3-23.会話編 善導の就人立信と就行立信~蓮師への系譜

善導の観無量寿経疏 散善義・上輩観・上品上生釈・深心釈中の二種深信釈のあとに就人立信釈と就行立信釈が述べられている。浄土真宗聖典七祖編462頁~464頁

 

*1 就人立信釈

十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時、悪世界、悪衆生、悪見悪煩悩、悪邪無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して、衆生称念すればかならず往生を得と勧励したまふを讃じたまふとのたまふは、すなわちその証なり。また十方の諸仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざることをおそれてすなわちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまう「なんだち衆生みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし、下一日七日に至るまで一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば、定めて往生を得ること必ず疑いなしと。 このゆえに一仏の所説はすなわち一切仏同じくその事を証成したまふ。これを人に就(つ)きて信を立つと名づく。上記「 」内は阿弥陀経の諸仏の勧信の文を善導が意訳したもの。

 

*2 就行立信釈

次に行に就(つ)きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。一には正行、二に雑行なり。正行といふは、・・・またこの正行のなかにつきてまた二種あり。一には一心に専ら弥陀の名号を念じて行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざるはこれを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆえなり。もし礼誦等によるをすなわち名づけて助業となす。この助正二行を除きて以外の自余の諸善はことこどく雑行と名づく。もし先の正助を修すれば心つねに弥陀仏に親近して憶念断えず、名づけて無間す。もし後の雑行を行ずればすなわち心間断す。廻向して生ずることを得べしといえどもすべて疎雑の行と名づく。ゆえに深心と名づく。

 

B君 就人立信釈と就行立信釈は、何について述べたものか?

 

A君 観経(「散善上上品三心」の章)においては、弥陀仏の浄土への往生には至誠心・深心・廻向発願心の三心が必要とされている。この三心の一つでも欠けると往生は不可だと解釈されている。就人立信釈と就行立信釈はこのうちの念仏行者の深心について述べたものだ。

 

B君 それぞれ、どのような意義があるか。

 

A君 まず、就行立信釈について言えば、「一心に専ら弥陀名号を念じる正定業」たる念仏を行じる者は、弥陀仏に親近し、弥陀仏を憶念すること絶え間無い。これを善導は「無間」とするが、「雑行」を為す者の憶念は間断してしまう失があるとしている。この失とは、雑行がもともと疎雑とされることに由来する。疎雑とは浄土に疎なる諸々の善行の事だ。この疎雑を廻向(廻転趣向)して生ずることを得るのは、せいぜいのところ化土往生の果どまりであって、報土往生の果ではない。これに対して、正定業たる念仏の行者は弥陀に親近し弥陀への憶念が間断することが無いので、例外なく必ず報土往生の果を得る。この果の得失を示すことをもって行の得失としている。往生に不可欠の深心は、弥陀に親近し弥陀を絶え間無く憶念することを可能とする心であるが、この心は一心専念弥陀名号に伴う心であり、雑行には伴うことがない。就行立信釈にいう「行に就きて信を立つ」とは、信が立つ行つまり信たる深心を具備している行を明らかにした釈であり、その深心が生じる行とは一心専念弥陀名号の行であり、雑行ではない事を明らかにしたことに意義がある。深心は一心専念弥陀名号の行に伴う心であり、雑行を行じている間は深心が生じることはない。

 

B君 どうして雑行を行じている間は深心が生じることがないのか?

A君 雑行は、もともと浄土往生の行ではないからだ。もともとの浄土往生の行とは、浄土の主である阿弥陀仏が自らの浄土への往生の行として本願に定めた行のことをいう。本願に浄土往生の行として定め置いた行でなければ、そもそも報土往生の行にはなり得ない。

 

B君 その行とは何か?

A君 その行とは十八願に定めている「至心信楽欲生我国乃至十念」の行のことだ。この行の成就が南無阿弥陀仏の仏名であり、弥陀によって衆生の往生行として成就された弥陀の行だ。その仏名以外の諸善万行とされる善はすべて一括して浄土の疎なる行に分類されることになる。十八願に定められている行であるか否か、という観点から分類したものだ。

 

B君 それだけでは、雑行では深心が生じることがないとする理由がまだ十分ではないように思うが。

 

A君 そうだね。その点を明確に言うと次のようになる。諸善を浄土往生の行として廻転趣向することの本質は自力の作善によって往生を果たそうとする所にある。この思いと往生のための手段としての諸善は、十八願に定められている「至心信楽欲生我国 乃至十念」の信行に合致していない。十八願の信と行はいずれも仏名として一括成就され、十七願成就によって既に衆生に廻向されているのに、その仏名を須(もち)いずに諸善を用いて十八願の果である報土往生を求めようするとき、その心行はともに十七願・十八願の仏意に背くことになる。

