1-2.十八願中にある南无阿弥陀仏

「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」

 
 十八願に上記の文があります。十八願の成就の文には、「聞其名号信心歓喜乃至一念即得往生住不退転」とあります。この十八願文と十八願成就文との対応関係を考えてみますと、十八願文の「至心信楽欲生我国」に対応するのが信心歓喜、乃至十念に対応するのが乃至一念、は「若不生者不取正覚」に対応するのが「即得往生住不退転」と考えられます。これは、十八願から十八願成成就文を理解する立場です。これに対して、祖師は、無量寿如来会の文(「無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を起こして歓喜」)を根拠として十八願成就文の乃至一念を「信楽開発の時刻の一念」と理解され、また、即得往生住不退転を「現生不退」と理解されました。そして、十八願願成就文から十八願文を理解するという立場に立ち、その結果、十八願を信の成就を誓われた願であるとの理解に達し、十八願を真実の信願といわれました。十八願を真実の信願とする理解は、十八願成就文を信の成就と信益を述べた文であると理解して十八願を眺めたからです。因みに十七願を真実の行願と言われています。救いの行、救いの手だてとして御名の成就が誓われているからです。

 ところで、十八願と十七願の南无阿弥陀仏とは、どのような関係があるのでしょうか。

 南無阿弥陀仏という御名の成就は十七願に誓われています。十七願は、成就された御名を諸仏の讃嘆を通じて衆生に回向され、衆生に聞かせることを誓った願です。十八願は、衆生に回向された御名を聞いた衆生の信となったとき、その信の者を摂取不捨することを誓った願です。十八願の「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」は、十七願成就の南无阿弥陀仏を聞いて南無する衆生を摂取し救いとるという如来の救いの相=南無阿弥陀仏をあらわしたものであります。南无は「至心信楽欲生我国」の信を、阿弥陀仏は「若不生者不取正覚」を成就したものですから、南无阿弥陀仏と「至心信楽欲生我国・・・、若不生者不取正覚」は同じ意味になります。そのため、十八願は南无阿弥陀仏の成就を誓った願であると理解されます。蓮如上人は、十八願を「南無阿弥陀仏といふ本願」といわれました。

 

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生ををあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、ご心労ありて南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして、・・南無阿弥陀仏となりまします。

                          御文章五帖八通

 

 さて、祖師は、この御名について、「南无は帰命なり。・・・ここをもって帰命は本願召喚の勅命なり。」と解釈されました(信巻)。この解釈は、衆生の側に立って衆生如来に帰依するという視点ではなく、如来の視点に立って、如来衆生に呼びかけていると解釈をしたものです。南无阿弥陀仏如来の救いとしての仏行である以上、如来の視点に立って南无を解釈する必要があったと考えられます。このように御名は如来からの召喚でありますが、如来はどのように衆生に対して呼びかけているのか、といえば、祖師は「本願召喚の勅命」といわれていますので、十八願の呼びかけということになります。十八願の呼びかけとは、「御名を聞いて至心信楽せよ。」という呼びかけであり、「十念せん者を浄土に生まれさせん」という呼びかけにです。

 

この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御誓いの至心信楽なり。

                        尊号真像銘文本

 


 十七願には、諸仏に御名を称讃させることを誓い、衆生に御名を聞かせて救うという如来の願心が表れています。その願心は、衆生に御名を聞かせて救うという願心です。その願心が十八願においては「衆生をして至心信楽すべし」という願心となるのです。南无阿弥陀仏は「そのまま摂取する。信も用意した。衆生の側には苦労はさせぬ。そのままで浄土に連れ帰るぞ。」という呼び声です。この呼び声が如来の救いの法です。救いの法とは救いの手だてということです。この呼びかけを受け入れたとき私に信が生じることになります。南无阿弥陀仏を聞いて私が南无阿弥陀仏となるのです。私が阿弥陀仏に南无しているので私の心の相は南无阿弥陀仏となるのです。自力をもって信を求めても得られない理由はここにあります。信は摂取不捨の呼び声(=願心)に応じて生じるものであり、それ以外からは決して生じることのないものだからです。ですから、摂取不捨の呼び声を受け入れるしか方法はないのです。

 以上、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏であると述べました。

 今度は、乃至十念ですが、これは信となった南无阿弥陀仏がそのまま自然と口から出てくるものです。信は南无阿弥陀仏、行はその南无阿弥陀仏が口称となって出てくるものです。そうしますと、十八願は十七願とあわせ読めば、衆生の信行はともに南无阿弥陀仏であり、十八願と十七願はともにその南无阿弥陀仏が私に成就することを誓った願ということになります。

 御名を聞いて信楽し念仏する行者は、十八願のとおり南无阿弥陀仏の心相と行相になるのです。南无阿弥陀仏を聞いた私が南无阿弥陀仏となって南无阿弥陀仏を称える、ということです。

これにつき、覚如上人は次のように言われています。

 

 

本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願

                             執持抄四