3-20.論考 元祖の白道解釈 プラス 会話編

昭和新修法然上人全集448頁に収録されている「一.三心料簡事」の出だしから中頃にかけて、息慮凝心の定善と廃悪修善の散善は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に雑毒の善、雑毒の行と名付ける。虚仮の行とは至誠心において嫌われる余善諸行である。この虚仮雑毒の善では往生は不可であると言われている。これに対し、選取された真実とは本願功徳即ち正行念仏であり、その根拠として一切善悪の凡夫生まれ得るは皆阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるなしという玄義分の文や凡夫に施す真実について彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じるとき一念一刹那も真実ならざることが無った旨の文を引用するとともに、その真実を施す相手先は機の深信の文に出てくる悪人である。造悪の凡夫はこの仏の施す真実に由るべきであると断じている。諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に凡夫往生はあり得ないという元祖の立場を表明したものである。これに白道事という以下の文が続き、そのあとに「二.定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」という文が出され、念仏は本願の行であるのに対して諸善は本願の行に非ずと言われる。諸善は凡夫の雑毒の善、虚仮の行であるのに対して念仏は仏の真実心だから比べものにならないとの意である。この両者の間に挟まれる形で白道事が述べられているのだが、上記の対比を念頭に置いて元祖の白道の解釈を簡単に眺めてみよう。

 

白道

 

雑行中ノ願往生心ハ白道ナレドモ貪嗔水火ノ難ノ為ニ損セルヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。以上、A部分。

 

次ニ専修正行ノ願生心ヲ願力ノ道ト名ク。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。仰ニ釈迦発遣指南スルヲ蒙リ、西方ニ又タ弥陀悲心招喚ヲ籍シ、今二尊ノ意ニ信順ス。水火二河ヲ顧リミズ、念々遣ルルコトナク彼ノ願力ノ道ニ乗ジテ、捨命已後彼ノ國ニ生ズルヲ得ル。正行ノ者、彼ノ願力ノ道ニ乗ズルガ故ニ、全ク貪嗔水火ニ損害サレズ。是以譬ノ中ニ云ク、西岸上ニ人有リテ喚ヒテ言ク、汝一心正念直チニ来レ、我能ク汝ヲ護ラン。衆テ水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レザレ。合譬ノ中ニ伝テ言ク西岸上ニ人有リテ喚バフトハ、即弥陀ノ願意ヲ喩フ也云々。専修正行ノ人、貪嗔煩悩ヲ恐ルベカラズト也。願力ノ白道ニ乗ズレバ、豈ニ火焔水波ニヨリ損セラレルヲ容レンヤ云々。以上、B部分。

 

 三心料簡事は、A部分とB部分において述べているそれぞれの浄土往生の方法を対比する構成となっている。この構成の仕方から、作成目的は両者を対比することにあると言える。A部分の浄土往生の方法は凡夫の雑行中の願往生心をもって往生する方法であり、B部分の浄土往生の方法は仏の願力をもって往生する方法である。前者の凡夫の雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われており、仏の願力の白道は全く貪嗔水火に損われないと述べる。前者は凡夫の至誠心は貪嗔邪偽等の血毒が交わるが故に損われ、後者は仏の至誠心だから悪が混じわらないので損われることがないというのである。このように雑行中の願往生心と専修正行の願生心の両者を対比されてその違いを明確にしている。この違いが全非比校の文の理由にもなっていると考えられる。

 雑行中の願往生心は白道なれども貪嗔水火の為に損われることを何を以て知るかというと、元祖は善導の合釈の文に「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とある事からそれを知る事が出来るとされ、「諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ。」と言われている。元祖が諸行往生の願生心も自力ながらも一応は浄土に向かう道だから白道であると理解されていたことが判る。

 元祖が述べる「諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フ云々」とは善導の文の合釈中の「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フヲ行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向フニ喩エル」とある文の事である。「云々」と言われているのはそれと直接関連している三定死に到り着くまでの比喩の文とそれに対応した合釈の文のことである。「人道ノ上ヲユキテ西ニ向フ」という文を比喩の文中に求めると、その文そのものは無いのであるが、「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フニ忽然トシテコノ大河ヲ見(る)」とある。ここから合釈の「人道上ヲユキテ西ニ向」った道とは比喩の「タダチニ走リテ西ニ向」った道を指しての事であると解釈できる。これによれば「西ニ向カ」った道というのは二河の中間にある白道ではなく、そこに辿り着くまでの道のことになるが、なぜ元祖がその道を白道と言われているのかというと、その答えは善導の譬えの中にある。比喩には東岸に立って見た二河の中間にある白道につき「ソノ水ノ波浪交ワリテ過ギテ道ヲ湿シ、ソノ火炎マタ来タリテ道ヲ焼ク。水火アイ交ワリテツネニ休息スル事無シ」と言われている。善導は釈迦の発遣と弥陀の招喚を出す前に「西ニ向」った道の先に続いている白道の様相をそのように喩え、浄土へと続いていたはずの道、つまり雑行中の願往生心が完全に行きづまってしまったことを三定死と表現している。「西ニ向」った道は自らの貪嗔邪偽のために断絶している白道と同じ道なのである。至誠心をもって諸善に励むとやがて心の中の貪嗔邪偽が問題となり、そのためついには浄土往生に相応しい至誠心が無い事に気づき、西方浄土往生の道としては完全に断たれていることに苦しむのである。元祖も自ら経験したことである。譬えの中の「コノ人死ヲ怖レテタダチニ走リテ西ニ向フ」の「タダチニ走リテ」というのは頭燃を払うが如く必死に諸善を行って浄土を願求する心の姿勢を言われたのである。そのような思いで諸善を行じるとき貪嗔邪偽の二河が立ち塞ぐのである。

