B君 種類の違う心の状態や機能が併存しているということかな。

 

A君 そう。①大悲を感受する心の意識状態と②アレコレと考える意識状態が区別されつつも同時に併存することもある。大悲を感受する心の意識状態の中にいてどうしてこのような事が起こったのかと同時にアレコレと考えることもあるし、アレコレと考えずにひたり切ってしまうこともある。そのような状態から現実に戻って聖教などを読むと「さもあらん」という思いになってアレコレと思索することになる。この思索中に大悲を感受しつつ思索する事もあるし、そうした状態から脱していることもある。

 

B君 大悲を感受する意識状態とかアレコレ考える意識状態と言われても、分からない人にはとても分からない説明だが、分かるように説明してくれないか。

 

A君 何も難しい話をしているわけではないよ。例えば、怒りが猛然とわき上がってきた経験はあるかな。怒りではなくとも何らかの感情でもいい。

 

B君 そりゃあるさ。

 

A君 そのとき、怒りがわき上がってきたことを冷静に眺めている経験をした事はないかな。

 

B君 怒りがわき上がってきてそのまま感情を爆発させてしまうときは、冷静にその怒りを眺めていられる余裕はないが、抑制できる程度の怒りであれば、冷静に眺めている自分を感じることがあるよ。怒っていても冷静に自分を分析している自分がいるし、怒りが収まったあとは、どうして怒ったのかなど自分の心を分析することもできる。

 

A君 そのような経験はだれにでもあると思うが、自分の心を眺める心の行為はもともと持っていた心の機能が発揮されたものだ。そのような機能は生まれつき備わっている機能だ。

 

A君 さて、「怒りなどの感情がわき上がってきた状態」を「大悲を感受している状態」に置き換えてくれれば、分かり易いと思う。

 

B君 「感情がわき上がっている状態」を冷静に眺めているのがさっきの尋伺(アレコレと考える)の状態に相当し、「怒りの中に埋没してしまって冷静ではいられなくなった状態」がさっきの「大悲を感受して委ねきっている意識状態」に相当すると言いたいんだね。

 

A君 そういうことだ。「大悲を感受している状態」と「感情のわき上がり」が大きく異なっているのは、大悲を感受している状態はおだやかで波乱はなく、静かで慈愛に満ちているということ。また常に微弱ながらも大悲を感受しているから意識が自然とその大悲に向かう。意識が大悲に向うと大悲感受を意識する明確な意識状態に移行する。

 

A君 ところで、自我意識は注意をその対象に向けたときに意識される、意識する主体を意識している意識だ。対象にのめり込むと自我意識は薄れてゆく。禅の境地と真宗の信に親和性が認められると言われているのは、信の状態で自我意識が薄れ、大悲に埋没すれば自我意識を感じ無くなる心境に到達する事があるからだと思う。

 

A君 大悲を感受する意識状態の信とそれを尋伺する意識、同じ心の中に異なった機能がある。意識はいつでも自由に移動させる事ができ、大悲に意識を向けて大悲の中に入り込んで大悲を感受する事もできるし、そこから離れて大悲を眺める事もできる。これは大脳のもつ高次脳機能のひとつだろうね。

 

B君 そのことは平生業成や念仏往生の法義を理解することとどう関係するんだ。

 

A君 平生業成や念仏往生とは、いわば大悲を感受している状態を横から眺めて観察(尋伺)し、その大悲を感受している状態をどのように説明したらよいか、あるいはその状態はどのような宗教的な意味を持っているのかとアレコレと考えている場面(悟性を働かせている場面)で使われる用語であり、一定の宗教的教えを担っている概念だ。それは、ともに同一の内心の事象について観察し宗教思想として考察した結論を教えたものだから、互いに異質ではあり得ないし、相反するものにはなりえない。

 

B君 「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」という問題が出されたとしたら、「同じ」であると言える場面があると言いたいんだね。

 

