1-31.教行信証のご自釈を読み解く(その1)

 

親鸞聖人 教行信証御自釈」(定価1500円)という本が永田文昌堂から出版されている。祖師の御自釈を拾い読みをするのに便利である。拾い読みするだけで教行信証における祖師の基本的な考え方が分かる。以下、御自釈の中からさらに選んで拾い出してみる。文頭に通し番号1~61を付して上記書籍の頁数と所々に若干のコメント(私見)を試みた。なお、通し番号に続いて小見出しのあるものは上記書籍のそれに従った。通し番号を引用するときは、1項、2項などと表記する。

 

序 1頁~3頁

1.かるがゆえに知んぬ。円融至徳の嘉号は悪を転じて徳をなす正智、信金剛の信楽

疑いを除き証を獲しむる真理なりと。

2.必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。

3.偶々、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

4.誠なるかな、摂取不捨の真言。超世希有の正法。聞思して遅慮することなかれ。

5.真宗の教行証を敬信して特に如来の恩徳深きことを知りぬ。

「コメント」

如来の円融至徳の嘉号と難信金剛の信楽の2つを出し、この2つを「最勝の直道」と言い換えて、前者の嘉号を行、後者の信楽を信と言い、最勝の直道に帰命し、この行に奉(つか)え、この信を崇(あが)めよと勧められている。この信とは如来信楽(仏心)のことである。如来信楽については40項参照。行とされる円融至徳の嘉号が「悪を転じて徳をなす正智」であるというのは、嘉号は凡夫を仏に為さしめる仏の智慧によって成就されたものであり、この至徳を受け取った行者はその至徳を因として成仏する。これを転悪成善という。祖師は仏心によって成就された嘉号と仏心の信楽を行信といい、最勝の直道といわれるが、如来の行信ともに、摂取不捨せんとの本願招喚の大悲である。直道とは、直は本願他力を意味し、最勝の直道とは、如来大悲の摂取不捨の真言に帰命して本願力によって往生成仏することである。大悲に帰命し、嘉号の行に奉え仏心の信楽を崇めていることを「行信を獲」ると言われる。祖師は大悲に帰命したことで、摂取不捨の真言真言であることを如実に信知された。そのため、最勝の直道のあることを聞いたならば、真言である直道を受け入れることに躊躇したり、遅慮することがあってはならないと速やかな聞信を勧めている。「聞思」するとは聞信のことである。仏の真言を聞信するとは、仏の真言を聞いて仏心を心に受け入れることであり、最勝の直道に帰するというのも同じことである。祖師は、信巻をまたずに序において、如来信楽が「衆生の疑いを除き証を獲しむる真理なり」と宣言されている(1項)。疑蓋を消尽させる作用は仏心にあり、仏心以外の衆生の思いや行によって疑蓋が消尽するのではないことを示す。真宗の教行証とは、摂取不捨の大悲の真言を教える仏の教え、その教えに対する疑いを除かれ、真言を聞信することで衆生に与えられる行、行による証果のことである。祖師はこの摂取不捨の真言を敬信され、如来の恩徳の深いことを知ったと告白された。この告白となった祖師の思いは、経論釈の指南に基づきつつ教行証という通途の仏教の綱格に沿って、あとの教巻以下において具体的に展開されることになる。

 

教巻 6頁

6.往相の廻向について真実の教行信証あり。

7.それ真実の教を顕わさばすなわち大無量寿経これなり、この経の大意は、・・凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦・・群萌を救い恵むに真実の利をもってせんと欲すなり。

8.ここをもって如来の本願を説きて経の宗致とす。仏の名号をもって経の体とするなり。

「コメント」

真実の教も行も信も如来衆生に回向される。証果たる仏果も如来から回向される。回向とは回施される、施される、与えられるということである。回向される仏の円融至徳の嘉号を「功徳の宝」と言われ、これが「真実の利」であるとし、この真実の嘉号が衆生の信と行となり、仏果に至る。このため如来の因願である十七願・十八願と果上の至徳の仏号を説くことが真実の教であるとされる。真実の教えである大経の所説によって、衆生は真実の利である仏名を与えられる。7項に「功徳の宝を施す」「恵むに真実の利をもってせんと欲す」とあるのは、仏は衆生南無阿弥陀仏を回向し、衆生南無阿弥陀仏の回施を受けることである。衆生はこの真実の教えを聞信して受け入れるだけとなっている。受け入れれば本願力によって至徳の行を回施されて往生成仏してゆく。この道を最勝の直道といい、聞信したことを帰命という。真実の教、真実の嘉号、真実の仏心たる信楽に帰命して、浄土に招引されてゆく衆生のすがたを往相という。往相とは衆生が浄土往生する相、相とはすがた、往相回向とは、仏が衆生を浄土往生させる手だてとして教行信証を回施し、衆生はこれを受け容れて往生しつつある相になっているということである。12項では、十七願を往相回向の願と呼んでいるが、同願を阿弥陀仏教行信証衆生に回向することを誓った願であると理解されたからである。

 

 行巻

9.標挙 諸仏称名の願 浄土真実の行選択本願の行

10.大行釈 9頁

往相の廻向を按ずるに、大行あり大信あり。

11.出体・弁徳 9頁

大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなわちこれ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す。真実一実の功徳大宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。

「コメント」

「大行」とは、仏名を称することであり、この行は諸々の善法を摂し諸々の徳本を具しているとされる。1項と2項では仏の嘉号を「行」としていたが、ここでは称名を「大行」としている。この理由は後述する。この大行たる称名とは、十八願の乃至十念の念仏である。行巻標挙には「浄土真実の行」と並んで、「選択本願の行」と書かれているから、この称名は十八願の乃至十念の念仏のことであると分かる。そのため行巻には「乃至」の釈がある(23項・24項参照)。この乃至十念の称名は十八願には「至心信楽欲生我国乃至十念」とされているので、「至心信楽欲生我国」という大信を必具している称名を大行とする。行巻には大信や証果に関する文が多くある。それは「至心信楽欲生我国ないし十念」の大行には大信が必然的に伴っているからである。また、大信を必具した大行であるから必然的に無上大利の証果を得ることになるためである(25項)。つまり、大行とは、涅槃の真因とされる大信によって諸々の善法と諸々の徳本を具することになった称名のことであり、衆生が得る仏果の因となる行のことである。祖師は、十八願の「至心信楽欲生乃至十念」の行をこのように理解されていた。1項と7項では「円融至徳の嘉号」を「功徳の宝海」であるといい、この11項では「称名」を「真実一実の功徳大宝海」といわれるが、それは如来から回向される至徳として嘉号も乃至十念の称名も同一の至徳だからである。嘉号という仏の行が衆生に回施されて、これを心に受け入れた者の大行となることを示している。どのような場合に称名が至徳を具備するのかが重要であるが、結論を言えば、真実の教えを聞信する大信を備えることで称名は至徳を具した大行となる。なお、諸々の善法と徳を具していない称名行があることに注意を要する。諸々の善法と徳を具していない称名行については、化身土巻において「正行の中の専修専心、専修雑心・・はこれみな辺地胎宮、懈慢界の業因なり」と言われたり(55項・56項参照)、「行は専にして心は間雑す」とか「専修にして雑心」と言われて(60項参照)、心相の違いから行自体を本願念仏と区別されている。

12.出願 9頁

然るに、この行は大悲の願より出でたり。これすなわち諸仏称揚の願と名づく。諸仏称名の願と名づく。往相廻向の願と名づくべし。選択称名の願と名づくべきなり。

「コメント」

本願念仏が大行であるならば、大行の出願名として十八願を挙げればよいのであるが、この十八願の念仏が円融至徳の仏名にかなった行であることを示す必要があった(14項と46項参照)。仏名については、十七願に諸仏が称讃する仏名の成就と諸仏の称讃による衆生への仏名回向が誓われている。十七願の諸仏称讃の仏名によって衆生の行である称名が大行の徳を具備した行として成り立つことを示すために、十八願ではなく、十七願を挙げた。その意図は仏名と仏名の回向とに向けられている。大経下巻の弥勒菩薩への付属の文(以下、弥勒付属の文)に「仏、弥勒に語りたまわく、それかの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人は大利を得とす。」とある。かの仏の名号とは十七願成就の仏名である。この仏名を聞くことにより、仏名は歓喜踊躍する者の乃至一念の念仏となり、この者は大利を得る。大行の出体を示す際に十七願を挙げられたのは、回施されている仏名の至徳が称名する者の大利となったことを示すためである。大利とは仏名の至徳のことであり、仏果の因となる功徳の宝海のことである。大行が「諸仏称揚の願より出でたり」というのは、大行たる称名は十七願の諸仏称讃の嘉号を回施されて嘉号の至徳を具備して成り立っていることをあらわしている。既に序において、「円融至徳の嘉号」をこの行、称名行たる大行を「功徳の大宝海」と言われ、また、ここで大行の出願を十七願とし、同願を仏名を回施する願であると理解されて「往相回向の願」と言われることから、仏名が回施された者の大行たる称名となり、両者は同一の至徳であることを示すために十七願を挙げられたと言える。標挙にある浄土真実の行は回施される仏名を、選択本願の行はその仏名にかなった称名行であると理解することが可能であるのは、このような理由による。十八願は大信の出願名として出されている。十七願を真実の行願、十八願を真実の信願とされ、選択の本願と言われている(32項)。十八願の行と信が真実の行信であるという意味で十八願を選択の本願と言われたと理解することもできるし、十七願の行願と十八願の信願を選択の本願とする意であると理解することもできる。いずれにも理解できるように工夫された御自釈となっている。真実の行である嘉号が真実の行である乃至十念の行となるからである。

