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2-12.法蔵の本覚と始覚-お経には書いていないこと-

 阿弥陀という仏様は、どのような苦労をして南无阿弥陀仏となられるのでしょうか、勝手に想像してみます。

 そもそも、仏様が衆生を救うには、どうすればよいのでしょうか。仏様のまま、衆生の外から衆生を救うのでしょうか。それとも、自らが衆生になり切り、衆生となった自らを救えなければ衆生は救えない、衆生を救うことは自らを救うことだという覚悟をもって衆生を救おうとされるのでしょうか。

 仏様は、衆生は我なり、我は衆生なり、という智慧をお持ちになっているので、仏様は自ら凡夫となって凡夫を救うという後者の方法を選びました。衆生となった自らを成仏させることが衆生を成仏させることだ、衆生を成仏させることが自分が成仏することだと考えられたのでした。しかし、そのための苦労は並大抵ではありませんでした。仏様は一々の衆生となり、一々の衆生の生き死にを共に味わい、一々の衆生のすべての苦悩を自らの苦悩として味わいつつ一々の衆生と一緒に輪廻を繰り返されました。その輪廻は衆生一切が仏となるまで無限に続けられてゆきます。私とともに輪廻されているのが法蔵となった仏様でした。法蔵は一々の凡夫として常に成仏のために修行をしました。自らの成仏が衆生の成仏である、衆生の成仏が自らの成仏だと信じ、自らが成仏することと衆生が成仏することとを疑うことなく信じて修行を行ったのです。法蔵は成仏するための行を円満にして見事に成仏されました。その成仏によって未来の世界における衆生の成仏が決定しました。そして、成仏した法蔵は南无阿弥陀仏という仏様となって、私の外から救いを働きかけるようになりました。しかし、私を成仏させるまでは自ら成仏しないというのが法蔵の大悲心でした。南无阿弥陀仏という仏様になっても、私が私の往生成仏を信じない間は、法蔵は私から去ることができず、南无阿弥陀仏という仏様が私の成仏を決定されたという信が私に生じるまで私とともに苦悩し続けて輪廻してゆきました。
 ついに法蔵の願いがかなうときが来ました。法蔵は私のために阿弥陀仏の本願力を聞き受け、私の内なる他力の信となったのです。私の抱える迷いの世界に出てこられた法蔵は私の他力の信となることによって、再び、仏様に戻ることがきまったのでした。私の信となった法蔵は私の肉体が滅ぶとき、仏様の世界に戻ってゆかれます。その仏様の世界で法蔵は阿弥陀という仏様になることで、私を阿弥陀という仏様にして下されるのです。
 法蔵は大乗菩薩道の実践において私を仏様にするまでは仏に戻らないというお誓いをもちつつも阿弥陀という仏様になりました。この法蔵菩薩のありかたを本覚と始覚という視点から考えました。本覚と始覚という天台思想を法蔵菩薩の大乗菩薩道からとらえ直すと、味わい深く頂くことができます。

 最後に、栃平ふじ、さんという妙好人の歌をひとつ。

ほーぞーとわ
どこにしぎやう(修行)の
ばしょがあるか
みんな私の
むねのうち
なむあみだぶつ
あみだぶつ