3-28.会話編 信の特性(大悲感受の一対性)-所信は本願か名号かの違和感の正体

序章 導入 (問題の提起)

B君 あるブログ(「浅川進の、宗教と私」)に布教師が解説した音声録音の文字起こしが連載されていた。内容の一部として「能信と所信」について解説されていた。

 

A君 どんな解説だったか、簡潔に要約してくれないか。

B君 布教師によれば、「元祖と祖師の能信は同じだが、所信は本願か名号かという明らかな違いがある。」というものだった。

A君 「能信と所信」は「信じる行為ないし状態」と「信ずる内容や対象」を区別するための便宜的な講学上の概念だが、それについて何か感じる所があったのか。

 

B君 所信が本願と名号とそれぞれ異なるのに能信が同じであるという。でも、所信が異なっていても能信が同じであると言える理由がよく分からない。

 

B君 そもそも「能信と所信」という講学上の概念は本当に他力信の真の姿に迫る用語になり得るのものなのかよく分からないんだ。

 

A君 どうしてそんなことを考えたのか。

 

B君 君は「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにその事実状態を観察する事を基点として物事を考えてゆくんだ。」と言ったよね。感受している対象は大悲だが、それは「信じている」とか「信じている対象」と言い換えられるものなのか違和感があるのだ。違和感が残ったまま「所信を本願とする」とか「所信を名号とする」とか言われても、よく整理されていない用語のようにモヤモヤとしたものを感じてしまうんだ。

 

A君 なるほど。「信じる」という一般的な概念と「感受」している状態とにはギャップがあると感じたんだね。

 

B君 信じるという心の作用をどう理解したらいいんだろうか。

 

A君 他力とか自力とかの修飾語を付けて他力の信と自力の信を区別しているが、両者はまったく異った心の作用だから、同じ信という語を使用しているのは、本来、おかしな事なんだ。

 

A君 古代インドでは、信を「①シュラーダー」「②プラサーダ」「③アディムクティ」「④アバカルパヤティ」「⑤パティヤティ」「⑥アディヤサーヤ」「⑦バクティ」と使い分けていたことが藤田宏達氏著「浄土三部経」に書かれている。①~⑤は475頁「信の原語」、②は484頁「念仏と信」、⑥は492頁註(1)、⑦は482頁にそれぞれ記述されている。

 

A君 著者によれば、「①シュラーダー」は真実を置くという語根から作られた語句で、信・信頼の意で広く一般的に使われているとし、無量寿経の東方偈の「信慧」の「信」はサンスクリットの「シュラーダー」に相当するとされている。「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされている。「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的なはたらきと見たことを表しているとされている。「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳され、「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」とされ、「⑦バクティ」はインド思想一般において熱狂的な信を指すとされている。至心信楽の原語は「②プラサーダ」であろうと推測されており、熱狂的な信を指す「⑦バクティ」ではないとされている。

 

B君 それで何が言いたいんだ。

 

A君 漢語に翻訳される際に信という語を当てていても、インドでは信の特性に応じてさまざまな語句が使い分けられていたという事だ。雪という語も日本では細雪、牡丹雪、ドカ雪、粉雪などと使い分けられているが、エスキモーではもっと細かく使い分けられているという事を聞いた事がある。雪が生活に直結する影響を与えれば与える程、雪という言葉を細かく細かく使い分けて使用しているんだ。

 

B君 真宗では他力の信と自力の信とに使い分けているが、使い分けの分析が不十分だから、理解としても不十分なものになってしまうおそれがあると言いたいのか。

 

A君 他力の信と自力の信とは心の作用としてはまったく異なるので、その違いをキチンと理解しなければならないという事を言いたいのだ。雪国の人であれば、細雪と粉雪の微妙な違いを肌感覚で明確に区別できるようにね。

 

第二章 信じるという心の作用と分類、他力信の特殊性

1.一般的な「信じる」という心の作用・効果

B君 どんな違いがあると考えているのか。

 

A君 信じるという心の作用は信を生じさせている作用のことで、信は信じるという心の作用が働いた結果として生じた思いや考えであると言い換える事ができる。神や仏の存在を信じるという卑近な言葉遣いをヒントに一般的に使われている「信じる」という心の作用を分析し、それを成立させている要素を抽出してみようと思う。そこから、両者の違いが明確になってくると思う。

 

A君 仏の存在を信じているという場合、まず、その当人にとって直接認識したり知覚することができないものを「信じる対象」としている。それにもかかわらず、何らかの「理由」によってそれが存在するとの「結論」を得て、しかもその結論に基づいて儀式などの「一定の振る舞い」をするにまで至っているのが「仏の存在を信じている」ということだ。この心理状態を成立させている要素を抽出すると5つになる。①直接認識したり知覚することができない不確実な事柄に関している事、②一定の判断や評価(「結論」)に達している事、③結論に達したことになんらかの理由がある事。④その結論に達していても直接認識したり知覚した訳ではない事。⑤その結論から一定の振る舞いを行うにまで至っているという事。

 

B君 もうすこし各要素について説明してよ。

 

A君 当人にとって①の直接認識したり知覚することができない不確実な事柄であるという要素は、信じるという心の作用の成立に不可欠なことだ。この要素がある事によって②の結論に至るまでには必ず心理的な障壁があるという事になる。この心理的な障壁というのは論理的思考だけでは克服することができない壁の事だ。①が心理的な障壁になっている場合にこの壁を乗り越えて一定の結論に達するという事が信じるという心の作用の本質だと思う。ポイントは、論理的思考によらずにこの壁を乗り越えてしまうということだ。この壁を非論理的に乗り越えてしまえる理由はさまざまあり得る。根拠となる知識や経験などが不確実なものであればあるほど乗り越えるべき心理的な壁はいっそう高くなるが、それを何らかの理由によって乗り越えてしまう心の作用が信じるという心の作用だ。その理由は根拠薄弱なものからしっかりとした根拠があるものと様々だし、非合理的と思えるものであってもよい。その確からしさの程度は問題ではない。まったく合理的な根拠らしい根拠がなくてもよい。迷信などはこれに該当する。だから、信じる心の作用は非論理的な直感力による決断が担っていると言ってもいいと思う。直感力によって心理的な壁を乗り越えて一定の結論に至ったとしても直接認識したり知覚した訳ではないし、直接認識したり知覚した結果、壁を乗り越えたわけでもない。ここがもっとも重要なポイントだ。そして、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているということがもう一つのポイントになると思う。これは信じる強度や程度に関わる問題だが、直接認識(知覚)しているがごとくに振る舞おうとしているという程度に至らないと信じるとは言えないのではないかと考えている。私は心理学や宗教心理学のことは知らないので、その正確性は保証しないが、そんなことになるだろうと思う。

 

A君 信じるという作用の効果についてもう少し補足しておくよ。仏の存在というものは直接認識(知覚)できない不確実な事柄だ。不確実な事柄であるにも拘わらず、その存在を直接認識(知覚)しているがごとく態度決定しているのが当人にとって信じているという事だ。信じる作用が不確実な事柄である信じる対象を、直接認識(知覚)しているがごとき存在にまで変容させている。ここに信じるという作用の効果がある。直接認識(知覚)していないのに、信じるという作用の効果によってその対象が「不確実な状態」から「確かなように思える存在」にまで変化して高められていると考えられる。「確かなように思える存在」と表現したのは、直接認識(知覚)していないからだ。

 

B君 心理的な壁を論理的推論によって乗り越えてしまう場合には、信じるとは言わないのか。

A君 確実な証拠と事実に基づいて論理的な論証を加えた結果、心理的な壁を論理的に乗り越えてしまったときは直感力によって結論に達した訳ではない。だから、両者を明確に区別する事が必要になる。しかし、いずれの場合でも直接認識(知覚)している訳ではない。ここに共通項がある。そこで両者を一括して、広義の「信じる作用」とまとめてしまうこともあり得ると思う。この場合には「広義の信じる作用」には直感力と論理的論証の2つがあるということになる。ただしこの2つを截然と区別する事が困難な場合もある。論理的な論証を加えても最後の最後に直感力が働いて結論に到達する事もあり得るからね。

