1-29.信心が同一になる原理と事実認識の方法

御伝抄に次のような文があります。

①.善信房申していはく、

往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまわりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかはるところなしと申すなり。

②.大師聖人仰せられてのたまわく、

信心のかはると申すは自力の信にとりてのことなり。すなわち、・・。他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心もさらにかはるべからず。ただひとつなり。・・・信心のかはりおはしまさんひとびとは、わがまいらん浄土へはよも参りたまわじ。

 

他力よりたまわらせたまふ私のない信心だから他力信心は同じになるという説明は、他力信心が同一となるべき原理ないし理屈について言及されたものです。この説明が成立するためには仏が凡夫に授けるものは人によって異なるものではないという前提が必要になります。このことを仏様が保障しているのが十七願と十八願とそれらの成就文です。この十七願とその成就文において仏様は、私が往生してゆく浄土の完成したことを告げる御名を聞かせてすべての者を救うことを保障しています。この完成した救済の原理のため仏様に与えられる他力信心は同一になることになっています。その救済の原理によって生じる信は十八願の信心たる至心・信楽・欲生となります。この十八願の信心の特質は大悲を無疑の心で受けていることにあり、ここからこの信を至心信楽といい、また無疑の故に欲生という往生決定の思いとなります。祖師が「わたくしなし」の「わたくし」と言われているのは大悲に対する自力の計らいのことを指しています。この計らいがなくなっていることが無疑という信の特質です。信の特質は大悲に対する無疑の状態になることにありますから、この特質から他力の信はすべて同一になるものなのです。この信の同一性は他力信心の特質です。

 

善信房は自分の信心は源空聖人の信心と同じだといい、源空聖人も善信房の信心と同じだと言われました。二人のもっている信心は同一だとの認識を互いに示し合ったものですから、この部分は救済の原理の問題や信の特質の問題ではなく、信心の同一性に関する認識はどのようにしてなされるのかという問題になってきます。他人の内心における無疑の事実状態は意業たる憶念、口業たる念仏や説教、身業たる礼拝等となって表現されることになりますが、善信房や源空聖人は信心が同一であるとの認識を表明されたのは何をもってなされたことでしょうか。善信房は源空聖人の御説法を拝聴し、その内容が自らの上に現実化していることをもって同じ信心であると認識されたのでありましょうし、また源空聖人においても善信房の言動をもって判断されたのでありましょう。

信心の有無は三業では判断できないと巷でいわれていますが、実際には上記のように同一であることを互いに認識しうるものです。三業では判断できないといわれるのは仏様の大悲と向かい合っているかどうか本当のところはその当人でしか分からないという意味なのでしょうが、その考えを支持しているのが他力信は三業ではないという理解だろうと思います。この理解に立つと、無疑という心の状態は三業ではないので信心の有無を三業では判断できないという理屈が成立することになります。しかし、社会生活の上では三業とくに口業で他力信心の有無を判断しているのが通例でありましょう。自力の思いの有無をその人の言動から判断したり、他力信と異なる教説を説く者の言動から他力信の有無を判断しています。そうしますと、信心の有無は三業では判断できないと言われる理屈を適用するのが適当な場面は極めて限定されるのではないかと思います。例えば、悪業を犯したから他力信心の者ではないと主張することは間違っていますが、この間違いの理由として三業では信心の有無を判断できないとの理屈が使われることがあります。しかし、この場合においてその理屈を持ち出さなくても説明は可能です。他力の信はただ大悲を無疑で受けることであって、他力の信心は悪人を善人にすることを保障するものではないし、大悲を無疑で受けている人であっても悪業を犯す可能性を持ち続けている存在であると説明すれば足りることです。歎異抄第13章の祖師のお言葉で説明すれば十分な説明となるのであり、さきの理屈を持ち出さなくても良いことです。また三業では判断できないという理屈は、次のような場合の説明に困ることになります。例えば、自力で求めれば他力の信を得られるし、自分の経験上自力一杯求めたから他力の信が得られたという人がいたとします。この人が他力の信を得ているかどうかは三業では判断できないということになるとどういうことになるでしょうか。この理屈は明らかに誤った教説を唱える者を弁護しかねない理屈になってしまいます。このような場合においてはこの理屈に何の正当性がないことは明らかです。無疑という心の状態は三業ではないとしても、他力の信心の有無はその人が表明する信に関する言辞によっておおよその内心の状態(大悲に対する無疑・有疑の状態)を推認することができるというのが正しい論理ではないかと思います。さきの理屈は、内心が無疑の事実状態になっているかどうかを推認することができない真偽不明の状態に陥った場合にはじめて妥当する理屈であり、その場合に限ってのみ妥当する理屈であると思われるのです。