1-18.三願転入の御文

ここをもって愚禿釈の鸞、・・・久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるに今ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。

 教行信証化身土文類にあるこの御文を三願転入の御文といいますが、これについて、どのように理解すればよいかを考えます。

 この御文は、その前にある「悲しきかな、垢障の凡夫・・」で始まる段において、仮の行をもってしては、出離その期なく、仏願力に帰しがたく、報土に入ることはない、と述べられている御文に続くものです。これは信巻で述べられている信を祖師が得られたうえで、その自らの信に照らして実感されている自らの思いを述べられたものと推察できます。そうしますと、その自らの思いに続いて述べられている冒頭の御文は、自らの思いを心の道程として書かれたものと考えられます。

 ところで、この御文を根拠として、三願を転入するには、まず、万行諸善の仮門に入り、定善散善の行を実地に行わなければ仏願力に帰し得ないと教える者がおります。

 その者は、定善散善の行が出来ないと知らされた者が次に称名念仏の行に専心して浄土往生を果たすことを願わなければ選択の願海に転入することはないと教えます。このような考えは、十九願が不要であるならば、如来が十九願を建立することはなかったということをその根拠とするようです。しかし、この御文からそのような結論を引き出す事はできませんし、これを根拠とすることもできません。

 如来は、機に応じて十九願、二十願、十八願を建立しました。十九願は万行諸善を浄土往生の行として浄土往生を願う機根のために建立し、二十願は称名念仏をもって浄土往生の行として浄土往生を願う機根のために建立し、十八願は十七願に諸仏が称賛する御名が浄土往生の決定の証であると信受させ称名する以外に救われようのない機根のために建立したものです。如来は、このように機根に合わせて三願をそれぞれ独立した生因願として三願を建立したのです。

 十八願の機になるために阿弥陀如来が成就し用意したのは諸仏によって讃歎される如来の御名だけであり、この御名を聞かせて信楽歓喜させて浄土に生まれさせるというのが十八願の眼目です。この十八願の信楽を得るためには十九願の万行諸善の行や二十願の称名の行を励行しなければならないという教えは願文にもありませんし、大経の経文にもありません。十八願は、十九願や二十願とは別の独自の救済方法=十七願による御名の回向を定めたものであり、十九願や二十願の所定の修行の先に十八願の救いがあるというものではありません。

 十八願の信楽を得るためには十九願の万行諸善の行や二十願の称名の行を励行しなければならないと考えることは、十七願十八願文やそれらの願成就文にはない救いの条件を衆生に課す解釈であり、十八願の救いに違背する考え方です。十八願の救いは、十七願に誓われた御名を聞かせて信楽歓喜させて浄土に生まれさせるという誓いです。それ以外に救いの条件は何もありません。その十八願成就の文には「その名号を聞いて信心歓喜」とあるだけであり、御名を聞くことによって十八願の信楽は生じるのです。これを逆から言えば、信楽は御名を聞くこと以外で生じることは絶対にありません。

 では、祖師は何故に三願転入の御文を書かれたのか、その意を考えなければなりません。

 浄土往生のために万行諸善や称名念仏の行を励むことは、十八願の大信と大行に対比すれば仮の行であり、その仮の行によっては報土往生はできません。祖師は、このことを化身土巻において経論釈を引用して述べてきましたが、自らの経験の上においても、久しく万行諸善の仮門を出で、方便の真門を出でたことで選択の願海に転入したと述べられました。万行諸善の仮門に留まっていたり、方便の真門に留まっていたのでは選択の願海に転入できないことを自らの経験に照らして述べ、そのことを後世の願生者に伝えるがために述べられたものです。祖師が真の行信と仮の行信とをはっきりと区別され、真は如来の大行と大信であり、選択本願であることを明らかにし、仮をもってしては報土往生はできないことを述べられた趣旨は、仮の信行に惑うことなく、真の信行を仰ぎ、奉行することを勧めんがためです。このことを理解するならば、十八願にしたがって浄土往生を願う者は、ただ御名のいわれを聞く以外に進むべき道はないことを正しく理解されますでしょう。
 祖師は、十九願、二十願にも十八願海に誘引する大悲心があると理解されましたが、そのことは、十八願の救いに直入することを求めている者に十九願の行を勧める根拠にはなりません。十八願の信海にでられて、十九願、二十願にも十八願海に誘引する大悲心があることを事後的に感ぱいされたものです。十九願の行から始めなければならないことを教えられたとの解釈をこの三願転入の御文から読み取ることはできません。

