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2-16.常来迎

 祖師は、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは諸行往生のひとにいうべし。いまだ真実の信心を得ざるがゆえに。」と言われました。念仏往生の行者は臨終来迎を待たないと否定されました。これは、臨終来迎を誓った十九願は、十七願十八願の救いとは異なる諸行往生を願う行者のための願だと理解されたからです。

 では、祖師は、仏様の来迎という思想自体を否定されたのでしょうか。それとも、来迎という思想をお持ちになっていたのでしょうか。

 唯信抄文意に「彼仏因中立弘誓、聞名念我総来迎」を釈して、

 聞はきくという、信心をあらわすみのりなり、名は御名ともうすなり。如来の誓いの名号なり。

 念我と申すは、誓いの御名を臆念せよとなり。

 総来迎というは、

   総は、ふさねて、すべてみなというこころなり。

   迎は、むかえるという、まつという、他力をあらわすこころなり。

   来は、かえるという。きたらしめるという。
    法性のみやこへむかえ率てきたらしめかえらしむるという。
    法性のみやこより、衆生利益のためにこの娑婆世界にきたるゆえに、

    来をきたるというなり。
    法性のさとりをひらくゆえに「来」をかえるというなり。

 

 


といわれています。御名を聞いて往生を信じた人には如来が娑婆世界に迎えに来られて、法性のみやこに引率されてゆくということですから、如来は臨終を待たず平生に来迎されていると祖師が味わっておられることが分かります。如来は浄土で待つのであるが、待つというということもできないので、娑婆世界まで出迎えて下され、法性のみやこに引率されてゆくということであります。これが「来」であり、「むかえ率てきたらしめかえらしむる」ということであります。居ても立ってもおられずに、常に衆生に随伴しているということです。如来の大悲心は、このようなものであります。如来の大悲心を受けていることを感じておられたことから味わえる思いです。大悲心が私に届けられていることが来迎なのであります。

 一遍上人も「称名の位が即ちまことの来迎なり。称名即ち来迎と知りぬれば決定来迎あるべきなり。」と言われているようです。

 如来の大悲心を認識するとき、その認識状態から上記のような含蓄の富む思想表現や解釈がつぎつぎに創造されていったことを思わせられます。如来の大悲心を認識するということにすべての味わいのもとがあるのです。