3-6.南无阿弥陀仏

A君 十八願文の中に南无阿弥陀仏を見つけられる?

Cさん 蓮如上人は十八願を南无阿弥陀仏といふ願*と呼ばれていたけど、それと関係があるの? *5帖8通(浄土真宗聖典1195頁)

A君 おおありだよ。ちょっと考えてみて。

Cさん ええっと、十八願は「至心信楽欲生我国、乃至十念、若不生者不取正覚」
よね。「至心信楽欲生我国」は真実信心、「乃至十念」は数を問わない念仏の行よね。

A君 「至心信楽欲生我国」は真実信心、それを蓮如上人の言葉でいうと・・・。

Cさん 蓮如上人の言葉で言うと、タノム。

A君 タノムを別の言葉で言うと・・。

Cさん あっ。そっか。帰命とか南无だわね。

A君 「若不生者不取正覚」が成就されると・・・。

Cさん 摂取不捨ね。ってことは、阿弥陀仏だわね。摂取して捨てざれば阿弥陀と名づく、と観経にあったわよね。

A君 となると・・・。

Cさん 「至心信楽欲生我国、若不生者不取正覚」が成就すれば、タノム者を摂取して捨てたまわず、だから、南无阿弥陀仏というわけね。

A君 そうなんだ。しかも、「乃至十念」も南无阿弥陀仏だろ。

Cさん 十八願文は、信ある者が摂取されるのだから南无阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏だわね。

A君 そうなんだ。だから十八願は南无阿弥陀仏の成就を誓った願なんだ。

Cさん じゃ、十七願はどうなるの。十七願も御名の成就と回向を誓った願なんでしょ?

A君 そうだけど、十八願は私が南无阿弥陀仏になることを誓った願なんだと理解できるよね。

Cさん 十七願で誓われた御名の成就と諸仏の讃嘆による回向が私の上に働いて、私が南无阿弥陀仏になったって訳ね。

A君 そうなんだ。蓮如上人は、信を得るとは、本願を心得るなり、本願を心得るとは南无阿弥陀仏を心得るなり、と言われているけど、この意味は、もう分かったよね。

Cさん ええ。十八願が私の上に成就すると、私が南无阿弥陀仏になるのよね。私が南无阿弥陀仏になるということは、タノム者を助けるという南无阿弥陀仏のおいわれのとおりに私が摂取不捨の阿弥陀仏に南无しているということね。私が浄土往生してゆく私の姿が南无阿弥陀仏なのね。

A君 そうなんだ。私が摂取されている心相が南无阿弥陀仏、その心相が行となったのが南无阿弥陀仏称名念仏。ここで気づくことはないかい?

Cさん 何かしら。分からないわ。

A君 Cさんは、法然聖人の至心釈を知らないかい?

Cさん よくは知らないけど、善導大師の有名な御文に関してね。

A君 そう。法然聖人は、至心とは内外相応をいうと理解しているよね。私の心相も南无阿弥陀仏、行相も南无阿弥陀仏だよ。これは内外相応だよね。

Cさん あっ。そうか。信を得て念仏を称えている姿が凡夫の至心なのね。よく分かったわ。

A君 信を得て念仏を称えている姿のほかに凡夫の至心はないんだよ。どんなに聖道の道を究めてもね。だから、法然聖人は、本願のまことを深信し念仏を称えることを、総の至誠心とは区別された別の至誠心と言われているよね。祖師も、念仏のみぞ真実にておわしますと言われたよね。もちろん、この念仏とは真如一実と一体となった御名を称えることを指しているけど、称えられる御名が真如一実にかなったものだという、より根源的な理解があるのだと思うけどね。

Cさん 総と別ってなんなの?

A君 法然聖人は、総別の至誠心があるとして、別の至誠心について、「別というは他力に乗じて往生を願う至誠心なり。」と言われているよ。別の至誠心とは、他力の至誠心であり、深心と回向発願心のことだとされている(梯和上「法然教学の研究」280頁あたり)。

Cさん なるほどね。あなたも、ときどき、いいことをいうじゃない。

A君 まぁ~、受け売りさ。ところで、蓮如上人は、タノム者を助けるという言い方をよくされているが、どうして、助ける法を先に言わないのだろうか。いつも、僕はここに引っかかっているのだ。

B君 タノム者を助けるという南无阿弥陀仏のおいわれのとおりの先後で説法されているんじゃないかな。

Cさん そうだと思うけど、タノムの前には、タノマせる救いの法が先にあるのだから、無条件で助けるとか、往生は決定しているという救いの法を先に述べてくれた方がスッキリする気がするわ。  

A君 ん~。ここは、それぞれの好きずきにまかせましょうか。