 

A君 この仏名を須いて往生する事に関連して想起されるのが、祖師が善導の至誠心釈を読み替えて、弥陀仏の真実心を須ちいることが衆生の至誠心であると明確にされている事だ。

 

*3 観無量寿経疏・至誠心釈 七祖編161頁~163頁

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲すれば、これ必ず不可なり。なにをもってのゆえに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなわち一念一刹那に至るまでも三業の所修みなこれ真実心のうちになし給い、およそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。・・不善の三業は、必ず須く真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起こさば必ず須く真実心のうちになすべし。内外明暗を簡ばず。みな須く真実なるべし。ゆえに至誠心と名づく。

 

*4 信巻 浄土真宗聖典第2版233頁

祖師は上記2カ所の下線部分を①「三業の所修みなこれ真実心のうちになし給へるによりてなり。おおよそ施し給ふところ趣求をなす。またみな真実なり」と、②「不善の三業は必ず真実心のうちに捨て給へるを須(もち)いよ。またもし善の三業を起さば必ず真実心のうちになし給へるを須いて、内外明暗を簡ばず、みな真実を須いるがゆえに至誠心と名づく」とに読み替えた。

 

A君 上記の①「三業の所修みなこれ真実心のうちになし給へるによりてなり。おおよそ施し給ふところ趣求をなす。またみな真実なり」とは、弥陀仏が真実心で為した三業の所修は衆生に施す仏名のことであり、衆生がその施された仏名を須いて浄土往生を趣求するとき、その趣求は真実であるということ。趣求の主体を弥陀仏から衆生に転換した。

 

A君 上記の②「不善の三業は必ず真実心のうちに捨て給へるを須(もち)いよ」とは、如来は不善の三業を真実心のうちにすべて捨ててしまい、衆生に廻施する仏名を真実ばかりの行として成就なされたのだから、その不善を捨てて完成した真実の仏名を須いよということ。不善を捨てる主体を衆生から弥陀仏に転換した。衆生は心から弥陀仏の真実心や真実の仏名を須いない限り、至誠心にはなれない。祖師は、弥陀仏の真実心を須いることが衆生の至誠心なのだと理解された。曾無一善の悪人が浄土往生したとする観経下々品の悪人往生は、この弥陀仏の真実心を須いることによってはじめて可能となる。この須いるとは、自力作善の行に頼るのではなく、仏力にまかせて仏力に全面的に頼ることだ。だから、一善もできないため諸行往生こそ不可能な悪人でも、弥陀仏の真実心を須いることで往生が必得となる。これが観経の正意だ。

 

A君 弥陀仏の真実心である仏名を須いずに諸善を用いて往生しようとするから、十八願の仏意に背くことになる。そのために、弥陀を憶念相続する心である深心が生じることがないのだ。

 

B君 深心とは「至心信楽欲生我国」のことなのか?

 

A君 深心とは文理の上では無疑信、つまり信楽のことだ。この信楽になると弥陀を憶念相続する心が間断することがない。この信楽についてはあとで触れるので、ここではそれだけにとどめておくよ。

 

B君 では、念仏行を行ずれば深心を得られるのか?

 

A君 そうではない。正定業たる一心専念弥陀名号には深心が伴っているが、これと異なる念仏を称えても深心を得られる訳ではない。つまり念仏には、正定業たる念仏とそうではない念仏とがあって、前者には深心が伴っているが、後者には深心が伴っていないということだ。

 

B君 その場合、念仏行を行じながらも深心が生じないのはどうしてか?

 

A君 念仏を行じている所だけを見ると仏名を須いているように思えるが、この場合においても、念仏行を我が作善の行と理解して行じているので、諸善を用いて往生しようとする心根と全くおなじだ。行じる行が諸善から自力作善の念仏行に変わっただけの事だ。だから、自力作善の称名は諸善の1つに分類されるべき行となる。心行ともに依然として仏願に反しているので、深心が生じることがない。

 

B君 では、どうしたら弥陀名号を須いる深心が生じるのか?

 

A君 それを教えているのが就人立信釈だ。

 

A君 「就人立信」は、釈迦と諸仏の大悲は同心同体であり、釈迦の言は諸仏の誠実の言でもあるからその誠実の言を信ずべしと衆生を勧めている。その誠実の言とは「一切の凡夫、罪福の多少時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし下一日七日に至るまで一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得ること必ず疑いなし」という釈迦や諸仏の言のことだ。ここでは、「就人立信」の「人」とは一応は釈迦や諸仏のことを指している。誠実とは虚偽が無く真実であるということ。例外なく、その言のとおりになるということだ。

 

A君 就人立信釈にいう「人に就きて信を立つ」とは、信が立つ根拠ないし、信の対象となるものは何か、を明らかにしている釈という事になる。

 

