3-29.名号の解釈論(十八願と名号)-所信は本願か名号か(続き)

B君 元祖と祖師の能信は同じだが、所信は本願か名号かという違いがあると主張するある布教師の問題提起はどのように整理し、理解したらいいんだろうか。

 

A君 形式的な解釈論としては、十七願と十八願を切り離して十八願の願文だけで十八願を解釈するか、十七願と関連づけて十八願を解釈するか、という問題として思考整理することができる。前者を「単独解釈論」、後者を「関連解釈論」と仮称する事にするよ。

 

A君 単独解釈論では、十八願を「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との大悲を顕わす願と理解し、至心信楽の信の内容はその大悲と結びつけて理解する。つまり、至心信楽を「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との大悲を無疑で受ける信として理解する。これが本願を所信とする理解の根拠であろう。

 

B君 関連解釈論ではどう解釈するのか?

 

A君 そこでは、十七願に誓われている御名との関係において十八願を理解する。十七願十八願を一連の願として理解すると、十七願は「法蔵菩薩無量寿仏となった果上の御名を諸仏の讃嘆である大経所説を通じて衆生に聞かしめる事を誓った願、十八願は「その御名を聞いて至心に信楽無量寿仏国に願生しつつ念仏申す者を浄土往生させる」と誓った願と理解する。そのため至心信楽の信の内容を十八願文の「念仏申す者を浄土に生まれさせん」との願文に結びつけるのではなく、その前の「諸仏讃嘆の阿弥陀仏の御名」に関連させて理解する。つまり阿弥陀仏の御名に顕れた大悲を無疑で受ける信として理解する。

 

A君 大経下巻の十七願・十八願成就文では「十方恒沙諸仏如来皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆し給ふ。十方の衆生その名号を聞きて信心歓喜し乃至一念して至心に回向し彼国に生ぜんと願ずれば即得往生し不退転に住する」と一連に記述している。「その名号を聞きて」とは諸仏が威神功徳の不可思議なる仏名であると讃嘆する「その御名を聞きて」という事だ。ここから十七願で讃嘆される無量寿仏の御名と十八願の「至心信楽」の信が関連を持つ事になる。これが名号を所信とする理解の根拠であろう。

 

B君 ところで、単独解釈論では「乃至十念(の念仏申す)」という文をどのように理解するかが大きな問題となるのに対して、関連解釈論では聞信する「御名」はどのような意味を持っていると理解するのかが大きな問題となるよね。

 

A君 単独解釈論では、念仏申す事は願心に適った行ではあるものの自力を頼んで念仏を行じる行だと解釈することも文理解釈としては可能であるし、願心に適った行であるから、自力の行ではないと理解することも可能だ。

 

A君 乃至十念の解釈に関しては、祖師が尊号真像銘文(浄土真宗聖典第2版643頁)で取り上げている。

 

*-尊号真像銘文の該当箇所を以下に引用-

信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごごろなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる「御誓い」の至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。如来より「御誓い」を賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」

 

A君 祖師は結論として、「乃至十念」は「仏名を称える事は自力の行ではないのだから念仏の数を問わない。仏名はいつでもどこでも称えていればよいように仕上げている。」という仏の大悲が顕れていると理解されている。そして、「如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と言われ、真実の摂取決定心である如来の至心信楽(大悲)を深くたのむべしと勧められている。「深くたのむべし」とは如来の至心信楽(大悲)を受容し自力の思いを永久に離れるという事だ。この乃至十念に顕れた如来の真実大悲をたのんだ信により念仏は乃至十念の念仏となり、信なくば乃至十念の念仏とはならないということだ。

 

B君 鍵括弧二箇所の「御誓い」というのは十七願ではなく、十八願の事だとしか理解しようがないよね。

 