A君 「2つの事象の異同」を問われた場合、両者はまったく異なっていて共通点は一切無いのか、全く同じであって異なる点は全くないのか、或いは、異なる点は見受けられるが、同じ点も見受けられるのか、を検討しなければならないよね。「平生業成と念仏往生の異同を述べよ。」と問われたならば、法義として異なるということを言っただけではその一部しか回答していない事になる。

 

B君 両者が同一の事象について述べられた法義だという君の主張は分かったから、先を続けてよ。

 

A君 では平生業成の法義について、もう少しつぶさに述べてゆくよ。

 

A君 平生業成とは「阿弥陀さまのお助け」と「私がお浄土へ参ることが定まる利益」との関係を表した法義であり、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものは存在しないという事だったよね。この意味はすぐに理解できたかな。

 

B君 読んですぐに理解はできなかったけど、よく読むと分かった感じになったよ。

聖道の行は行果が現れるのに時間がかかるが、阿弥陀様のお助けの働きには時間というものがない。だから、働きが現れると同時にその利益として「浄土へ参ることが定まる」という他力救済の法義を表しているということだった。

 

A君 そういうことだが、「阿弥陀さまのお助け」とは具体的にどのような事象として私の上に現れてくるのかについては言及されていなかったので、それを自分の頭の中で補って考えなければならない。そのためにこれまで時間をかけて述べてきたんだ。

 

B君 つまり「阿弥陀さまのお助け」は具体的には大悲を感受している状態として現れてくるというんだね。

 

A君 そう。「阿弥陀さまのお助け」が具体的な心的事象として現れたのが、大悲を感受している状態だ。これは信のことだね。もちろん「阿弥陀さまのお助け」は念仏行としても現れるのだが、称名は平生業成とは直接関係しないので、ここではとりあえず横に置いておくよ。大悲の働きはまず大悲感受の信として顕れる。この信に必ず伴うのが「私がお浄土へ参ることが定まる利益」だということになる。

 

A君 「私が浄土へ参ることが定まる利益」とは往生決定のことだ。大悲感受の信の信益として往生が決定したということだ。「阿弥陀さまのお助け」に時間という観念はないとの解説だったよね。その言わんとするところは、「阿弥陀さまのお助け」の働きが現れたと同時にその利益が与えられるという他力救済の原理を平生業成は表そうとしているということだが、その意味する所を一言で言えば、起信と同時に信益があるということになる。大悲の働きによって信が起こるということは、大悲を聞くままが即ち信という聞即信の法義が平生業成にはあるということになるし、信益同時という法義があるということだ。この法義の根拠を求めると、願成就文の「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生・住不退転」に求められるだろう。つまり祖師の聞即信・現生不退(現生正定聚不退転)の法義を継承しているということだよ。

 

A君 平生業成には他にも重要な意味があると思っているよ。

B君 というと。

 

A君 大悲が働く場は「現在」しかないということだ。過去でもなく未来でもなく、

現在にしか大悲は現れ出ないということさ。

 

B君 つまり大悲は「過去のどこかの時点で働いたことがあったが、現在ではもう働いていない。」ということではなく、また「現在は働いてはいないが、未来に働く。」ということでもないということだね。

 

A君 そう。それが「平生」に込められた重要な意味だ。ここでいう「現在」とは、「現在」と認識されている現在の事だ。これを「現在意識」と言っても良い。「私達は常に現在を生きている」とか「永遠の今を生きている」というときの現在や今のことだ。平生は現在とか今ということと同義だ。死ぬまでの生きている間という未来を含んだ意味ではない。

 

A君 ここから重要なことが導かれる。

B君 どんなことか。

 

A君 私は信前に「将来、仏によって助けられる」と思っていた。この思いには2種類あって、一つは宿善を積んだ将来に仏の救いに預かることができるという思い、もう一つは、私は善行を積まなくても仏の力によって将来に仏の救いに預かることができるという思いだった。

 

B君 うん。それで。

 

