3-31.会話編 六字釈-本願招喚の勅命と発願回向

*1.善導の六字釈

南無というはすなわちこれ帰命なり。またこれ発願廻向の義なり。阿弥陀仏というはすなわち是れその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

 

*2.善導の六字釈に関する祖師の御自釈

(1)しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は至なりまた帰説なり。説の字は悦の音また帰説なり。説の字は税の音、説税ふたつの音、告なり述なり人の心を述べ 述べるなり。命の言は業なり招引なり使なり教なり道なり信なり計なり召すなり。ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。

(2)発願回向というは、如来すでに発願して衆生の行を廻施したまふ心なり。即是其行というはすなわち選択本願これなり。必得往生というは不退の位に至ることを得ることをあらはす。経には即得といへり釈には必定といへり。即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなり。必の言は審なり金剛心成就の貌ばせなり。

 

以下では、上記*2(1)の釈を「帰命釈」とか「本願招喚の勅命釈」といい、(2)の釈を「発願回向釈」と言うことにする。

 

*3.発願回向釈において祖師は「即是其行というはすなわち選択本願これなり」と言われている。これは選択本願の乃至十念の大行の事であり、この大行中に「願力を聞くによりて報土の真因を決定する金剛心成就の貌ばせ」である大信を読み取られている。大行中の信ないし大行に具足する大信である。本典の正式名称は、信の字を省いた顕浄土真実教行証文類であるが、行巻には大行念仏のほかにも信を含んだ御文を多く引用され、真実の行信に関する御自釈もされており、この念仏には大信が伴っていることを明らかにされている。その上で行巻で表された大行から信を別開して信巻とする構成が取られているが、祖師の発願回向釈はこの構成を彷彿とさせるものである。

 

B君 南無阿弥陀仏の御名について祖師は善導の六字釈を行巻に引用されたしばらくあとに、南無、帰命、発願回向、即是其行、必得往生について御自釈されている。今回は祖師の帰命釈と発願廻向釈をテーマにしたい。まず帰命をその字義から本願招喚の勅命と言われるのだが、本願招喚の意味が取りづらい。どういうことなんだろうか。

 

A君 本願招喚を「本願」と「招喚」とにいったん切り分けて、「本願」と「招喚」はそれぞれ何を表しており、それらにはどのような関係があるのかを考えてみると分かりやすくなると思う。

 

B君 「本願」とは仏名成就の根源になっている十八願の事。「招喚」は南無阿弥陀仏の仏名を釈したものだから、仏名を表しているよね。

 

A君 そう。だから、本願招喚の意味を考える際に仏名と十八願の関係についておさらいしておこう。

 

A君 仏名の南無阿弥陀仏は十八願を成就した果上の仏徳のことだ。仏徳とは十八願の因願のとおりに作用する働きのこと。衆生を浄土往生させる働きを持つので至徳という。この至徳は無量の智慧と無量の慈悲の光明の働きのことだから、この徳は仏様そのものであるとして名づけられたのが南無阿弥陀仏という仏名だ。

 

A君 仏名を果上の名号というのに対して、その因となっているのが十八願だから十八願を因願という。それで十八願の因願を成就したとはどういうことか、というに3つある。1つは十八願を誓った法蔵菩薩衆生の「至心信楽欲生の三信と乃至十念」を往生の因として成就した事。2つはこの因によって衆生が往生してゆく浄土を成就した事。3つはこれらの往生の因果を円満成就した事により法蔵菩薩南無阿弥陀仏という仏に成仏した事の3つになる。それで南無阿弥陀仏は、衆生往生の因果と法蔵菩薩の成仏の因果の同時成就を意味する。大経はこの2つの因果成就を教えた経典だ。

 

B君 では、十八願の因願のとおりに作用するとはどういうことか?