A君 釈迦や諸仏が勧めているのは「一心専念弥陀名号、定得往生必無疑」の言であり、これは、阿弥陀仏の十八願の誓いである「至心信楽欲生我国乃至十念・若不生者不取正覚」を成就した弥陀名号の願心を言い換えたものであり、「弥陀名号」というのはこの誓いにある「至心信楽欲生我国乃至十念」の往生行を成就した南無阿弥陀仏のことだ。釈迦や諸仏が衆生に勧めているのはこの南無阿弥陀仏であり、この南無阿弥陀仏こそが弥陀が衆生を浄土に招喚する誠実の言だ。諸仏がこの弥陀仏の誠実の言を指讃し、勧励し、証成されていることを善導は誠実の言と言われた。

 

A君 「就人立信」の「人」とは一応は釈迦や諸仏のことだが、再往には弥陀仏を指している。釈迦・諸仏の誠実の言とは、その行き着くところは弥陀仏の招喚の誠実の言になってしまう。この弥陀仏の誠実の言に対して「定めて往生を得ること必ず疑い無し」という信が開けるのであり、この信を無疑信という。この信は、釈迦諸仏・弥陀仏の誠実の言を真実誠として受け入れるところに生じるものであり、その誠実の言のゆえに生じる信だ。諸善を行じることで無疑の信が開き起こる事はあり得ない。善導は「この雑毒の行を回してかの仏の浄土に生ずることを求めんと欲すれば、これ必ず不可なり」と言われている。仏名は雑毒の雑じる事のない仏様の善であるから、この仏名によらなければ雑毒の混じらない報土にはゆけないというのだ。

 

B君 その仏の真実心を受け入れて無疑となった心が深心ということか。

 

A君 そう。その無疑信が深心だ。就人立信釈が深心に関する釈である以上、その無疑信が深心だと理解される。この深心は釈迦諸仏と弥陀仏の誠実の言によって発心するのだ。この深心が凡夫の至誠心でもあり、凡夫の至誠心は深心でもある。いずれも弥陀仏の真実の大悲心だ。

 

B君 無疑の深心が発心すれば念仏が正定業たる念仏となり、深心が発心していなければ正定業たる念仏にならないというのであれば、念仏が正定業となるか否かは、深心の有無で決まるということになるよね。

 

A君 当然そうなる。善導の言う正定業とか一心専念弥陀名号というのは、十八願の「至心信楽欲生我国乃至十念」を成就した南無阿弥陀仏の事だ。南無阿弥陀仏として成就された「至心信楽欲生我国の信を伴う乃至十念」の行を正定業というのであり、「至心信楽欲生我国」の信を欠くと、正定業ではなくなってしまう。念仏を称えても「乃至十念」の念仏ではなくなってしまう。祖師は化身土巻において「おおよそ大小聖人一切善人、本願の嘉号をもっておのれが善とするがゆえに信を生じることあたわず、仏智をさとらず」と言われている。この念仏を称えていても「乃至十念」の念仏にはならない。これは自力作善の称名行というべきものであり、諸善の行のうちの1つに分類されるべき行だと言える。

 

B君 正定業たる念仏には深心があるが、雑行に深心が伴うことはないという言い方は、行自体の特性に着目して深心の有無を区別している言い方だ。行自体の特性に問題があると言い方だ。

 

A君 そうだね。十八願に定め置かれている「至心信楽欲生我国乃至十念」の行と「諸善万行」とを比較しているので、行と行とを相対して前者には深心があり、後者には深心はないと分類区別している。前者は仏の成就した衆生の行であるから雑毒が雑じる事はないのに対し、諸善は凡夫の雑毒が混じる。この行の違いに着目して区別しているので、それはそれで正しい。

 

B君 だけど、行じる行が念仏の場合には、行自体の特性から深心の有無を区別することが出来なくなってしまうのではないか?

 

A君 そういうことになる。それで?

 

B君 そうであれば、諸善であれ念仏であれ、深心が往生の因としての要であると言えばいいだけのことじゃないか。無疑である他力の信を得たのちの諸善については、元祖は雑行とは言わず、それを異類の助業だと言われている事をA君はどこかで紹介していたよね。それはつまり、行自体の特性に原因があるというよりは、信の有無、反顕すれば、往生を目的とした自力作善の思いの有無によって行の性格が決定ないし規定され、それによって行の意味が決まるということではないかと思う。

 