 

B君 信じるという心の作用は誰でもが生まれつき持っている心の作用の事だね。

 

A君 そうだね。生まれつきの作用・効果だから、これからこれを「生来的」とか「狭義の」と表現することがあるよ。

 

A君 「狭義の信じる」とは上記の各要素によって構成されていると考えた場合、この概念が一般的に適切に機能するか否かは、他の具体例で広く検証する必要がある。うまく適用できないときは適当に修正する必要がでてくる。例えば「彼は無実だと信じている」という場合にうまく機能するか、「来年の株価は暴落すると信じている」という場合にうまく機能するか、などなど検証しなければならないが、長くなるので止めておくよ。

 

A君 ただ真宗において自力の信という場合の典型例を1つだけ取り上げて検討しておくよ。自力の信とか自力の計らいの典型は、仏の無条件の救済の場面において自分の善行を根拠(アテ)にして仏の救いが得られると考えたり思ったりしている場合だ。①仏の救いというものは当人にとって直接認識(知覚)できない不確実な事柄で抽象的な観念に留まっているため、将来、救いが得られるかどうか判然としていない。それにも拘わらず、②自分の善行によって救いを得られるとの思いに至っている。その思いに至った主たる理由は、③仏教に対する全般的な信とともに、仏の無条件の救済の場面においても世間通例の因果律があてはまるという根強い思いがあるためだ。この思いがあるために善行を重ねる事によって救いが得られると考えるに至った。そして、⑤実際に善行を実践することになる。①仏の救いは不確実なのに、その心理的な壁を非論理的に飛び越えて②の結論を得た理由が③教えや因果律に対する信と善行だ。これらを根拠として直接認識(知覚)できない不確実な仏の救いを得られると考えていることは、心理的な壁を飛び越えているということだ。しかし、④直接認識(知覚)した訳ではない。これが真宗において廃されるべき自力の信とか自力の計らいだ。廃されるべき理由は、仏の無条件の救済の場面においてこの心の作用が働くと、大悲感受を妨げるものになってしまうからだ。

 

B君 仏の救いを信じるという場合には、信じるという心の作用と信じる対象は概念的に区別できるよね。「仏の救い」が信じる対象を意味する所信で、「仏の救いが得られる」という思いが能信ということになるよね。

 

A君 概念的に区別できる理由をもっとはっきりと確認しておこう。「仏の救い」は将来の不確実な事。これに対して、「仏の救いを得られる」という思いは現在の思い。将来に属する事項と現在に属する事項とに分離してしまっている。信じる対象は未来に属する事項、信じる作用は現在に属する事項だから、概念的に明確に区別できる。この他にも重要な理由があるのだが、とりあえずここで留めておくよ。あとで触れる事になるかも知れない。

 

2.他力信の特殊性

B君 じゃ、他力の信の場合はどうなんだ。

 

A君 他力の信とは祖師の言われる大悲に対する「無疑信」のことだが、意識的には大悲を現在感受している心理状態のことだ。この心理状態は無意識と意識の領域にまたがっており、現在意識としての大悲感受は無意識に根ざしている心作用としてはじまり、その心作用が意識の領域に影響を与えた結果、意識によって大悲感受として捉えられている状態であると私は考えている。ここには、生まれつき持っている心の作用が働く余地はまったくない。「現在意識」の中に大悲が顕れて大悲をいつも現在感受しているからね。ここには心の障壁となるものがない。要素①が成立していない。要素④も存在していない。そのため心理的な壁を飛び越えることも無ければ、飛び越える理由も必要としていない。すでに回心という現象が生じた事によって飛び越えてしまっているのだ。だから大悲をつねに現在意識の中で感受している状態があるだけだ。これが他力の信といわれている状態だ。どうして飛び越えられたのかについては説明不能だ。大悲があったという事しか言えない。論理の言葉で尽くせる限界を超えてしまっているのだ。論理では大悲を伝えることができないため、大経では法蔵菩薩の本願と法蔵菩薩の成仏による本願成就という物語でもって菩薩の悲心が語られているんだ。大経は全体として仏の無条件、無縁の大慈悲心が説かれていると言える。この説かれている大悲がわが身の上に現実化したのが大悲の現在感受であり、他力の信なんだ。

 

B君 では、他力の信においてはさっきの構成要素①~⑤のうち、要素①②③④を欠いており、要素⑤だけしか残っていないという事か。

A君 そういうことだと思う。

 

視覚との比較その1

B君 では、大悲感受は視覚により対象物を視認している状態のようなものか。

A君 ある意味ではそうとも言えるが、重要な差異がある。

B君 どういうことか。

 

A君 意識が大悲を直接感受しているので、視覚によって対象物を直接、視認しているのに似ている。両者とも「直接性」という点では共通している。だから、視認しているときと同じように、大悲を感受しているとは言えても信じているとは言えない。しかし、視覚の場合には明確な対象物がある。正確には視覚の対象物という観念が生まれている。そのような観念が生じるのは視覚の対象がさまざまに変化し、アレはテレビ、コレは本などとさまざまなものを区別しなければならないため対象物という観念を必要としている。生来的に信じるという場合も信の対象は限りなく無限に存在している。人、モノ、金、団体、地域社会などの存在物から非存在まで広範に及んでいる。だから視覚や信じるという場合には対象という観念がどうしても生じてくる。この場合の視覚とか信じるという心の作用は同じ一つの機能であっても、視覚の対象や信じる内容・対象は多数となるので、視覚機能や信じる機能とそれらの対象は「一対多」という関係になる。しかし、大悲を感受する場合はつねに感受するのは大悲だけで、大悲から区別されて感受されなければならないものは何もない。視覚の場合で例えると、視覚の対象物が白一色で他の色とまったく区別する事ができないとしたら、そこに対象物という観念は生じないだろう。白一色の世界だから、白以外に区別されるべきものがないからだ。白という観念すらも生じないだろう。そのようなとき対象物という観念は生まれようがないんだ。大悲を常に現在感受している状態はそれに近いのではないだろうか。感受と大悲とは「一対一」の対応関係しかない。その両者は一対のものなんだ。だから大悲と感受とは一体であり、一対であると感じられることになる。ここに大悲と大悲感受を区別できない理由があると考えている。古来、機法一体という言葉がある。この機法一体の意味は、我が身の上に現実に生じた大悲感受は「摂取するとの大悲をそのまま無疑で受けている南無阿弥陀仏の姿」であり、この心相となっている南無阿弥陀仏は「救う法」と「信じる機」とが一体として成就されているという意味だ。今私が言う「大悲」と「感受」は「救う法」と「信じる機」に相当する。「大悲」と「感受」は機法一体だ。両者を分離できない事を既に昔の人は理解していたのだと思える。

 

視覚との比較その2

B君 視覚の場合、対象物の形状(直線、横線、縦線、斜線、曲線、点)や色、動きなどの諸情報が光として視覚の受容体にとらえられてそれが電気信号に変換されて脳にその興奮が伝達され、線や動き、各種の色などを専門に感知する各部位において各対象がそれぞれ感知され、それがやがて統合されて対象物の全体像として認識されるという経過を辿るのだが、大悲感受は、どのようになるのか。

 