A君 そう。祖師は十八願の「至心信楽」に顕わされた如来の大悲を「真実なる誓願」とか「如来の至心信楽」と言い換えている。この如来の大悲は乃至十念の文にも顕れているというのが祖師の理解だ。だから、祖師が「如来の誓いの御名をとなへんことを勧め給う」と言われたのは、至心信楽や乃至の御言に顕れた大悲を勧め、その大悲を深くたのむべしと勧められた事になる。「名を称へんと勧め」られる仏意についての祖師の結論が「如来の至心信楽を深くたのむべし」ということだ。つまり、大悲を勧める事が乃至十念の念仏を勧める事であり、逆に念仏を勧める事は大悲を勧めることでなくてはならないということだ。

 

A君 関連解釈論では、御名がどのような意味を持つのかを明らかにする必要に迫られる。祖師は「本願招喚の勅命」であるとその意味を明らかにされた。本願招喚の勅命と言われる本願とは十八願のことだ。十八願にある往生の因としての衆生の信因(至心信楽欲生)と行因(乃至十念)を成就し、かつその果上の報土成就を顕した相が南無阿弥陀仏だ。だからこの南無阿弥陀仏は、往生の因を持たない衆生に対して大悲をもって摂取せんと招喚している勅命であると理解されたのだ。

 

A君 「仏願の生起本末を聞く」というのも、この十八願にある往生の因としての衆生の信因(至心信楽欲生)と行因(乃至十念)を成就し、かつ果上の報土成就を顕した相が南無阿弥陀仏であると聞くと言う事だ。これを聞くから浄土往生に自力はまったく無用であったと心から理解されて、自力の思いが消尽することになる。

 

B君  つまり、南無阿弥陀仏は十八願を因として成就されているのだから、衆生の自力を無用とした救いだということだね。

 

A そうだ。祖師が、本願名号正定之業・至心信楽之願因と言われているのはそう言う事だ。本願名号とは、十八願の往生の因とその果たる報土往生を名号として成就してあるから本願によって建てられた名号という意味で本願名号と言われた。そのことを明確にするために十八願を至心信楽の願と言われ、その願が名号の因であると言われた上で、この本願名号が往生の決定行であると言われたのだ。ここから、元祖が十八願を四十八願中の王本願として理解し、その他の願は十八願の城郭内の願として理解していたことを祖師は正当に継承されている事が分かる。

 

B君 十八願の城郭内の願とはどいう意味か?

 

A君 十八願を「城郭」であるとすると、その他の願はその「城郭のうちにあって城郭を構成している願」ということだ。十八願の「往生の因」と「果たる報土」を実現するために誓った願がその他の願であり、衆生救済は十八願の一願に集約されてしまうという事だ。十八願を十七願と関連づけて解釈する立場であっても、その衆生救済は十八願を因として成就した名号をもってするということになるので、結果としては、十八願文だけで十八願を解釈することになってしまうのだ。

 

B君 では、元祖は十七願と王本願の十八願との関係をどのように理解していたのだろうか。

 

A君 その事については、梯和上の「法然教学の研究」242頁に元祖の三部経大意の文が紹介されている。そこでは元祖は第十二願、第十八願、第十七願、第十三願の順番でそれぞれの願意を説かれている。因みに三部経大意は「昭和新修法然上人全集」31頁。

 

*-三部経大意を以下に引用

弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして転た一切衆生にことごとく縁をむすばしめんがために光明無量の願をたてたまへり。第十二の願これなり。つぎに名号をもて因として衆生を引接せむがために念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。その名を往生の因としたまへることを一切衆生にあまねく聞かしめんがために諸仏称揚の願をたてたまへり。第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来この土にしてときたまふがごとく十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなりしかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずということなし。・・・しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば摂取不捨の益をかぶらむことうたがうべからず。・・又この願ひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり。第十三の願これなり。

 

B君 元祖は御名を「往生の因」と明確に示されているんだね。この往生の因である御名を諸仏が称讃し、その御名が往生の因となる不可思議功徳を聞いて衆生が疑う事なく受け入れればそこに光明の縁と名号の因とが和合して摂取不捨の益を被ることになると言われているんだね。

 