A君 うん。それはその通りだ。信の有無によらなければ正定業たる念仏と自力の称名行とを区別することができない。このことをも考慮するならば、行自体の特性によって正定業か否かを区別することは適当ではない。むしろ、信によって行の意味合いが規定されると理解する事が問題の本質を正確に理解することになると思う。だけど、就行立信釈には、それなりに意義がある。それは、雑行の本体である諸善万行では報土往生はできない、弥陀名号にしか深心は生じないということを知らしめる所にその意義がある。だから、善導は「もし先の正助を修すれば心つねに弥陀仏に親近して憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずればすなわち心間断す。廻向して生ずることを得べしといえどもすべて疎雑の行と名づく。ゆえに深心と名づく」と言われて、雑行を戒められた。雑行を戒める事によって正定業たる仏名を須いた念仏へと誘導しようとする明確な意図があったのだ。

 

B君 つまり「就行立信」は、修する行の違いによって深心を伴ったり、伴わなかったりするので、衆生が修すべき行は「一心専念弥陀名号」でなければならないと勧め入れようとしているということだね。

 

A君 ところで就人立信釈と就行立信釈に共通しているものがあるが、それが何か気づいたかな?

 

B君 共通しているのは「一心専念弥陀名号」ということだ。

 

A君 そう。共通しているのは「一心専念弥陀名号」だ。「一心に専ら念ずる」が深心・憶念を表し、この一心は弥陀名号による往生を疑いなしと信ずる無疑の信であることを表している。「専ら弥陀名号を念ずる」の言には、雑行を廃して弥陀名号を立てるという廃立の意味がある。就人立信釈において、①弥陀名号の成就による招喚を無疑で信じることを、就行立信釈において、②弥陀名号を一心に専ら念ずることが往生の正定業になると教えている。つまり、就人立信釈は一心専念に焦点を当てた釈であり、十八願の「至心信楽欲生」に対応し、就行立信釈は専ら仏名を憶念する所に焦点を当てた釈であり、十八願の「乃至十念」に対応する釈だと理解できる。

 

A君 就人立信釈は、阿弥陀仏の十八願とその成就の南無阿弥陀仏阿弥陀仏の誠実の言であるから無疑で受けよと勧めていることを明らかにした点に意義がある。就人立信釈によって弥陀名号への無疑信を勧め、就行立信釈によって乃至十念の念仏を勧めるとともに、雑行を戒めたということになる。

 

B君 善導は、先に就人立信釈を述べたあとに就行立信釈を述べているのには何か意図するところがあったのだろうか。

 

A君 就人立信釈が十八願の「至心信楽欲生」に対応し、就行立信釈が「乃至十念」に対応した釈だというのが、その先後の理由の1つだが、もう1つ考えられる。阿弥陀仏誓願には十八願と十九願がある。十九願は諸善をもって往生しようとする者に必要な条件として菩提心、至心発願を定めている。就人立信釈と就行立信釈は、十八願と十九願の順番に対応して述べたのではないかと思う。つまり、十八願の「至心信楽欲生我国乃至十念」の行が報土往生の正定業であり、報土往生に不可欠な深心が伴っていることを明らかにするために、まず就人立信釈によって弥陀名号を釈迦諸仏が指讃し、勧励、証成しているとして弥陀名号への無疑信を勧めた。次いで十九願による諸行往生は弥陀の誓願ではあるが、仮の願であることを知らしめんとして、就行立信釈によって、③「もし後の雑行を行ずればすなわち心間断す。廻向して生ずることを得べしといえどもすべて疎雑の行と名づく」として、十九願による諸行往生を戒めたと考えられる。

 

B君 では、深心や無疑信が生じる根源は何であるのか。この点について就人立信釈以外に善導は何か言っているのか?

 

A君 善導の玄義分の文を見てみよう。

 

*5 玄義分(抜粋)聖典七祖編①298頁、②301頁、③319頁、④321頁、⑤326頁

①弥陀の本誓願、極楽の要門に逢えり。・・                                  

②仰ぎておもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなわちかの国より来迎したまふ。かしこに喚ばい、ここに遣わす。あに去(ゆ)かされるべけんや。・・

③信を生じて疑いなければ、仏の願力に乗じてことごとく生じることを得。・・

④仏、韋提に告げたまわく、諸仏如来は一切衆生の心想のうちに入りたまふ。・・

⑤ただよく上一形を尽くし下十念に至るまで、仏の願力をもって往かざるはなし。ゆえに易と名づく。

 

A君 釈迦がこの娑婆世界において阿弥陀仏の十八願とその成就を説いたのは「一心専念弥陀名号」によって浄土往生することを勧励し、阿弥陀仏が十八願を建ててその願を成就したのは「一心専念弥陀名号」と衆生に呼びかけて浄土に招喚するためだ。だから、善導は②「あに去(ゆ)かざるべけんや」と言われ、釈迦弥陀の勧励と招喚を受けながら「どうして浄土にゆけないことがあろうか」「どうして浄土にゆかないでおられようか」と釈迦弥陀の勧励・招喚を心に受け入れたのだ。それができたのは釈迦弥陀の勧励と招喚があったからだ。これが就人立信を釈した善導の本意だ。

