3-16.祖師が他力の信を無疑という事実に還元された理由は何か。 他力の信は無疑の事実状態に限定されるのか。

A君 前回他力の信に有って自力の信に無いもの、自力の信に有って他力の信に無いものという議論をしたけど、そもそも他力の信というのは事実状態だけで構成されるものなのか、或いはその状態に加えてある種の思いを含んだものなのか、どちらと考えるのが適当なんだろうか。

B君 うん? 今度は別の切り口から信を理解しようとしているのかい。

A君 そうだよ。今回は前回の続編だ。仏願の生起本末を聞いて「疑心あることなし」というのは心理状態ではあるが、内心の事実といっても良いよね。

B君 そうだね。これまで内心にあった自力の計らいと言われるある種の思いがある時を境にして完全に無くなってしまったのは心理的な事実だといっていいよ。

A君 だから信は事実状態だと言えるよね。前回君も言ったことだけど、大悲に対して無疑になれば、そこにあるのは感受している仏様の大悲ということになるよね。

 

Cさん 「無疑」と「大悲を感受している思い」とは同じだと前回聞いたけど、同じだという理由を分かり易く説明してくれない?

A君 うん。じゃ喩えを出して説明してみるね。適切な喩えになるかどうか分からないけど、目の前にあんこが詰まったまんじゅうが1個あるとしようか。あんこは仏様の大悲のことで、あんこの周りにある薄い皮は疑心のことを喩えているとしよう。薄皮の一部を指で取り去ってみると、その穴からあんこが見える。つまり大悲が顔を出す。大悲が顔を出したということはその部分の皮が無くなっているということだよね。皮が無くなったということは大悲が顔を出しているということだよね。つまり言い方は違っているけど、その言い方はともに同じ事象を表現しているのだと分かるよね。皮が無くなってあんこが見える状態になったことについて、1つは皮の有無という視点から眺めて皮が無くなったという言い方、もう1つはあんこの露出の有無という視点から眺めてあんこが見えるという言い方。その言い方に違いがあるにすぎず、同じ事象を指していることが分かるよね。この喩えでは、あんこが顔を出しているのが「大悲を感受する」ということ。皮が無くなり大悲が顔を出したら、そのあんこを味わうことになる。その味わいが思いだよ。大悲が顔を出したら大悲を味わえるんだ。あんこの場合には食べないことには味わえないけど、大悲の場合は、食べるなどという自前の行為を介在しなくても大悲を味わえるんだ。だから、大悲が顔を出すと直ちに大悲を味わえる。大悲に対して無疑になれば必ず大悲の味がある。それが「大悲を感受している思い」ということになんだ。

B君 うん。同意。

 

Cさん 今度はよく分かったわ。でも「無疑」と「大悲を感受している思い」とが同じ事象を指しているのなら、信は「大悲を感受している思い」としてもいいんじゃないの?

A君 そのとおり。それが前回のテーマだったよね。でも、そのように言うときは「大悲を感受している思い」とはどういうことなのかをもっと説明する必要があるよね。その説明が大悲があることとと大悲に対して無疑の状態になっているという説明になるんだ。その思いは事実状態にまで還元して説明する必要があるんだよ。この「大悲と大悲を感受している思い」と「大悲に対して無疑となっている状態」という2つの言い方を併用することで信をより丁寧に説明することになるんだと思うよ。

 

A君 さて、前回君が「どうすれば信を積極的に言語化できるんだ。」と言ったように、大悲を感受している際の思い(味)は実にさまざまだよね。感情豊かな思いのものから禅的な理解を思わせる思いのものに至るまで実にさまざまな表現がなされているよね。前者の思いには大悲を感受して大悲を悦ぶ思い、浄土往生できるとの思いからの喜びや満足。仏に命の逝く末をゆだねていることの安堵、心の落ち着き、心の軽安などがあるよね。また、後者にはこの世に仏が満ちているという精神世界に新たな局面が開かれたように思わせる心境のものから、ただ南無阿弥陀仏ばかりという禅的境地を思わせるものもあるよね。妙好人の言動を読むにつけ、実にさまざまな思いがあるということが分かるよ。このことを考えると信を積極的に記述して定義することはとても困難であり、不可能なことだと分かる。だから、どのような思いが生じたかによって自力心と他力の信とを区別することはできない。思いを表現した表現は多様だからね。