B君 ところで、ここで「往生の因」とは衆生の「信因(至心信楽欲生)」と「行因(乃至十念)」の2つを意味しているのだろうか。

 

A君 その両者を意味していると言ってよい。善導の往生礼讃は元祖は熟読玩味されていたはずだ。

 

*-往生礼讃の該当箇所を以下に引用-

しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して光明名号をもって十方を摂化したまふ。「ただ信心をもって求念」すれば上一行を尽くし下十声・一声等に至るまで仏願力をもって易く往生を得。

 

A君 ここに「ただ信心をもって求念」とあるのは、十八願の至心信楽をもって往生を願求し称念するという事だ。「一声等」とある「等」とは一声にも至らない聞信の状態の事だ。この一声もない聞信の信がなければ十八願力によって易く往生を得ることはできないから、信は往生の因であると分かる。元祖の言う「往生の因」とは衆生の「信因(至心信楽欲生)」と「行因(乃至十念)」を指していると理解すべきだ。

 

A君 三部経大意の法義を考える上でポイントになるのは、「名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずということなし」と「光明の縁と名号の因と和合せば摂取不捨の益をかぶらむことうたがうべからず」という所だ。ここに「光明と名号が往生の因であるとの諸仏称讃を聞いて摂取不捨されるに疑いなし」という光号摂化と信に関する法義が表されている。上記の三部経大意を読む限り、元祖には「聞名・聞信の場において光号摂化が実現される」と考えていた事が明らかだ。

 

B君 だから祖師は行巻において「徳号の慈父ましまさずば能生の因が欠けなん。光明の慈母ましまさずば所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといえども信心の業識にあらずは光明土に至ることなし。真実信の業識、これすなち内因とす。光明名号の父母、これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。かるがゆえに宗師、光明名号をもて十方を摂化したまふ。ただし信心をして求念せしむとのたまへり。また念仏成仏これ真宗。」と言われたんだね。

 

A君 「念仏成仏これ真宗」とは、仏の本願力を真宗と言い、本願力による往生を念仏往生といわれたものだ。

 

A君 元祖の三部経大意について梯和上の解説をそのまま引用して紹介するよ。

 

*-「法然教学の研究」242頁以下を引用-

いわゆる光明名号の摂化とそれによって念仏の衆生たらしめられ、摂取不捨の利益を得しめられるという、いわゆる光号因縁の義意が釈顕されている。すなわち第十二願は往生の外縁となる光明の摂化をあらわし、第十七願は諸仏の讃嘆によって名号を衆生往生の因として与えてゆくことをあらわし、第十三願は光号摂化の永遠性をあらわされている。この光明の縁と名号の因とが衆生の上で因縁和合しているのが第十八願における「念仏衆生、摂取不捨」という念仏往生の成立である。・・ともあれ法然第十八願の念仏往生の根源を第十七願に見出し、諸仏所讃の名号が選択の行体であって、これを往生の因体として信奉し奉行しているのが第十八願の念仏往生であるとみられていたことがわかる。この十七、十八願の関係は、聖覚が法然に代わってあらわしたという「登山状」にもみられ、聖覚の「唯信抄」にも伝承されている。「唯信抄」に、まず、第十七願に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしまたへり。この願ふかくこれをこころふべし。名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへにかつがつ名号をほめられむとちかひたまへるなり。・・さてつぎに第十八願に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかむとのたまへりと言われている。法然にせよ聖覚にせよ、選択本願念仏の法門は、諸仏の讃嘆をとおして衆生のうえに実現するのであって、第十七願の教法と第十八願の機受が一体となって成就しているとみられていたことがわかる。親鸞はこのような考え方を伝承し、選択本願の念仏は、第十七願をとおして与えられたとして、第十七願をことに「往相回向之願」とよび、如来の本願力回向の相をこの願の上にみられていたのである。

 

