1-3.機法一体の南无阿弥陀仏

 前回、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏であることを述べましたが、蓮如上人は機法一体の南无阿弥陀仏と言われました。

 もともと、「機法一体の南无阿弥陀仏」という用語は、安心決定抄に登場する用語です。この安心決定抄においては、法とは阿弥陀如来の正覚、機とは衆生の浄土往生を意味していました。如来が正覚を成就するに際しては、衆生の往生をかけものにして、衆生の浄土往生が成就しなければ正覚を成就しないと誓って南无阿弥陀仏を成就した、ということであり、南无阿弥陀仏を成就したということは如来の正覚の成就と同時に衆生の浄土往生が決定したということになります。ですから、阿弥陀如来の正覚を意味する法と、衆生の浄土往生を意味する機はともに一体のものとして同時に成就したことを機法一体というのでした。しかし、衆生がこのことわりを知ることが不同であるから、浄土往生に已(過去)、今(現在)、当(未来)がある、と述べられてます(意訳)。

 ここで、衆生の浄土往生が決定したことを知るか否かが重要になってきます。

 知るとは信じる、信知するということです。如来の正覚の成就と同時に衆生の浄土往生が決定したと信じる者は、名号を聞かば、あは、はや我が往生は成就しにけり。極楽といふ名を聞かば、あは、はや我が往生は成就しにけり、という思いになるとありますので、ここでの知るとは信知のことです。安心決定抄の機法一体論では信が生じる由来は、「南无阿弥陀仏が成就したということは如来の正覚の成就と同時に衆生の浄土往生が決定した」ということを聞くということによるのですから、その信は真宗でいう他力の信であると理解することができますし、安心決定抄には「他力を信ぜざるわれらに信心をおこさしめんと、かはりて難行苦行して縁をむすび功をかさねたまひしなり」と記述されていますので、他力の信であることが分かります。

 蓮如上人は、その信は南无阿弥陀仏と一体になって成就されているのだとして、機法一体の南无阿弥陀仏と言われたのでした。この蓮如上人の機法一体の機とは、衆生の往生成就ではなく信のことであり、法とは、如来の正覚成就のことではなく、救いの法である南无阿弥陀仏とされたのです。この蓮如上人の解釈によって信は南无阿弥陀仏にもともと救いの法とともに備わっているものだと明確にされたのでした。この蓮如上人の思想を支えたのが、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏であるという理解であったと思われます(御文章五帖目八通「阿弥陀如来御心労ありて南無阿弥陀仏という本願をたてましまして」とあるのは、「至心信楽欲生我国・・・若不生者不取正覚」が南无阿弥陀仏として成就したと理解されていたからでしょう)。
 蓮如上人の機法一体は、上記のようなものですから、安心決定抄の機法一体を否定するものではなく、それを当然の前提としてその思想をさらに展開したものと理解すべきものです。阿弥陀如来の正覚成就と衆生の浄土往生の成就とは同時であることを聞いて自分の浄土往生を信じる信も南无阿弥陀仏に成就されているというのが蓮如上人の機法一体です。

 この機法一体の南無阿弥陀仏という解釈は、何を眼目として(何を言いたいが為に)このような解釈をされたのでしょうか。それは、信も私が用意するものではなく、如来の方で用意されているということを言わんが為です。私の方には何の苦労もいらず、何の用意もいらず、この身このままで浄土往生ができるということをあらわさんがためです。このことは安心決定抄の機法一体においても同じです。「私の方には何の苦労もいらず、何の用意もいらず、この身このままで浄土往生ができる。」と聞けば、それが信なのですから、信を求めるのではなく、「私の方には何の苦労もいらず、何の用意もいらず、この身このままで浄土往生ができる。」と聞けばよいのです。