B君 うん納得。というか、もともと僕はそう考えていたんだ。

A君 これに対し「聞いて疑心あること無し」というのは、ただ一つの事実があるだけだ。疑心と呼ばれる思いがあったのにある時を境にしてそれが完全に無くなってしまったという事実がそれだ。そのほかに紛らわしい複数の事実はない。思いを表した表現には多様性があるけど、この疑心無しというのはたった一つの事実だけだ。誤解を招くことはない。だからさっきの思いを表現するだけではなく、その思いを事実状態にまで還元して説明しなければならないんだ。

 

A君 さて、ここから今回のテーマに入ってゆくよ。そうすると信は「疑心がない」という事実状態に限るのであって思いを含むとは考えてはいけないものなのか、という問題が出てくるよね。これを今回のテーマとしたいんだ。

B君 君は信の本質は仏様の大悲であり、大悲を感受している思いをもって積極的に信の内容にしたいという考え方に立っていたんだったよね。

A君 うん。そうだよ。ここで注意を払わなければならないのは、次の点だよ。無疑つまり本願の三心でいえば信楽の有無によって自力心と他力が区別されるということが真宗学の基本中の基本だが、ある思いをその信に含ませるとなると、その考え方はその基本に反することにならないのかという点だ。だからその点についてどう答えるかということが問題となってくる。また祖師の関連する御自釈の文に対してうまく説明ができなければ、思いを信に含ませるという考えは成立しなくなる。

 

B君 うん。そうなるよね。で、どう考えているのかな。

A君 まず、真宗の基本に反することにはならないと考えている。本願の三心のうちの欲生は決定要期と言われており、往生が決定し、決定した往生を安堵の気持ちをもって期している思いなどと説明されるよね。この欲生は思いではあるが、思いであるが故に欲生は信ではないと否定されることにはならないよね。ただ、その安堵などの思いの有無で自力と他力の判別はできないとされているだけだ。この欲生も突き詰めれば大悲への無疑によって生じている思いであるから、欲生は信楽の義別だとされているんだよね。

B君 なるほど。欲生という思いも信の内容を構成するが、他力信と自力心との決判はあくまでも欲生の思いではなく、その欲生の思いが生じる前提となっている無疑になっているか否かによって決まってくるということなんだね。

A君 そう。大悲に対する疑の有無をもって決めるということと欲生という思いも信の内容になっていると考えることとは別のことなんだ。そのように理解しないと信が内容の乏しいものになってしまうんだ。さっきの喩えでいうと顔を出したあんこの味の方はどうなっているのだ、ということになってしまうだろう。

Cさん A君のいうことは結局こういうことになのかな。つまり信の有無は大悲への有疑か無疑かで区別されるものだけど、信は無疑という事実状態にとどまるものではなく、無疑の事実状態から生じているある一定の範囲の思いも信の内容になり得るということなるのね。

A君 そう。無疑以外のある一定の範囲の思いを信の内容として含ませて理解したとしても、その思いの有無で信の有無を判断することはできない。その理由は思いというのは多様で主観そのものだ。だけど、「疑心がなくなった」というのは主観的ではあっても内心の事実であるから、信の有無はこの事実の有無によって判断することにする。このように信の判断基準を定立するときの考え方と信の内容としてある一定の範囲の思いを含ませて理解するという考え方とは視点ないしはスタンスが違うんだ。後者の考え方は、信の判断基準を定立するときの考え方とは異なり、信を豊かなものとしてあるがままに理解したいという欲求の上に成立しているスタンスだ。それぞれ異なる視点からの考え方だ。信を内容のあるものと理解しつつ、信仮は信楽によって判定すると考えることは論理的に可能であるから真宗の基本に反することにはならないと思うのだよ。

