2016-01-01から1年間の記事一覧

1-11.「信は願心より生ず。」-実機を知らされたから自力の計らいが無くなるのか?

自己の罪悪の深さや実機を知らされ、自力では助からないと知らされたことによって自力の計らいがなくなる、という考えは正しいか、これがここでの問題です。 上記のように考える者は、自己の罪悪の深さや実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自…

1-10.自力の計らい(疑蓋、疑心)とは何か。

祖師は三一問答において 如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。 信楽すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。 欲生すなわちこれ回向心な…

1-9.往生の行因と乃至十念-大行論

祖師は行巻において、大行とは如来の御名を称する事であると指定しています。その一方で、称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられています。このため、大行とは称名行であるのか、御名であるのか、ということが真宗教学上、問題となりました。大行は私…

1-8.十八願の三信と出体釈

如来の大悲心は真実の至心であり、衆生を摂取するについて疑心のない決定心であり、また、衆生を浄土に往生させるとの決定の欲生心です。この大悲心は南无阿弥陀仏の徳号として成就されました。 ところで、衆生における至心、信楽、欲生の三信につき、祖師は…

1-7.如来の三心と衆生の三信(一心)

十八願の三信とは、衆生の生因としての至心、信楽、欲生のことですが、この三信を如来の三心から考えてみましょう。 祖師は 如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。 つぎに信楽とい…

1-6.同心

思案の頂上と申すべきは、弥陀如来の五劫思惟の本願にすぎたることはなし。この御思案に同心せば、仏に成るべし。同心とて別になし。機法一体の道理なりと云々。 御一代聞き書き末242 御思案に同心するとは、弥陀如来の五劫思惟の本願に同心するということで…

1-5.浄土対面してあい違わず

光明師のいわく、ただうらむらくは、衆生のうたがふまじくをうたがふことを。浄土対面してあい違わず。弥陀の攝と不攝とを論ずることなかれ。こころ専心にして回すると回さざるとにあり。 -善導-化身土巻 浄土対面してあい違わず、とは理解しづらい表現で…

1-4.往生決定を聞く信

ただ、心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、声について決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。かく心得つればやすきなり。往生は不定に思へば…

1-3.機法一体の南无阿弥陀仏

前回、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏であることを述べましたが、蓮如上人は機法一体の南无阿弥陀仏と言われました。 もともと、「機法一体の南无阿弥陀仏」という用語は、安心決定抄に登場する用語です。この安心決定抄において…

1-2.十八願中にある南无阿弥陀仏

「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」 十八願に上記の文があります。十八願の成就の文には、「聞其名号信心歓喜乃至一念即得往生住不退転」とあります。この十八願文と十八願成就文との対応関係を考えてみますと、十八願文の「至心信楽欲生我国…

1-1.阿弥陀如来の救いッぷり-十七願と十八願とその成就文

阿弥陀如来の救いッぷりは意外も意外、想像すらできなかった。これが如来の救いであるならば、こんなにたやすい救いはない。 如来の選択の願力(十七願と十八願)は、釈迦に大経を説法させ、その教えが七高僧から祖師へと伝わり、浄土真宗となって今私が聞いて…

私の言いたいこと

私の言いたいことはシンプルです。 回向された如来の願心を仰ぐ。口にはときどきお念仏。これだけです。 最初に如来に願心あり。浄土の完成を告げる御名が回向され信と念仏になる。信も念仏も、如来の願心によって私に生じ起こることが遠い昔から決まってい…