2017-03-01から1ヶ月間の記事一覧

2-14.信一念について

人は、常にこの世界の視覚映像等を連続して認識しており、その映像等は一瞬たりとも途切れることはなく、常に連続して映像等が認識されると思っています。しかし、私達の大脳(視覚野と前頭前野)が認識するまでには複雑な処理が必要になります。目からの視覚…

2-13.私にとって南无阿弥陀仏とは一体なにか?

南无阿弥陀仏とは、私にとって一体、何でありましょうか。 祖師は、南无阿弥陀仏の南无の字義を解釈して如来の呼び声だと言われましたが、私にとって南无阿弥陀仏とは、如来の慈悲を感じることです。 如来の呼び声である以上、その呼び声を聞く、ということ…

2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、…

2-11.念仏と信と自我

如来の大悲心を受容し、大悲心を仰ぐようになる前は、信を得るために何がしかの役に立つのではないかと思って念仏を称えています。自分の利益のために何か役立てようとの思いを自我というならば、他力信の念仏にはその自我はまじりません。 阿弥陀仏の願心を…

2-10.大経思想の受容と事実

宗教は、自分が認識している世界と人をどのように理解するのかに関する理解の枠組みを提供し、人の精神世界に働きかけ、一定の方向を指し示し、その方向に進むことを教示します。 例えば、キリスト教では、この世界は神が作りたもうた世界であり、人は原罪を…

2-9.信を考える視点

信を考えるに、2つの視点があります。 1つは、如来の大悲心を受けるという視点 2つは、如来の大悲心を受けている状態ないし如来の大悲心を受けているという私の思いを私の意識の視点から観察するという視点 1つめの如来の大悲心を受けるという視点から信…

2-8.月指す指

週刊○○誌に「月指す指」という漫画が連載されていました。西本願寺の僧籍を取得するために仏教学院で受講する生徒達の物語ですが、真宗の教義が述べられる場面はほとんどありませんでしたが、それなりに面白いので毎週購読していました。 この「月指す指」と…

2-7.自力無功と死の受容

如来の本願が間違っていたら、どうなるのか。如来の願心を喜んでいる人は、この点にいて、どのように考えるのかを考えてみます。 如来の本願が間違っていたら、どうなるのか、そんなことを信後の人が考えることがあるのかと、訝しく思われるかも知れません。…