 

B君 善導が、「あに去(ゆ)かざるべけんや」と言われたことは、二河白道の譬えにも出てくるよね。

 

A君 紹介してくれないか。

B君 「西の岸に人ありて喚ばひて曰く一心正念にして直ちに来たれ。われ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを怖れざれ」と西方浄土の人である弥陀仏が招喚し、この招喚を受けた念仏の行者について「すでにここに遣わし、かしこに喚ばうを聞きて、すなわち自らまさしく身心にあたりて決定して道をたずねて、直ちに進んで疑怯退心を生ぜず。」と言われている。聖典七祖編466頁~470頁

 

A君 「自らまさしく身心にあたりて」とは、「自らの全身全霊で勧励と招喚を受け止めた」ということだろう。「決定して道をたずねて」とは、全身全霊で仏様の勧励と招喚を受け止めたことから、その勧励と招喚に対して疑惑したり、怖じ気づいたり、尻込みする心が無くなった。それで、浄土往生の道を決定して進んだということ。疑怯退心とは疑惑したり、怖じ気づいたり、尻込みする心のことで、善導は自らの回心の体験の上でこれらの心が無くなったと言われているんだ。

 

A君 善導が①「弥陀の本誓願、極楽の要門に逢えり」と言われたのは、この回心である「弥陀の招喚を自らの全身全霊で勧励と招喚を受け止め」た際の心のあり様から「極楽の要門に逢えり」と言われたのだろう。「逢えり」とは無疑となったことを表している。極楽の要門とは本誓願つまり十八願の信行に逢えたということだ。

 

A君 善導が仏様の勧励と招喚を受けたことによって、③「信を生じて疑いなければ仏の願力に乗じてことごとく生じることを得」と言われたのは、自力作善の思いが消尽し、仏願力にまかせきり、まかせきった仏願力による往生を得心したことから、仏願力に乗じると言われたものだ。ここに善導の得生の思いがある。

 

A君 善導はその得生の思いが生じたことを、④「諸仏如来が一切衆生の心想のうちに入りたもうた」と言われている。これは、観経の定善観・像観にある表現を用いたものだが、仏様の大悲心が心の中に入り込んだというのは、阿弥陀仏の大悲を感得し、感得した大悲心が阿弥陀仏そのものだと領解したことを表している。

 

A君 また善導は、⑤「ただよく上一形を尽くし下十念に至るまで仏の願力をもって往かざるはなし。ゆえに易と名づく」と言われている。ここで「易」とは、仏願力を受け入れたことにより自力を用いることなく仏願力によって往生できるので(願力往生)、易行とか易往という。苦悩した自力の思いから完全に解放されて、我が往生を弥陀にゆだねきってしまい、心が軽くなっているあり様を「易」という。易は他力本願を表している。

 

A君 祖師もまた大悲心を感得された。感得された大悲心が南無阿弥陀仏そのものであると領解されたことから、祖師は南無阿弥陀仏を本願招喚の勅命の大悲であると釈された。

 

B君 この大悲心の感得が信だというのだね。

 

A君 そう。これが観経の「深心」であり、「一心専念弥陀名号における深心」であり、「下一日七日に至るまで一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得ること必ず疑いなし」という無疑信のことだ。信巻には「深心」を次のように釈されている。

 

*6 信巻 聖典第2版252頁

宗師(善導)の専念といへるはすなわちこれ一行なり。専心といへるはすなわちこれ一心なり。しかれば願成就の一念は即ちこれ専心なり。専心は即ちこれ深心なり。深心は即ちこれ深信なり。深信は即ちこれ堅固深信なり。堅固深信は即ちこれ決定心なり。決定心は即ちこれ無上上心なり。無上上心は即ちこれ真心なり。真心は即ちこれ相続心なり。相続心は即ちこれ淳心なり。淳心は即ちこれ憶念なり。憶念は即ちこれ一心なり。真実の一心は即ちこれ大慶喜心なり。大慶喜心は即ちこれ真実信心なり。真実信心は即ちこれ金剛心なり。金剛心は即ちこれ願作仏心なり。願作仏心は即ちこれ度衆生心なり。度衆生心は即ちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心即ち大菩提心なり。この心即ち大慈悲心なり。この心即ちこれ無量光明慧によりて生じるがゆえに

 

A君 「願成就の一念」とは十八願成就文にある「聞其名号信心歓喜乃至一念」のことだが、仏名を聞いた衆生の心の上に、はじめて無疑の信が開け起こった初起の一念のことで、衆生側の心の状態を言われている。この衆生の心が、最後には仏の心である願作仏心とか度衆生心とか、大菩提心とか大慈悲心とかに言い換えられている。願作仏心とは凡心を仏心になさしめんとする願心のことだ。つまり、無疑信とは、衆生の心ではあるものの衆生が起こせる心相ではなく、仏様の心だと祖師が理解されていた事が分かる。