 十八願の救いのあり方はただ願心を聞くというあり方をしているのに、十九願や二十願の自力の行を十八願の救いに持ち込もうとすると、この思いは十八願の救いを撥ね付けてしまう疑情となります。これを自力の計らいというのですが、自力の計らいとは十八願の救いのあり方をあれこれを考えを巡らし、自力の思いのために如来の大悲心を受け入れられない心のあり方を言います。それは、願心を聞く以外に自分の思いや考えや行をもって救いの足しにしようとしている態度となってきます。十八願の救いを求める者に対して、教える者は、十八願のよる救いを説けばよいのであり、十八願の救いを説くにおいて、十九願の諸善万行に励むことを勧めることは十八願の救いの願意に背くことになります。これは厳に慎まなければなりません。仮に、十九願の救いを求める者であるならば、その者に十九願の願意を説き、諸善万行を励むことを勧める説相でも良いのですが、真宗人であるならば、十八願の救いに直入することを求めているでしょうから、その人にあった説相でなければなりません。それには、ただ如来の慈悲心を聞き頂くことだけです。

1-17.十八願の生因と自力の計らい

 前回、前々回と雑行、雑修について述べてきましたが、自力の思いをもってなす自力の行という観点から見ますと、雑行も雑修も自力の行です。これらはそれぞれ十九願、二十願における生因としての自力の行です。十八願による救いを求める者がこれらの行を行じる際に思っていることは、自分を善行ができる良い者に仕立て直して、その善行を頼りに浄土往生の身になりたいという思いです。このような思いを十七願十八願の救いに持ち込もうとするとき、十七願十八願に表れている如来の思いに反することになります。十七願十八願に表れている如来の思いとは、浄土往生は既に決定しているから信じて安心しておくれ、という思いなのです。雑行とか雑修とかの自力の行をもって往生決定の身になりたいという思いは、その如来の思いに反するので嫌われるのです。蓮如上人が「雑行、雑修、自力の思いを振り捨てて一心に阿弥陀如来、今度の一大事の往生たすけたまえとたのみ申して候」と言われて、雑行、雑修、自力の思いを振り捨ててと言われている理由は、ここにあります。

 嫌われるのは雑行、雑修ばかりではありません。

 罪が深いから助からないという思いも、十七願十八願に表れている如来の思いに反することになります。おおよそ、自分の思い、善悪、才覚、能力など自分の側の要素を浄土往生の決定の可否と結びつけて、それらの要素のありかたと決定往生とを関連づけようとする思いは、すべて如来の思いに反することになるのです。この思いを自力の計らいといいます。自分の中にある上記の要素をもって浄土往生の可否を決めようとするので自力の計らいといいます。またこれを自力計度の機とか疑情などといいます。この計らいを疑情というのは、無条件での如来の救いを無条件であると信受せず、真っ向からそれに反している思いだからです。無条件の救いである事を聞きながら信受していないという事それ自体が如来の願心を計らい疑っているという事です。如来の本願は本当なのかという疑念が本願疑惑という疑いになるのではありません。

 十九願、二十願における生因に対して、十八願の生因は、十七願で誓われた諸仏が讃嘆する南无阿弥陀仏が成就し、その成就は私が浄土往生することが決定したことを知らせる名告りであるということを聞いて、それを信楽して念仏申すこと、です。ここには自分を善行ができる良い者に仕立て直して、その善行を頼りに浄土往生の身になりたいという思いは微塵もありません。また、自分の思い、善悪、才覚、能力等と決定往生とを関連づけようとする思いも微塵もありません。「本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり」と祖師は言われています。自力の心を離れて称える称名行が真実行であり、専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗の行なのです。その称名においては、ただ、阿弥陀如来が私の浄土往生を既に決定して下されていた、という思いが伴いこそすれ、その行をもって我が往生の資助とするという思いは微塵もありません。その理由は、如来の大悲心を信楽しているからです。信楽しているとは如来の大悲心が私の心に感得されているということです。大悲心ありと受けとめているということです。大悲は既に私に届き、私をすくい取らんとしていると思っているということです。南無阿弥陀仏にて往生するぞと思いとっているということです。ですから、その大悲心以外に何かを求める思いが止んでしまうのです。

 