 

Cさん A君の言うことを整理すると、まず信というものを大悲を感じるありのままに理解したいという欲求が先にあり、そのあとに出てきたのが、信の有無についての判断基準を定立する際にはどのように考えたらよいのかを考えればよいという思考手順なのね。

A君 その通りだよ。

B君 では君が言う「大悲を感受している思い」というのは信楽ではなく、欲生のことなのかな。

A君 う~ん。そうではないんだけど、今しばらくは君の考え方にしたがってこれまでのことを整理すると、次の①~⑥のうちの④のようになるかな。

①.まず大悲を感じているありのままに信を理解するというスタンスに立つこと。

②.「仏願の生起本末を聞いて疑心あること無し」という全体が大悲と大悲への無疑をあらわしたものであるということ。

③.「疑心がなくなった」という事実状態と大悲を感じている思いとは一体となった状態であること。

④.③の事実状態と一体になった思いが、欲生であると一応は言えること。

⑤.祖師が信を無疑(の事実状態)に還元して述べている理由を考えること。

⑥.信はどのような内容をもつと考えるのが適当であるのかということ他力信の判定基準を定立することとは別のことであるということ。

Cさん そうすると欲生の範疇に入る思いとは具体的にどういうものかが問題になってくるわね。

A君 そうだね。でもね翻って考えると、上記③の事実状態と一体になった思いが欲生であって、信楽は無疑に限られると考えることについてはかなりの心理的な抵抗を感じるのだ。つまりね信楽を無疑に限定してしまう考え方に立つと、無疑の信楽になったことによって生じる思い、ないしは信楽に伴って生じる思いはすべて信楽とは別のものだと説明せざるを得なくなってしまうよね。それで本当にいいのだろうか。信楽をそんなに狭く限定してしまわなくてもいいという考え方もあり得ると思うんだね。先の喩えで言うと、皮のない状態になってあんこが顔を出したという状態が信楽だということになるけど、それだけだとあんこを見ているだけで味がないのと同じだよ。大悲が心の中に射し込むと必ず大悲の味がする。その味を信楽から切り取ってしまってよいのかなぁと思うんだ。むしろ、信楽というのは無疑の状態になったことに加えてそこから必ず生じる大悲への思いを伴ったものであり、その思いも含めて信楽というのだと理解したいんだよ。

 

B君 それでは信楽と欲生とはまったく同じ内容になってしまうように思うが、それでいいのかなぁ。

A君 それで良いんだ。豊かな内容を伴って存在している一つしかない信について、無疑の字義をも併せ持つ信楽は無疑に重点を置いて信を説明したときの言い方であり、欲生は得生などの思いに重点を置いて信を説明したときの言い方に過ぎないと理解するのが適当なように思えるんだね。至心も同じさ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心はもともと一心だということなのね。でも、どうして至心、信楽、欲生と三つに分けられているの?

A君 至心、信楽、欲生というのはもともと同じ一心(他力の信)を指し示す言葉だけど一心にはいくつかの特徴があり、そのうちどの特徴に重点を置いて一心を指し示すかによってその呼称が異なっているに過ぎないと考えれば良いんだ。衆生の至心は如来の至心を私の手垢を付けずそのまま受けとった心のこと、その心は仏様の心をそのまま受けとったものなので純粋性という特徴を持つ。純粋性というのは大悲と純粋に向かい合っている心の態度のこと。衆生の至心はその純粋性の極致に至ったものだから至心という言い方になる。大悲への疑いが晴れたという特徴でとらえると信は信楽という言い方になる。浄土往生させるとの大悲に対して無疑になると浄土往生できるとの思いになるところに重点を置いてとらえると欲生という言い方になる。だけど至心、信楽、欲生というのはもともとは同じ一心であり、その一心にある特徴に応じて名づけた別々の言い方が至心、信楽、欲生なんだと理解したいんだ。整理すると次の⑦のようになるよ。

⑦.欲生と信楽とは同じ内容の信。至心もおなじ。一心の持つ特徴に応じて一心の呼び方が異なったものになった。至心は大悲に対する純粋性の極致を表した言い方。信楽は無疑という事実に信を還元したときの言い方。欲生は信を思いとして言い表したときの言い方。

 

B君 じゃあさ、祖師は三重出体を述べていることはどう理解するんだい。

A君 ん?