 

A君 十八願には往生の因として「至心信楽欲生我国の信」と「乃至十念の行」を定めているが、この信と行とは既に南無阿弥陀仏として成就されているので、その成就された大悲を聞くことでその南無阿弥陀仏が念仏行者の心中において南無阿弥陀仏の心相となり、その心相に伴う思いが念仏となって出てくるということだ。祖師は念仏が自力の行ではなく仏の大行であるとする根拠や至心信楽欲生の信が大信となる根拠はこの仏名にある事を明らかにされている。この往生の因が私に備わることで往生の果が生じることになるから、祖師は「必得往生というは不退の位に至ることを得ることをあらはす」と言われた。往生の因たる信が私に備わることで往生が定まってしまうということだ。

 

B君 南無阿弥陀仏の心相になるとはどういうことか?

 

A君 それについては後に触れることにするよ。

 

A君 仏名が十八願の因願のとおりに作用するので、この仏名は衆生に対して、法蔵の成仏・衆生往生の成就を告知し宣述し教えて道を示して信ぜしめ招引する大悲を表すことになる。

 

A君 簡単に言うと、「往生の因果を仏名として成就したから仏名を信じて仏名を行ぜよ。必ず往生する」と衆生に呼びかける招喚の大悲が南無阿弥陀仏であり、その招喚は十八願の大悲を因としているので、この仏名と仏願に表された仏様の願心を「本願招喚の勅命」と言われたと推察される。このように祖師は因願と果上の大悲を一体のモノとして理解されている。

 

B君 因願も御名も一体となって衆生に「仏名を信じて仏名を念仏せよ。」と願じているということだね。

 

A君 因願だけが大悲の招喚なのではなく、御名だけが招喚の大悲なのでもなく、因願と御名とが一体となったのが仏の招喚なのだ。このことは基本的な理解だと思うのだが、忘れがちになるようだ。

 

A君 たとえば、元祖は一願建立、祖師は五願建立の立場であると対立的に理解した上に、祖師は何を五願に開示したのかについて十八願を五願に開示したという見解と南無阿弥陀仏(の成就)を五願に開示したという見解とを対立的にとらえる向きがあるようだ。しかし、因願も御名も一体であるという観点からは、そのような見解の違いにどれほどの意味と差異が生じるのか疑問だ。十八願を五願に開示しても、果上の御名を五願に開示しても、結局、同じ大悲を五願に開示したものではないか、と思ってしまう。因時(因位)の大悲を5つの因願から眺めるか、果上の大悲たる御名を5つの因願から眺めるかという違いがあるだけで、因時の大悲であっても果上の大悲であってもそこには何らの違いはない。因時の大悲は既に成就され果上の大悲となっているのだから、違いが生じる事はないはずだ。果上の仏名を因願から眺める事によってその仏名の意味を明らかにする事が必要であり、その点で南無阿弥陀仏を五願に開示したと理解する事はその目的に合致する。そうはいっても、五願に開示される十八願が南無阿弥陀仏として成就されていると理解する限り、両者に違いが生じる事はない。結局、同じ結論に至るはずだ。

 

B君 では仏名を信じるとはどういうことか。

 

A君 「浄土往生の因果は既に成就している」と告げるのが仏名であるから、仏名を信じるとは、「私の浄土往生は仏様によって確定されてしまっている」と信じることになる。その「信じる」とはどういう有り様を言うのかと言えば、祖師は信巻により詳しく表されている。

 

A君 信巻には「如来すでに至心信楽欲生の誓いを起こしたまへり。なにをもってのゆえに論主一心というや」という問いを発し、至心信楽欲生の字義を解釈したのち、至心信楽欲生は仏様の心であると結論し、仏様の至心・信楽・欲生によるから衆生の上では無疑の一心になるという三信釈を展開されている。仏名を信じるとは如来の至心・信楽・欲生の心を聞いてその仏心を無疑で受けとめるということだと明らかにしている。

 