13.称名破満 11頁

しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満てたまう。

「コメント」

「至心信楽乃至十念」の念仏は本願念仏と言われるが、本願念仏は諸々の善法と諸々の徳本を具していることから、破闇満願の徳、すなわち衆生を成仏させる働きがあると言われた。徳とは作用、力用、効用、功能、働きなどという意味合いであり、善果をもたらす因という意味である。至徳とは、無明を破したところに得られる仏果という極上、極善、最勝真妙の善果をもたらす因となるので、至徳という。

14.転釈 11頁

称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと。

「コメント」

「最勝真妙の正業」とは、最勝真妙とは仏の智慧のことであり、最勝真妙の正業とは、仏の智慧によって裏付けられた、仏智の世界に到るための正しい業ということである。この正業は、仏の最勝真妙の智慧によらなければ衆生の正業とすることをなしえないので、最勝真妙の正業という。衆生の称名が最勝真妙の正業であり得るのは、南無阿弥陀仏という仏名の至徳が顕現した、仏名にかなった仏行だからである。南無阿弥陀仏を受領することで称名は仏徳を具足した最勝真妙の正業となる。南無阿弥陀仏を受領するとは正念になることである。正念とは阿弥陀仏に帰命した心の相(姿)となって仏を憶念することである。仏に帰命した心相は南無阿弥陀仏であるから、正しく仏を念ずることになる。このため正念は信である。信を備えることで仏徳によって往生が決定し、その往生決定の信相から現れ出る称名が南無阿弥陀仏の仏徳を顕現した乃至十念の行となる。南無阿弥陀仏衆生の信となって称名行として顕現するから、この称名が仏名にかなう行となる。この称名は信心に依止している。論註巻上の八番問答十念往生、三在釈義には「この十念は無上の信心に依止して阿弥陀仏の方便荘厳真実清浄無量の功徳の名号によりて生ず。」とある(浄土真宗聖典七祖編97頁)。この十念とは乃至十念の念仏のこと、無上の信心とは大信のことである。この大信に依止し、功徳無量の名号によって生じているのが乃至十念の念仏であるというのである。念仏が「信心に依止」しているとは、乃至十念という称名行の存在ないしは持続は信に依っており、信を拠り所にしていると言うほどの意味である。この念仏は自力の称名のことではない。転釈の最後の「正念」とは信を指していうときもあるし、行を指して言うときもある。ここでは信を表していると理解することで、信行ともに南無阿弥陀仏であると理解し、南無阿弥陀仏の信があるために行が南無阿弥陀仏の至徳にかなう行になると理解する。信行ともに南無阿弥陀仏であるということは、南無阿弥陀仏という至徳が衆生の信となり行として現れていると理解することである。ここから、蓮師は十八願を信願とも行願とも言わず、「南無阿弥陀仏の願」と言われた(御文章五帖8通)。「信心獲得すというは第十八の願をこころうるなり。第十八の願をこころうるというは南無阿弥陀仏のすがたをこころうるものなり。」と言われるのも(五帖5通)、十八願は南無阿弥陀仏の至徳を受け取った者を浄土に生まれさせる願だからである。このように心得たならば、十八願を至徳を受け取り、至徳の具足した乃至十念の念仏を称える者を生まれさせる願として理解しても良いし、至徳を獲た信の者を生まれさせる願として理解しても良いことになる。その乃至十念の念仏には南無阿弥陀仏の大信や至徳が必具されているし、その信には南無阿弥陀仏の至徳たる仏行が必具されているからである。十八願を乃至十念の念仏を称える者を生まれさせる願として理解して、文の表面から信を消して念仏のみで表すことを「行中摂信」という。乃至十念の念仏に大信や至徳が必具されていることは当然のことであり、文の表面に出さずとも信や至徳が必具されていることが読み手に分かるので、「行中に信を摂する」のである。教行信証の正式名称は「顕浄土真実教行証文類」であるが、ここで教行証という場合も大行中に大信を摂した言い方である。行が証果に直接しているので(行が証果の直接の因縁であるから)、行証直接とも言う。教行信証という場合は大行から大信を別開した言い方となる。このような言い方が論理的に成立するのは、至徳を回施されて受領した衆生の機受の相である「至心信楽欲生我国乃至十念」の全体を大行として理解する立場に立っているからである。大行は「至心信楽欲生我国」の信を必具している行なのである。祖師の信巻は、行巻の大行から大信を別開するという構成を取る。大行は清浄報土の至徳を備えた行因、すなわち最勝真妙の正業であるが、大行中の大信こそが清浄報土の真因であるから、大行から信を別開し、序において如来信楽が「疑いを除き真理を獲しめる真理」であると宣言されたことの詳細を信巻で述べられるのである。すなわち、信の内容、信の対象、信が発起する原因ないし理由や信の評価などを信巻において詳らかにするのである。如来信楽が「疑いを除き真理を獲しめる真理」であるという意味は、信が証果に直接し、信が証果の直接の因縁であるという意味である。これを信証直接と言う。なお、21項の行信交際を参照。

15.六字釈・能回向の相 13頁

しかれば南無の言は帰命なり、・・ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。

「コメント」

衆生の機相において本願念仏として顕現した南無阿弥陀仏とは、私を摂取不捨する仏の招喚の勅命であるとする。「能回向の相」とは、仏が衆生に仏名を回施している相ということであるが、この相は、大悲招喚の勅命というすがたを取っているということである。大信を獲た者は、常日頃称える南無阿弥陀仏にこの仏の招喚の大悲心を感じ取って信心歓喜して仏名を称念しているものである。帰命は仏の招喚たる大悲の勅命であるが、衆生の帰命はこの仏の帰命せよ、浄土に生まれさせんとの勅命を心に受け入れることである。仏心を心に受け入れている相を帰命という。

16.六字釈・能回向の心 14頁

発願回向というは如来すでに発願して衆生の行を回施し給う心なり。

「コメント」

仏から回施される「衆生の行」とは至心信楽の大信と至徳を必具した本願念仏のことである。祖師は標挙に浄土真実の行、選択本願の行と記述されているが、この本願念仏が大行であり、真実の行である。仏の発願により回向されるのは乃至十念だけではない。大信も回向される。回向される大行の受領は大信の受領でもあり、回向される大信の受領は大行の受領でもある。バラバラに回向を受領することはない。いずれも南無阿弥陀仏1つを受領することである。大とは仏力の働きを指して大という。信も行も仏力の働きによって生じ起こるので大行大信という。南無阿弥陀仏を受領した衆生の機受の相は、まず十八願の至心信楽欲生の信相が先行して顕現し、この信相に続いて乃至十念の行相が信の初一念後に現れる。これを信行次第という。十八願文や弥勒付属の文にあらわされている信と行の語順(先後)に従って機受の相が現れることから、このような言い方がなされる。仏力が個人の上に具体的に現実化するのは、必ず、この順序で現れるものである。大経の教えを聞いていても、その聞く人の信行とならなければ、その人にとって仏力が具体化し、事実になったとは言えない。

17.所回向の行 14頁

即是其行というはすなわち選択本願これなり。

「コメント」

「選択本願これなり」とは、選択本願の行これなりということであり、「即是其行」の行とは十八願の至心信楽の本願念仏のことである。この行が仏から回施される所回向の行である。この行に具足している仏の至徳は仏心を聞信し、仏心に帰命して受け取るものである。

