1-10.自力の計らい(疑蓋、疑心)とは何か。

 祖師は三一問答において

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
信楽すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われ、また、「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とも言われています。化身土巻においては「本願の嘉号を己の善根とするが故に信を生じること能わず」と言われています。このように、如来の利他の真心、如来の満足大悲円融無碍の信心、如来の大悲心に対して「疑蓋まじわることなし」というのが信であり、信に対する不信を疑蓋と言われています。自力の計らいとはこの「疑蓋」や「疑心」のことです。信とは不信のない状態、不信は信ではない状態のことです。不信を理解できれば信とはどのようなものかを理解できる、信が理解できれば不信が理解できるように思うかも知れませんが、自分の心の中にある思いのうち、どれが不信なのかと内観したとき、これは不信であると気づくことはなかなか難しいことです。ここが信不信のやっかいなところです。

 信とは、言い換えれば、十七願十八願における如来の救いッぷりについて疑念を入れないことです。如来の救いッぷりについては、既に述べましたが、如来の救いッぷりは如来の至心、満足大悲円融無碍の信心海、大悲心を具現した御名を衆生に聞かせて信受させて救うという救い方です。如来が一方的にご用意された救いですから、衆生においてこの救いにあずかるのに必要とするものは何もありません。如来は大悲心をもってそのまま救うと呼びかけられ、その証として御名を回向され、御名の成就をもって衆生には何も用意するものはないと呼びかけられているので、これを聞いた衆生に、如来の大悲心に疑蓋まじわることなしという信が生じるのです。十八願の至心信楽欲生という信と乃至十念とは、回向された御名を衆生が受け取ったときにあらわれる衆生の心相と行相を示したものですから、この二つは衆生が自前で用意しなければならない救いの条件ではありません。この二つが救いの条件ではないということになれば、衆生が用意する条件はなく、無条件の救いということになってきます。信が生じる条件はただ御名を聞くことだけです。

 浄土往生が決定したとの御名の名告りを聞いて信が生じないのを不信といいます。不信とは御名の成就をもって自分が救われるとは思えない心理を言います。祖師は「本願の嘉号を己の善根とするが故に信を生じること能わず」と言われていますが、「本願の嘉号を自分の善根」とするということは、御名を称するという自分の行やその思いをもって救われようとすることですから、回向されている御名の成就では救われないという思いがあるということです。この思いが不信なのです。自分の行やその思いをもって救われようとする場合、行じる行の物柄となるのは称名行だけにとどまりません。称名以外の善根を行って救われようとする思いは、行じる行が五正行であろうと諸善万行であろうとすべて御名に対する不信となるのです。あるいは行の如何を問わず、自分の思いや才覚その他、自分の持ち前のものを利用して助かりたいという思いはすべて不信となるのです。

 この不信は、あくまでも十八願による救いを求める者に生じるものです。十八願の無条件の救いに合致しない思いが不信であり、二十願の果遂を求める者や十九願の臨終来迎を求める者には、この不信は生じません。これらの二十願、十九願にある行をもって救いにあずかろうとする者は、自力の思いでそれらの願で指定されている行を行うものであるから、行と思いとがそれらの願と齟齬することはありません。ただその思いと行とを成就することができるかどうかという問題が残るだけです。ところが十八願においては衆生においてなすべき行や役立つ思いはなく、如来による一方的で無条件の救いですから、その救いのあり方に自力の思いや行を差し挟んで救われようとすることは、十八願の願心にそもそも合致せず、願心と齟齬していることになります。そのため、十八願の救いに自力の思いや行を差し挟んで救われようすることは十八願の救いに対する不信となるのです。たとえ、十九願や二十願にある所定の行や所定の行じる思いを十八願の救いに持ち込むことをしないと自らの意志によって決めたとしても、自らの意志を如来の救いに介入・介在させようとするものであることは同じですから、その態度はやはり不信となります。このような不信が廃るのは、御名、すなわち如来の至心信楽欲生の大悲心をもってそのまま救うと呼びかけられている如来の大悲心を聞くことによってであり、如来の慈悲心を聞くことによってのみ疑蓋まじわることなしという信が生じるのであります。
 十八願による救いを求める者に対して、十九願の修善の行を奨めることは十八願の願心に背理することになることが、これで分かると思います。十九願の臨終来迎を求める者に対して十九願の行信を奨めるのは結構なことですが、報土往生を願う者に対しては、ただ、十七願十八願をお勧めするだけです。十九願の行や二十願の自力の専称行を十八願の救いに持ち込んで救われようとするのですが、これは十七願十八願の願心に背いている思いですから、これを自力の計らいといい、如来に嫌われてしまうのです。