 以上、元祖は「雑行中ノ願往生心」すなわち凡夫の至誠心も一応は浄土への白道ではあるが貪嗔邪偽のために浄土から断絶されている白道であると理解され、また何を以ってそれを知ることができると言えば、釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々トと言われた。これは、諸行業を廻らして直ちに西方に向かう諸行往生の至誠心は貪嗔邪偽の水火のために断絶されている譬えとその合釈から言われた事であると窺える。

 これに対し、三定死の思いになったのちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて人が水火を顧みず白道に踏み出して西岸に到り着いたことを願力の白道に乗じて彼の國に生じることを得て仏と相見えて慶喜すると合釈している。この人とはおそらく善導自身のことであろうが、その人は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けて死を怖れずに浄土に歩みを進め、ついには浄土で仏と相見えた。善導は「雑行中の願往生心は貪嗔水火の為に潰える」が、これに対する弥陀の悲心招喚の白道は「貪嗔水火難の為に損われることがなく浄土へと一直線につながっている」ことを対比することによって悲心招喚の白道が唯一浄土への道であることを明確にし、浄土往生は釈迦の発遣と弥陀の招喚を受け容れることによって成就されることを言わんとしたものと窺える。

 同じ白道という言葉が使われていてもその白道の中身は全く別物である。諸行往生は至誠心をもって諸善を行じることを浄土に生れる生因とするのに対して、願力の白道は弥陀の悲心そのものを生因とするという明確な違いがある。善導が白道の比喩を製作された目的は、後者の願力による浄土往生の生因となる信心について釈迦と阿弥陀仏がその信心を守護する様相を教える事にあった。その信心とは二尊によって守護されている十七願十八願力所成の他力信心のことであり、他力信心が浄土につながる唯一の白道だと言われているのである。その生因は仏の願力による他力信心であるから貪嗔のために損なわれることがない。元祖はその善導の意を忠実に解釈されたから、二尊ノ意ニ信順する他力信心を本願力ノ白道と言われ、これに対する雑行中の願往生心は「白道ナレド貪嗔水火難ノ為ニ損セルコトヲ被ル。何ヲ以ッテ知ルコトヲ得ル。釈ニ伝ク諸行業ヲ廻ラシテ直チニ西方ニ向カウ也云々ト。諸行往生ノ願生心ノ白道ト聞クナリ」と言われた。だから、この「諸行業ヲ廻ラシ」とは諸善を浄土に回向するという意味であって、諸善を振り捨てるという意味ではない。善導や元祖が勧めているのは貪嗔水火の為に損われることのない願力所成の真実の南無阿弥陀仏つまり正行念仏であり、諸行業を廻らすことを勧めているものではないことが明らかである。「定善中自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比校也伝事」の文に念仏は本願の行であるが、諸善は本願の行ではないとしてさらにそれを明確に示している。善導が注釈された観経は一経二宗と言われるものの定散十六観法を廃し念仏の一行を立てることを勧めている廃観立称のお経である。善導は白道の喩えでその廃立を明確にされた。元祖による指南を受けて祖師は愚禿抄に諸行往生の願生心の白道を白路とされ、弥陀の願意たる白道をこの白路と区別された。弥陀の願意が浄土往生への清浄な他力信心になる事を明確したのである。だから、教行信証の真実信巻には弥陀の十七・十八願の願意を意味する白道の解釈しか出していない。

 