B君 名号から至心を出し、至心から信楽を出し、信楽から欲生を出すという祖師の解釈のことだよ。同じ心だったらそんな解釈はできないよ。「皆同じ。ハイ終わり。」ということになってしまうじゃないか。

A君 うん。それはね、やっぱり一心のもつ特徴の順に従って解釈されたんだと思うよ。つまり名号として整えられ、名号に込められた仏様の至心をそのまま受けとった私の側の純粋性を至心というならば、その純粋性のゆえに大悲に対して無疑になった。だから至心が信楽の体となる。信楽が欲生の体となるというのは往生させるとの仏様の大悲に対して無疑となったことから往生できるとの思いが出てくる。純粋性という特徴に着目すると無疑という特徴がそこから引き出され、無疑という特徴から欲生という特徴が引き出された。そういうことだと思うんだよね。だけど、そのいずれもが一心の特徴なんだ。中身はまったく同じもの。至心、信楽、欲生と3つの心があると考えず「至心信楽欲生」という6字全体が1つの心に名づけられた1つの名称だと考えても良いくらいだ。

 

C子さん 祖師は無疑をもって一心とされているのではなかったのかしら。

A君 三心釈の所では、如来の至心の故に疑蓋無雑、如来信楽の故に疑蓋無雑、如来の欲生の故に疑蓋無雑。故に一心という理屈だったよね。

C子さん 一心が疑蓋無雑であれば、三心ともに疑蓋無雑の一心ということになるではないかしら。

A君 そのとおりだよ。でも、その論理は、至心、信楽、欲生の三心が実にはもともと一心であるという論証のために言われたことだよね。信楽の字義には至心や欲生とは重点の置き所が異なった特徴や意味があって、至心や欲生も無疑の信楽であることを示すための論理が三心釈なんだ。決して欲生という思いを信から除外するための論理ではないと思うよ。

 

Cさん 至心、信楽、欲生の三心が皆同じ一心であるなら、至心を中心にして信楽も欲生も至心と同じということもできるわよね。また欲生を中心にして至心も信楽も欲生と同じということもできはずよね。

B君 それはもっともだね。

A君 当然にそういうことになるさ。でもね、祖師はそのようには述べていないだ。なぜだろうね。なぜ無疑を字義に持つ信楽をもって三心が一心であることを論証されたのだろうか。至心は大悲を聞き受ける際の純粋な心の態度をいうのだからそれは必ず無疑と同じ意味になってくるよね。だから祖師は十八願名を至心信楽の願というように至心と信楽を合わせて願名とされているよ。でも至心ではなく信楽である無疑を根拠に一心と言われたのは、純粋な心の態度といってもそれはどのような内心の事実をいうのかがまだ明確にはなっていないよね。だから、至心も信楽も欲生も無疑という事実にまで還元することで無疑という字義をもつ信楽を中心にして一心となることを論証されたのだと思う。欲生をもって論証されなかった理由も同様だよ。まとめると次の⑧になるよ。

⑧.至心でも欲生でもなく、信楽を三心の中心に据えて信を理解されたのは、信を事実状態のレベルで理解したこと。至心や欲生では三心が一心であることを説明することができず、至心も信楽も欲生もすべて大悲に対する無疑であると理解することではじめて三心は一心であるという論理展開ができた。それ以外の方法はなかった。だから、無疑という一心のもつ特徴をその字義をもっともよく表している信楽をもって一心を明確に解明された。