 

A君 そして最後に、これらの心は無量光明慧によって生じると締め括っている。大悲心は仏智によって生じるとされている。

 

B君 仏心が衆生の心相中に入り込んだそのままが衆生の深心だから、この深心は仏智であり、仏心であり、大慈悲心であり、願作仏心、度衆生心だというのだね。

 

A君 「深心」とか「無疑信」というのは、人や何かをかたく信じるという心の作用一般のことを言っているのではない。仏の真実の智慧に裏付けられた大慈悲心、願作仏心、度衆生心を心に受け入れ、自力の思いが消尽した衆生の心相のことだ。仏智や大悲心が衆生の心にうつり込んだ心のことだ。衆生の心によってうつしとられた大悲心のことだ。大悲心と衆生の心が一体となった心相のことだ。これを南無阿弥陀仏の心相というのだ。

 

A君 祖師は、深心は深信であり、深信とは堅固深信、そして、これを一心と言われている。堅固深信は無疑信のことだと理解できるから、深心は無疑の一心ということになる。本願の至心信楽欲生の三信は、この無疑の一心になってしまうのだ。

 

A君 衆生の自力作善の思いが一切雑じらない仏様の摂取決定心だから、この心は淳心であり、決定心であり、無上上心であり、真心であり、相続心であり、金剛心なんだ。

 

B君 相続心について祖師は「弥陀の尊号称えつつ信楽まことにうるひとは憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」と言われている。憶念の心は大悲への信楽によるのだね。

 

A君 信とは仏様の大悲心と一体のものだから祖師はこの信を大信と言われ、この大信が報土往生の真因だと言われた。往生の真因とはこの信のことであり、念仏の行ではない。

 

*7 報土往生の真因 聖典2版170頁、210頁、229頁、235頁、251頁、395頁

行巻/①即の言は報土の真因決定する時刻の極促を光闡するなり(六字釈)。

信巻/②大信はすなわち・・証大涅槃の真因・・なり(出体釈)。③弥陀如来三心を起こし給うと言えども涅槃の真因はただ信心をもってす(三心一心釈)。④この心(信楽)はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる(三心一心の信楽釈)。⑤一念というは信心二心なきがゆえに一念という。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり(一念釈)。

化身土巻/⑥報土の真因は信楽を正とするがゆえなり。

 

B君 信行ともに如来廻向の浄土往生の因ではあるが、真因は信についてだけ言われるのだね。

 

A君 仮の行たる自力念仏と区別する為に、信が報土往生の真因と言われた。乃至十念の念仏よりも信が重要であり、その念仏は信よりも低く位置づけるとする意味はない。この乃至十念には信が具足しているからだ。この真因は南無阿弥陀仏の心相となった信であり、それが行として発動したのが南無阿弥陀仏と称念する乃至十念の念仏だ。信は南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏だから、内外ともに南無阿弥陀仏となる。内外が完全に一致している。これが十八願の「至心信楽欲生我国 乃至十念」がわが身の上にあらわれた信相と行相だ。だから、この信と行をあわせて一体の往生の因とする。また、信と行はともに不離の関係があるから合わせて往生の因とするのだ。これに対して仮たる念仏行においては、外は南無阿弥陀仏の行であるが、内心が定散心間雑する自力の思いだから、雑行を行じる際の思いと何ら異ならない。内心が自力の思いであるため、仏名を称してもその行は全体として自力の行となる。このため報土往生は不可である。この意味で信の存否が、称名念仏を正定業たる乃至十念の念仏とするか自力称名とするかを決定し、また報土往生の可否を決定するので、信が報土往生の真因とされる。自力作善の称名念仏に対するとき、信が極要であり、最要なのだ。

 

*8 化身土巻 聖典2版270頁

いま三経を案ずるにみなもって金剛の真心を最要とせり。真心はすなわちこれ大信なり。大信は希有最勝真妙清浄なり。なにをもってのゆえに大信心海ははなはだもって入りがたし、仏力より発起するがゆえに。真実の楽邦ははなはだもって往き易し、願力によりてすなわち生ずるがゆえなり。

 

B君 ところで、「念仏が往生の行であると信ずる」という言い方をする場合、念仏が往生の行であると認識し、そのような思いになることを内に含んだ言い方になるが、「念仏が往生の行である」と思う事は、真実の信心であるか否かを判別する要素となるのだろうか?

 

A君 どうして、そのような疑問をもったのか?