A君 さぁ脳科学者ではないから、そんな事は分からない。が思うに、回心時の大悲感受の際に、大悲を感受する部位が新たに脳内神経ネットワークとして形成されたと考えられる。その回心時の心理状況やそれまで聞いた法語なども記憶として保存された。長期記憶として保存された大悲に関する一群の情報はいつでも引き出され、大悲を感受する特定部位をつねに刺激し続けている。この刺激を受けた特定部位が大悲を感受する。その感受がその神経回路をさらに強固なものとし、意識がその大悲感受を自覚するようになる。このような絶え間ない情報のやり取りが活発に連続的に繰り返されているのだろうと推測される。言い換えれば、大悲を感受させる特定部位と大悲を感受する特定部位との間で情報が絶えず交換され、両者が協働することによって大悲感受を現実化し、恒常的にしている。このためつねに現在意識の中で大悲感受が起こっていると私は考えている。これは丁度、幼少期のほのぼのとした思い出が大人になってもいつでも思い出されてほのぼのとした気持ちになったり、外界から刺激を受けるとその記憶が思い出されて同じ思いや感覚にとらわれる疑似体験をするのと似ているのではないかと思う。

 

B君 他力の信にあっては、視覚の作用や機能とも異なり、信じるという心の機能とも異なっているという事だね。そうなると、大悲感受の状態について、狭義の信じるというのと同じ言葉を使うのは適当ではないということになるんだね。

 

A君 雨がそぼ降るのを眺めて紫陽花の美しさを嘆じているとき、紫陽花の花の美しさを信じているとは言わないように、大悲をつねに感受しているときは大悲の慈悲深さを嘆じるのであって、大悲を信じているとは言わない。

 

決定往生の思い

B君 君はよく元祖の一枚起請文を引き合いに出すよね。「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・(途中省略)・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は、大悲感受との関係ではどう位置づけられるんだ。

 

A君 大悲感受とは、摂取するとの大悲をそのまま無疑の状態で受けとめている心の状態の事だ。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったことを実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、「浄土に連れてゆく」というのが大悲であると感受されるから、「この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだな」と素直に思える。これはごく自然な思いだ。この浄土往生の思いを以下「決定往生の思い」というよ。この決定往生の思いは大悲感受と一体の思いだ。

 

A君 この点に関して言っておきたいのは、十八願文の至心・信楽・欲生の三信を一心と言われている理由についてだ。大悲感受の状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対の関係にあるからね。大悲感受によって自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える思いは欲生に相当する。大悲感受の状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。しかもこの一心は仏の真実の大悲心と一体の心であるから「真実の一心」ということになる。

 

B君 ところで、さっきの古代インドの信との関係で言えばどうなるのだ。

 

A君 「①シュラーダー」は真実を置くという語源からの言葉という事だったが、真実を仏の至心を意味する大悲と理解し、この真実大悲が私の心に置かれたのが信だという理解をすれば、このシュラーダーは至心の状態を表していると言っていいね。ただ、シュラーダーは広く一般的に使われているという事だったから、仏の至心を表す言葉として一般の世俗用語が転用されたものだろう。

A君 「②プラサーダ」は「浄信」とか「澄浄」と漢訳され、「チッタプラサーダ」は心が澄み浄化され、喜悦し、満足する状態を指すとされているという事だったね。仏の大悲は清浄な心であるから、この心に触れて大悲を感受すればその状態は心が清浄になっていると言えそうだ。喜悦し、満足する状態ということになると信心歓喜ということになるから、「②プラサーダ」は至心信楽を表していると言っていいね。また欲生をも含めて表していると言っても良いと思う。

A君 「③アディムクティ」は「信解」とか「勝解」と漢訳されており、対象に対して明確に決了し了解し判断する心作用を指し、信を知性的な働きと見たことを表しているという事だったよね。大悲を感受してみれば、それは大悲の働き以外にはないという事が理解され、同時に自力無功も自然と理解されるから、ここに「明確に決了し了解し判断する心作用」があると言える。真宗でいう「捨自帰他」を理解している思いは「明確に決了し了解し判断する心作用」であり、大悲感受に伴っている知的側面としての心作用であると思う。

A君 「④アバカルパヤティ」や「⑤パティヤティ」は「信順」「信受」などと漢訳されているという事だったね。大悲をそのまま感受していることを表していると理解される。

A君 「⑥アディヤサーヤ」は「深い指向」という事だったね。深い指向とは仏や浄土に心が深く向けられている状態を表していると理解される。我が心を大悲に委ねきって浄土往生へ思いを至していることを想起させるね。

A君 「⑦バクティ」は熱狂的な信とされていたね。大悲感受は静かで穏やかであるから、大悲感受は明らかに「バクティ」ではない。他力信は情熱のような信ではない。

 

分類

B君 視覚が直接対象物を視認しているように、意識が大悲を直接感受しているという事になると、狭義の信じる作用ではないことになるが、広義の「信じる作用」の中に直感力ではない「論理的推論」を含めたように、大悲を直接認識し知覚する他力信を最広義の「信じる作用」として位置づける事は考えられないのか。

A君 うん。そういう考えはあり得ると思う。図示すると次のようになる。

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ただ、私としては、大悲の直接感受は大悲という極めて特殊で稀なものを一対一・一対の対応関係で直接感受しているものであり、広義の信じる作用とはまったく異質なものであるから、最広義の「信じる作用」という分類を設けてその中に入れてしまうのはなじめない。学問的には上記のように整理することは考えられなくはないが、信じる作用とは同類ではなく、異類という感じがしてならないよ。

 

第三章 冒頭の問題の提起に対する筆者の考え 

B君 では、他力の信がそのような状態であるとして、他力の信に「能信と所信」という講学上の用語を使うのはどうなんだろうね。生来的な意味での信じるという場合とはまったく異なるのだから、使うとすれば、「能感」と「所感」ということになるのかな。

 

A君 他力の信の場合には、その信は一般的な信の場合とは異なるのだから、「能感」「所感」と言い換えてもよいだろう。しかし、「能感」と「所感」とに概念的に分けたとしても、他力の信においては大悲と感受とが別々のものであるとは感じられない。大悲と大悲感受は同じ状態であって区別できない。大悲のままが感受であり、感受のままが大悲という表現をせざるを得ない。要するに区別できないってことさ。この区別できない理由はさっき述べたとおりだ。大悲と感受とは完全に一対一の対応関係・一対の関係となっており、大悲以外に大悲と区別されて感受すべきものがないからだ。この感受は大悲専用の感受であって、その他の目的のために機能することがない。大悲を感受させる特定部位とそこからの刺激を受けて大悲を感受する特定部位とが協働した結果、大悲を感受し、それを意識によって捉えられていることになる。両特定部位は一体・一対となって大悲を意識に感受させている。当人にとって見れば、この大悲と感受の関係は「感受無ければ大悲無し」「大悲無ければ感受無し」「感受あれば大悲有り」「大悲あれば感受あり」という大悲と感受とが完全に一致した関係になる。だから、「能感」と「所感」とを概念的に分けることはできるものの、両者を概念的に分けて所信が本願か名号かと考察する方向に向かう考え方には反対だ。そうではなく、上記の理由から、大悲感受の事実状態は大悲と感受とは分離できないものであると考察し、そのように結論づけるのが正しいと思う。

 

B君 ところで、他力の信にも「能信と所信」という用語を使うと、「所信」は本願か名号かという対立が生まれてくるよね。この対立は意味があるのだろうか。

 

A君 これはまったく意味のない事だと思う。他力の信の内容として本願を信じているとか名号を信じているということはないんだ。他力の信は現在大悲を感受しているだけであり、大悲のままが感受であり、感受のままが大悲なんだ。大悲を感受している感受そのものには本願を信じるという生来的な作用は働いていないし、名号を信じるという作用も働いていない。だから大悲を感受する所には信ずる対象が無い。能信も所信もない。「大悲感受」と「信じる」ということはまったく異なった心の作用だから、そこに「所信」は本願とか名号とかということを持ち込むこと自体が間違っていると思う。

 

B君 元祖の所信は本願、祖師の所信は名号という理解は何を根拠にしているのだろうか。

 