18.機受得益 14頁

必得往生というは不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。経には即得といえり。釈には必定といえり。即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時刻の極速を光闡するなり。の言は金剛心成就の貌なり。

「コメント」

大行たる至心信楽の本願念仏は南無阿弥陀仏の仏徳を受け取ったうえの行であることから、その行人は必得往生となるが、実にはその徳は、行に先行して機の上に顕現する信一念の信に具足している。すなわち、願力成就の真言を聞く一念で報土の真因が決定するとされる。これが至徳の力用である。願力を聞くとは聞即信の信である。報土の真因が決定する一念とは信の初一念のことであり、行の一念ではない。善導が必といわれているのは信の初一念時の往生決定を表す。この往生決定を金剛心成就と言われる。信の初一念の極速に往生が決定することから、本願念仏には必ず「乃至」の言が添えられる(23項24項)。乃至の言は、十声から一声、一声からさらに聞信の初一念にまで及ぶ。このため、聞信による往生決定の後は、念仏の多少は問わない。念仏の有無や多少が往生の条件となることはない。往生は既に願力を聞く信によって決定しているからである。乃至の言は、至徳による往生決定の信が先行して顕現していることを表し、かつ、称名に至徳が具足されたことによって称名が自力の行ではなくなったことを示している。信を必具していない自力の称名は、至徳を欠き往生決定とはならないので、乃至の言を添えることができない。

19.源空略釈 17頁

明らかに知りぬ。これ凡聖自力の行に非ず。かるがゆえに不回向の行と名づくるなり。・・みな斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

「コメント」

南無阿弥陀仏、往生の業には念仏を本とす」とする元祖法然聖人の文とそれ以前の浄土の祖の文を引文され、不回向の行と言われる。選択本願念仏集に不回向回向対を挙げ、「正助二行を修する者は、たとひ別に回向を用いざれども自然に往生の業となる。」と言われている。この大行は衆生が浄土を願って仏に回向する自力の善行ではない。仏から回向された行であるから、衆生から見れば、仏への自力回向の行ではなく、不回向の行である。法然聖人の念仏往生とは、この不回向の大行による往生のことであり、往生により即成仏することから、選択の大宝海に帰して念仏成仏すべしとされる。選択の大宝海に帰するとは、名号の至徳を受領した機の相として現れる至心信楽欲生の信相と後続する乃至十念の行相が衆生の上に現れたことである。念仏往生とは行中に信を摂した言い方であり、元祖のいう念仏とは至徳を具した大行のことである。念仏成仏すべしとは、元祖の念仏往生の系譜を正当に継承していることを意味している。

20.七祖広会行信利益 17頁~18頁

しかれば真実の行信を獲れば心に歓喜多きがゆえにこれを歓喜と名づく。いわんや十方群生海、この行信に帰命すれば捨て給わず。かるがゆえに阿弥陀仏と名づけ奉ると。これを他力という。ここをもって龍樹は即時入必定といえり。曇鸞大師は入正定聚といえり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。

「コメント」

「真実の行信を獲」るとは、わが身の上に十八願の至心信楽の信相と乃至十念の念仏の行相とが現れたことである。行信を獲たことから往生決定の思いとなり、心に歓喜が多くなる。このため歓喜地と名づくと言われた。行信を獲れば、仏は捨て給うことがないので阿弥陀仏と名づけられる。阿弥陀仏とは光明無量・寿命無量の仏のことであり、この光寿無量の願力に由る衆生の行信であるから、行信を獲た衆生は無量光寿によって永く摂取不捨されることになる。他力とは、阿弥陀仏のことであり、阿弥陀仏の願力のことである。願力によって摂取不捨されている心の相は、阿弥陀仏に南無(帰命)している相であるから、この心の相は南無阿弥陀仏となった信相であるといえる(14項コメント)。十八願文では至心信楽欲生となった相のことである。また行相としても南無阿弥陀仏の称名の一行となる。これを十八願には乃至十念とされている。「仰いで憑」むべきは光寿無量の願力であり、「専ら行ず」べきは真実の行たる仏名である。

21.行信交際 18頁~19頁

良に知りぬ。徳号の慈父、光明の悲母・・(略) 能所の因縁和合すべしと言えども信心の業識に非ずは光明土に到ることなし。真実信の業識これすなわち内因とす。光明名の父母これすなわち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。

「コメント」

徳号と光明(以下光号と略称)が光明土に到る因縁である。しかし、信が生じなければ光明土に到ることはない。その信も光号の力用によって生じるので、報土の真身を得証する因縁のすべては光号の力用であるとする。報土の真身とは、阿弥陀仏と同体になることである。「行信交際」とは、行と信の関係ということ。「行」とは仏の光号の因縁のこと。「信」とは真実信のこと。「交際」とは関係のことである。行信交際では、まず、光号という仏の大行が光明土に到る因縁であると示す。これを初重の因縁という。次に光号の大行と真実信の関係として、大行たる光号が真実信の因縁であると示す。これを二重の因縁という。この2つの因縁を合わせて両重の因縁という。光明土に到る因縁のすべては「光号」にあり(初重)、「光号によって生じた真実信(二重)」と「光号」の因縁が和合することによって光明土に到ると示している(両重の因縁)。全分他力を示し、自力無功を反顕している。また、衆生にとって信心が往生のための極要であることを示す。この両重の因縁は、行証直接と信証直接の両者を教示していると解されている。行証直接の行は信を内に含んだ光号という仏行であり、この光号を、光号の働きを担っている念仏に置き換えると念仏成仏という教説になる。信証直接は信心正因の教説になる。真宗とは、徹頭徹尾、阿弥陀仏から回向された真実の行信による往生、すなわち、願力たる他力による往生の因果を明らかにしたものである。ここに自力が介在する余地はない。祖師は「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいわんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。」と言われる。

22.行信一念 19頁

凡そ往相回向の行信について行に一念あり。また信に一念あり。

23.行一念釈 20頁

行の一念というは、いわく称名の遍数に就いて選択易行の至極を顕開す。かるがゆえに大本にのたまわく、・・歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなりと。

「コメント」

本願念仏である十八願文の「至心信楽ないし十念」や弥勒付属の文の「かの仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せん」の大行は、いずれにも乃至の言が添えられているので、称える数を問わない。これが易行の至極である。大信によって往生が決定したことから、それ以降は、大悲を感得して念仏行に励んでも、往生の資助にしようと力む自力の思いは消尽してしまう。このため信の初一念後においてはこの行は易行となる。摂取不捨の大悲を感受すれば、いつでもどこでも称えられるときに称えれば良く、称えられなければ称えなくても既に往生は決定しているので、往生には関係しないという心の軽安がある。称名に励んでも常にこの心易さがある。このため易行の至極という。単に、子供でも死にゆく老人ですらも容易に称えられるという行の易さにとどまらない。易行の至極であるため、念仏の一行となって臨終の間際まで一生涯続くことになる。この生涯続いてゆく念仏を一念とも一行とも言う。善導は上尽一形下至一念と言われているが、下至一念とは弥勒付属の文にある乃至一念のことである。上尽一形とは人の形を維持している一生涯のあいだ、念仏の一行を尽くすという意味である。付属の文では初一念の行に大利が具足されているとするが、この一行たる一声一声ごとの念仏に大利が具足されるとするのが、弥勒付属の文意である。

24.光明寺の和尚は下至一念といえり。また一声一念といえり。専心専念といえり。経に

乃至と言い、釈に下至といえり。乃下その言異なりといえども、その意これ一つなり。また、乃至とは一多包容の言なり。20頁

「コメント」

善導がいう必得往生の称名念仏とは上尽一形下至一念、一声一念、専心専念の念仏のことであるが、経にある乃至と善導の釈にある下至とは同じ意味であるとして、善導の念仏は本願念仏であることを示された。

25.大利というは、無上というは・・信に知りぬ。大利無上は一乗真実の利益なり。21頁

「コメント」

弥勒付属の文の「仏の名号を聞くことを得て歓喜踊躍して乃至一念せん人」とは、聞信の初一念で仏から仏名の至徳たる大行大信を受けて信心歓喜して念仏申す者のことである。この者が得る大利とは一乗真実の利益であるとされる。この一乗真実の大利とは、仏名の至徳のことであり、この至徳を獲た者はその至徳によって、必ず、仏果に到る。