「再掲」

  ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば、やがて不定なり。一定と思へばやがて一定することなり。

  昭和新修法然全集59頁「往生大要抄」

 

ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもひとりて申す他に別の子細候はず。但し、三心四修と申すことの候は、皆、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思う内に籠もり候也。この外におくふかきことを存せば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候べし。

  一枚起請文

 

1-16.雑修

 雑行の次に、祖師は正助行について専修と雑修とがあり、専修には五つの専があるとされています(浄土真宗聖典第2版395頁「正助について専修あり雑修あり」等)。この五専は五正行の各正行の一行を専らに修することで、専礼、専読、専観、専称、専讃嘆の5つです。この専に対して、雑修は助正兼行することと定めています。つまり、専修と雑修の区別は、修する行体が専ら1つであるか、複数であるのか、の違いによる区別です。能修の行相という観点からの区別です。

 五専修のうちの専称は唯称仏名と区別されていることに注意が必要です。「専修に二種あり。一つにただ仏名を称す、二つに五専あり。」と言われる唯称仏名です。

 唯称仏名は十八願に適った正定業としての称名、いわゆる弘願念仏のことです。 化身土巻に「横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。これすなわち専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり。これすなわち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。」と言われ、自力の心を離れた称名行が真実行であり、専の中の専、頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗と言われております。そして、そのように念仏は既に行巻に表したと言われています。この念仏が唯称仏名です。
 これに対し、専称以外の四専はいずれも助業とされていることを考えますと、五専の中の専称はその他四つの専修と同じ助業としての地位(分斉)しか与えることのできない行であると祖師が理解されていることが分かります。つまり五専の1つの専称とは、正定業としての称名ではなく、その行を行じる行者が助業としての地位しか与えてない自力の称名のことです。正定業と助業の区別が付いた能修の心相からの称名を唯称仏名といい、正定業と助業の区別が付いていない能修の心相からの称名を専称といっておられることが分かります。専称と唯称仏名との区別は行体による区別ではなく、行者の能修の心相として自力の思いがあるか否か、による区別です。
 その上で、祖師は、自力の専修と雑修の能修の心相にも、定専心、散専心、定散雑心があるとされています。専心とは一行を専ら修するときの能修の心と解説されています。定心は専観における息慮凝心のことでしょうか。散心とは専礼、専称、専読、専讃嘆における廃悪修善の心ということでしょうか。

 五専と雑修とはいずれも報土往生の行ではありません。専称について、祖師は、本願の徳号をおのれが善根とするがゆえに信を生ずること能わず、といわれています。本願の徳号はそのいわれを聞き受け入れるべきものであるのに、自らの善根にしようという自力の思いで称名しているので、信が生じることはないのです。雑修については、「正行のなかの・・・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。」と言われています。

 ところで、祖師には、専称でも雑修とされている例があります。

   仏号むねと修すれども現世をいのる行者をば、
   これも雑修となづけてぞ千中無一ときらはるる。

 この「仏号むねと修すれども」というのは、上記の五専のうちの専称のことでしょうが、現世を祈るという目的違いの思いが混入し混じっているので、雑修と言われたのでしょうか。しかし、専修と雑修とを能修の行相という観点から明確に区分したのに、専称の中のある思いでなす行をさらに雑修の1つとして再分類することは、自ら定めた助正兼行か専修かの基準からは判別できない例外を設けてしまったことになります。専称の中に、さらに雑修と専称とが区別されることになるいうことです。そうしますと、大分類上は専称でありながら雑修に属するとされる例外的な専称がさらに広がってゆきはしないかと憂慮されます。これは概念的に区別する考え方に立つと困った事態になります。いっそのこと自力念仏は、一貫して専称と呼称するか、自力の思いが混在しているので雑修の1つであるとするか、どちらかに統一して欲しいものです。

 そうはいっても、このような分類にこだわる必要はありません。分類はその人その人の解釈です。専称であれ雑修であれ、十八願によって決定往生の身になりたいと思って称名行を往生の資助とする心で行う以上は、十八願心からみればいずれも自力の計らいとして捨てられるべき範疇の思いや行であります。この自力の計らいを差し挟んで行う行として雑行や雑修があると理解しておけば十分でしょう。