A君 その根拠は「元祖は王本願である念仏往生の十八願に立って教えを説かれたが、祖師は願成就文に立って名号をもって教えを説かれた」という理解をし、その理解から所信は本願、所信は名号と言っていると思われる。しかし、「元祖は本願をもって説かれ、祖師は名号をもって教えを説かれた」という理解が正しいかどうかは横に置いておいて、そのような理解に立ったとしても所信が本願であるとか名号であるというのは間違っていると思う。さっき言ったように、他力の信は大悲の現在感受以外にはない。この胸の内に感受している大悲を言い表すために本願をもって説くか、名号をもって説くかの違いが出てくるものの、それは「発揮」というものであって、信が異なるからではない。また、信の中身としての所信が異なるからでもない。文に現れている違いに着目しつつその違いから元祖と祖師の思想体系が異なると理解した事と所信とを同じように考えたところに間違いの根っ子がある。そうではなく、その文に現れた違いは違いとして理解しつつ、その真意はどこにあるかを考え、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が両者間で異なっているのか否かをよくよく深く検証してみなければならないと思う。そのためには「考察の対象とすべき事象はつねに大悲を感受している内心の事象であり、つねにどのように感じているかを正しく観察する事を基点として物事を考えてゆく」という基本的スタンスに立って考えてみる事だ。他力信とは「現在意識における大悲感受である」と理解すれば、元祖と祖師の所信が異なるとする発想に対してはたいへんな違和感を感じる事になる。この違和感を大事にして、かつ、大悲感受を基軸なり指標にして論を組み立てるべきなんだ。十八願に顕れた大悲と名号に顕れた大悲に違いはあるのか、また、自分の感じている大悲感受に沿う論理構成はできないかと検討してゆけば、大きく間違えることはないと思う。本願に顕れている大悲や名号として成就された大悲が胸の内に顕れ、同じ大悲として感受しているのが信だという理解が間違っていない限り、元祖と祖師の所信が違うという説に同意する事はできない。おそらく「元祖や祖師の所信」と「元祖や祖師の思想」とを勘違いしているのではないかと思う。この両者は別モノだ。

 

A君 ついでに言っておくと、能行と所行という学派の対立があるが、これも無意味な対立だと思う。仏の救済たる大悲成就が南無阿弥陀仏となって心に届き、心に大悲が感受されている南無阿弥陀仏の状態(心相)の南無阿弥陀仏を所行といっても、或いは、その南無阿弥陀仏が念仏という行為として現れ出たところの念仏を能行といっても、そのどちらも同じ南無阿弥陀仏なのだ。入り口の南無阿弥陀仏をとらえて所行、出口の南無阿弥陀仏をとらえて能行と言ったところで同じ南無阿弥陀仏じゃないか。竜のしっぽを捉えて竜と言い、竜の頭を捉えて竜と言っているようなものさ。すでに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となったのだから、どこをとらえても同じなのさ。能所不二という言葉が既に造語されているのは、そうした理由があるからだ。

 

第四章 冒頭の問題提起に対する筆者の考え(続編) 

1.他力信と同時に狭義の信じるという作用が働いている場合があること 

B君 でも本願を信じて往生するとか言うよね。この場合信じる内容は浄土往生だ。

A君 その場合は少し違った意味合いが加わることがあり得るんだ。

B君 というと。 

 

A君 他力の信は現在大悲を感受するだけだが、それに伴ってある思いが生じる。その思いとは、先に述べた「決定往生の思い」のことだ。大悲とは浄土に連れ帰るという大悲だから、これを無疑の心で受けると大悲を感受し、浄土に連れられてゆくという思いになる。このさきにある問題が、「浄土往生が実現されるかどうか」という問題だ。大悲を感受していても、この問題はなおも先の①直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄に属している。ここに信じるという生来の心の作用が働く余地が出てくる。わが身の上に浄土往生が実現されるかどうか、については「信じる」「信じない」という生来的な心の作用が働く可能性が残っている。現在大悲を感受していれば浄土に連れられてゆくという思いになるから、「浄土往生が実現される」と信じることになるのが自然ではないかと思う向きがあるかも知れない。しかし、「イヤイヤそれは分からないぞ。」と思うこともあるだろう。まだ実現されていないのだからね。ここに浄土往生を「信じる」「信じない」という問題が生じる余地があるのだ。

 

B君 「浄土往生を信じる」という場合にその信の根拠となるのが、大悲感受が我が身の上に事実として生じ起こったことであって、それが根拠となって「決定往生の思い」が信楽の者を浄土往生させると誓った本願が現実化されるだろうから「浄土往生できる」と「信じ」るレベルにまで高められる可能性があるという事なんだね。

 

A君 説明するとそうなる。大悲を感受するために、その他力信とともに生まれつき持っている信じるという心の作用が働いた結果、「将来、死んだ先に浄土往生が実現される」と信じることがあるという事だ。若干補足すると、大悲を感受して決定往生の思いになると、それが十八願文の至心信楽・欲生であり、また願成就文の「聞其名号信心歓喜・願生彼国」の事であると理解できる。十八願文の至心信楽・欲生やその成就文の聞其号信心歓喜・願生彼国は本当の事であったと思える。この思いが「決定往生の思い」を「浄土往生を信じる所」にまで高める根拠になっているということだ。お経に書いてある事は本当だった思えるのだからね。浄土往生も本当の事だろうと信じられることになり得る。

 

B君 じゃ、そうした生来的な意味で「信じ」る場合における所信は本願か名号か、についてはどう思う?

 

A君 「将来死んだ先に浄土往生が実現される」と信じたときの根拠となるのは先に述べたとおり、「大悲を現在感受している事実」や「決定往生の思い」やそれらに伴う先に述べた思いだ。大悲感受やそれに伴う思いなどを媒介せずに観念的にとらえた本願とか名号とかがその信の根拠となるのではない。

 

B君 単に「本願を信じる」とか「名号を信じる」とか言われるが、それはどう理解したらいいんだ。

 

A君 本願や名号を信じるという言い方をする人にどういう意味で言っているのか直接本人に確認してみるしかない。その人が「本願や名号を信じる」という言い方で他力の信を表しているものと理解できた場合には、「本願や名号を信じる」という言い方を自分の脳内で変換して、大悲を現在感受している状態を言い表すために「本願を信じる」「名号を信じる」という言い方をしていると読み替えて理解するしかない。

 

2.歎異抄11条の文

B君 歎異抄には「一文不通のともがらの念仏申すにあうて、なんじは」「①誓願不思議を信じるか」「②名号不思議を信じるか」といひおどろかす者について、唯円はこの二つ(①と②)は「さらに異なることなきなり。」と言われているよね。ここでは、誓願不思議を信じるとか名号不思議を信じるとか、そういう言い方をする事を承認した上で、その理由を述べているよね。

 

A君 そうだけど、唯円は「ふたつの不思議を仔細をも分明にいひひらかずして、人の心を惑わす」とも言っているよね。「誓願不思議を信じる」とか「名号不思議を信じる」とかの意味が分からないままになっていると明確に指摘している。本願を信じるとか名号を信じるという言葉は、その言葉だけでは意味が分からないものなんだよ。

 

A君 唯円はそのことを指摘した上で、この二つは「さらに異なることなきなり。」と言われているが、どんな理由であったか紹介してよ。

 

B君 その部分をちょっと読み上げるよ。便宜的に番号を付ける事にするよ。「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば、②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、③生死をいずべしと信じて念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば、⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して、⑥実報土に往生するなり。⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば、⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と言われている。

 

A君 そうだね。注目して欲しいのは③の「生死をいずべしと信じて」という箇所だ。「生死をいずる」というのは将来のことだ。現在「生死の境涯を離れ出た」ということじゃない。つまり信じるという生来の心が作用しうる場面がここにあるという事だよ。そこで唯円は、誓願不思議をむねに「生死いずべし」と信じるとか、名号不思議をむねに「生死いずべし」と信じるという言い方を一応は肯定していると理解できそうだね。