26.専心といえるは、すなわち一心なり。二心なきことを形すなり。専念といえるは、すな

わち一行なり。二行なきことを形すなり。21頁

「コメント」

善導のいう「専心」とは「一心」をいうとされる。一心は如来の一心が衆生の一心となったことをいうので、この一心は真実信心の一心である(42項)。二心とは疑蓋間雑の心のことであり、二心なきとは疑蓋の雑らないことをいう。「専念」とは「一行」であるとする。これは乃至十念の称名のことである。易行の至極であるため、生涯、念仏の一行となって続いてゆくから、「二行なき」ことを表すとされている。専心専念を合わせて、至心信楽欲生ないし十念の本願念仏を指している。

27.一念転釈 21頁~22頁

いま弥勒付属の一念は、すなわちこれ一声なり。一声すなわちこれ一念なり。一念すなわちこれ一行なり。一行すなわちこれ正行なり。正行すなわちこれ正業なり。正業すなわちこれ正念なり。正念すなわちこれ念仏なり。すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。・・・安楽集にいわく、またいわくと。これすなわち真実の行を顕す明証なり。

28.大行結嘆 23頁

誠に知りぬ。選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

「コメント」

弥勒付属の文にある乃至一念とは、大信を回向されたことによって仏名の徳を具した本願念仏のことである。善導がいう一声、一行とは、弥勒付属の文の乃至一念の行のことであり、上尽一形の本願念仏のことである。この本願念仏が正行、正業であり、正念である。信によって、南無阿弥陀仏の仏名にかなった本願どおりの乃至一念の至徳具足の行となったことから、この念仏は十八願に相応した正業であり、正業すなわちこれ正念と言われた。この正念は本願名号を憶念する行と理解することもできるし、憶念すなわち信と理解しても良い。信行ともに南無阿弥陀仏である(14項)。祖師は、大行結嘆において、本願念仏が超世希有の勝行、至極無碍の大行であると結論づけている。

29.他力釈 23頁

他力というは如来の本願力なり。

30.二教対論 26頁~32頁

然るに教について念仏諸善比校対論するに、・・名号定散対・・回不回向対・・真仮対・・・自力他力対・・報仮対あり。然るに本願一乗海を按ずるに、円融満足、極速無碍、絶対の教なり。

「コメント」

他力の念仏と自力の念仏と言うことがある。元祖法然聖人は「称名念仏申す人は、みな往生すべしや」と問われて、答えていわく「他力念仏の者は往生すべし。自力の念仏はまったく往生すべからず」と言われている(念仏往生要義抄/昭和新修法然上人全集682頁)。他力の念仏とは本願力を聞信した上の本願念仏のことであり、自力の念仏とは大信を欠いた念仏のことである。念仏自体には自力も他力もないと言う人物がたまにいるが、祖師は、本願念仏を大行ないし真実の行として、仮の行たる自力念仏と区別されている。念仏自体に自力も他力もないという教説は祖師の上にはない。本願念仏も名号も仏によって回向された本願他力の行である。自力の念仏は、回不回向対の自力回向の行に分類され、自力他力対の自力の行に分類され、報仮対の仮の行に分類される。「本願一乗海を按ずるに、円融満足、極速無碍、絶対の教なり」というのは、仏名は成仏のための欠け目のない円満な因であり、仏の智慧と円融していること、聞即信の一念に極速に至徳が凡心に具足すること、仏名による往生成仏以外に成仏の道はないことをいう。

31.結帰一乗 32頁

然るに一乗の機を按ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり知るべし。

「コメント」

「一乗の機」とは、絶対不二の教である真宗によって往生成仏することが決定した本願念仏者のことである。行巻に金剛の信心を出されているのは、大行たる本願念仏には「至心信楽欲生」という大信が必具されているためである。この大信が金剛の信心である。縁起によって生じた形あるものは、必ず、壊れることがあるが、形のない仏名の光寿無量の至徳が大信の体となるのであるから、壊しようもなく、壊れようもない。これを「金剛の信心」という。

32.偈前の文 38頁

凡そ誓願について真実の行信あり。方便の行信あり。その真実の行の願は諸仏称名

の願なり。その真実の信の願は至心信楽の願なり。すなわち選択本願の行信なり。その機はすなわち一切善悪、大小凡愚なり。往生はすなわち難思議往生なり。これすなわち誓願不思議一実真如海なり。大無量寿経の宗致、他力真宗の正意なり。

「コメント」

行巻標挙にある願名と真実の行、信巻標挙にある願名と真実の信について取り上げている。往生の行因と信因は、十七願の諸仏の称讃する仏名が衆生の上に選択本願の乃至十念の行となり、十八願の至心信楽となったことである。この2つが選択本願の行信であるとされる。信行の順ではなく、行信の順となっている(6項、20項、22項など)。これを行信次第という。行信次第とすることについては理由がある。この行は信が先行して顕現するものの、信を通じて南無阿弥陀仏の至徳が顕現したものであるため、乃至十念の行は信に対して教の位に立つ。教は衆生を教え信ぜしめる仏の大法であるが、信の初一念後の口称となった南無阿弥陀仏は絶えず信の者を浄土へと導く大法の位にあることから、この行を仏の行法といい、この行法が信に対して教位にあるとするのである。ここから行信次第となる。仏の行法が信に対して教位にあるというのは、仏の行法を仏の行法として受け入れることができた信ゆえである。このことに注意を要する。では、乃至十念の行が顕現する信の初一念以前においては、信に対する教位にある仏の大法は何かと言うと、それは仏名と仏名の至徳を説いた仏の大経所説の真実の教である。諸仏が十七願成就の名号の至徳を称讃するとは、弥陀成仏と衆生成仏の両因果を成就した果上の仏名と衆生への仏名の回向を説き、衆生はその仏名の回施を受けて浄土往生すると説くことであり、これが大経の教えとなる。衆生は仏によって与えられた真実の教えを聞信するだけで良いように円満に調えられ、欠損なく仕上げられている。このため、真実の教えを聞き、仏心の大悲に触れて信が発起する。まとめると、受法の機の上に顕現する機受の相という観点からは真実の教えを聞信することによって必ず信心歓喜の信相が先行し、乃至十念の行相が後続する。この行が仏の大法たる十七願成就の南無阿弥陀仏の現れであり、この称名として現れた南無阿弥陀仏が絶えず私(信)を照護し、浄土へと導くという観点からは、この仏の行法を信に対置させて行信次第となる。信行次第が行信次第にもなるということは、往生が決定した信の初一念以降は信と行は不離の関係にあるということである。これが信の初一念以降における大信の「至心信楽欲生」と大行の「乃至十念」の関係である。本願文の「至心信楽欲生乃至十念」は「至心信楽欲生」と「乃至十念」を別々に切り離して理解することはできず、一連一体ないし不離の関係にあるものとして理解される。弥勒付属の文の「彼の仏名を聞くことを得て歓喜踊躍」の信と「乃至一念」の行の関係も同様である。因みに、信の初一念以前における自力称名の行と初一念の信との間には、大信と大行におけるような不離の関係はない。信を発起させるのは願心であり、願心を如実に聞くところに信が発起する。仏の信楽が疑いを除く真理であり(1項)、それ以外の、自力称名の自力の行が初一念の信を発起することはないからである。上記の大行と大信の関係を信の上の思いから表現すると、次のようになる。信行次第は、自力疑情のために苦しんだ苦悩が仏の救いは無条件の救いであるとの大悲に触れたことによって一時に消尽してしまい、歓喜へと変わる。その後においても、招喚する大悲に思いを至せば、大悲のままに自然に称名することになる。行信次第は、称名すれば教位の南無阿弥陀仏を憶念し、そのことによって招喚する大悲に歓喜する。このため、真実信の者は、大悲を感得する信と称名行とは不離であることを肌感覚で理解している。自力の念仏には、このような信行不離の思いは起こらない。自力の思いで称名しても、信心歓喜とならず、信がないので称名は易行とならない。信となった仏名による往生を難思議往生といい、他力真宗の至極であり、正意とする。

33.仏恩の深遠なるを信知して正信念仏偈を作りていわく、無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。・・本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。・・如来如実の言を信ずべし。・・如来の弘誓願を聞信すれば仏広大勝解者とのたまへり。弥陀仏の本願念仏は、信楽受持すること甚だもって難し。・・弥陀仏の本願を憶念すれば自然に即の時必定に入る。・・万善の自力勤修を貶す。円満の徳号専称を勧む・・極重の悪人はただ仏を称すべしと。・・39頁~49頁