A君 「現在働いている大悲を現在享受すること」と「将来の救いを願う思い」とは、相互に相容れない関係にある。「将来の救いを願う思い」がある間は、「現在働いている大悲」を現在享受することはできない。だから「将来仏によって助けられる」という思いは、現在働いている大悲の働きを阻害することになる。大悲はつねに現在働いているのだから、その働きをそのまま発揮させればよい。流れている水は流れるままにすればよい。吹いている風は吹いているままにすればよい。大悲の働きは大悲のままにすればよい。それを妨害してはならない。大悲の働きを妨害しているのが「自力の計らい」とか「疑蓋」と言われるものなのさ。

 

B君 「自力と申すことは行者のおのおのの縁にしたがひて、・・(途中省略)・・わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。」と祖師は言われている(親鸞聖人御消息・聖典第2版746頁)。どうしてこのような思いが自力といわれて嫌われるのかな。

 

A君 今の話に関連させて言えば、大悲は現在働いているのに、行果が将来にしか現れない自力聖道の行を大悲を享受するに際して持ち込もうとすると、現在働くべき大悲が現在働かなくなってしまうことになるからだ。「わがはからいのこころをもって心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうな」そうとしているのは、将来助けられると思ってそうしようとしているものだから、大悲の現在の働きを将来の救いの事と先送りにしてしまい、大悲の働きを享受することを阻害していることになるんだ。自力の計らいと言われるのは他力救済に反する自分の思いを差し挟むからだ。

 

B君 そうすると、「心口意のみだれこごろをつくろひ、めでとうしよう」と思うか思わないかが重要ではなくて、現在働いている大悲を現在享受しようとしない事が問題だと言うのだね。

 

A君 そういうことさ。その良い例が「私は悪人だから助からない」と自己を卑下する思いだ。この思いも現在働いている大悲を現在享受しようとしない思いだよね。同じ理由で、この思いも自力の計らいになるんだ。

 

B君 「心口意のみだれこごろをつくろひめでとうしよう」と思うと否とを問わず、「いずれ将来助けられる」と思っている思いも「自分は助からない」と思う思いも、どちらも現在を場として働く大悲を働きを阻害する自力の計らいになるということだね。

 

A君 私が信前において「いつか仏の力によって将来に救いに預かることができる」と嬉しくなったときの思いも、その正体は実に自力の計らいだったんだよ。思うに、この自力の計らいというものは、その根っこは無意識の心の奥に根付いて地下茎のように張りめぐらされており、それが意識内に現れてくるとさまざまな思いとなって心を覆ってしまうものだと思う。

 

B君 自力の計らいを「疑蓋」というのは言い得て妙な表現だね。

 

A君 ところで、大悲の働きが私の心にそのまま働くと大悲を享受し、大悲を感受することになるのだが、「大悲の働きが私の心にそのまま働く」とは、大悲の働きと私の心の間に自力の計らいがいっさい介在していないことだ。だから、大悲を感受している状態とは自力の計らいが廃った状態であり、自力の計らいが廃った状態とは大悲を感受している状態ということになるんだ。

 

A君 そして、自力の計らいの根っこが無くなってしまうと、これまで自力の思いを生じさせていた部分に大悲が入れ替わって充満することになるので、大悲が感受されるようになる。微弱ながらも大悲が感受されるようになるから自然と意識が感受されている大悲に向かうようになる。意識が大悲に向かうとより明確に大悲感受が意識されるようになる。そうなると、感受される大悲に命を委ねる思いになり、決定往生の思いに展開してゆくのだと思う。その結果、御名を憶念し自然と念仏を称えられる事になるんだよ。仏様の清浄な涙の一滴が疑蓋の根っ子を消滅させ、やがて心に広がって大きな意識として増幅され大河となって念仏として体外へと出てゆくというイメージだろうか。

 

A君 話を元に戻すよ。以上の事を踏まえると、平生業成という法義はチョット長くなるが、次のように言い換える事ができる。「仏の大悲は常に私の現在意識を働く場として働き、その働きは大悲を現在感受する事象として心中に現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に心に働き続け、常に現在大悲を感受できる。」「その大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」とね。

 