 

*9 歎異抄

ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏はまことに浄土に生まるるたねにてはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。

 

B君 歎異抄には、祖師が上記のように言われている。このとおりに受け止めるならば、「念仏が往生の行である」と思うか否かは信とは無関係だという事になるのではないかと思ったのだ。

 

A君 「念仏はまことに浄土に生まるるたねにてはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん」という所だけを見たら、君のように思える。しかし、祖師は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」とも言われている。この部分に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と信じた信がある。この信は「弥陀にたすけられまいらすべし」の所だけにかかるのではなく、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」の全体にかかっている。祖師が言われている念仏とは、単なる念仏ではない。乃至十念の念仏のことだ。

 

B君 そうすると、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と信じたけれど、「念仏が浄土に生まれる因であるか、地獄におつべき業であるかは存知していない」ということになるが、これは一体どういう事なのだろうか。

 

A君 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と信じたというのは無疑信の事だ。先に述べた仏の願作仏心、度衆生心、大悲心に対して無疑となったため、念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとの信と思いが生じる。この思いは、弥陀大悲の招喚を無疑で受け止めたことの、いわば“反射”として生じる思いだ。仏の願作仏心、度衆生心、大悲心に対して無疑となった信と念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと信じた信とは同体のものだ。

 

A君 このことを、信が生じる理由となっている大悲心から再考してみよう。祖師は無量光明慧から信が生じると言われたが、そのことを詳細に述べられたのが信巻の三信釈であり、阿弥陀仏の至心信楽欲生我国の三心から無疑の一心になると言われている。信とは弥陀仏の大悲心の至心(真実心・至誠心)、信楽(摂取決定心)、欲生(大悲願心)そのものを無疑で信じる事だと言える。信とは大悲心を信受することだと説明できる。ここにおいては、称名は直接前面には出てこない。丁度、善導が信を念仏の背後に隠して「衆生称念必得往生」という場合の逆バージョンだ。大悲心を無疑で受けたとき、称名は前面には出てこないが、その背後には念仏がある。大悲心とは「一切の凡夫、罪福の多少時節の久近を問わず、ただよく上百年を尽くし下一日七日に至るまで一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得ること必ず疑いなし」という大悲だからだ。このため、大悲心を無疑にて信受することによって、「定めて往生を得る」との得生の思いが生じる。

 

A君 「一切の凡夫、罪福の多少・時節の久近を問わず、ただよく・・一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得ること必ず疑いなし」との誠実の言は、仏様の願作仏心、度衆生心、大菩提心大慈悲心のあらわれであり、仏様の真実心だ。この仏様の真実大悲に対して無疑となったことで、「一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得る」と信じられたのだ。「一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得る」と信じられたから、仏様の真実大悲に対して無疑になったのではない。論理的な順序としては、大慈悲心を受け入れた無疑が先であろう。大慈悲心に気づき、大悲に対して無疑とならなければ、「一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得る」という信は成立しない。元祖は善導の「一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節念々不捨者是名正定之業順彼仏願故」の文を拝読して回心したと言われているが、ポイントになるのは「順彼仏願故」というところだ。仏名を称する事は仏願に順じているというところから、弥陀仏の大悲はこの称名にあると気づき、その大悲を受け取られたのだ。大悲を感得されたので、回心が生じたと考えられる。もし、善導の上記文に「順彼仏願故」の五文字が欠けていたとすれば、このとき元祖は大悲に気づく事が無く、浄土宗の開宗は大きく遅れる事になったであろう。

 

B君 罪福の多少や時節を問わない称名念仏は、諸善に比すれば易行だ。この易行によって往生させると誓われた仏の大悲に気づき、大悲に触れて回心したという事だね。その意味で、大悲に気づき大悲を受け入れて無疑となったことが先だというのだね。

 

A君 大悲心を信受したことにより、念仏して弥陀にたすけられて必得往生と信知することになる。しかし、必得往生と知覚したわけではない。ここに知覚というのは感覚器官による直接的知覚ないしその知覚を元にした認知のことだ。知覚と大悲への信知(無疑)とは異なる。そのため、無疑になったことによって弥陀仏に親近しその慈悲を憶念すること間断なけれども「念仏が浄土に生まるる因であるか、地獄におつべき業であるかは存知しない」ということになる。

 

A君 ところで御文章には、南無阿弥陀仏との関係で信を説き起す御文が多くあり、南無阿弥陀仏の大悲心との関係で信を説明している。この立場は、大悲心に対する帰命(無疑信)によって仏が往生を治定せしめている姿が南無阿弥陀仏であると理解し、称名を報恩の行として位置づける。

 

*10 御文章 四帖8通

当流の信心決定すといふ体は、すなわち南無阿弥陀仏の六字のすがたと心得べきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是其帰命、亦是発願廻向之義、言阿弥陀仏者即是其行」といへり。南無と衆生が帰命すれば阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなわち阿弥陀仏即是其行といふこころなり。このゆえに南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。