 ところで、十七願で誓われた御名の成就のいわれを聞き、浄土往生が決定していることを聞きながら聞き誤り、専称や雑修することを自己の善行であるように考えて行じる者のために、阿弥陀仏は二十願を建立されました。この自己の善行である専称(やその他の助業)をもって浄土往生を願う行者を二十願の行者といいます。この行者は専称を修し、又はその他4つの助業を修しつつ専称することになります。しかし、二十願の行者は臨終まで往生不定の思い(不安)がつきまとうことになります。そこで現生で往生決定の思いに住したいと切に願って専称や雑修を修することになりますが、そのような行を修してもその願いが叶うことはありません。専称や雑修は十七願十八願で誓われている生因ではないからです。十八願には十八願に相応しい行因があるのです。その行因とは十七願で誓われた南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称することなのです。十八願の行者は、浄土往生を願いながら専称を修したり、その他4つの助行を修しつつ専称するということはありません。称名等を修することを資助として往生したいという思いがないのです。信楽によって往生決定の思いが既に生じているからです。二十願の行者の大きな誤りは、専称や雑修を修して決定往生の身になるという思いを十七願十八願の救いに持ち込もうとすることに大きな間違いがあります。自力の計らいに囚われておりますと、そのうち一歩たりとも自力の囚われから抜け出ることができない自分であることに気づきます。まるで、自力の思いが殻となって、自らの心をその内側に閉じこめてしまいます。そこから抜け出ることのできない状態に呻吟することになります。このような状態を私は、勝手に「自力地獄」とネーミングしましたが、そのような状態に陥るのは自分の思いや自分の心ばかりを眺めているからです。このような状態から抜け出るには、自分の思いはいったん横に置いておいて、如来は何を私に願っているのかを聞くことです。十八願の救いに遭うには十七願成就の御名のいわれ(=浄土往生が決定していること)を聞くしかありません。聞けば、如来が私の往生を決定されていたということが心にしみ入ってくるはずです。そのとき、自力の計らいから解放されて自由になります。

1-15.雑行

 化身土巻において、正行と雑行につき善導の文を引文されています(浄土真宗聖典第2版387頁・就行立信釈)。

 その引文では、善導は、浄土三部経の読誦、阿弥陀仏の浄土の観察憶念、阿弥陀仏への礼拝、阿弥陀仏の御名の称名、阿弥陀仏への讃嘆供養を正行とし、その中でも称名を正定業、称名以外を助業に分けて、正助業の正行以外の諸善を雑行として区別しています。

 真宗では、正行と雑行との区別は、もともと阿弥陀仏の浄土往生の行となる善であるか否か、で区別されると考えられています。正行はそれ自体が直に阿弥陀仏の浄土往生の行であるのに対して、雑行とされる諸善のうち世俗的な世間の善は浄土の行ではありませんし、出世間の善はもともと聖道の行でありますので浄土の行ではありません。それらの諸善は、浄土に生まれるための行として行うときに浄土の雑行と呼ばれることになります。

 以上につき、祖師は、「雑の言において万行を攝入す。五種の正行に対して五種の雑行あり。雑の言は人天菩薩等の解行雑せるがゆえに雑という。もとより往生の因種にあらず。回心回向の善なり。かるがゆえに浄土の雑行というなり。」と述べています(浄土真宗聖典第2版395頁)。
 この意味は、①五種の正行に対して五種の雑行があること(選択本願念仏集には五雑行の五つを明かされています)、②雑行には五種の雑行の他にも人天菩薩等の解行があること、③そのいずれもが往生の因種ではないということ、④雑行は回心回向の善である、ということです。ここで②の人天菩薩等の解行とは、世間の善と出世間の善の総称です(世福、戒福、行福の三福と言われる)。③の往生の因種とは、阿弥陀仏の浄土往生の因種のことです。もともと阿弥陀仏の浄土往生の因種ではない諸善を阿弥陀仏の浄土往生の因種として回心回向するときその諸善を浄土の雑行というとされています。回心回向とは、阿弥陀仏の浄土の行ではない諸善を阿弥陀仏の浄土に往くための行であると思い、浄土に向けることです。回心回向する諸善には五種の雑行と人天菩薩等の解行があることになります。このような回心回向の行を行う者のために阿弥陀仏は十九願を建立され、十九願所定の三心で行じる者のために臨終に来迎することを誓われたのです。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生できるかどうかが決まるため、十九願の行者は臨終まで往生不定の思いがつきまとうことになります。

