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2-20.己証相通じる

 お救いの法を聴聞しつつ如来の慈悲心を味わうのも格別ですが、それは私の心の中に留まるものであり、私限りのものですが、信心の沙汰はそれを分かち合えるという点で法話とは別のありがたみがあります。

 如来の願心を聞き受けたとき、これが信と呼ばれものであるとは直ちに分からないことが多いと思います。信を得た人の中には最初から信を得たと直ちに理解する方もいらっしゃるかも知れませんが、むしろ、自分の身に何が起こったのか理解できないと感じられる方が多いのではないでしょうか。なにしろ、はじめての事ですから、これが信なのかどうか、悩まれることになります。信と言われていたものが私の身の上に起こったのかどうかは、よくよく聞いてみなければ分かりません。そのために、信心を取りたるか取らざるかを幾たびも沙汰する必要があります。愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。これが蓮如上人の言われている信心の沙汰だと思います。

 そのような信心の沙汰とは別に、如来の願心を喜ぶ人がそれぞれの味わいを言葉で表現することによって共感し合いたいという思いになることがあります。そのような思いでうち解けるのが本当の信心の沙汰であると私は思っています。私が如来の願心をどのように受けとめて味わっているのかを言葉で伝え、それに共感して貰える人がいるということを確認できることは嬉しいことです。またその人も願心を味わっていると理解することで通じ合える世界があることを再確認することは、また楽しいことであります。このように信心の沙汰は信後の喜びを味わえるまたとない機会になりますから、私は信心の沙汰をするのが楽しみなのであります。飾った言葉ではなく、愚は愚のまま心中を語るのが、ありがたいものです。信心の沙汰は、己証相通じる友を探すようなものです。