B君 善導の釈では「南無とは帰命また発願廻向の義なり」とされているだけで、帰命それ自体についての釈はないが、祖師はどうして帰命の字義を解析し、釈されたされたのだろうか。

 

A君 善導の発願廻向は衆生が仏に向かってなす発願廻向のことであるが、それだけでは十分に信が開け起こる理由を表し切れていないと思われたのだろう。善導は六字釈のあとに「この義をもっての故に必ず往生を得」と言われているが、祖師はこの必得に信を読み取られて「必得往生といふは不退の位に至ることを得ることをあらはす。経には即得といへり。釈には必定といへり。即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなり。必の言は審なり、金剛心成就の貌ばせなり。」と釈されているが、この報土の真因たる信が生じる根拠として帰命や発願回向の意味を仏の側から明らかにする必要があると感じられたのだと思う。

 

B君 善導の釈では、発願廻向とは衆生が発願して行を廻向するという事であったが、祖師は衆生からの発願廻向ではなく、発願廻向の主体を衆生から仏に逆転されたんだね。

 

A君 帰命を仏の立場から釈されたのと同じように祖師は発願廻向も仏の立場から釈された。「如来すでに発願して衆生の行を廻施したまふ心なり。即是其行というはすなわち選択本願(の行)これなり」とは如来の廻向心のことで仏名を衆生の行として廻施する心のことだ。「即是其行」とは選択本願の行としての念仏ということだが、ここから仏名を衆生に廻施するとは仏名を衆生に称念されんと願っているという事だと分かる。

 

B君 簡単に言えば、「発願回向」とは衆生に仏名を称えてもらいたいという如来の願心のことで、「即是其行」とはその願心に呼応して称える乃至十念の念仏のことだね。

 

A君 この仏の廻向心については、三信釈の欲生釈において祖師は「欲生というはすなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。」と言われた後、「利他真実の欲生心をもって諸有海に廻施したまへり。欲生すなわちこれ廻向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに疑蓋まじわることなし。」と釈されている。如来の欲生心は本願招喚の勅命であり、仏号を廻施する発願廻向の大悲心のことだと分かる。

 

B君 ところで、祖師は欲生を本願招喚の勅命と言われたが、三信釈において至心信楽については本願招喚の勅命とは明記されていない。仏の至心信楽は本願招喚の勅命とはならないのか?

 

A君 至心信楽も当然の事ながら本願招喚の勅命たる大悲だ。

 

B君 どうしてそう言えるのか?

 

A君 三信釈と出体釈を読めば分かる。信巻の至心釈で次のように述べられている。「ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して不可思議兆載永劫において菩薩の行を行じたまひしとき三業の所修一念一刹那も清浄ならざることなし真心ならざることなし。如来清浄の真心をもって圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもって諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。すなわちこれ利他の真心をあらわす。かるがゆえに疑蓋まじわることなし」と。その出体釈に 「この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」 と。信楽釈には「すなわちこれ如来の満足大悲圓融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし。かるがゆえに信楽となづく。すなわち利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。・・・(途中省略)・・・如来苦悩の群生海を悲憐して無碍広大の浄信をもって諸有海に廻施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」と。欲生釈に「すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまう勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。・・・(途中省略)・・・利他真実の欲生心をもって諸有海に廻施し給へり。欲生これ廻向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。」 と言われている。圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳とは浄土往生を果たさせる作用のある仏名のことだ。

 

A君 仏の至心信楽欲生心いずれも仏名を体としている。欲生が信楽を体とし、信楽は至心を体とし、至心は至徳を体とし、その至徳が本願招喚の勅命であり、欲生が本願招喚の勅命であるならば、その中間に位置づけられている至心信楽も本願招喚の勅命となるはずだ。体である至徳を本願招喚の勅命とし、至徳を体とする欲生が本願招喚の勅命である以上は、至徳を体する至心も信楽も本願招喚の勅命であると理解するのは当然のことだ。

 

B君 本願招喚の勅命釈と発願廻向釈とは同じことを言われているのか?