 ところで、他の仏と他の仏の浄土往生の行としての礼拝、読誦 観察、称名、讃嘆供養は五雑行となりますが、この五雑行を阿弥陀仏の浄土への往生の行として回心回向するというのは、何かおかしいように思えます。礼拝、読誦 観察、称名、讃嘆供養の各行を行うのであれば、他の仏への行ではなく、最初から阿弥陀仏への行として行えばよいはずだからです。そこで、回心回向するのは、五雑行以外の人天菩薩等の解行であると解するのが適当であると思いますが、過去に行った五雑行という善を阿弥陀仏の浄土への行として回心回向するということも認められるのかも知れません。

 それはさておき、その上で祖師は、雑行と言っても、一つの善を専らにするか、二つ以上の善を行うか、その修する善の修し方(能修の行相)の違いから雑行を専行と雑行とに区別しています(浄土真宗聖典第2版395頁「雑行について専行あり、また雑行あり。」)。この後者の雑行とは専行に対して、諸善を兼行して修する修し方を意味しています。つまり雑行という場合、修する善のもの柄は何かという観点から、正行と雑行とが区分され、さらに雑行とされる善の修し方の観点から専行と雑行とが区分されることになります。

 次に祖師は、雑行を修するときの思い(能修の心相)という観点から、浄土回向を専らにする思いと定散心雑する思いとがあるとして、専心と雑心とに区分しています。定散心雑するとは、それ以上の説明がないため文意を把握することが困難です。人天菩薩等の解行を行じる際の定心とはどういうことか分かりませんが、観法の行(=専観)を行じるに際しての息慮凝心のことでしょうか。散心とは、観法の行以外の罪福を信じて行う廃悪修善の心のことでしょうか。この定心と散心とが雑するのを「定散心雑する」と言われています。

 ところで、回心回向の行である雑行を行う者のために阿弥陀仏は十九願を建立され、所定の三心(菩提心、至心発願、欲生我国)で行じる者のために臨終に来迎することを誓われました。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生できるかどうかが決まります。回心回向の行である雑行をもって浄土往生を願う者を十九願の行者といいますが、十九願の行者は臨終まで往生不定の思い(不安)がつきまとうことになります。そこで現生において弥陀に救われて往生決定の思いに住したいと切に願いつつ雑行を行うことになりますが、いくら雑行を修してもその願いが叶うことはありません。雑行は、十八願で誓われている報土往生決定の生因ではないからです。十八願には十八願に相応しい行因があるのです。その行因とは十七願に誓われた南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称することなのです。十八願の行者はただ南无阿弥陀仏の成就を聞き信楽して御名を称するだけなのです。往生決定の思いはこの信楽により生じるものなのです。

 浄土往生を願いながら雑行を修するということは十八願の行者にはありません。雑行を修して往生したいという思いがないのです。信楽することによって既に往生決定という思いになっているからです。ですから、そこからさらに進んで諸善を修して浄土に往生したいという思いを持つことはありません。当然のことです。

 信前における大きな思い違いとして、十八願の救いを求め決定往生の身になりたいと思いつつも雑行を修してそのような決定往生の身になりたい思うことがありますが、それは大きな間違いです。十八願の救いに遭うには十七願成就の御名のいわれを聞くしかないのです。

 最後に

 観経においては下品中生と下品下生に称名念仏が出てきます。これは、称名念仏を表面上は諸善の1つとして下品に登場させているのですが、最後の流通分において廃観立称されているので、この称名念仏は諸善の1つとしての称名念仏ではなく、実はまさしく正定業としての弘願の念仏であることになります。そうしますと、称名する者の思いによっては、正定業としての弘願の念仏であったり、諸善の1つとして称名念仏を位置づけて念仏することがあるということです。また、雑修のところで出てきますが、称名する者の思いによっては、助業の1つとしての称名念仏になることもあります。そうしますと、称名念仏には以上の三つの念仏が区分されるということが分かります。これは念仏する者の思い(能修の心相)による区別です。念仏を雑行の一つとして理解して行ずる行者の念仏、念仏を助業の一つと理解して行ずる行者の念仏、そして正定業としての本願の念仏、です。念仏が如来によって与えられたものであることには何の違いはありませんが、行じる者の思いが区々に分かれるということです。本当に大事なことは、雑行に励みながらも雑行では決定往生の身にはなれないと気づく事、念仏を称えることは、それが如来の定めた正定業であるとして弥陀の願心を受け入れるかどうか、ということです。気づけば(信受すれば)、それで往生は決定という思いになるとともに雑行や助業に励んでも助からないという思いになりますので、その時点から往生のために雑行等を励もうとする心はなくなります。これを雑行等を捨てるというのです。雑行等を励もうする思いが廃ってしまうのです。これを祖師は、雑行を捨てて本願に帰すと言われました。ここにいう雑行を捨てるとは、自力の思いをもってなす一切の行を雑行に代表させて、その一切の自力の行が廃ったことを雑行を捨てると言われたものです。「雑行を捨てる」と「本願に帰す」とは自力無功と本願乗托の二種深信を表したものと理解するのが適当です。

