3-30.会話編 無条件の救いと信行

B君 あるブログのコメント欄で、如来の救いには条件があるか無条件かという意見交換がされていた。これはどのように理解したらいいんだろうか。

 

A君 「無条件の救いではない」という人は信とそれに続く行が往生の条件だというのだろう。

 

B君 信行が往生の条件だというのはその通りじゃないのか?

 

A君 正確には「信行が往生の因」になるということだ。祖師の本典には御自釈の一例として「この信行によりて必ず大涅槃を超証すべきが故に真の仏弟子という。」と言われている。その信行のうち「信が往生の真因」とされている。「涅槃の真因はただ信心をもってす。」「一心は即ち清浄報土の真因なり。」などの御自釈がある。

 

B君 「因」と「条件」とは意味合いが違うのか。

A君 たぶん、違うだろうね。

 

A君 「信が往生の真因」であるというときは、因とは結果を直接生じさせる力そのものということで、往生の果に対する原因力のこと。因に対し、「条件」とは原因力を発動させたり維持するために必要な、因とは別の要素という意味合いになる。往生の因たる信は信とは別の要素を一切必要とせずに往生の果を直に実現させる。往生と信が直接する。それが「信が往生の真因」の意味だ。

 

B君 じゃ、信が往生の条件だというのは間違っているのか?

A君 正確に言うならば「信は往生の因」であって「条件」ではない。

 

A君 「信が往生の条件」だというとき、その人は、「信がなければ往生の真因を欠いているので往生はできない」という趣旨で信が往生の条件だと言っているのだと思う。そういう趣旨で言っているのであれば、あながち間違いではないと思う。

 

B君 じゃ、無条件の救いというのはどういうことか?

 

A君 無碍光如来の大悲の救いには条件が付けられていないということだよ。

 

B君 つまり?

 

A君 無碍光如来とは、光とは空間的にも時間的にも限りが無い無量の智慧と慈悲のこと。無碍光とは光明の障りになるものが何も無いということ。無量の智慧と慈悲の光明は何ものによっても妨げられることがないということ。障りになるものが無いため、この光明による救いには条件が一切付いていないということになる。

 

B君 その光明との関係で言えば、信行はどのようなものになるのか?

 

A君 信行とは、その無碍の光明が私に届き、現に私の心の中で働いている証のことだ。救いに条件を付けない大悲が私の信として、私の行として働いている姿を信行というのだ。

 

A君 すなわち、条件を指定しない大悲であると理解し、その大悲を無疑の心で受けとめるとその大悲と無疑が信となる。この信によって私の称える念仏は自力念仏と区別され、祖師の言う大行となる。

 

A君 大事な所なのでもう一度言うが、「如来の救いに条件がない」というときは、その救いが働くために必要な条件やその他の因は必要ないということ。ある行やある心の状態などに関する条件やその他の因が調わないと如来の救いが働かない、ということはない。常にどんな条件の下にあっても如来の救いは働いているということだ。

 

A君 祖師は、そのことを「しかればもしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなり。しるべし。」と言われている。

 

A君 「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところ」というのは、十二願・十三願と十七願・十八願の成就によって具現化された南無阿弥陀仏のことで、この南無阿弥陀仏法蔵菩薩の清浄願心によって成就され回向されているということ。念仏行者の信となり行となるのは、この南無阿弥陀仏それ自体であり、この南無阿弥陀仏が私の往生の信因や行因として働いていることが、「信行が往生の因」になるということだ。

 

B君 でも、私の上に常に働いている如来の救いによって私の往生が定まっているかどうかという問題になると、その救いが信となっていなければ往生は定まっていないということだよね。

 

A君 私の往生が定まっているかどうかは信による。

 

B君 じゃ、信が往生の条件だというはあながち間違いではないのではないか?