 

Cさん じゃあ「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。本願回向の信なり。」という御文はどう理解すればよいのかしら。

A君 この御文は第1に大経にいう「聞」を説明したものだよね。無疑をもって大悲を聞くのが大経の聞というあり方だと示されたものだ。仏様の大悲を聞くのに疑心をもって聞くのではないと示されたものだよ。この疑心のない聞き方を如実の聞というならば、第2として祖師は如実の聞というのは本願回向の信であると示された。それは大悲を聞くという場はすでに十七願の成就によってお膳立てされていて、私はお膳立てされている場で一方的に如来の大悲を聞くだけでよいように仕上げられている。このことを本願回向と言われたんだね。そしてこの如実の聞を信と言われたのは聞が本願回向の聞であり、聞くままが信であるということを示すために、信を特徴付ける無疑をもって聞を示すのと同時に如実の聞を本願回向の信と言われたんだと思うよ。聞と信とは無疑という点で一致していることを示すための論理だね。だから、この御文も欲生の思いを信から排斥する趣旨の御文ではないと思うよ。

 

Cさん そうすると、祖師のいずれの御自釈の御文も信は無疑のことであると定義したものではないと理解することになるのかしら。

A君 そういうことだね。信を厳密に定義した御文とは言えないと思う。無疑をもって信を定義したと理解すると、無疑以外の思いは信ではないということになりかねないからね。そうなってしまうと欲生は信である無疑の部分とそれ以外の部分に分けて考えることになってしまうという問題が生じることになるからね。

 

B君 信から思いを排除する論理ではないということは分かったけど、信に思いを含めることの積極的な根拠を祖師の書物に求めるとどうなるのかな。

A君 根拠かい?

Cさん B君は根拠、根拠とうるさいのね。

B君 いや、そういうわけじゃないけど、書物を読むときには今議論したことに注意して読んでみたいと思ったからさ。

A君 うん。書物を読むとき、どの点に注意を払って読むかによって読み方が大きく変わってくることがあるから、それは大事なことだと思うよ。さて根拠だけど、祖師は本願の三心についてそれぞれ字義を掘り下げているよね。その解釈には大悲への思いを読み取ることができるよ。それが根拠さ。その他にも祖師の喜びがあふれている解釈やご自釈があるよね。「信は無疑のこと。ハイ終わり。」というだけは深みも何もあったもんじゃないよ。大悲や信は無味乾燥なものじゃない。祖師の三哉文は有名だよね。総序にも生き生きとした祖師の感動があることを感じるじゃないか。それが根拠だよ。君だってそれを感じるから、前回僕に「どうすれば信を積極的に言語化できるんだい。」と言ったんだろう。それが最も大事な根拠さ。自分が大悲について感じていることに忠実になって考えて行ってごらんよ。自分の感じていることに忠実になって考えを深めてゆくことが大事なことだ。その心が哲学するってことさ。

 

B君 なんか誤魔化された感じだけど、まぁいいか。ところで、君が言うように信後の思いというのは豊かなものだけど、人によってそんな思いがあるのかって思うことがあるよね。それは、祖師が衆水海に入りて一味なるがごとしとか道俗時衆ともに同心にと言われたことに照らすと、どう理解すればよいのかってことなんだけどね。

A君 信に含めうる思いというのは抽象的に聞こえるかも知れないが、大悲に対して無疑の状態となって大悲を感受している思いや大悲があると感じている思いのことだよ。これは決して抽象的に言っているつもりではなく、これを感じている人にはすぐにピンとくるはずだ。祖師が同心とか一味と言われているものは、この大悲を感受している思いのことだよ。この大事な所が同じであれば、同心とか一味と言って良いということだよ。それ以外は些細なことなので、はしょってもいいということさ。

 