 

B君 そうすると、唯円がこの二つは「さらに異なることなきなり。」と言われている理由をどう理解したらいいんだろうね。

 

A君 さっき言った事をここに当てはめてみると、「生死をいずべし」と信じた場合、その信には根拠を必要とするが、その根拠になるのは大悲を現在感受している状態やそれに伴う決定往生などの思いだ。無疑の状態で感受している大悲は「浄土に連れてゆく」という大悲だから、「生死をいずべし」と信じ受ける可能性がある。そのように信じられる根拠は胸の内につねに感受している現在の大悲とそれに伴う決定往生などの思いにあり、それを離れて観念的にとらえられた本願とか名号とかではない。では、本願をむねとして「生死をいずべし」と信じても、名号をむねとして「生死をいずべし」と信じても同じだというのはどういう訳かというと、実際に胸の内に感受している仏の大悲は、既に仏が説かれおかれた本願の文に顕れ、既に仏が説かれおかれて称讃する名号に顕れているからだよ。本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。だから、胸の内に感受している大悲を表現するためにその感受している大悲そのものに替えて、本願文に顕れた大悲であっても名号に顕れた大悲であっても、どちらも「生死いずべし」と信じる信の根拠になると唯円は言いたいのさ。言わんとしている事はそういうことさ。「大悲感受の事実」「決定往生の思い」やそれに伴う先に述べた思いがあるために、その感受や決定往生の思いなどを言い表す表現として伝統的に確立している既存の表現である「本願」とか「名号」とかに言い換えて、「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じたてまつれば」と説明したり、「⑧名号の不思議も具足して、⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」と説明しているのだ。

 

B君 もう少し、分かりやすく説明してよ。

 

A君 「①誓願不思議によりて名号を案じいだしたまひて、この名字をとなえんものをむかへとらんと御約束あることなれば」というのは、浄土に連れ帰るという大悲の事。「②まず弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて」というのは、その大悲を現在感受している無疑の状態の事。これがもっとも大事なことだから「まず」と言われている。「③生死をいずべしと信じて」というのは、大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について「生死いずべし」と信じる状態にまで至っているという事。「④念仏の申さるるも如来の御計らいなりとおもへば」というのは大悲感受のままに念仏を称えているのは大悲に誘われて称える念仏だから、この念仏は如来の御計らいなりと思えるという事。「⑤すこしもみずからのはからいまじはらざるがゆえに本願に相応して」とは自らの自力の計らいが混じる事がないので、本願文の通り至心に信楽し念仏申しているという事。「⑥実報土に往生するなり」とはそのように信じているという事。「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とは、胸の内に感受している大悲を表現するために「誓願」という表現を用い、また大悲感受や先に述べた決定往生の思いなどに至ったことを「誓願不思議をむねに信じたてまつる」と表現しつつ、その感受している大悲が「生死いずべし」と信じる信の根拠になるという事を言わんとしている。「むねとして」というのは「それを理由として」という事。「⑧名号の不思議も具足して」とは、名号は摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という姿である事、その南無阿弥陀仏の心相がわが行として浮かび上がったのが称名念仏だから、誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば当然に「名号を具足する」ことになるという事。つまり摂取不捨の大悲を信受すれば必ず名号を具すという事。「⑨誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」とは、弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて大悲感受の状態になっている姿には誓願不思議も名号不思議も具足しており、ひとつになっているという事だ。

 

B君 君のいう事をまとめて整理するとこうなるかな。大悲を現在感受していることによって将来不確かな生死出離について生死いずべしと信じる状態に至って念仏を申しているが、その状態は大悲感受のままに大悲に誘われて称える念仏だから、念仏は如来の御計らいなりと思えるし、自力の計らいが混じることがない状態だから本願文のとおりに至心信楽し念仏申していることになる。この事実状態を根拠として「実報土に往生するなり」と信じられる。「誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」とはこのような心理状態に至っていることを言い、その心理状態が現実に実現されている事実を根拠として「実報土に往生するなり」と信じるに至っているという事。そして名号の不思議については摂取不捨の大悲を信受している心の姿が南無阿弥陀仏という心相であることから名号を心に具足している事になるし、或いは他力の信の上の称名念仏を具足していることにもなるので「誓願・名号の不思議ひとつにしてさらに異なることなきなり。」ということになる。簡単に言えば、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって実現されているということだね。

 

A君 重要な所を少し補足すると、胸の内に大悲を感受すれば、その感受した大悲が「①大経十八願として説かれている大悲であった」とか「②願成就文の名号として成就された大悲であった」と心から分かる。①の大悲と②の大悲は同じだ。無機質のように味気なかった本願の生起本末の教説や称えても空しかった南無阿弥陀仏が仏の大悲を言い表した仏語であったと心から理解して悦べるのは、胸の内に感受している大悲があるからだ。十八願の「至心信楽・欲生・乃至十念」や願成就文の「聞其名号信心歓喜乃至一念・願生彼国」とは大悲を聞いて胸の内に大悲を感受して歓喜し念仏申す事だったのか、と心から理解し喜べるのだ。だから、胸の内に感受している大悲をどのように表現すればよいかとなれば、胸の内に感受している大悲に代えて大悲を因願の本願といってもよいし、大悲成就の果上の名号と言い換えてもいい、という事になる。そこから、胸の内に感受している大悲に代えて本願の大悲や名号に成就された大悲をもって教えを説かれることがあるという事だ。本願として表された大悲と名号として成就された大悲とに違いがない以上、胸の内に大悲を感受している現在に本願に顕された大悲と名号に顕された大悲とが一体になって顕現しているということになるのだ。これが「さらに異なることなきなり。」と言われている理由だ。逆に、因願の本願とか大悲成就の果上の名号という場合には、それによって表そうとしているのは、胸の内に感受している大悲ということになる。

 

B君 つまり、大悲を感受している者にとっては、「胸の内に感受している大悲」と「因願の本願とか大悲成就の果上の名号」とは相互に入れ替え可能だという事だね。唯円は「自ら感受している大悲を旨として生死いずべしと信じる」ということを「⑦誓願不思議をむねに生死いずべしと信じる」と言い換えている。また「⑧名号の不思議も具足して、さらに異なることなきなり」と言い換えていると君は理解しているのだね。

 

A君 そういうことさ。

B君 ところで、君は「無機質のような味気なかった本願の生起本末」と言ったが、「本末」の「末」はどうことだと理解しているか。

 

A君 「本末」の「末」とは「今、私が大悲を感受して念仏申している」ことさ。これが現生における果であり、現生においては仏の物語はここでクライマックスを迎える事になる。本当の末・果は「浄土往生を果たす」という事だと思う。この「浄土往生を果たす」というのは未来の事であるから、ここに信じるという作用が働く余地があるんだ。現在胸の内に大悲を感受し念仏しているのが本末の「末」だから、その感受している大悲の由来を遡って大悲を偲ぶと十八願などとその願成就にあったことに深く思いをはせることになって歓喜し、また自分の行く先に思いをいたすと浄土往生の思いになるから大悲を悦ぶ事ができる。今現在は浄土への途中だから、そう言う思いになったり、さらには浄土往生を信じる事ができるようになる。

 

B君 君はさっき「本願(文)に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異はない。」と言ったが、もう少し詳しく説明してよ。

 