A君 上の解説の中の「第十八願の機受」とは「至心信楽の信」と「乃至十念の行」の事だ。大悲を受けると受けた衆生に必ず「至心信楽の信」と「乃至十念の行」が現れるという事だ。機受とは御誓いを受けたことによって顕れる目印とか証しという程の意味だ。ここに本願力が現れるという事だ。上記の解説に登山状が登場しているので、登山状も紹介しておくよ。但し、三部経大意とは多少ニュアンスが違っている。

 

*-登山状 昭和新修法然上人全集428頁~からの引用-

衆生のために永劫の修行をおくり、僧祇の苦行をめぐらして萬行萬善の果徳円満し、自覚覚他の覚行窮満して、その成就せん所の満徳無漏の一切の功徳を以てわれ名号として衆生にとなへしめん。衆生もしこれにおいて信をいたして称念せば、わが願にこたへてむまるる事をうべし。名号をとなへばむまるべき別願をおこしてその願成就せば仏になるべきがゆえ也。この願もし満足せずは永劫をふともわれ正覚をとらじ。ただ未来悪世の衆生、憍慢懈怠にしてこれにおいて信を起こす事難かるべし。一仏二仏の説きたまはんにおそらくは疑う心をなさんことを。願わくば我十方諸仏にことごとくこの願を称揚せられたてまつらんとちかひて第十七の願に設我得仏十方衆生・不悉皆咨嗟我名者不取正覚とたて給ひて、つぎに第十八の願の乃至十念若不生者不取正覚とたて給へり。そのむね無量の諸仏に称揚せられたてまつらんとたて給へり。願成就するゆえに六方におのおの恒河沙のほとけましまして広長の舌相を出してあまねく三千大千世界におほひて皆おなじくこの事をまことなりと証成し給へり。善導これを釈してのたまわく、もしこの証によりてむまれる事を得ずは、六方の諸仏ののたまへる舌口より出で終わりてのち、ついに口に返りいらずして、自然にやぶれみだれんとの給えり。これを信ぜざらん物はすなわち十方恒沙の諸仏の御舌を破る也。よくよく信ずべし。・・・・-以下省略-

 

B君 この登山状では「名号として衆生にとなへしめん。衆生もしこれにおいて信をいたして称念せば、わが願にこたへてむまるる事をうべし。名号をとなへばむまるべき別願を諸仏が称讃していることを信ずべし」と言われている。この点が三部経大意のニュアンスと多少異なっているね。

 

A君 上記の「これにおいて」とは「成就せん所の満徳無漏の一切の功徳を以てわれ名号としてとなえしめんことにおいて」ということであり、仏名は満徳無漏の一切の功徳そのものであるとする。そしてその功徳を名号としてとなえしめんことにおいて「信をいたして」とは、「名号をとなえしめられていることにおいて信が起こり」ということだ。称えている念仏が実は仏の本願力によって称えさせられていたという事に気づいて念仏は満徳無漏の一切の功徳の仏行であることに思いが至って信が生じたという事だ。上記の三部経大意ではこの点が打ち出されていない。

 

B君 この「名号をとなへばむまるべき別願」というのは十八願の事だよね。

 

A君 そうだね。ここで留意しておくべき事は、諸仏が真実であると称讃する御名をとなふれば生まると信じる法義が成立する理由が聞名・聞信にあることを元祖は特に強調されている。聞いて信じない者は十方恒沙の諸仏の御舌を破る也。よくよく信ずべし。とまで言われている。まして阿弥陀仏の御舌をや、である。

 

A君 さて、三部経大意でも登山状でも、元祖は十七願と十八願の関係について十分に注意を払われている。どちらにおいても、十八願の念仏往生を可能とするのは十七願の諸仏の称揚する御名の成就と聞名・聞信であると押さえられている。そのうえで、登山状では「(信具足の)衆生称念必得往生」という善導の伝統の上に立って第十八願を念仏往生の誓いとして理解されている事が分かる。三部経大意の義意をも加味して解釈すると「諸仏が讃嘆する御名が往生の因であると信じて仏名を称念せば光明名号の因縁和合してわが十八願にこたえて称念必得往生」というのが元祖の基本的な立場だったと理解して良い。御名に顕れた大悲を聞いて無疑で大悲を受けとめたとき十八願の至心信楽欲生となり、乃至十念の称念となり、浄土に生まれるという事だ。