 

A君 同じ内容だが、違いはある。その違いはあとで述べる。同じ内容だというのは、祖師は欲生を本願招喚の勅命であるとし、それは御名を廻施する願心であると理解されているが、至心釈においても「如来清浄の真心をもって圓融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもって諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に廻施したまへり。」と言われ、至心をもって群生海に廻施されているのは至徳の仏名だ。信楽釈でも「如来苦悩の群生海を悲愍して無碍広大の浄信をもって諸有海に廻施したまへり。」と同様の事を言われている。結局、仏の至心信楽欲生はいずれも仏名を廻施する心だと言われている。この点では欲生心も仏の至心信楽も発願廻向心もまったく同じだ。

 

B君 本願招喚の勅命と発願廻向とが御名を廻施するという点では同じ内容のものならば、どうして帰命は本願招喚の勅命だとする釈をわざわざ展開されたのか。

 

A君 考えられるのは発願廻向と本願の招喚とは重点の置き所というか、意識を向ける先が異なっているという違いかな。

 

B君 どういうこと?

 

A君 発願廻向釈では「如来発願して衆生の行を廻施したまふ。即是其行といふはすなわち選択本願これなり」と言われている。この下線部は三信釈にはない。この下線部分では選択本願念仏が強く意識されており、選択本願念仏は仏からの施名により衆生の往生行となることを意識的に明示したものだ。これに対して、「本願招喚の勅命」にはそうした意識はなく、仏の至心・信楽・欲生心の故に疑蓋間雑あることなしとの信が開け起こる契機となり、また因となっていることに強く意識が向けられているように思える。

 

B君 どうしてそう思うのか?

 

A君 「本願招喚の勅命」は信巻に引用している善導の「二河白道の譬」の中に「西の岸に人ありて喚ぼうて曰く一心正念にして直ちに来たれ。われ能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを怖れざれ」と仏が招喚している場面を想起させる。この招喚は何の為に説かれているのかと言えば、善導は「行者のためにひとつの譬喩をときて信心を守護してもって外邪異見の難をふせがん」と言われているように、信を守護する為だ。招喚の勅命は信を守護するとされている。ここでの信とは言うまでもなく行者の信のことだが、この行者というのは阿弥陀仏の仏名を行じている念仏行者のことだ。招喚はこの念仏行者の信を護っているというのだが、善導はその信を能生清浄願往生心とし、白道であるとしている。これを祖師は「願力の白道」であると言われている。祖師の三信釈では念仏の行者に白道たる信を起こさせ、信を相続させて信を守護しているのは他ならぬ仏様の至心であり、信楽であり、欲生だ。つまり、仏の招喚は仏の至心信楽欲生を想起させ、仏の至心信楽欲生心を言い換えたものだと考えられる。「善導の二河譬」が信巻に引用されているのは仏の招喚が真実信心を呼び起こすものと祖師は考えられたのだろう。そうすると、行巻に登場する「本願招喚の勅命」は信巻における三信釈との間に論理的関係があり、具体的には三信釈として展開されていると考えられるのだ。

 

B君 善導の六字釈において登場しない帰命の字義を仏の側から解説して帰命が信を開き起こす契機となり因となることから本願招喚の勅命と言われたと理解するということだね。

 

A君 そうだね。行巻の南無阿弥陀仏の六字釈は、先のとおり本願招喚の勅命釈と発願廻向釈の二つから構成されるが、発願回向釈では「如来発願して衆生の行を廻施したまふ。即是其行といふはすなわち選択本願これなり」と言われるのに対し、本願招喚の勅命であるとされる仏の欲生心の釈では「衆生の行」という文言はなく、「これ(仏の欲生心・廻向心のこと)すなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。」と言われている。祖師の意識の向けどころに差異を読み取れる。欲生心のみならず、仏の至心信楽も本願招喚の勅命であり廻向心であり、三信釈には「衆生の行」という文言がないことから、祖師は発願廻向と本願招喚の勅命に意識的な違いを付けたのだと思える。