A君 十二願・十三願・十七願・十八願・十一願などが成就した相が南無阿弥陀仏の名号だから南無阿弥陀仏は仏の無量光寿そのもの。十八願の生因との関係で言えば、南無阿弥陀仏は至心信楽欲生の信因と乃至十念の行因として作用し、浄土往生させる働きがある。この南無阿弥陀仏は十八願を因として成就された果上の仏ということになる。だから諸仏が御名を称讃する。この名号の働きが私の上に現れたとき、大悲感受となって私の心のうちに大悲が顕れる。私が感受しているのはこのような無量光寿の大悲だ。この大悲は本願として生起された大悲であり、名号として成就された大悲であるから「本願文に顕れている大悲と名号に顕れている大悲はいずれも同じ大悲だ。そこに差異があるはずがない。」と言ったのだ。私の胸の内に感受されている大悲は本願として顕された大悲であり、かつ名号として顕された大悲だ。本願と言っても名号と言っても同じ胸の内の大悲として実現成就されているものだから、その両者に何の差異はない。「所信が異なっていても能信が同じであると言える理由」はここにある。イヤ、所信に差異などはないということになる。もともと元祖と祖師の所信に差異はなかったんだ。それは大悲感受のほか他力の信はないからだ。所信に差異があると言ったのが間違いだったんだ。

 

3.乃至十念の念仏と尊号真像銘文

B君 つぎに大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで大悲を言うときもある。これはどういう訳なんだ。

 

A君 大悲を表すのに念仏に言及して言う場合については、「乃至十念を誓った仏の誓意」を問う「十念誓意」という題が安心論題にあるので、そちらを読んで欲しい。要は、乃至十念を誓った仏の誓意は乃至十念という語を使う事によって大悲をよりいっそう具体的に明らかにしたという事だ。この乃至十念の念仏は衆生に自力念仏を要求したものではなく、衆生に対して自力の行を一切求めない大悲を「無作の念仏」として表しているということだ。だから「乃至十念」の念仏には衆生に対して何も求めない仏の一方的な無縁の大悲が現れている。観経下下品の念仏とはこの「乃至十念」の念仏のことだ。大経と観経はこの一点で一致しており、ともに仏の大悲を顕す経として尊重されている。このため大悲を表すのに念仏に言及して言うこともあるし、念仏には触れないで単に大悲と言うときがある。結局、そのいずれでも仏の無条件、衆生に対して何も求めない無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているという事になるのだよ。「大悲を領解する」というところが最も大事な所だ。十八願の「乃至十念の念仏」を勧めるにせよ、願成就文の「聞名信心」を勧めるにせよ、大悲をそのまま大悲として受けよと説く事を抜かしては何の意味もない。乃至十念の念仏を勧めるという事は御名として成就されている仏の大悲を勧めるという事であって、それ以外に勧めるべきものはない。単に、声帯を振るわせてナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツと発声する事を勧めるという事ではない。

 

B君 尊号真像銘文(浄土真宗聖典第2版643頁)にそのことに関して祖師が述べられている。

A君 紹介して貰えるかな。

 

B君 「信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごごろなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる御誓いの至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。①乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」とある。

 

A君 祖師は、誓いにある名号を称えることを如来が十方衆生に勧め給ふ際に乃至の御言(みこと)を添えた理由について「遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼしめした」と言われている。ここに如来の大悲が顕れている。すなわち、時節を問わず数を問わない念仏とは自力を離れた念仏の事であり、諸行はおろか一片の自力の念仏行すら衆生には求めない仏の摂取不捨の一方的な大悲がこの「乃至十念」に顕されている。如来衆生衆生無作であるということを気づかせるために「乃至」を十念に添えられたというのが祖師の理解だ。だから祖師は結論として「②如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。」と言われ、真実の摂取決定心である如来の至心信楽を深くたのむべしと勧められている。「深くたのむべし」とは如来の至心信楽を受容し自力の思いを永久に離れるという事だ。他力の念仏を勧める事は仏の大悲心以外に勧めるべきものはないということだよ。他力の乃至十念の念仏を勧めると言っても聞名信心を勧めると言っても、この名号や乃至十念に顕れた仏の悲心招喚を受け入れること1つに収斂されるのだ。だから両者は同じ大悲を勧めていると理解するのが正しいと思う。どちらの立場に立ってもいいのだ。ひとえに大悲を勧めて「信楽すべし」と勧めるのであれば、ね。他力の念仏を勧める場合には「乃至十念」に顕れた仏の具体的な無作の大悲を教え勧めなければならないし、或いは称名として現れた南無阿弥陀仏は悲心招喚であるとの大悲を教え勧めなければならない。聞名信心を勧める場合も同様に御名に顕れた大悲を勧めなければならない。どちらの立場が正しいという問題ではない。説き方の問題じゃなく、説かれる内容の問題だ。自力の思いを廃させるために衆生無作の大悲を説くことに尽きる。ここをしっかりと押さえていないと不毛な論争の原因となる。

 

A君 このことに関連することだが、以前君とこんな会話をした事を覚えているか?

-かつての会話-

A君「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われているといったが、それは善導の本願取意の文と言って十八願の三信を省略したものだよね。どうして、善導は三信を省略したか知っているかい。

B君 それはしらない。善導が三信を省略した理由を述べている箇所がないからね。でも、法然聖人は、そのような質問をされて、こう答えているよ。「称名する者を浄土に生まれさせる。」と誓われていることを聞いて信順して称名すれば自ずと三心は具足するってね。

A君 よく勉強しているね。それはどこに出ていたの。

B君 亡くなられた梯和上の「法然教学の研究」という本の313頁にでているよ。ある人が、善導の本願取意の文に三心の安心を省略して称名のみをあげられた理由をたずねられたとき法然聖人は、「衆生称念必得往生としりぬれば、自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために略し給へる也」と答えられたことが「諸人伝説の詞」にでているってね。

A君 よく分かったよ。じゃあ、称名念仏に際しては先ほどらいの疑念がなくなればいいのかな。

B君 そうです。そうした疑念がなくなって、往生決定の思いになればいいのです。そのような疑念のない念仏を称えられる人は、すでに如来の救いに預かっている人なのです。

-引用終わり-

B君 よく覚えているよ。元祖が「衆生称念必得往生としりぬれば自然に三心を具足するゆえに、このことわりをあらわさんがために(信を)略し給へる也」と言われた理由は「必得往生」というところに間違える事のない仏の摂取の大悲が顕れているからだ。祖師は行巻に「必の言は・・金剛心成就のかほばせなり」と言われている。祖師は「必得」に如来の大悲を感じており、その大悲を知れば信は自然と生じるということだね。

 

A君 そのとおりだ。「必得」の言に広大な衆生無作の大悲心を感じられた結果、金剛心成就に至り、その金剛心成就が善導をして「衆生称念必得往生」と言わしめたということだ。元祖も「称念すれば必得往生」の「必得往生」に「無作の大悲」を見ており、ここで「無作の大悲」を説いているのだよ。

 

B君 「念仏を勧める」という言い方はどのように理解したらいいんだろうか。

A君 単に「念仏を勧める」という言った場合、「乃至十念」の他力念仏の事であるのか、声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する事を勧めているのか、曖昧だ。だから、「念仏を勧める」という言い方はどのような意味であるのかをその本人に確認しなければならない。

B君 「乃至十念の他力念仏を勧める」という事と「念仏を勧める」という事は同じ意味ではないのだね。

 

4.結論

B君 「衆生の無作」というのは、自力の行は無用であり、廃されるものだという意味だね。乃至十念の念仏でも名号でも本願でも、いずれであっても仏の無条件、衆生無作の一方的な大悲を領解して欲しいと仏は願われているのだから、他力の信においては、所信が「本願か名号か」という対立は意味がないということになるのだね。

 