 

B君 つまり元祖は十八願を王本願として位置づけているが、十七願の諸仏が称揚する、十八願成就の相である御名たる大悲を聞き信じた上で乃至十念する衆生の必得往生を念仏往生とし、十八願を念仏往生の願と言われているのだね。

 

A君 そうだ。元祖の言う信とは三部経大意でも登山状でも諸仏の称揚する御名を聞き信じた信であるが、三部経大意では御名が往生の真実の真因であると聞き信じた信、登山状では「(信具足の)衆生称名称念必得往生」という大悲を顕わす御名を聞き信じた信であると理解する事ができる。いずれも諸仏が讃嘆する御名を聞き信じる信である事は同じだ。

 

B君 でも、御名の意味のとらえ方に差異があるかのように思えるよ。

 

A君 そう思えるかも知れない。しかし、実のところは差異は生じない。「往生の因である御名を聞く信」と「衆生称念必得往生を聞く信」とはともに同じ十八願の大悲を受容した同じ信なんだ。御名の成就は「衆生称念すれば必得往生」となる御名の成就でもあるから、御名を聞信する信は「衆生称念必得往生」と聞き信じる信になっているのだ。

 

B君 もう少し詳しく説明してよ。

 

A君 十八願の構成は、「①至心信楽と②乃至十念」の往生の因とその因に対する果としての「③報土往生」という三つから構成されている。それらの要素がすべて成就されている相が南無阿弥陀仏だ。そのため南無阿弥陀仏の大悲を解釈すると次のようになる。解釈A「至心信楽して乃至十念せば必得往生に間違いのない大悲」が成就された。解釈B「(至心信楽を省略し)乃至十念の者必得往生させんとの大悲」が成就された。解釈C「(至心信楽と乃至十念を省略して無条件で)必得往生させるに間違いのない大悲」が成就された。ここでいう「無条件」とは衆生の自力を全く要しないという意味で言っている事に注意してね。以上の3つの解釈が可能となる。

 

A君 解釈Cにおいて「至心信楽と乃至十念」を省略できるのは、衆生にとって信も行も如来が用意したものであって、報土往生は自らの自力の行や思いをまったく必要としない事から南無阿弥陀仏を無条件の摂取不捨の大悲であると理解することができるからだ。この大悲を受ければ、十八願の「①至心信楽・欲生」と「②乃至十念」の往生の因が備わり、十八願に相応する事になる。

 

B君 そうすると、Cの解釈から「南無阿弥陀仏」を「摂取して必得往生させんとの大悲」であるとして、この大悲を聞信した信が願成就文の「聞其名号信心歓喜」であると理解する事が可能であるということになるよね。

 

B君 解釈Bにおいて至心信楽を省略して「乃至十念の者報土往生することに間違いのない大悲」と解することが可能なのはどうしてか?

 

A君 先に述べたとおり、乃至十念には至心信楽の信が具足しているからだ。

 

B君 じゃ、解釈Bの「南無阿弥陀仏」は「乃至十念の者必得往生させん」との大悲を顕しており、この大悲を聞信した信が願成就文の「聞其名号信心歓喜」であると理解する事も可能であるということなんだね。

 

A君 そういうことだね。この解釈Bの大悲を受ければ、十八願の「①至心信楽・欲生」と「②乃至十念」の往生の因が備わり、十八願に相応する事になる。これが登山状における元祖の立場であると言える。また、解釈Cで述べた大悲を聞き受けても同じように十八願に相応する事になる。

 

B君 では三部経大意における元祖の立場はどれになるのか?