1-14.如来の救いにおいて自分は悪人であるとの自覚は必要か?

 人として自分の内なる悪性を自覚し、それを抑制しつつ善人たらんと向上を願うことは大切であると思いますが、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないということはありません。善人であるとの自覚を持っている人は善人の自覚のままで救われますし、悪人であるとの自覚を持っている人は悪人の自覚のままで救われます。つまり、善人・悪人の自覚は、如来の救いとは無関係です。仮に、悪人であるとの自覚がなければ如来の救いには遭えないとしたら、善人であるとの自覚をもっている人は自己の悪性を認識しなければ救われないということになります。しかし、それでは如来の無条件の救いをまえにして無条件で救われない、ということになりますので、如来の救いッぷりとは異なるものになってしまいます。如来の救いッぷりは、如来の御名のいわれを聞かせることで救うというものです。信不信の問題は信不信の問題であり、善悪の問題とは関係がありません。その信不信の問題に善悪の問題を持ち込むことは避けるべきでありましょう。もちろん自身の悪性を見つめることは大事なことであり、内省することを勧めることは大事なことですが、それを獲信に結びつけようとすることが間違っているということを言いたいのです。

 仮に、如来の救いに遭うにおいては、悪人であるとの自覚を持ったり、或いは、その自覚を深めなければ救われないと考えてしまうと、救われるために内省する行が奨励されることになりますが、これは自力を策励する結果となり、如来の御名とは異なるものを如来の救いに持ち込むことになります。如来の御名を聞かせるという救いッぷりとは異なるものを如来の救いに持ち込むと、際限なく、その計らいに縛られることになります。「聞其名号信心歓喜」という御文には、唯一「名号を聞く」とあるだけです。聞くといっても聞き方の問題ではありません。聴聞において一方的に聞こえてくる如来の大悲心を聞くということですから、衆生の行というものはありません。諸仏が讃嘆する御名のいわれを一方的に聞いて歓喜するのですから造作もいらない「聞其名号信心歓喜」ということであります。

 祖師が「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」と言われている「仏願の生起」とは、如来衆生には出離の縁のないことを見抜かれ、その衆生がいるために如来が選択の本願(=十七願十八願)を起こした、ということですが、この御文は、自らは出離の縁のない悪人であることを内省して知ることを要求する御文ではありません。如来が大慈悲を起こされたゆえんが衆生である私にあり、私の存在が如来の大慈悲の目当てであるということであり、私を離れて如来の大慈悲はないということを示されたものです。したがって、如来の大慈悲を受けている我が身であるということを認識することが眼目となっているのであり、その大慈悲は善人であるとか悪人であるとかの自覚にかかわらず、衆生である私に向けられたものであることを理解し、そのうえで信解する以外に眼目はありません。
 そして、「仏願の本末」とは、如来の大慈悲は名号を成就し衆生にその名号を聞かせるために回向していることを述べたものです。本とは名号の成就、末とは回向されている名号が衆生に届き、衆生がその名号のいわれを聞いていることを言います。その名号を聞いて信心歓喜するのですが、如来のお手回しは完全であり、欠け目なく円満であるので、衆生はただその名号を聞くだけで往生の因である信心が開け起こるのです。ここにおいて、衆生の行や計らいは無用であります。悪人であるとの自覚を必要とするか、などという議論は、この信の味わいを知るものにとっては誠に無用の長物です。