A君 そう。本願とか名号というものが指し示しているのは、私の胸の内に感受されている現実化された大悲のことだ。この大悲は仏が生起され名号として成就された大悲が私の上に具体化した大悲だ。この具体化された大悲を表現する際に、その大悲を本願と言ったり、名号と言ったりしているだけであって表現の差異はあっても、信の上でも思想の上でも元祖と祖師の間には何の違いはない。「因願」と「果上の名号」は2つでも、仏が成就し胸の内に感受させている仏の大悲は1つなんだ。このことは大悲を感受している者にとってはごく自然に理解できる事であって、所信が本願か名号かと対立する関係に発展するようなものではない。大切な所だから何度でも強調しておきたい。十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就たる果上の南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。このことが大悲を感受する者には理屈抜きで理解できるのだ。そのため本願をもって大悲を勧めるか、名号をもって大悲を勧めるか、或いは両方をもって大悲を勧めるかの立場の違いはあっても、勧めるべきものは同じ大悲一つだ。

 

B君 君は「理屈抜きで理解できることだ。」というが理屈で説明してみてよ。

 

A君 「理屈抜きで理解できる」というのはチョットと言い過ぎたかも知れないが、祖師が大行とは南無阿弥陀仏を称することだと指定し、その出願名を十七願としたのは、まず「南無阿弥陀仏を称する」とは十八願の乃至十念の念仏の事。この乃至十念の念仏は大悲を感受している十八願の信を備えている念仏で、内心に信を具えた念仏だ。この念仏は声帯を振るわせてナムアミダブツと発声する発声自体に意味はなく、発声されている南無阿弥陀仏の法に意味がある。南無阿弥陀仏に意味があるというのは、それが仏の悲心招喚だからだ。このような念仏と念仏に伴う信は祖師が「専らこの行に奉えこの信を祟がめよ」と言われた「行信」のことであり、「この行信に帰命すれば摂取してすてたまわざるがゆえに阿弥陀仏となづけたてまつると。これを他力という。」と言われた「行信」のことだ。この行信とはすなわち南無阿弥陀仏の事だ。出願名を十七願とした理由は南無阿弥陀仏は諸仏も称讃する功徳そのものの御名であるということを示すためだ。念仏を称えることは「諸仏とともに称讃する」という意味ではない。大行とされる称名に破闇満願の徳があるとされる理由も南無阿弥陀仏が行者の信行となったからだ。行巻に「称名はすなわち最勝真妙の正業なり。正業は念仏なり。念仏は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏はこれ正念なり。」と述べられているが、称名念仏南無阿弥陀仏そのものである事を明確に示されている。最後の「これ正念」とは真実信心のことであり、その信も南無阿弥陀仏だと示すところに祖師の真意がある。大行たる称名とは信具足であり、しかもその信は南無阿弥陀仏ということだ。十二願・十三願・十七願・十八願の成就である果上の南無阿弥陀仏が今私の信行となり、私が大悲を感受して念仏申しているのは、それらの願と願成就の結果である南無阿弥陀仏にその因があることを示されたのだ。南無阿弥陀仏には無量光寿の徳があるので最勝真妙の正業であるとも言われている。このように私の胸の内に感受されている大悲は十二・十三・十七・十八願という悲願とその成就の御名が直接の因であり、それを感受している信と称名はいずれも南無阿弥陀仏が働いている結果だと言える。このことを大悲感受の者は直感的に理解でき、またそう聞けば容易に理解できるのだ。それは胸の内に大悲感受という事実が開け起こっているからだし、その大悲感受の状態が南無阿弥陀仏であると直感的に理解できるからだよ。

 

A君 因みに、このような信具足の称名が大行だから行中に信を摂していると後世において理解され、大行から大信を別開するいう言い方ができるようになった。元祖の往生決定の思いの上の念仏とはこのような行信のことであり、そこに何らの違いはない。他力の信においても思想としてもだ。元祖の念仏往生の思想に祖師はこの行信を見いだしていたから、元祖の念仏行を大行とし、その念仏行の信を大信と言い方を変えて表現し、その信の本体を改めて無疑と明示されたのだ。

 

B君 元祖や祖師の「発揮」といわれることがあるが、それについてはどう考えているのか。

 

A君 元祖や祖師の「発揮」といわれることについては何の異論はない。その発揮によって大悲を表現する方法が異なることにはなる。しかし、それは「発揮の元」が同じである場合に成立することだ。「発揮の元」とは大悲であり大悲感受だ。もう少し言うと「発揮の元」とは「南無阿弥陀仏が我が身の上に大悲を感受させて南無阿弥陀仏の信となり、南無阿弥陀仏の行(称名)となった。そのような南無阿弥陀仏が私の上に顕現したのは十二・十三願と十七・十八願とそれらの願成就にあった。」という理解と共感だ。発揮には同じ元になるものがある。異なる表現をすることによって焦点を当てるポイントを明確にし、同じ元となっている大悲や大悲感受をよりいっそう深く理解されるように工夫したのが発揮という事だ。元祖と祖師の考えは思想としては異なるものとして評価されうるのかも知れないが(但し私はそうは思わない)、その思想の元になるものは同じだ。前にも言ったが、「異同」を問われる問題については、「同」と「異」をバランスよく理解した上でバランスよく説明しなければならないんだ。元祖と祖師に発揮があるからといって、元祖と祖師の所信が違うという事にはならない。概念的思考の得意な人は元祖と祖師の説かれ方の違いに着目して思想としての違いとして論を展開する方向に注力しようとするが、そうではなく、元祖や祖師の思想の底流となっている他力信の捉え方が同じだとする方向で思考を展開することがもっと重要な事なんだ。

 

第五章 補論 

B君 その他にも聞きたい事があるんだ。ある質問者が「十八願は念仏往生の願と法然聖人はおっしゃって、念仏する者を浄土に迎え取るという阿弥陀様の本願を信じて念仏すべし、と歎異抄はなっていますが、・・」「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という発言があった。それに対して布教師は「どっちが正しくて、間違っているという言い方じゃないんです。」と回答していた。質問者が感覚的なことを問題としているのに対して、布教師は異なる法義であってもそれは「発揮」ということであって、どっちが正しくて間違っているというものではないと回答していた。質問に対する回答としてはかみ合っていないキライがあると感じたのだが、僕が興味を覚えたのは「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて、念仏して往生するという信心がピンとこないんですけど・・。」という質問者の感覚は何に由来しているのか、ということなんだ。

 

A君 それで。

 

B君 質問者は大悲を悦んでいる人だ。それなのに「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生するという信心」がピンとこないというのは、そのような信の理解が自分の感じているものとかなりズレているということだろうと思う。どうして、そのような事が起こるのか、分からないんだ。

 

A君 なるほど。その言い方は、かなりまどろっこしいね。この中には信という事が実質的に3回も出てくるからね。これが一つの理由になっているのだろう。

 

B君 3回というのは?

 

A君 「十八願の念仏する者」というのは、「大悲を感受している信のままに念仏している者」という事だから、ここに1回信が出てくる。このあとに「本願を信じて」とあるのでこれが2回目、「念仏して往生するという信心」が3回目になる。信心が入れ子のようになっているんだ。コレをもっと簡単に言い直せば、「念仏するものを救う本願」と思うて念仏する信と言えるよ。このほうがスッキリする。でも、意味は変わらない。信をとってしまって、無条件で救う悲心とか、無作の大悲、摂取不捨の大悲という言い方の方がもっと心にしっくりとくるね。

 

B君 さっき君は元祖の一枚起請文の「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細そうらはず。・・(途中省略)・・皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也」は欲生だ言ったが、その言い方は心にしっくりとくるのか。

 

A君 それはしっくりしている。「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思って」いるし、「皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思って」いるからね。その思いは現在の思いであり、将来の往生を信じているというものとは違うんだ。

 

B君 どう違うというのか。

 