A君 上記の「」内の表現はこれからしばしば使用したいのだが、長くなるので簡単な表現に置き換えたいと思う。「仏の大悲は常に私の現在意識を場として働き、・・(途中省略)・・ひとたび大悲を感受すれば、・・(途中省略)・・常に現在大悲を感受できる。大悲を感受すると同時に往生決定の思いになる。」ということを全てひっくるめて簡単に「南無阿弥陀仏の心的状態」ということにするよ。「大悲に摂取されて大悲を受け入れている」ことを表している言葉が南無阿弥陀仏だから、これを南無阿弥陀仏の心的状態と言い換えることができる。南無阿弥陀仏は心の状態をも表しているのだ。最初に述べた「内心の現象」はこのことだよ。

 

B君 心が南無阿弥陀仏の状態になっていることは、平生業成だけではなく、念仏往生が表す法義にも当然に備わっていることじゃないのか。

 

A君 平生業成も念仏往生も「南無阿弥陀仏の心的状態」を前提としている名目であり、法義だ。ただ、同じ事象を眺めていてもどこに重きを置いて眺めるか、またどのような宗教思想的意味を与えて説明するかによって説明方法や説明用語が異なってくる場合がある。「大悲は現在を場として働き、大悲を感受すること常にして、その大悲感受により往生決定(の思い)に安住する」という心の状態そのものに着目し、それは仏様のお助けが働いたからだと理解し、そのような宗教的意味づけを与えれば、平生業成の法義になる。これに対して、念仏往生は、その南無阿弥陀仏の心の状態を前提として、往生の因果の因は自力の思いを離れた信具足の念仏にあると行行相対して示すところに重きを置いているということだったよね。

 

B君 心の状態が南無阿弥陀仏となり、その心の状態がそのまま称名となったのが他力の念仏だよね。この他力念仏は大悲の徳がそのまま行者の心身に備わっているので念仏が往生の因となるというのが念仏往生の法義だというんだね。君がよく言う「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行となって往生する」ということだね。

 

A君 念仏往生の場合には、南無阿弥陀仏の信行を仏様が選び取られた選択本願の念仏であり、これが往生の因であると理解し、信具足の選択本願念仏が往生行であるとの宗教的意味づけを与えた上で、その信具足の選択念本願仏行を諸行と相対させる所に念仏往生の主張があるということになる。念仏往生は平生業成とは少しばかり違う軸足に立っていることが理解される。これを私なりに言い換えると、念仏往生は平生業成の法義を含み持っているが、他力念仏を諸行と相対させるために往生の因として選択本願念仏を前面に押し出した法義だということになる。だから、両者はまったく同じだとは言えないが、もとになっている根っこは同じだ。

 

B君 平生業成には念仏を諸行と相対させる意図はないが、念仏往生にはその意図がある。その違いによって、往生の因を信具足の念仏行をもって表すか否か、信の状態に着目して仏様の力用による他力救済を強調するか否かの違いになってくるということだね。

 

A君 平生業成が指し示している事象は心が南無阿弥陀仏の状態であるから、念仏往生の信と同じだ。だから平生業成は当然に称名念仏として展開してゆく事を予定している法義だ。言い換えると、念仏往生のうちにある信と信益に特に注目してその関係を取り出して説明した法義が平生業成だと思う。

 

B君 元祖が一枚起請文に「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」と言われているよね。

 

A君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思う」とか「決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う」が信であり、「疑いなく往生するぞ」と思うところに信益としての決定往生が信と同時にあるということが分かるよ。だから元祖の上記法語にも平生業成と同じように「聞其名号・信心歓喜・(乃至一念至心回向)・願生彼国・即得往生住不退転」の思想があるんだ。

 

B君 では南無阿弥陀仏の状態をどうして異なる法義として表さなければならなかったのかという問題に移るが、どうしてなんだい。

 