 

A君 くどいようだが再説すると、発願回向釈は至徳たる仏名を与えて仏名を称えさせるという所に重点を置いているが、本願招喚の勅命釈は行を強調するニュアンスは感じられず、むしろ、招喚の勅命と表現された所に如来の願心である至心・信楽・欲生の大悲を想起させ、この勅命による御名の廻施により無疑の信が開け起こるという所に強く意識が向けられている。同じ御名の廻施であっても廻施の結果として仏名が念仏行に展開してゆく所に意識が向けられるか、廻施によって開発される無疑信に意識が向けられるかの違いだ。

 

B君 つまり同じ大行たる仏名が大行念仏の行となって発現してゆく所に意識のスポットを当てるか、大行たる仏名が大信として心に展開してゆく所に意識のスポットを当てるかの違いだね。

 

A君 この違いは祖師の意識が向けられている対象が違うという事であって、仏の至心信楽欲生心と発願回向心に何らかの違いがあるという事ではない。至心信楽欲生釈には衆生の行に関する文言はないものの、本願の招喚を受け御名を回施されて信が開発されれば、大悲を感受し、大悲感受のまま御名を行じることになる。御名の廻施を受けるとは、仏の至心信楽欲生の大悲心から無疑の一心となることであり、それによって選択本願の念仏を行じることになるから、仏の発願廻向心との違いが生じることはない。

 

A君 以上から私は次のように考えている。①発願回向釈は、善導の「発願回向之義、言阿弥陀仏者即是其行」をヒントにして、発願回向の主体を衆生から仏に転換し、仏の立場からの解釈を考え、必得往生の念仏の由来を仏名に求める論理構成に再構築したという事。②本願招喚の勅命釈は善導の二河喩をヒントにして信を生じさせ相続させる論理として構築され、如来の三信釈へと発展しているという事。つまりこの2つの御自釈は本典の構成を支える2つの大きな柱となっているということだ。発願廻向釈は大行たる念仏を表す行巻として、本願招喚の勅命釈は大行たる大信を表す信巻として具体的に展開されているということになる。

 

A君 さきにも述べたが、発願回向釈において祖師は大行と大行中の大信を読み取られていた。本願招喚の勅命釈はその大行中の大信を発起する仏の因縁(仏の至心信楽欲生の大悲心)を別開して明らかにしたものであり、別開された信巻の大信を引き出す論理として行巻で仏名を解釈されたと考えている。

 

B君 なるほど。2つの釈は各々行巻と信巻に対応しているということか。

 

A君 六字に込められた仏名廻施の願心を行巻と信巻に分けて表しているというのが私の本典理解だ。行巻は乃至十念を誓われた如来の至徳廻向心の願心を、信巻は至心・信楽・欲生を誓われた如来の至徳廻向心の願心をそれぞれ表していると考えている。尊号真像銘文は、この2つの誓いについて次のように述べている。

*-尊号真像銘文の該当箇所を以下に引用-

信楽といふは如来の本願真実にましますをふたごころなく深く信じて疑わざれば信楽と申すなり。この至心信楽はすなわち十方衆生をしてわが真実なる誓願信楽すべしと勧め給へる「御誓い」の至心信楽なり。凡夫自力の心にはあらず。欲生我国といふは他力の至心信楽の心をもって安楽浄土に生まれんと思えとなり。乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給ふに、遍数の定まりなきほどをあらわし、時節を定めざることを衆生に知らしめんとおぼして乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。如来より「御誓い」を賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり。

 

B君 尊号真像銘文には、如来の乃至十念の誓いと如来の至心信楽の誓いについて述べられているが、それは本典の行巻と信巻の構成とに対応しているということだね。

 