「コメント」

正信念仏偈」の言は信行次第である。本願の名号が正定の業であるとされる。正定業とは仏果に到る因となる業のことである。14項に最勝真妙の正業とされている。衆生往生の生因願である至心信楽の願を因として成就された果上の仏名が正定業である。このため、衆生の往生成仏の因果は仏名として既に成就されていると教える仏の誠実の言を聞信することを勧められる。祖師が名号という語を使用するとき、文字通り如来の至徳の嘉号として使用される場合と称名念仏の意味で使用する場合があるが、ここでの「本願の名号」とは、至心信楽乃至十念の称名となった南無阿弥陀仏の至徳のことである。「弥陀仏の本願念仏は信楽を受持すること甚だ難し」とは、本願念仏に必具している信楽を獲るのが難いと言われたものである。信楽を獲れば、本願念仏の行は易行の至極となるが、信楽を獲なければ称名は易行とはならず、また本願念仏を獲ることもできない。「弥陀仏の本願を憶念すれば自然に即の時必定に入る」とは、「憶念」とはここでは信のことであり、信の初一念に必定(正定聚)に入るとされている。「極重の悪人ただ仏を称すべし」という唯称仏名は本願念仏のことであるが、これについては化身土巻に再び登場する(56項)。

 

信巻

34.信巻序 宗義 51頁

信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す。

「コメント」

大信は仏の願心から起こることを明らかにし、この後の三心釈の字訓釈と法義釈へとつながってゆく。

35.標挙 至心信楽の願 正定聚の機 53頁

「コメント」

行巻の「金剛の信心は絶対不二の機」(31項)を「正定聚の機」とされた。信を獲れば、現生に正定聚となることを示された。

36.信心利益 55頁

たまたま浄信を獲ば、この心転倒せず。この心虚偽ならず。ここをもって極悪深重の衆生、大慶喜心を得、諸々の聖尊の重愛を獲るなり。

「コメント」

浄信は仏心である。浄信が凡夫の心ではないことを示すのに、「この心転倒せず、虚偽ならず」と言われ、極重の悪人でも諸仏の重愛を得るとされた。浄信は、衆生の思いを介さずに仏の願心から、直接、開き起こるものである。浄信は仏心に依止している心である。祖師は信心を仏性として理解されているから、この心は仏心である。仏心であるから転倒することはなく、虚偽であることもない。仮に、念仏を称えることは願心から起こったものだと思ったとしても、その思いは仏心ではないし、大信でもない。浄信とは、仏の願心と衆生の心との間にある疑蓋が消尽したことから、仏の願心と直接していることを言う。直接するとは、私の心と仏心との間に何ものもまじえずに、私の心と仏心とが直に接していることである。仏の願心と直接していることから、仏の願心が衆生の心の中に現れ出たと感じられる。解りやすく説明すると、自力疑心の疑蓋を自覚して苦悩していた、その疑蓋が一時に消えるとき、疑蓋に代わって心の中に大悲心を感じる新たな認識が生まれる。この認識は疑蓋がなくなって新たに開けるように生じ起こるものであるから、これまでなかった新たな思いが開け起こったと感じられる。これが仏心と直接している状態である。この心の状態を疑蓋無雑という。疑蓋無雑の状態となっている浄信は仏心が顕現している状態であるから、浄信を獲た者は極重の悪人でも諸仏の重愛を得るとされた。疑蓋無雑となって仏心と直接しているところから仏心の現れとして生じ起こる行が乃至十念の行であるから、この念仏は大信海流出の称名となるのである。疑蓋のために止められていた浄土の法水が、疑蓋無雑となったことによって信となり、行となって心中に流れ込んで、口からあふれ出しているがごとくである。

37.行信結釈 57頁

しかれば、もしは行もしは信、一事として阿弥陀如来清浄願心の回向成就したまうところに非ざることあることなし。

「コメント」

「清浄願心の回向成就」とは回向される名号の成就のことである。大行大信は名号の成就と回向を因としていることを示された。後の三重出体釈のうちの初重の出体釈では、名号が大信の体となることを示されている。これにより回向される名号が衆生の信となり行となることが分かる。

38.字訓釈 59頁

明らかに知りぬ。至心はすなわち真実誠種なるがゆえに疑蓋雑ることなきなり。信楽はすなわち真実誠満の心・・なるがゆえに疑蓋雑ることなきなり。欲生は・・大悲回向の心なるがゆえに疑蓋雑ることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに真実の心にして虚仮雑ることなし。正直の心にして邪偽雑ることなし。誠に知りぬ。疑蓋間雑なきがゆえにこれを信楽と名づく。

「コメント」

本願三心はいずれも仏の真実誠種、真実誠満、大悲回向心であり、この仏心について疑蓋のなくなった衆生の心が信楽であると言われる。大悲回向の真実心であるから、衆生信楽が生じるのである。

39.法義釈・至心釈 61頁~64頁

如来清浄の真心をもって円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまえり。如来、至心をもって諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かねがゆえに疑蓋雑ることなしこの至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。・・・

「コメント」

浄土論の離菩提障・順菩提門に「さきに無染清浄心、安清浄心、楽清浄心を説けり。この三種の心は一処に妙楽勝真心を成ず」とある。「如来清浄の真心」とはこの「妙楽勝真心」の一心を念頭に置かれたものであろう。妙楽勝真心は法蔵菩薩(因位の阿弥陀仏)の願事成就を示唆しているからである。天親菩薩のいう菩薩の妙楽勝真心とは、十八願では仏の至心信楽欲生の三心として表現されている。「如来清浄の真心をもって至徳を成就したまへり・・」とは、衆生往生の因果である仏名の成就は真心による。仏は清浄の真心をもって成就した仏名を至心をもって衆生に回施しているので、この真心は「利他の真心」であると言われ、利他の真心であるから衆生の心に「疑蓋が雑ることがない」とされる。利他の真心が無疑の因となることを示している。次の「この至心」とは衆生の疑蓋無雑を至心と言われたものである。衆生にはこの疑蓋無雑以外に至心はない。衆生の至心たる疑蓋無雑は「尊号を体とする」というのは三重出体釈の一つめである。これは利他の真心を聞信してその至徳が衆生の至心となったということである。仏心の至徳が衆生の至心となったので、この衆生の至心は仏の至心である。祖師は如来の利他の至心について無疑となったことから常々仏の至心を感じられていたであろう。無疑となったことで仏心と直接し、これにより心中に現れるのが如来至心の大悲である。心中に現れ出た如来至心の大悲は、凡夫にもこれを感得することが出来る。このため報恩の思いが生じる。仏に対する報恩の思いがない信はあり得ない。

40.法義釈・信楽釈 65頁~69頁

次に信楽というは、すなわちこれ如来、満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。かるがゆえに信楽と名づく。すなわち利他回向の至心をもって信楽の体とするなり。・・何をもってのゆえに。如来菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修乃至一念一刹那も疑蓋雑ることなきによりてなり。この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。如来苦悩の群生海を悲憐して無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。本願信心の願成就の文にのたまわく、諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんと。・・

「コメント」

最初の信楽衆生信楽であるが、仏の信楽でもある。既に教行信証の序において、如来信楽は疑いを除く真理であると言われている。この仏の信楽が疑蓋を除くので、衆生は疑蓋無雑となる。仏の信楽は「満足大悲円融の利他回向の至心」である。最初の下線に続く、「このゆえに疑蓋間雑あることなし」が衆生信楽である。仏心が利他回向の至心たる信楽であるゆえに衆生の心が疑蓋無雑となるので、この疑蓋無雑を信楽と名づくとされた。次の「すなわち利他回向の至心をもって信楽の体とするなり」は、三重出体釈の二つめである。如来の利他回向の至心は、衆生を摂取するに危ぶんだり怯(ひる)んだりする未決定の心ではない。このため、衆生は仏心たる利他回向の至心信楽を聞いて信楽するのである。衆生信楽は仏の信楽に直接している心であるから、衆生信楽は仏心の信楽である。如来の心が至心信楽であることから、衆生は安心して自らの行き先を仏の至心信楽にゆだねられる。祖師が日々感じられていた心境である。

41.法義釈・欲生釈 68頁~69頁

次に欲生というは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ大小凡聖定散自力の回向に非ず。ゆえに不回向と名づくるなり。・・利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまへり。欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに疑蓋雑ることなし。ここをもって大経にいわく、「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住す」と。