 「善人なおもって往生する。いかに況や悪人おや。」といわれていますが、「悪人なおもって往生する。いかに況や善人おや。」ということもできます。如来の救いのお目当て(=正機)とは出離ができないすべての衆生であり、その衆生に善人悪人の区別があるのかもしれないが、出離できない衆生を善人と悪人とに分けて、そのうちの悪人のみを正機とするという意味ではありません。凡夫である限り、善人悪人を問わず、ともに浄土往生させるというのが如来の大慈悲心であります。そのため、自分は悪人であるという自覚の有無は、如来の大慈悲心をまえにすれば、まったく問題とはなりません。だから、悪人であるから救われないと思う必要は全くありません。悪人の私だから救われるのだと思えばよいのです。悪人の自覚のない者は、悪人でも救われるのだから私はますます救われると思えばよいのです。

1-13.機の深信

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こうごうよりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなし-機の深信

 祖師は愚禿抄(下)において、二種深信を「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信心海なり」(真宗聖典第2版521頁)としながらも、この機の深信について自利の信心なりと釈している箇所(同522頁)があります。その意味は、機の深信だけでは利他の真実信心ではなく、法の深信を伴う機の深信でなければ利他の真実信心ではないと宗学においては解釈されているようです。法の深信を伴わない機の深信とは、どういうものか、ここでは、祖師が上記の自利の信心なりと釈された意味を探ります。

 祖師は、自らも「地獄は一定すみかぞかし」という告白をされたと歎異抄に書かれていますが、このような思いが形成される原因として3つのことが考えられます。 1つは、聖道門の難行の末に自己の悪性に関する思いが上記の思いとして形成された(以下①と表示)。
 2つに、如来の願心を聞き受けたことによって自力無功と知らされ、自己のいかなる行も出離の行となる行ではなかったと思い知らされた(以下②と表示)。
 3つに、信を得たのちも自己のそのような悪性が知らされるにつけ、「地獄は一定すみかぞかし」という思いが深まった(以下③と表示)。

 このうち、①は他力の信ではなく、②が他力信ということになります。③は②の思いに至ったのちの信後の味わいです。このような視点から善導の機の深信の文を眺めると、一方で自利の信を述べたものと理解し、他方で法の深信を伴ったときに利他の信であるとした祖意を理解することができると思います。

 最近、亡くなられた梯和上のご著書を読んでいましたところ、上記に関連すると思われる面白い記述がありました。

「・・・かくて、善導においては、法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ、その懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していくのであった。」
という記述でした。「法然教学の研究」260頁

 「機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していく」というところに、法の深信を伴わない機の深信とそれを伴う機の深信とがあり、それが順次に成立するという理解を梯和上は示されたものと私は理解しました。自利とされた機の深信は、「法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ(た)」から生じた思いです。

 実は、難行道を経ずとも、これと似た思いに至ることがあります。

 以前にも書きましたが、実機が知らされて自力が無功となるのではありませんが、如来のお救いに遭いたいという思いが深まってきますと、どうしても自力の行を行って助かりたいと思い、如来の救いにあずかるには自己の行や自己の思いがなにがしか役立つだろうと考えます。しかし、そのような自力の計らいに囚われている限り、如来の救いに遭えないことが分かってきますと、救われたいという思いがそのまま自力の計らいとなり、この思いが私の心を覆ってしまい、自分はこの思いに閉じこめられて、そこから脱出することは到底できないと感じるようになり、ついには、このような自力の計らいのまま死んでゆくことを覚悟させられました。自力の思いに囚われている間はその思いからどうしても抜け出ることができないことを身をもって知ります。このときの心理状態としては、如来の救いに自分はもう遭うことはないのだという悲壮な思いに沈みます。この思いは、このまま死んでゆくことを受け入れるしかできない、死が如何ともし難いものである以上、死後の命の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはないという思いに凝縮し、その一点で苦悩します。これが、上記の①に相当する思いです。それはまだ自力から自由になれず、自力に捕縛されて苦しんでいる世界です。

 如来の願心が真実まこと、往生決定の如来の至心を聞き受けることから自力の思いが廃ります。如来の大悲心を聞いてみると、自力の計らいは、如来の救いの前には何の意味もなかった、何の功も無かったということが分かりますから、本願信受ののちは、自力の計らいはきれいに消えてしまいます。自力無功を身をもって知ることになります。こうして、真実信には自力無功の思いが必ず伴います。これが伴わない本願信受は考えられません。「死が如何ともし難いものである以上、死後の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはない。」という信前に形成された思いとそれに続く自力無功と知らされた思いとは、信後においても変わることはなく、その思いは残り続けます。法の深信を伴いつつ「自身は現に・・・出離の縁あることなし」と知らされたとき、この言葉の中に、自力が役立たないと知らされた心相があると読み取ることができます。そのため、法の深信を伴ったとき機の深信を真実信心であると祖師は解されたのでありましょうし、法の深信を伴わない機の深信は、自力の信心であると理解することが可能だったのだと言えます。