A君 念仏往生は、聖道門の寓宗であった浄土門を聖道門から区別し独立した宗として建てるには、聖道の行果とはまったく異なる法義を建てて顕さなければならなかった。これは元祖の時代的要請だった。聖道の行果に相対して往生の因果を顕すために選択本願念仏往生という名目と法義が必要だった。その念仏とは如来の徳が私に備わっていることを顕す信具足の他力念仏のことだ。この念仏に備わった仏の徳によって私の往生が果たされるというのが聖道に対する念仏往生の主張だったんだ。

 

B君 それに対して、平生業成は、仏の徳が備わるのは仏の救いが現れたときに直ちに備わることを顕す法義であり、仏の救いは何らの計らいをまじえずに大悲を感受する信として現れ、その信のときに往生が決定することを主張する法義だったんだね。

 

A君 平生業成は自力念仏では現在の仏の救済には預かれない事を示す明確な目的の下に信と信益の関係に着目し仏様のお救いが働くやいなや、その救済が現れて同時に往生決定の信益が与えられるという他力救済を表すところにその意義や目的があったんだ。これは自力・他力を問わず念仏が盛んになった世相を背景に、他力による救済を明らかにしなければならない時代的要請に応えるための名目だと言える。

 

A君 その法義は、願成就文に淵源を持つ祖師の現生不退とか現生正定聚不退転の思想と同じ法義だし、上記の元祖の一枚起請文にもその思想は現れていると言える。だから平生業成という名目は、名目だけが新しくなったものであり、その法義は決して新しいものではない。

 

B君 今回、「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたのには何か意図はあったのか。

 

A君 先の項(1-30)に他力信の特性の1つとして「③現在性」を挙げたが、その現在性とは先に述べたとおりだ。仏の大悲は常に現在意識を場として働き、その働きは現在大悲を感受する事象として現れる。ひとたび大悲を感受すれば大悲は常に現在意識(心)に働き続け、常に現在大悲を感受し続けてゆく。この特性を「現在性」と言ったのさ。この現在性という信の特質を表すには平生業成の方が適している。だから「他力信の特性(現在性)-平生業成」というタイトルにしたんだ。

 

B君 先の項(1-30)に「⑲念仏発動性は、信は無量光寿の大悲を感受すれば必ず念仏行として発動するということ。念仏行として発動しない信はないということ。⑳念仏一体性は、信は念仏発動の心源として念仏と一体であるということ。念仏は無量光寿の救いの法源として、また大悲を感受させる法源として信と一体であるということ。」の2つが挙げられていたが、この二つの特質は念仏往生に現れた信の特質ということかな。

 

A君 そうだね。この2つは平生業成では表せない信の特質だ。⑲念仏発動性は、信は必ず念仏にて往生するぞという思いになる。念仏とは私が声帯を使って音声化する行為に価値があるのではなく、称される南無阿弥陀仏の心的状態が仏徳を顕しているから、信は、その心的状態を顕している念仏にて往生するぞという思いになり、必ず念仏として発動するようになるということを、⑳念仏一体性は、念仏(南無阿弥陀仏)は仏徳を顕しているから、大悲感受の信を発動させ、信を刺激し継続させる事になるということを、つまり信と念仏とはこのように互いに密接な関係にあることを示したものだよ。念仏往生に顕れた第十八願の信行には信行不離の特質があるということだ。これを平易に言えば、大悲を感受しつつ念仏し、念仏する内側で大悲を感受することができるということだ。

 

A君 私はこのような心理的現象が生じるのは超自然的な現象ではなく、ごくごく自然な現象だと考えている事も付言しておきたい。意識がどのように生じるのか、いつ生じるのか全く分かっていなくても、意識が自然に生じるような自然な現象だと思うんだ。自然現象だから誰にでも起こりうる一般的な可能性があるということだ。「あたかも鉄が磁石に引きつけられるように、誰でもがその大悲に牽かれて大悲の世界に近づいていき、最後には鉄が磁石に接着するように急速に回心現象が起きる。」と思うんだ。祖師が晩年になって他力を「自然」と呼ばれるようになったのもこのような自然な働きであることを感じられたのだろうと思うよ。