 

A さっきも言ったが、「信が往生の条件」だという場合の「条件」とは、往生のの信因がわが身に具足されているか否か、ということだ。信は無条件の救いの働きが私の上に現れている証のことだ。その証が私の上に現れていなければ、私の往生の因が私には存在していないので私の往生は決定とはなっていない。南無阿弥陀仏の信因を欠いてるから往生できない。南無阿弥陀仏が信因となったので往生できる、というべきだ。

 

B君 では無碍光が自らの上に働いているときの実感はどのようなものなのか?

 

A君 信とは無条件の大悲を無疑の心で受けとめること。何の条件を付けない無碍の大悲であると無疑の心で受けとめるとき、その受けとめた状態を信という。だから、信が生じた者は無条件の大悲であると理解し受けとめているので無条件の大悲であると常々実感する。また信は無条件の大悲によって自ずと開発されるから、信に恵まれた者にとっては条件のない救いであると実感できるのだ。

 

B君 救いに条件があると言われると、その実感に合っていないと感じることになるんだね。

 

A君 そうだね。如来の救いには条件はない、その救いをそのまま受けると自然と信が生じる。救いの証として働いている信と大悲を実感できるから、往生できるとの思いになる。この思いを決定往生の思いというのだ。本願三信のうちの「欲生我国」の思いだ。

 

B君 信が生じていなければ、如来の働きは全うされないという意味では、如来の働きが阻害されていることになるよね。

 

A君 それで?

 

B君 阻害しているのは自力の計らいだよね。だから救いが働くということについても、自力の計らいが無くなるという条件を必要としているのではないか?

 

A君 阻害しているのは自力の計らいだが、その自力の計らいは無碍光の前では障害とはならない。そのことを善導は光明名号の因縁で教えている。光明名号の因縁があるから往生という果が生じる。光明名号の因縁があるから信という果が生じる。往生も信も同じ光明名号の因縁から直接生じるものだが、往生も信も、ともに光明名号の因縁以外の条件は必要としていない。それを善導は両重の因縁として教えている。光明名号が信の全因縁なのだ。

 

B君 でも、自力の計らいが無くならない限り信は生じないよね。だから、自力の計らいが無くなるという条件を必要としている、と言っていいのではないか?

 

A君 自力の思いにとらわれている限り、「現時点での無条件の救い」であるとは気づかない。しかし、条件が指定されていない無条件の大悲であると聞き受けた時点で、抱えきれないほどまでに膨らんだ自力の思いは速やかに消尽してしまう。その大悲を聞き受ける時点はいつの時点でも可能だ。現在ただ今か、明日の現時点となるか、将来のある時点の現時点となるかの差異があるだけだ。いずれであってもその往生確定の現時点に至ることは如来の願力として既に定まっている。これは如来の摂取決定心が衆生の心の中で既に働きだしている結果だ。自力の計らいが無くなるという条件を必要としているのではなく、願力たる南無阿弥陀仏が働いて信因となるかどうかで決まることだ。

 

A君 もし自力をもって自力の計らいから離れることが出来るのであれば、如来の救いは、衆生が自力の計らいを自らの力で無くすことを条件としていると言っていい。しかし、自力の計らいはその性質としてその計らいをもって自力の計らいから離れることはできず、如来の願力回向によるしか自力から離れることはできない。だから、如来衆生往生の因果を成就して既に名号回向している。そこでは衆生に何の条件を要求していない。自力の計らいは光明名号の力用によって自然に廃れる。これを捨自帰他というのだが、光明名号を全因縁として捨自帰他されるので、大悲を聞いている者にとって如来の救いは無条件なのだ。

 

B君 無条件の救いと言うと、無帰命安心を認めることになりかねないと非難されるのではないか?

 

A君 そのように非難する向きがあるかも知れない。しかし、そのようなことにはならない。無条件の救いを受けた姿(あかし)が信行であり、その信が往生の真因だという押さえが無信の者に対してちゃんと用意されているからだ。

 

B君 「如来衆生に何の条件を要求することもない。衆生往生の因果を既に成就して回向している。」ということは経典のどこに出ているのか。

 

A君 大経の十二願(無量光)・十三願(無量寿)と十七願(名号回向)・十八願(衆生往生の因)とそれらの願成就文や胎化得失段などだよ。