 

A君 三部経大意では、往生の因である御名を諸仏が称讃して衆生に聞かしめて、衆生が御名を往生の因であると信じるという事だ。その往生の因とは衆生の信行となる大悲の事だから、いずれの解釈に通じると言えるのではないかと思う。

 

C子さん ところで解釈Cの「至心信楽と乃至十念」の往生の因と果としての「報土往生」を成就した南無阿弥陀仏が「信じて乃至十念する者を必得往生させん」という大悲を顕しているとすれば、御名を信じるとは「信じて乃至十念する者を摂取せん」という大悲を信じる事になって、信が二度出てくるのでおかしく感じられないかしら?

 

A君 形式論理的に考えるとおかしな感じを受ける。だが「至心信楽・乃至十念」の往生の因と「果たる報土往生」を成就した南無阿弥陀仏はその全体で無条件で衆生を摂取せんという大悲の救済法なんだ。その救済法としての大悲にある「至心信楽」とは尊号真像銘文の言い方では「如来の至心を信楽すべし」と招喚している大悲になる。また欲生とはその大悲を信楽させて「我国に生まれさせん」という招喚する大悲になる。だから奇異に思うことではない。

 

C子さん 大悲には大悲を聞き受ければ信となる働きが備わっているから、いずれであっても「摂取して浄土に必得往生させん」との大悲をただ受けとめればいいだけになっているのね。南無阿弥陀仏の大悲を聞くだけでその大悲と無疑信が我が心に開かれるのね。

 

A君  往生の因果を誓った十八願は名号が成就される因であり、名号は十八願の果上の相であることは理解できたよね。そうすると、最初の導入部として「解釈論としては、十七願と十八願を切り離して十八願の願文だけで十八願を解釈するか、十七願と関連づけて十八願を解釈するか、という思考整理ができる」と述べたが、結局、この両解釈は同じ結論になるということが分かっただろうか。名号が十八願を成就した相である以上、信を十七願と関連づけて解釈しても、結局、十八願だけで信を解釈した結果と同じことになるんだ。また単独解釈説をとったとしても十七願の名号回向によらなければ十八願に相応する往生の信行は実現する事はないから、十七願の名号成就と衆生への回向を必然的に考慮しなければならなくなるのだ。

 

A君 つまり本願と言っても名号と言ってもいずれも同じ大悲なんだ。だから無疑の信の所信は大悲だというべきであって、その大悲を本願というか、名号というかの違いだけなんだ。だから、所信を本願としても名号としても元祖と祖師の能信が同じになるんだ。元祖と祖師の所信が違うならば能信が同じになるわけがない。本願であれ名号であれ、ともに同じ大悲を仰いでいるから能信が同じになるんだよ。 

 

A君 果上の大悲が南無阿弥陀仏であり、この南無阿弥陀仏の大悲を受け取ると南無阿弥陀仏衆生の信となり行となるので、祖師は行巻において「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり」と述べられ、「乃至十念の称名が最勝真妙の正業であり、それは萬行萬善の果徳円満した南無阿弥陀仏そのものであり、その南無阿弥陀仏が念仏における正念(信心)である」と言われた。信と乃至十念はいずれも機受であるが、そのいずれの機受は南無阿弥陀仏であると示されたわけだ。ここにおいて、祖師は元祖の勧められた称名念仏とか念仏往生というのは南無阿弥陀仏そのものによる往生である事を明確にされたと言える。

 

A君 選択本願念仏集に「南無阿弥陀仏 往生の行 念仏を以て先と為す」とあるのも同じ意味だよ。御名が往生の因たる往生行であり、(その往生の因を聞信したことによって往生の行となった)念仏を(諸行に対して)先にするという意味だと理解できる。

 

B君 そうすると、元祖と祖師の思想は、南無阿弥陀仏が往生の信因・行因であると理解し信じている点においては同じだということだね。元祖が念仏往生と言われていた法義を別の言葉で言い換えると、「南無阿弥陀仏が往生の信因・行因である」という事であったり(三部経大意)、「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり(行巻)」という事なんだね。あるいは「本願力往生」という事になるんだね。