 「コメント」

最初の欲生は衆生の欲生のことであるが、仏の欲生でもある。仏の欲生は大悲招喚の勅命という相をとる。それに続く「真実の信楽をもって欲生の体とする」とは三重出体釈の三つめである。この「真実の信楽」は仏の信楽であり、次の「欲生」は衆生の欲生である。仏は、衆生を摂取するに危ぶんだり怯むことのない決定した真実の信楽の心で衆生を浄土へと大悲招喚している。この仏の利他真実の欲生心・大悲廻向心の故に衆生の心は疑蓋無雑となる。このことを、「(如来の)真実の信楽をもって(衆生の)欲生の体とする」と言われた。また、仏の利他真実の欲生心の故に「疑蓋雑ることなし」とも言われている。この疑蓋無雑の信相となったことから、仏の願心と直接し、浄土へと引接する大悲を感じるようになる。このため、かの阿弥陀仏の仏国に生まれられるとの決定した願生の思いが生じる。祖師が日々感じられていた心境である。これが無疑信から起こる衆生の欲生心である。衆生の欲生は信楽の義別であるとされる理由がここにある。衆生が仏に回向する自力の欲生心ではない。仏の利他真実の欲生心たる利他回向心が衆生の欲生心となるのである。

42.三心結成 71頁

信に知りぬ。至心信楽欲生その言異なりといえども、その意これ一つなり。何をもってのゆえに、三心すでに疑蓋雑ることなし。かるがゆえに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心これを真実の信心と名づく。真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。

「コメント」

以上の法義釈により、字訓釈と同様に本願三心はいずれも仏心であり、仏の至心・信楽・欲生の心について疑蓋のなくなった衆生の一心が信楽であると言われている。仏の至心・信楽・欲生はいずれも仏の衆生を助けるに疑いのない利他真実誠満の大悲心である。仏心は利他の真心(至心釈)であり、利他回向の至心(信楽釈)であり、利他真実の欲生心(欲生釈)であり、利他真実の心をもって回施したまう大悲心であるから、如来の三心はいずれも利他回向の清浄の真心である。天親菩薩が浄土論でいう「妙楽勝真心」の一心である。仏の真心である一心を聞き、この一心に触れて衆生信楽の一心となる。これを「真実の一心」と言われる。帰命の相をとるので帰命の一心という。また、これを「信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す」と言われた。三重出体の最初の出体釈において、衆生の至心は名号を体とすると述べられたが、このことを敷衍すると、衆生信楽と欲生も名号を体としていることになる。名号の至徳が衆生の至心信楽欲生の三心、すなわち、一心になったことを示す。祖師の三重出体釈の意は、仏の三心は名号を回向する大悲利他の真心の一心であり、この一心が衆生の無疑の一心を醸成するとするところにある。このため祖師は、この一心が仏性であるとされる。真実の信心は名号を具すとは、大信を獲た者は必ず、乃至十念の称名念仏を称えるようになるが、称名している者は、必ずしも願力の信心を具しているわけではないとする。称名行にも大信を具したそれと、大信を具していないそれがある。上記の三心釈と三心結成は、祖師の発揮のなかでも真骨頂であり、真宗の骨髄である。

43.二双四重判  74頁

横出とは、正雑定散、他力の中の自力の菩提心なり。横超とはこれすなわち願力回

向の信楽これを願作仏心という。願作仏心これ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。・・入真を正要とす。真心を根本とす。邪雑を錯とす。疑情を失とするなり。・・永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

「コメント」

横出と横超の違いは、横超は阿弥陀仏の利他回向の信楽によって聞不具足の邪心を離れたことを言い、これは横超の金剛心であり、仏の願作仏心、仏の大菩提心であるとされているのに対し、横出は聞不具足の邪心のために正雑定散の自力が消尽しないことである。失とされる疑情とは仏心に対する疑蓋のことである。この疑蓋を除くのが仏の利他真実の大悲心である(1項、39~42項)。「聞不具足」とは、往生の因果が仏名として成就回向されていることを聞きながら、その通りと仏の願心を受けとめて聞くことのできない不実な聞き方のことである。二十願に「聞我名号係念我国」とあるが、この聞が不実な聞き方のことである(57項)。これに対し、帰命とは仏の願心のとおりと受けとめて聞いていることをいう。これを如実の聞とも言われている。この如実の聞により仏心と直接するので、心中に仏の願作仏心・大菩提心の現れを感じることができるのである。

44.信一念釈 77頁

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とは信楽開発の時刻の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。ここをもって大経にいわく、「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん」と。また如来会「他方仏国の所有の衆生無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」と。また大経「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲わん」とのたまへるなり。

「コメント」

大経と如来会の所説をもって、真実の信楽無量寿如来の名号を聞いて一念の浄信が起こることであると明示された。浄信は仏心である。その信は「聞名欲往生の心」であると言われる。ここで「一念」とは無疑の一心となった時刻の極促、すなわち信の初一念のことである。「至心に回向し給えり」というのは、もともとの字義は衆生が仏に対して至心に回向するという意味であるが、祖師は、仏からの回向であると理解されて、如来衆生に対して至心に回向されたと読み替えられた。二十願の「諸の徳本を植えて至心に回向して我が国に生ぜんと欲す」という自力回向の行と区別し、自力の行ではないことを明確にするためである。

45.光明寺の和尚は、一心一念といい、また専心専念といえり。然るに経に、聞というは

衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心というは本願力回向の信心なり。・・乃至というは多少を摂する言なり。一念というは信心二心なきがゆえに一念という。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり。・・宗師の専念といえるはすなわちこれ一行なり。専心といえるはすなわちこれ一心なり。しかれば願成就の一念はすなわちこれ専心なり。専心は深心なり、深心は深信なり。・・憶念はすなわちこれ真実の一心なり。真実の一心は・・真実信心なり。真実信心はこれ金剛心なり。・・この心すなわち大菩提心なり。この心すなわち大慈悲心なり。この心すなわちこれ無量光明慧に由りて生じるがゆえに。77頁~82頁

「コメント」

大経下巻・願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念」の聞や弥勒付属の文の「其有得聞彼仏名歓喜踊躍乃至一念」の聞を解説している。聞とは、十七願に成就を誓われた仏名を諸仏が讃嘆し、仏名の成就を衆生に証成していることを聞いて疑心のない聞き方をしていることである。この聞を如実の聞といい、不如実の聞(43項の「聞不具足」参照)と区別する。如実の聞はそのまま信となるので、聞即信といわれる。聞がそのまま信となるような聞であり、信がそのまま聞となるような信である。仏の願心をそのとおりと受けとめた聞き方のことである。「仏願の生起本末」とは、法爾として至心信楽欲生の心のない衆生を利せんが為に、本願を建て、仏名を成就して衆生に回向していることを言う。この仏願の起こりとその顛末である仏の御名の成就・回向を聞いて聞即信となったことを帰命という。この帰命は無疑一心であり、専心であり、深心であり、深信であり、憶念であり、真実の一心である。衆生の無疑の一心は真実信心であり、金剛心である。この心は無量光明慧たる仏の智慧と大悲に由って生じる。

与える者と与えられる者がようやく心の中において出会って仏名の至徳を受け渡されるとき、仏心が受ける者の一心となる。このことを願成就文には「聞其名号信心歓喜」、弥勒付属の文には「其有得聞彼仏名歓喜踊躍」と説かれている。この一心の信相は二心のないことだとされる。「信心二心なきがゆえに一念という」と言われるが、この二心とは、自力の定散心が間雑している状態のことである。自力の思いがあるために仏心に直接せず、絶えず己の心を自ら閉じこめてしまい、疑蓋を形成してしまう。これに対して、一心は自力の思いが雑じることのない状態であるから、仏心と直接する信相となる。仏心と直接しているので、この信相は衆生の思いとは超絶している。一心は衆生が抱える日々の思いと関係を持って存在するものではない。帰命の一心は仏の嘉号である仏徳を受けたあかしであるから、一心は清浄報土の真因とされる。一心の大利を獲たことから、乃至一念、乃至十念、上尽一形の称名となる。行巻の出体釈に、大行とは仏名を称することであり、この行は諸々の善法を摂し諸々の徳本を具しているとされるのは、この一行のことである。信行ともに南無阿弥陀仏の一心一行である。

46.一念結示 三心総結 82頁~83頁

一心これを如実修行相応と名づく。すなわちこれ正教なり。これ正義なり。これ正行なり。これ正解なり、これ正業なり。これ正智なり。三心すなわち一心なり。一心すなわち金剛真心の義、答えおわんぬ。知るべしと。