A君 如来の誓いを賜りぬるとは至徳たる仏名を賜るということだが、それにはただ如来の至心信楽を深くたのむべしと言われている。これは祖師の三信釈に表された仏の至心・信楽・欲生心の大悲を聞いて心から受け入れることだ。これにより摂取する阿弥陀仏に帰命する心相となるので、心相が南無阿弥陀仏となる。これを無疑という。大信は南無阿弥陀仏そのものだ。だから祖師はこの信を大信と言われ、「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」とか「金剛心成就の貌ばせ」と言われている。

 

A君 であるから、大悲を聞くという所が最も大事なポイントであり、これ以上に大事なポイントはない。そのことを祖師は、即の言は願力を聞くによりて報土の真因を決定する時刻の極促を光閳するなりと言われたのだ。願力を聞くままが無疑信であるから聞即信という。ここに伝統を踏まえた祖師の発揮がある。

 

A君 ところで、元祖法然聖人の念仏往生でいう所の念仏とは自力念仏の事ではなく、表面上は観経の三心(選択本願念仏集「(八)念仏行者は必ず三心を具すべき文」)を具した観経下々品の悪人の念仏であるが、実には十八願の三信を具備した乃至十念のことだ。だから祖師は念仏往生の意義を明らかにするために本典において念仏を大行とし、三心は本願の三信であってその信を大信として表現を一新し、十七願成就の仏名たる大信に焦点を当て、大経の弘願から大信が開け起こる事を明確にするため仏の三心釈と無疑信に成一される釈を展開した。

 

A君 念仏往生の教えが指し示しているモノと大行大信の教えが指し示しているモノとは同一のモノであり、元祖はそれを念仏往生と表現し、祖師は大行大信と表現した。念仏往生も大行大信も、同じ弘願の大悲心が各師の上に現れた信体験を論理の言葉として構成したものであり、同じモノを指し示している。そのモノとは十八願では至心信楽欲生我国の信と乃至十念の行にあらわれている大悲心であり、果上では仏名そのものだ。つまり本典は念仏往生の思想として伝えている本願名号による行と信の伝統(善導の伝統でもある)を新しく仏心からの仏名廻向という構成からとらえ直したものだ。そこでは善導や元祖の称名念仏を継承し、その行を大行として構成している。乃至十念の念仏が大行であることを示すために行巻に「大行とは無碍光如来の御名を称する」ことだとする御自釈を述べて、多くの文を引用している。ここに伝統を踏まえた祖師の発揮がある。

 

A君 元祖にも祖師にも独自の発揮というものがあるが、それは伝統と己証というものであって、伝統を正しく継承しつつ発揮されるものであり、その発揮だけを切り出して祖師の教えだとする事はできない。だから乃至十念の念仏を称えよとの教えは「法然聖人の伝統であって祖師はその伝統に則って教えているに過ぎず、祖師の信心正因の教えと法然聖人の念仏往生の教えを截然と区別すべきだ」という考え方には、賛同し難い。

 

A君 仏が念仏を勧めるとは、乃至十念の選択本願念仏を選び取られたという事であり、選択本願念仏を選び取られたという事は、仏名を選び取られ、仏名を回施されたという事だ。仏名を回施されたという事は衆生無作の大悲を選び取られたという事だ。念仏を勧めるとは信楽を誓った大悲を勧めることだ。尊号真像銘文に祖師は「ただ如来の至心信楽を深くたのむべし」と言われている。念仏を勧めるとは、如来の至心信楽を深くたのめと勧めることに帰着してしまう。そのことは信巻の三信釈により詳しく表されている。祖師の教えは如来の大悲を聞くことにつきる。信でも行でもなく大悲を勧めるのだ。大悲を自力をまじえずにそのまま聞くことを勧めるのだ。衆生無作とする大悲を聞くのだ。その大悲を勧める事が行を勧め、信を勧めることになる。これが祖師の到達した結論であり浄土仏教の真骨頂だ。念仏行を勧め、他力信を勧めても仏の大悲が抜けていたら、行や信を勧めた事にはならない。