 

A君 そうだと思う。ここで五願開示についても触れておく事にするよ。

 

A君 冒頭の布教師は「五願開示は十八願を五願に開いたものではなく、願成就文を五願に開いたものだ」という問題提起もしている。初めて聞く見解であり、どのような学説なのか興味を覚えるので研究論文が公表されるのを待ちたい。ただ、祖師の五願開示は元祖の十八願を王本願とする立場を継承したものであるというのが私の見解であり、仏名の成り立ちを五願に開示したというのが私の立場だ。仏名は十八願成就の相だから、仏名の成り立ちを五願に開示したとは十八願を五願に開示した事になる。具体的には名号は①法蔵菩薩の「正覚成就」と②衆生が往生してゆく「浄土の成就」、③十八願の「信成就」、④十八願の「行成就」、⑤衆生の「信行回向成就」、⑥その往生の因による浄土への「往生成就」を証するあかしだ。

 

B君 上記①と②は十八願の「我仏にならんに・・不取正覚」を成就したもので十二願と十三願がその役割を担い、⑥は十八願の「生まれずは不取正覚」を成就したもので十一願がその役割を担い、③は十八願の「至心信楽欲生」を成就したもので十八願がその役割を担い、④⑤は十八願の「乃至十念」を成就したもので十七願がその役割を担っており、名号が成就されていることを諸仏が証成しその名号を讃嘆回向し、衆生が行じるとする理解が五願開示の考え方だというんだね。

 

A君 上記の④⑤を表したのが称名の出願を十七願とし、「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏(行巻)」という祖師の教えだ。

 

A君 また上記の③を表したのが祖師の十八願を「信願」とか「本願信心の願(信巻)」と理解する考え方であり、「・・南無阿弥陀仏はこれ正念なり(行巻)」という言葉だ。

 

B君 願成就文を五願に開示したといっても、願成就文は十七願と十八願の成就文だから、結局、本願名号を五願に開示したとする立場と同じになる。

 

A君 そうだね。同じにならないとおかしいと思うよ。また、願成就文を五願に開示したという立場と十八願を開示した立場とでは、何が異なるというのか疑問が残る。

 

A君 ところで聴聞して大悲を悦んだり、聖教を読んで大悲を悦べるのは、大悲を胸に感じているからだ。大悲を胸に感じているから、聴聞や聖教からも大悲を感じ取る事ができるのだ。この現象は聴聞や聖教と胸の大悲とが共鳴している現象だと言って良い。胸に受けて感受している大悲があれば、自然と共鳴する。

 

A君 ここが理解できると、本願の生起本末の「末」が何を指しているのかもよく理解できる。「末」とは今私が大悲を聞いて悦んで念仏申している事だと分かるよ。この「末」を基点として、どうして、このような末が生じたかその因縁を尋ねると、法蔵菩薩が本願を建てた大悲があり、その大悲を南無阿弥陀仏という形で成就したからだと理解できる。そうすると、信の対象(所信)が本願であるとか、名号であるとか、という問題提起をすること自体がおかしな事だと分かるだろう。もっと言えば、胸に感受している大悲を表現するとき、その胸の内の大悲を、ある人は「本願」と表現したり、ある人は「光明名号」と表現しているだけであり、言わんとしているものはみな同じ大悲であると理解することが可能となるんだ。「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象」という観点から考える事が大事だというのは、こういう所に実際上の意義があるのだと思うよ。この観点から「阿弥陀仏は念仏を勧めているとか、いないとか」という表現や議論の仕方を考え直してみると、いずれも大悲を抜きにしているから、胸に響かない、なにか的外れな事を議論しているような感じを受けないだろうか。名号にせよ本願にせよ、念仏にせよ信にせよ、私には阿弥陀仏が勧めているのは大悲を勧めているという答え以外にはないと思えるのだ。法義を話すときは常に大悲との関係で法義が成立している事を忘れてはならないし、大悲から遊離してしまうような事があってはならないと思う。