A君 南無阿弥陀仏とは、摂取するとの大悲をそのまま受けとめている心の状態の事だ。だから大悲感受の状態を意味している。自分の心が南無阿弥陀仏の状態になってしまったと実感として感じ取ることができる。この南無阿弥陀仏の状態になると、浄土に連れてゆくというのが大悲であると感受されるから、この状態のまま自分は浄土に往生してゆくのだなと素直に思える。これはごくごく自然な思いだ。しかし、「浄土往生は本当にできるのか」という問題は先に言った「不確実な直接認識したり知覚することはできない不確実な事柄」としてまだ残っているのだ。これは知性の問題だ。だから、本当に浄土往生できるかどうかは死んでみなけりゃわからんという本音が心の底にある。そういう意味で「将来の浄土往生を信じている」とは言えないのだ。

 

B君 そうすると君のいう事をまとめると心を3つの心層に区分できるということになるよ。1つは「大悲感受の状態」(Aの状態)、2つは「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)、3つ目は「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)。この3つの状態があるというのだね。

 

A君 そういうことになるね。因みに私はAの状態とBの状態にはあるが、Cの状態にはないということになるね。

 

A君 上記のAの状態は至心・信楽に相当する。仏の至心である大悲をそのまま無疑の心で感受している状態は衆生の至心であり、信楽だ。心に感受し心に顕れている大悲が至心だと理解しても良い。大悲と大悲感受とは一体・一対だからね。上記のBの状態は欲生に相当する。Aの状態から自然と生じる思いだ。至心・信楽からごく自然に生じた欲生の思いだ。これらは心の中で一体となっているので、一心と言われるに相応しいものになる。これをボールを例にたとえれば、Aの状態が球の「真核」であり、Aの状態とBの状態とが不可分一体となって球の「中核層」を形成し、Cの状態がそれらの上に「表層」を形成していると言える。

 

A君 しかし、Cの状態はAやBの状態とは一線を画される。その理由は、生まれつきの信じるという心の作用がAやBの状態に働いたことでCの状態に至るのだが、妙好人の中にはCの状態に至っている人もいれば、「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人もいるだろう。すべての人が「死んだら間違いなく浄土往生だ」と信じているわけではないのだよ。

 

B君 「南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思い取っている状態」(Bの状態)と「将来の浄土往生を信じている」状態(Cの状態)とは、区別が付きにくいが、確かに「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っている人にとっては、自分は「将来の浄土往生を信じている」状態になっているのか、一度は悩ましく自問自答することになるだろうね。

 

A君 「イヤイヤそれは死んでみなけりゃ分からないぞ。」と思っているとき、これは本当に他力の信なんだろうか、間違ったものを掴んでしまったのではないだろうかという思いが出てきて、悩んだりする事があるが、その区別はあまり気にする事はない。

 

B君 面白いもんだね。信じるという一般的な概念を分析的に解析してゆくと、信じる作用とは異なる心の作用があることが分かるんだね。そして、それを分類すると「狭義の信じる作用」「広義の信じる作用」と「最広義の信じる作用」と整理できた。この「最広義の信じる作用」には、先の「Aの状態とBの状態」になっているものと「Aの状態とBの状態とCの状態」になったものの2つを含むと理解する事になるんだね。

 

A君 だから、信じるという言葉が使われた場合、その人はどのような意味で使っているのかを正しく理解しなければならないという事だよ。Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか。Cの状態だけに信じるという言葉を使っているのか、或いはそれ以外なのか。よくよく質問して確認しなければならないのが、この信じるという言葉なんだよ。それぞれ心の作用としては異なっているのだからね。

 

A君 歎異抄唯円の言葉として「⑦これは誓願の不思議をむねとして信じたてまつれば」という言葉があったが、再往すれば、この「信じたてまつれば」とは、Aの状態とBの状態とCの状態をひっくるめて信じるという言葉を使っているのか、Aの状態とBの状態を指しているのか、そのいずれであってもおかしくはない。いずれにも解釈できる。Cの状態だけに信じるという言葉を使っていると決め打ちしなくてもいいよ。因みに「再往すれば」とは「翻って考えてみれば」ということだ。

 

A君 さて、さっきの君の質問に戻ろうか。表現の差異によってどうして質問者の受け止め方が違ってくるのか、というのが君の疑問なんだろう?

 

B君 そうなんだ。

A君 これには理由があるんだ。

B君 どんな?

 

A君 大悲を感受している者にとって大悲は有り難いものさ。だから、大悲を感じさせる言葉や表現に対しては心が敏感に反応するようになっている。しかし、反応が鈍くなる表現もあるのだよ。

 

B君 「十八願の念仏する者を浄土に迎え取るという本願を信じて念仏して往生する信心」という言い方は大悲から遠くなるのか?

 

A君 そうじゃない。現在大悲を感受していることに重要な意味があると思っている者にとっては現在感受している大悲がもっとも重要で大切なことであって、生きている上においてこれ以上に至高なモノはない。その大悲を感受している状態に代えて「信」とか「信心」と言われても何となくヨソヨソしい感じがするんだ。さっきも言ったが、「大悲感受」と、「信心という言葉」の間になにがしかのギャップを感じるんだ。どうしてそんな感じがするのかと言えば、感受している大悲をただただ仰ぐばかりなのに、どうして自分の側である信という言葉を持ち出すのか、という思いがあるためだ。ココは肌感覚の問題になってくるのだが、大悲を感受している者にとっては大悲をただただ仰ぐばかりであって「自分の側」に視点を向ける事はないので信という言葉は不要なんだ。「大悲」と「大悲感受」とは一体・一対だということを言ったが、そこでも同じことが言える。「感受」している自分の方はどうでもよくて、「大悲」だけでいいんだ。大悲だけで大悲感受になるからね。だから、いっそのこと、「信」とか「信心」という言葉を使わないで「摂取する大悲」という言い方の方が心にしっくりとくる。面白いだろう。あれだけ信が欲しいと思っていたのに信はいらないという事になるのだからね。これは大悲が成就された果上の南無阿弥陀仏にある「南無」が自力の思いを消尽させ、自力の思いに替わって「南無の無疑信」として私に備わったためだ。大悲を感受する南無の信が自分の意識下の心底深くに意識されない状態で備わってしまい、意識としてはただ大悲を感受するようになってしまったからだ。信そのものを意識する事はできないが、大悲は感受できる。だから大悲を仰ぐばかりとなる。他力の信を「仰」信というだろ。ただ人に行信の「信」を説明する場合には信の内容を説明しなければならない手前、どうしても信という言葉を使ってしまう。信という言葉を使って説明していても、自分でも何かヨソヨソしさを感じる。本当は信じるという言葉は使いたくないんだ。だから自分の心の内でハッキリと意識されている大悲感受を信という言葉に代えて多用するようにしているのさ。

 

A君 さて、反応が鈍くなる理由としてその他に考えられる事は、「念仏して往生する」という将来の事に関してはさほどの関心が向かないのかも知れない。その人がそうだと言っているのではないよ。一般的に考えられる理由という事だよ。世間でもよく言われるよね、「1年後の10万円よりも目先の1万円」というようなものさ。だから「本願を信じて浄土に往生できる信」と言われても、大悲を感受させる刺激としては十分なものにはならないということもあるのさ。しかし、肉体が衰えていよいよ命終が近いと感じたときには「浄土に往生できる」という言葉は非常に大きな慈悲を感じさせる、たいへんな意味を持った言葉として胸に迫ってくる。また、健康な現在でも今臨終という思いになってみれば、その有り難さはいや増しになるだろう。つまり、「念仏して往生する」という言い方に問題があるのではない。どう感じるかは本人の心の状態次第なのさ。現在は毎日大悲に感泣するという事はなくなったが、自分の臨終が近づけば近づくほど大悲に感泣してしまうだろうということを私は直感的に感じている。かつて臨終が身近に感じたときは大悲に感泣したからね。だが、忙しい毎日の生活で臨終を忘れるようになると、それとともに大悲に感泣する機会はずいぶんと減ってしまった。それでも臨終時には大悲に感泣してしまうことを直感的に理解しているんだ。自分にとって生命の危機的状況である臨終時が大悲を感受させる最大の機会になるとね。