 

A君 なぜ祖師が上記のように願力を聞くことを勧めるのかと言えば、念仏行にも自力の仮行となる念仏行があるためだ。この仮行と大行念仏との区別は、衆生無作とする大悲を聞いているか否かに係っている。衆生無作の大悲は乃至十念にも表れている。そのことは、祖師が「乃至十念と申すは如来の誓いの名号をとなへんことを勧め給うに、・・(中略)・・乃至の御言(みこと)を十念に添えて誓い給へるなり。・・ただ如来の至心信楽を深くたのむべし」と言われている所からも分かる。「乃至」は衆生無作の願心なのだ。結局、念仏を勧めると言ってもこの衆生無作の大悲が伝わらなければ所詮がないのだ。

 

A君 また念仏を殊更に強調したり、信だけを殊更に強調することを常とする立場は、いずれも本典解釈としては「どうなのかなぁ」という思いを強く持つ。祖師の究極の立場は三信釈にあるように仏の至心信楽欲生の大悲が無疑信となる事を教え勧めることにあり、祖師はその結果としての信が涅槃の真因であると言われているが、真宗はここにつきる。祖師の終局の教えはこの大悲の聞信領解にある。この終局においては衆生の行じる自力の行はすべて自力の思いとともに廃捨されてしまうのだ。その廃捨とともに念仏が大行となる。それ以降は、仏名を称念することで念々信が守護され相続してゆく姿が念仏者の心のあり様となる。その心の有り様が願力の白道だ。大悲を感受し大悲に共鳴して常に仏名を称念しつつ現在を生きてゆける力となるのが願力の白道だ。称名念仏は大行たる仏名を自らのものとして我が身と我が心のうちに取り込み、我が往生行として表現し、その表現された仏名が本願の招喚であるから行とともに信が発起し相続してゆき、またその信によってこそ、念仏が仏の大行であり浄土への招喚であると領解できる。信と念仏との関係はこのようなものだ。信と念仏とは不即不離と言われるゆえんがここにある。この信行不離が仏の大悲を受けた者の据わりとなるのだ。

 

A君 祖師は、念仏の行者には念仏とともに、あるいはそれ以上に乃至に表れた衆生無作の大悲の聞信を仏が強く勧めていると理解されている。そのことを示しているのが先に紹介した尊号真像銘文の「如来より御誓いを賜りぬるには尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽を深くたのむべしとなり」であり、信巻の三信釈であり、「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」という釈ではないかと思う。

 

B君 念仏以上に大悲とその聞信を仏が強く勧めているとはどういう意味か?

 

A君 門外の人達に対しても諸行ではなく、念仏が大行である事やその大行には大信が伴っていると伝えるのが大事であるが、念仏を称えている浄土門内の人は、既に念仏を称えているので、それを勧める事にあまり積極的な意味は見いだせない。むしろ、その念仏が自力の思いで称えている念仏であるか否かを問い、自力の思いに囚われている念仏であるときは、仮行となってしまう念仏と大行念仏との違いを明確にするために、大悲と大悲の聞信を勧めなければならない。自力の思いに強く囚われている者ほど自力の思いにどうにもならなくなって呻吟している。仏の大悲は苦ある者に偏に重いことを伝え、衆生無作の大悲であると伝える事が念仏の行よりも大事になってくる。衆生無作の大悲を受け取って大信に目覚めた人は、放っておいても念仏を称える事になるし、大悲の話をもっと聞きたいと聞法するようになる。その境目が大悲の聞信であるから、当然、仏の大悲心たる三心が無疑の一心になるところに大きな比重が置かれる事になる。その役割を担っているのが信巻であり、信巻の三信釈や「願力を聞くによりて報土の真因を決定する」との御文などだ。