A君 「ただ南無阿弥陀仏ばかり」という禅的境地を思わせる思いもあるということをさきに述べたけど、最後にこの点について言及しておくね。この出典をいうと一遍上人語録(岩波文庫P65~66)なんだ。一遍上人が「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」と詠んだところ、国師は「未徹在」とまだ徹底した悟りには入っていないと返したところ、一遍上人「となふれば仏もわれもなかりなり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」と詠んで印信認可されたというのだ。一遍上人南無阿弥陀仏を強調する一生を貫いた人だけど、この人ほど南無阿弥陀仏を全身全霊にかけて生きた人はいないと評価されているよ。大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いに生き抜いた人だったんだね。この大悲に対して無疑の状態で大悲を感受している思いが南無阿弥陀仏なんだ。摂取するという仏様に南無している心の状態が至心であり信楽であり南無阿弥陀仏なんだね。この思いを同心とか一味とか言うんだね。真宗においてはこの南無阿弥陀仏がすべてであり、それ以外には何もないんだよ。「教も南無阿弥陀仏、行も南無阿弥陀仏、信も南無阿弥陀仏、証果も南無阿弥陀仏真仏真土も南無阿弥陀仏」とは別のブログで既に言われていることだけど、これはまったくそのとおりなんだと思えるよ。そして、南無阿弥陀仏の思いが「ただ南無阿弥陀仏ばかり」ということになるんだね。真宗の他力の信という心境において禅の瞑想の境地との近似性というか同質性が見いだされるというのだから、信はおもしろいもんだね。

 

*1「還元」の意味

現象学という哲学の1分野において重視されている概念である。人の確信が生じるまでの1つ1つの事実を記述してゆくとその事実が確信成立の条件となっていることが分かる。例えば、今日は日曜だという確信を成立させている条件となっている事実とは、昨日は土曜日だったとの事実や記憶、土曜日だけど仕事に行ったとか、明日は日曜だから夜遅くまでテレビを見て夜更かししたという事実や記憶、今朝テレビを付けると日曜番組をやっていたなどなどの事細かな事実と記憶である。この確信成立の条件を探り、1つ1つの成立条件を掘り下げて確認し整理してゆく作業を還元という。人の心情、感情、信念、世界観などについてもそれを成り立たせている事実に還元すれば他人にそれを事実レベルで伝達することが可能となる。還元という思考方法は共感を得る方法論でもある。現象学はこの還元を応用して哲学的な解明をする思考方法である。この思考方法は仏教の唯識論や唯心論に近いと考える仏教学者もいるよ。参考文献 ちくま書房「現象学は思考の原理である」/著者竹田青嗣明治大学院大学教授

 

*2 祖師が「聞というは仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」と言われたのは、信を無疑という事実状態に還元する思考をとられた結果である。信後において法然聖人の御説法をお聞きになったときの思いを自ら深く内省され、その思いの根源となっているものを探られたとき、大悲と大悲に対して無疑であるということに気づかれたのだと思う。聞が無疑の信であると言われたのは、他力信と自力心を決判するという観点からのものではなく、上記の内省から大経の聞のあり方は大悲を聞いて無疑というあり方をしていることだとの結論に至ったもので、また三心釈はその結論の上に立ちつつ、疑が無くなったことが至心であり、信楽であり、欲生であって三心ともに一心だとする結論を得るための論理を展開した釈である。詮ずるところ、大悲を感受する思いを事実レベルに還元した結果たる無疑を明示しつつ大悲を感受する思いを表現しなければ信の十分な説明とはならない。このため信巻において無疑を前面に打ち出さなければならなかったのである。祖師の大悲への喜びは教行信証の全編に亘って表現されている。信の無疑という説明だけでは信の説明としては不十分だし、大悲を感受する思いだけでも信の説明としては不十分である。「皮が無くなってあんこが見える状態になったこと」は皮が無くなったということとあんこが見えるということをともに説明してはじめて十分な説明となるのと同じである。信は無疑であることを明確に示しつつ大悲への思いを表明している教行信証は祖師が大悲や信をどのように理解されていたかを知りうる解説書であると言えるよ。