「コメント」

如実修行相応とは、もともと仏の光明智相や仏名の名義にかなっている称名行を意味していた。論註に「かの如来の名を称するに彼の如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく如実に修行して相応せんと欲するがゆえなり」とある。祖師は一心が如実修行相応であるとされた。46の御自釈は、論註の正意を明らかにしたものであり、行信ともに如来の願心にかなったものであることを示したものである。かなうとは、本願の至心信楽欲生我国の信相と乃至十念の行相となり、函(はこ)と蓋(ふた)とがぴったりと合っているように本願に相応していることである。衆生の信相と行相が本願に相応しているので、如実修行相応を行と信について言われる。如来の十八願心にかなった信が一心であり、帰命である。この一心は後続する称名行を南無阿弥陀仏にかなった乃至十念の行になしかえるので、称名も如実修行相応の正業となる。この信は仏の正智を正しく受けとめたものであるから、正解であり正智であるとされる。一心を正教とするのは、一心が南無阿弥陀仏だからである。南無阿弥陀仏は常に信の者に対して浄土往生を招喚する大悲として教導する正教である。また一心が正教にかなっているとする教えも正教であり、正義であるとする。信は南無阿弥陀仏の教えを正しく信知するものであるから、正義にかなったものである。一心は仏の金剛の一心が衆生の一心となったものであるから、この一心は金剛の真心である。往生の肝要となるのはこの真実の一心である。この大信が大行には必具されている。「三心すなわち一心なり」というのは、仏の三心は利他の真心の一心であり、衆生の三心は無疑の一心になるとの帰結を述べられたものである。天親菩薩が浄土論の冒頭に「われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつり」と言われるが、至心信楽欲生の三心がどうして一心になるのかについて、仏の一心と衆生の一心の双方に亘って考察されたのが、上来の御自釈である。

47.横超釈 一因一果往生即成仏 84頁

横超とはすなわち願成就一実円満の真教真宗これなり。また横出あり。すなわち三

輩九品定散の教、化土懈慢迂回の善なり。大乗清浄の報土には品位階次をいわず。一念須ゆの頃に速やかに疾く無上正真道を超証す。かるがゆえに横超というなり。

「コメント」

再び、横超と横出が登場する。横超についての「一念須ゆの頃に速やかに疾く無上正真道を超証す」とは本願力によって現生は必得往生となり、肉体が滅ぶと同時に無上正真道を超証するのが横超である。無上正真道とは仏の境涯のこと、すなわち、真実の智慧、真実の慈悲に基づいた往相回向還相回向の両回向を旨とした大菩薩道を実践してゆくことである。横出は化土懈慢迂回の善であるとされている。果を対比して自力の欠点を指摘された。「一因一果」というのは、一因とは仏の一心が衆生の一心となった一心のこと、一果とは仏果のことであり、一心の一因から仏果の一果に到るという意味である。「往生即成仏」とは、一心が仏心であることから、往生により速やかに一果たる仏果に到るという意味である。

48.断釈 85頁

断というは往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣四生の因亡じ、果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに断というなり。

「コメント」

横超の仏力たる一心の凄みを巧みに表現している。仏力によって、想像を絶する仏の境涯に心が牽かれてゆくように感じられる。大信あるが故に、このように感じられる。「往相の一心」とは衆生の一心となった仏の一心のことである。仏の一心であるから迷情を離れ、迷界を断じて仏界に到らしめる。

49.真の仏弟子釈 86頁

真の仏弟子というは、真の言は偽に対し、仮に対するなり。弟子とは、釈迦諸仏の弟

子なり。金剛心の行人なり。この信行によりて必ず大涅槃を超証すべきがゆえに真の仏弟子という。・・・仮というはすなわちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。

「コメント」

真と偽仮を明確に分別された。真とは本願力の信行によって大涅槃を超証することであり、仮とは聖道の諸機、浄土の定散の機のことである。正定聚の機が真実の仏弟子であるとされる。それ以外は偽仮である。自力の失による。

 

証巻

50.標挙 必至滅度の願 難思議往生

51.然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば即の時に大乗

正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず、滅度に至る。

「コメント」

往相回向の心行」とは帰命の一心のことである。この一心は南無阿弥陀仏の仏行が衆生の心中に一心として現れたものであるため「心行」とされた。乃至一念の称名行となる以前の心の状態のことを指している。心行を獲る即の時とは、信の初一念のことである。この初一念の心行獲得の時に大乗正定聚に入るとされ、これを現益と言い、その正定聚の者は成仏を得るとされた。これを当益と言う。この「心行」の「行」とは至徳の仏行であり、信の初一念以降においては口称の称名となって自らを現し出す。このため、心行となった南無阿弥陀仏も称名となった南無阿弥陀仏も仏が自らの心を現し出したものであると領解される。元祖は、これを南無阿弥陀仏にて往生するぞと思い取ると言われた。

 

真仏土巻

52.標挙 光明無量の願、寿命無量の願

53.それ報を按ずれば如来の願海によりて果上の土を酬報せり。かるがゆえに報という

なり。然るに願海に就きて真あり仮あり。ここをもってまた仏土に就いて真あり仮あり。選択本願の正因によりて真仏土を成就せり。真仏というは無辺光仏。無碍光仏とのたまへり。また諸仏中の王、光明中の極尊なり。論には帰命尽十方無碍光如来といえり、真土というは大経には無量光明土とのたまへり。・・仮の土というは、下にありて知るべし。・・仮の仏土の業因千差なれば土も千差なるべし。これを方便化身土と名づく。真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す。これによりて真仏真土を顕す。

「コメント」

「選択本願の正因」とは、十八願の至心信楽欲生ないし十念の往生成仏の正因のことである。この正因を獲た者ないし獲る者のために真仏土を成就された。この真仏土で真仏である無辺光仏・無碍光仏・諸仏中の王・光明中の極尊たる阿弥陀仏を見奉ることになる。光明無量の阿弥陀仏のまします浄土は光明無量土である。これに対して、仮土の業因は千差なれば土も仏も千差であるとされる。自力念仏はこの化土の業因である。業因とその果の違いを明らかにするために真実の教行信証真仏真土と化身土を対比された。

 

化身土巻

54.標挙 無量寿観経の意 至心発願の願 邪定聚の機 双樹林下往生

阿弥陀経の意  至心回向の願 不定聚の機 難思往生 

「コメント」

真実の行信を獲た者が真実報土への難思議往生を遂げる正定聚の機であるのに対して、観経の定散疑心の者は邪定聚の機、阿弥陀経の一心不乱の称名念仏の者は不定聚の機とされ、いずれも化土に留まることを示した。邪定とは、機の真実が分からないために諸善をもって往生しようしているところを指して邪という。不定とは自らの心が一心不乱になるかどうかで往生が決まるとの誤った思いに囚われて一心不乱になろうとするが、一心不乱になれないために往生決定の思いが定まらず、常に往生不定の思いにとどまっていることをいう。自力から離れられないために不定の思いとなる。

55.安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく。易行道といえり。この門の中に就い

て、横超横出、真仮漸頓、助正雑行、雑修専修あるなり。正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行というは正助を除きて以外を悉く雑行と名づく。すなわち横出漸教、定散三福九品、自力仮門なり。横超は本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。真宗なり。真実の行の中に顕しおわんぬ。

雑行に就いて専行あり専心あり、雑行あり雑心あり。専行とは専ら一善を修す。ゆえに専行という。専心とは、回向を専らにするがゆえに専心という。雑行雑心とは諸善兼行するがゆえに雑行という。定散心雑するがゆえに雑心という。122頁

56.正助に就いて専修あり雑修あり。この雑修に就いて専心あり雑心あり。専修について二種あり。一つにはただ仏名を称す。二つには五専あり。この業行に就いて専心あり雑心あり。五専とは一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専称、五つには専讃嘆なり。これを五専修と名づく。専心とは五正行を専らにして二心なきが故に専心というすなわちこれ定専心なり。またこれ散専心なり。雑修とは助正兼行するがゆえに雑修という。雑心とは定散の心雑するが故に雑心というなり。・・経家によりて師釈を披くに・・また正行の中の専修専心、専修雑心・・はこれみな辺地胎宮、懈慢界の業因なり。122頁

「コメント」

「ただ仏名を称す」とは、33項に登場した「円満の徳号専称を勧む・・極重の悪人ただ仏を称すべし」とある唯称仏名の念仏のことである。唯称仏名の念仏は至心信楽の本願念仏のことである。専修にも二種類あるとされ、唯称仏名と五専の中の専称とを挙げられて、両者を区別されている。後者の専称は「正行の中の専修専心、専修雑心」と言われ、「みな辺地胎宮、懈慢界の業因なり」とされる。業因とは行のことである。胎宮とは、大経下巻に正定聚の機が蓮華の中に化生して身相・光明・智慧・功徳、諸々の菩薩のごとく具足し成就せんとされているのに対して、疑惑して信ぜざる者は疑城胎宮に胎生すると説かれている。一口に自力念仏というが、雑行中の専行たる称名行か、唯称仏名と区別された五専修中の専称のいずれかである。報土往生には真実の行因と真実の信因があるように、化土往生にも仮の行因と仮の信因とがある。因みに、雑行中の専行たる称名行を万行随一の念仏、五専の中の専称を万行超過の念仏ということもあり、本願念仏と区別している。