 

*11 御文章 五帖10通

聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候。そのゆえはもろもろの雑行をなげすてて一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として仏のかたより往生は治定せしめたまう。その位を一念発起入正定之聚とも釈し、そのうえの称名念仏は御恩報尽の念仏と心得べきなり。

 

B君 蓮師においては、称念必得往生の思いはどうなってしまうのか。

 

A君 御文章には「一心に弥陀に帰命すれば不可思議の願力として仏のかたより往生は治定せしめたまう」と言われている。報恩行たる称名にはこの必得往生の思いが伴っている。必得往生の思いがあるから報恩の念仏となるのであり、必得往生の思いがなければ報恩の念仏になりようがない。その必得往生の思いを念仏にのせると必得往生の念仏となる。

 

B君 必得往生の思いを念仏にのせるとは、どういうことか。

 

A君 必得往生の思いを念仏にのせるとは、摂取不捨の大悲を感得したことによる必得往生の思いが勇みの称名として現れ出たときに、この南無阿弥陀仏によって我が往生が決定されたと思えるようになることだ。大悲への無疑による必得往生の内心の思いが内心にとどまらず、念仏へと移行したということだ。御文章四帖8通には南無阿弥陀仏が往生の定まりたる証拠であると言われている。南無阿弥陀仏が往生の定まりたる証拠であるならば、称名にあらわれた南無阿弥陀仏についても往生の定まりたる証拠であるとの思いになるはずだ。その思いになったとき、自ら称える念仏が往生の定まりたる証拠として喜べるのであり、往生をさだめたまひし弥陀の御恩を報尽する念仏となる。

 

*12 御文章 四帖8通

阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき、衆生、仏にならずばわれも正覚ならじと誓いましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなわちわれらが往生定まりたる証拠なり。

 

A君 中興の祖においては、浄土他流との差別化のために称念必得往生ということを前面に出さず、称名を報恩行とする。このため、称念必得往生の信という意味合いは背後に後退してしまった、あるいは無くなってしまったように見えるかも知れない。しかし、南無阿弥陀仏との関係で説き起こされた信と、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと受け入れた信とは、互いに異なっているという事はない。大慈悲心に対する無疑は「一心にもっぱら弥陀の名号を念ずれば定めて往生を得る」という信と思いとなって成立するのだ。

 

A君 善導は就人立信釈において信が生じる根拠ないし対象を、就行立信釈において信が伴う行を諸善と対比しつつ明らかにし、中興の祖は自力念仏との対比において信を南無阿弥陀仏との関係で明らかにしつつ称名を報恩行とした。この両者の系譜を一本の線でつないでいるのが、善導の深い思索である「二河白道の弥陀の招喚」「就人立信釈」や「六字釈」と祖師の卓抜した「六字釈」や「三心釈」などの思索だ。そのときどきの時代の情勢に応じて、あるいは対比する行との関係において信と行の説かれ方が変わってくる事があるが、常に一貫しているのが十八願とその成就である仏名によって心と肉体の上に具現化された仏の大悲による信と行だ。信は回心の体験をしても言語によって簡単に説明することができないし、信を概念的に定義することも困難だ。信行の説明方法を1つに限ることもできないから、それぞれの善知識の真意を正確に理解する事が大事になってくる。

 

A君 信を得たいと思うものの自力の思いに心が覆われているならば、学問的に信行がどのようなものかについて関心を向けるのではなく、大悲に関心と注意を向けて大悲を聞くのだ。自分の思い込みをよくよく排して大悲を聞かなければ信は分からない。信を聞こうとすると、よくよく聞いても分からないだろう。よくよくの上によくよく聞くほど、信はとても難しく感じられるだろう。難中の極難信と言われるゆえんだ。信は仏の大悲に直接触れなければ分からないものだからだ。大悲を聞いて、大悲に触れて大悲を感得すれば、よく分かる。これ以上に易いものはない。大悲を聞くならば、予想すら出来なかったほどにとり易い信だと分かるはずだ(易中の易信)。しかし、自力の思いがあまりにも根深いために釈迦や諸仏は、衆生が弥陀仏の真実大悲を信ぜざることをおそれて、ともにおのおの広長の舌相を出して同心同時に、あまねく三千世界に覆ひて真実の誠言を説き続けている(阿弥陀経の意)とされている。心を覆ってしまう自力疑心の厚い障壁を打ち破って大悲の光明が衆生の心の内側に入り込んでくるのは、真実大悲の願力によるとしか言いようがない。ひとたび大悲にふれると善導が言われるように弥陀への憶念が間断することなく、つねに弥陀仏に親近する思いとなる。憶念の心常にして仏恩報ずる思いとなる。善導と蓮師とは、時代の壁を越えてこの信行に同座していたのである。