 さて、信を頂いた後、毎日毎日、凡夫としての生活が続いて行きますが、その生活の中で自己の悪性が知らされることがあり、人によって知らされる程度がまちまちになるものと思います。より深く悪性が知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、ということもあると思います。ここで、注意をしておかなければならないことは、自力の思いが廃るということと自己の悪性の認識とか罪悪性の認識とは別のものだということです。私は、自力の思いから離れられないためにこのまま本願の救いにも遭えず、後生に飛び込んでゆくのだなぁという思いによって「出離の縁など自分にはないなぁ」という思いに至りましたが、それは、自己の罪悪性からの「出離の縁あること無し」という思いとは別物です。私は法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修を行うということを怠った者です。痛烈な懺悔の実修とその懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされた者ではありません。これが善導との違いです。自利真実を徹底して求めて自己の悪性が知らされたた善導のような聖者の機の深信は自己の悪性が知らされていない私のような者にはありませんが、法の深信を伴った自力無効の自覚である機の深信は、そのいずれの者に共通する思いでありましょう。

 本願信受と同時に廃る思いとは、如来の救いに自らの行を足しにしようとする思いです。真心を持ちたいという思いが廃るのではありません。ですから、信後においても真心を持ちたいと強く願うことがあってもおかしくありません。信後の日々の生活の中で自己の悪性が知らされることがあっても、人によって知らされる程度がまちまちだと思います。より深く知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、という違いが生じるとすれば、それは心根の良い人間になりたいという思いの強弱の違いに求められるのだと思います。ですから、自己の悪性が知らされて懺悔されている方は、本当の意味で素晴らしい人格の人だと言えるでしょう。

1-12.大悲心と信と二種深信

 如来の大悲心は如来の至心であり、満足大悲円融無碍の信心であり、回向心です。疑蓋まじわることがなくなるのは、如来の三心の故にです。心中において、如来の大悲心に対する不信が有ることなし、という状態は、如来の大悲心が心中に来現し、心に刻み込まれ、大悲心があると認識されている状態です。この心中に認識される大悲心は如来の至心、信楽、欲生心が至り届いたものですから、認識されている大悲心が如来の至心であり、私を摂取することに揺るぎのない決定心であり、私を浄土へと召喚する大悲であるという思いになります。

 このように信は如来の大悲心から生じ、大悲心それ自体が信となるものであります。大悲の願と信とは一つのものです。願と信とが別々にあるのではなく、願そのものが信となるので、大悲心と信との間には隙間がありません。この願と信の間に自分の思いを差し挟んで願と信とを分離させようとしても、そのようなことはできません。

 救われたいと思えば思うほど、自分の思いや才覚その他、自分の持ち前のものを利用して助かりたいという思いを強くもたれると思います。それは当然のことであります。ところが、このような思いはすべて不信であり、又、その名号をもって助かろうとする思いはすべて自力の計らい、となってしまいます。また、自分は善ができないから救われないのではないかとか、悪人だから救われないのではないか、という思いも自力の計らいになります。このことは、如来の大悲心があることによって救われるという信とは対立する思いであることことから、おわかりになると思います。このような計らいがない状態とは、如来の大悲心が私の心中に届いている状態です。如来の大悲心を感じている状態です。大悲心が私の心中に届くと自力の計らいがなくなります。自力の計らいが無くなったということは大悲心があると認識し大悲心を感じているということです。

 大悲心を感じ認識しているということには二種の深信があるということです。

 大悲心を感じ認識しているということは、私をそのまま救うという大悲心が私の心の中に届き入り込み、私はこの大悲心によってそのまま浄土へと救われてゆくという思いになります。その大悲心に自分の生死を丸ごと委ねているということです。これが如来の本願に乗じて往生すると深く信じるという法の深信です。

 また、大悲心を感じ認識しているということは、大悲心の他に自分の修善などを付け加えて助かろうなどと思う自力の計らいはまったく無用だったのであり、自力の計らいでは如来の救いには遭えないことと自覚するようになったということです。この自覚が機の深信です。

 大悲心を認識し感じていることが二種深信となるのです。