57.いま方便真門の誓願に就いて行あり信あり。また真実あり方便あり。すなわち植諸徳本の願これなり。これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。すなわち至心回向欲生の心これなり。二十願なり。機について定あり散あり。往生とは難思往生これなり。仏とはすなわち化身なり。土とはすなわち疑城胎宮これなり。

「コメント」

善本・徳本を称することを方便真門の行とされている。この行は二十願に「わが名号を聞きて念を我が国に係け、もろもろの徳本を植えて至心回向して我が国に生ぜんと欲す」とある。二十願にも仏の名号を聞くという文言があるが、聞き方が不実であるため聞即信とならない。このため、二十願には十八願の信楽の語は使用されておらず、その代わりに「念を我が国に係け」という行相から始まり、また十八願の乃至の語も使用されておらず、「徳本を植えて至心回向して我が国に生ぜんと欲す」とされている。ここに、十八願の信行とは異なる自力疑心の行であることが表れている(回・不回向対をも参照)。この称名は大信を欠いているので、諸々の善法を摂し、諸々の徳本を具した本願念仏行とは区別されることになり、仮の行として分類される。決して真実の行とはされない。正行の中の専修専心、専修雑心、辺地懈慢界の業因とされている。祖師は「雑毒雑心の屍骸」とまで言われ(21項コメント欄)、報土往生は不可であることを教えている。

58.観経に准知するに、この経にまた顕彰隠密あるべし。顕というは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。・・これはこの経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。彰というは真実難信の法を顕す。これすなわち不可思議の願海を光闡して無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。・・これはこれ隠彰の義を開くなり。

59.それ濁世の道俗、速やかに真門に入りて難思往生を願うべし。

「コメント」

真門には顕彰隠密の義があるとしている。顕には諸善を出さず念仏の一行を勧める教えであり、自力念仏による往生を勧めるがごとくである。しかし、彰隠密には本願念仏を教え勧めている。読み手によっては自力の行を勧める教であると読め、あるいは本願念仏を勧めているとも読める。ここに、自力念仏から本願念仏に誘引する大悲が働いているというのである。このため、祖師は、聖道門に留まっている者や諸善をもって往生を願う俗に対して「それ濁世の道俗、速やかに真門に入りて難思往生を願うべし。」と言われる。既に真門念仏の門に入っている者に対して、より一層の自力念仏に励むことを勧められた言葉ではない。

60.真門の方便に就いて善本あり徳本あり。また定散雑心あり。雑心とは大小凡聖一切

善悪、おのおの助正間雑の心をもって名号を称念す。良に教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す。これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり一切善法の本なり。かるがゆえに善本というなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに至徳成満し衆禍みな転ず。十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本というなり。然ればすなわち阿弥陀如来はもと果遂の誓いを発して諸有の群生海を悲引したまへり。既に悲願います。・・真に知りぬ。専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。悲しきかな垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆえに出離その期なし。自ら流転輪廻を度るに微塵劫を超過すれども仏願力に帰し叵し、大信海に入り叵し。良に傷嗟すべし。凡そ大小聖人一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに信を生ずること能わず。仏智を了らず。かの因を建立せることを了知すること能わざるゆえに報土に入ることなきなり。

「コメント」

弥陀成仏の因果と衆生成仏の因果の両因果の成就のあかしであり、かつ衆生往生の因果となる仏名の善本・徳本を聞きながら真門自力念仏に留まってしまう原因を教えられた。徳号は一声称念するに至徳成満すると言われるのに、そうは思えない原因は「専修にして雑心」だからである。また「助正間雑し、定散心雑」するために出離できず、仏願力に帰し得ず、大信海に入り得ない。「本願の嘉号を己の善根とする」ために信を生ずこと能わずとなる。これらは、二十願の「もろもろの徳本を植えて至心回向して我が国に生ぜんと欲す」という仮たる行を祖師自らの経験に引き寄せて説明したものである。植諸徳本の行は「専修にして雑心」であり、「助正間雑して定散心雑」しており、「本願の嘉号を己の善根とする」行なのである。いずれも自力の相を表す。このような自力の心相と行相に陥るのは聞不具足(43項参照)が原因である。聞不具足のために、往生に何の不足もない仏名の成就を聞いても信心歓喜しないのである。60項の「専修」「雑心」とは、56項の「正行の中の専修専心、専修雑心」と同じ用語である。諸善中の専行としての称名行も真門中の称名行も、ともにその本質が同じ自力の行であることから、いずれも仮の業因に分類される。

61.ここをもって愚禿釈の鸞・・永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して

偏に難思往生の心を発しき。然るにいま特に方便の真門を出でて選択の願海に転入せり。・・果遂の誓い良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために真宗の簡要を摭うて恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。信に知りぬ。聖道の諸教は在世正法のためにして、全く像末法滅の時期に非ず。すでに時を失し機にそむけるなり。浄土真宗は在世正法像末法滅、濁世の群萌斉しく悲引したまうをや。

「コメント」

祖師は聖道から浄土門内に入り、さらに真実の選択本願に転入した経験を仏の方便であったと理解され、方便の真門にも仏の大悲が働いていたことを、願海への転入の後に感じられた。このため、聖道自力門に留まっている者らに対して、真門念仏に入ることを願われているが、既に真門念仏の門に入っている者に対しては自力疑心を誡められ、速やかに十八願の信楽を得て徳海を称念することを勧められている。「徳海を称念する」とは、南無阿弥陀仏を心の中で憶念し、御名を口称し、もって心の中に感受している、わが往生を決定させ給いし至徳の大悲に報謝することである。「至徳を報謝せんがために」とある。速やかに十八願の信楽を得て徳海を称念することを勧めるべき相手は、真門念仏に入っている者に限られない。その対象となる機について、祖師はすでに「その機はすなわち一切の善悪、大小凡愚」であるとされている(32項)。これらの者が本願一乗の絶対の教えを聞信することによって正定聚の機となるのであるから、既に真宗の教えを聞いて浄土を願って細々ながらも念仏を申している者には、迂遠の道である要門・真門の仮の教えではなく、直裁に本願他力の教えを聞信することを勧めるべきである。二十願の一心不乱の行者になることを勧める必要は微塵もない。自力念仏を勧めずとも、如実に真言を聞けないばかりにおのずと頑迷な自力念仏の者になってゆくのであるから、自力念仏の者に自力念仏を勧めても所詮がない。勧めるべきは本願他力の大悲であり、本願他力の教えを聞信することである。

 

「以上、全体を通じたコメント」

祖師が、大行と大信の関係をはじめとして大行をどのように理解されていたのか、また、信の対象、信の内容、信の本体、信が発起する原因ないし理由などをどのように考えられていたか、を正しく理解するためには、祖師の御自釈を正しく理解することが不可欠である。この点を最後に整理しておくと、大行は十八願の願心にかなった仏名を称する行、すなわち、至心信楽欲生我国乃至十念の念仏である。この行は仏名の至徳を体とし、大信を必具した行であるが故に必得往生の正定業となる。大信は仏の利他回向の真心に対する無疑を内容とし、仏の利他回向の真心から発起する。仏の真心以外に信を発起させる原因となるものは他にはない。このため仏の真心を如実に聞いて心に受け入れる聞即信が肝要となる。大信は仏名の至徳を体としているので、無疑の信相が衆生に顕現した信の初一念で報土往生の真因となり、往生が決定する。疑蓋無雑となって仏心と直接している大信があり、この大信を通して仏心の南無阿弥陀仏が口称となって流出するのが大行である。このため大行たる称名は仏名と同じ至徳を具備しているのである。往生決定後の大名たる称名は報恩の行であるとともに、大信に対する教位の行法ともなる。教位の行法であるため、自ら称える称名に南無阿弥陀仏の大悲を感じ、また、報謝の思いともなって仏を称念するようになる。この大行は仏の行法であるが、大信を通じて出現する大行であるから、この大行は大信に依止しているのである。大信を欠いた称名は十八願の本願念仏にはなり得ない理由がそこにある。してみれば、一心の浄信が往生成仏の極要である。信巻こそが祖師が本典において最も心血を注いで記述されたものであり、重要なテーマが総攬されている。