A君 上記について少し議論しようか。まず、最初に確認しておきたいことは、元祖は諸行往生の願生心を白道と言われているが、それを白道と言われた理由は、凡夫ながらの至誠心であっても一応は浄土往生を目指すものであることや善導が貪嗔水火の難の為に浄土往生が損われるとは言えども白道であると述べているからだ。これに対して、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力の白道は浄土へとまっすぐにつながっている。元祖はいずれにも白道という語句を使用しているが、白道とは浄土への生因のことだ。諸行往生の生因は諸行を至誠心をもって行じることであり、願力による往生の生因は願力そのものだ。それぞれ生因はまったく別だ。前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない生因となっている。生因がまったく相容れない別々の生因だということはそのどちらかを選び取らなければならないということになる。諸行往生の方法を取るのであれば願力の往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。二河白道の比喩に合わせて言えば、前者と後者の白道は同じ一本の白道の上に重なってあるのではないし、連続して接続している一本の白道でもないということだ。自力たる諸行往生の方法と他力たる願力による往生とは完全に断絶している。浄土往生の生因が相容れない別々の生因であるということは、私達の目の前にはこの二つの方法が並列的に与えれているということだ。諸行往生の方法を最初に選択した者は善導のように至誠心にゆきづまりこれを断念し、そののちに改めて願力による往生の方法を選び取ることになる。しかし、最初から諸行往生の方法を選ばず、願力による往生の方法を選ぶこともできる。その方法を選んだ者はそのまま願力の大悲を聞いてゆけばよいのだ。

 

B君 願力というが十九願、二十願、十八願と三つの生因がある。それぞれどの願に対応するのか。

A君 諸行往生は十九願に定める生因による方法であり、釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けた仏願力は十七・十八願に定められている。十八願の生因は十七願に誓われた御名すなわち南無阿弥陀仏であり、その生因は南無阿弥陀仏の信と行だ。その信は十八願では三信と表示されている。その行とは十八願の称名念仏のことだ。善導が「弥陀ノ願意」と言われるのは南無阿弥陀仏によって救うという十七願と十八願の大悲心の事だ。それで元祖は三心料簡事に専修正行ノ願生心とか専修正行ノ人とか言われている。専修正行とは十八願力の信心称名のことであり、善導はそれを正定の業と言われている。善導のいう「弥陀ノ願意」を十九願による往生の方法と理解することはできない。

 

B君 君は二河白道の譬えは諸善往生を廃し、念仏の一道を立てたという理解をしているけど、その理由はなんだい?

A君 端的に言えば、①諸行往生は不可能であると言われている事、②願力の白道によって浄土にて仏と相見えたという事だ。つまり生因がまったく別である往生の方法を同時に行じることはできない。さっき言ったように前者は自力、後者は全分他力でまったく相容れない。諸行往生の方法を取るのであればそれと相容れない他力の願力による往生は取れないし、願力の往生を取るのであれば諸行往生の方法はとれない。だから浄土往生を願う者はそのどちらかの方法を選び取らなければならないことになる。諸行往生の方法が不可であるならば願力の往生を取るしかない。これが廃立の意味だ。

 

B君 念仏という言葉は白道の比喩には一度も出てこないけど、どうしてか?

A君 念仏が白道の喩えに出てこないのは信心を守護する様相を喩える目的で白道の比喩が製作されているからだ。その十八願の信には当然のことながら願力の念仏が必然的に伴うので省略されたのだと思う。善導は信の立て方について就人立信の方法と就行立信の方法があるとされているが、二河の比喩は就人立信の方法によったと考えられる。就人立信とは二尊の発遣と悲心招喚によって信が生じ、二尊によってその信が浄土に行き着くまで守護されている様子を喩えたのがこの二河の比喩だ。善導は称名念仏に他力信を含めて称名念仏を正定の業と言われることが多いが、ここでは念仏を省略して信心で願力を代表させたのだろうと思う。

 

B君 じゃ善導が諸行往生を目指した事には意味はないというのかな?

A君 なにがしかの意味はあるだろう。

B君 どんな?

A君 自分は真実の至誠心になり切れないという事を身をもって知り、諸行往生はできないという事を後世に伝え、元祖がその善導の意を理解して回心した所に意味がある。

 

B君 じゃ、真宗内において諸行往生を目指せと教えることも良しとしないのかな?

A君 良しとしない。祖師の教えを聞きたいという人に諸行往生を目指せと教えることは間違っている。機に合わない教えは意味がない。白道の喩えでは「弥陀の願意」を聞くとあるのでその人には本願の大悲を説き、また聞くべきだ。弥陀の願意とはさきのとおり十七願と十八願の悲心の事だ。

 

B君 じゃ真宗内において至誠心は真実になり切れない自己を知るために善を勧める事は良しとするのかな?

A君 良しとしない。

 

B君 どうして?真実になり切れないという事を知れば三定死の思いになり、そののちに釈迦の発遣と弥陀の招喚を受ける事に繋がるんじゃないのかな?

A君 繋がらないからダメ。

 

B君 どうして?白道の譬えでは繋がっているように見えるじゃないか。

A君 繋がっていない。白道の譬えにある諸行往生の願生心というのは至誠心をもって浄土往生を果たそうとする思いの事だが、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れないと分かるだけだ。その先にある弥陀の招喚を受け容れることには直接繋がっていない。諸行往生と願力による往生とは、前者は自力で、後者は自力を受け入れない全分他力だから、完全に断絶しているのだよ。

 

A君 白道の喩えの三定死の思いというのは、懸命の努力をして知らされる事は真実になり切れない自己であると分かった者が自力往生の限界を知ってどうにもこうにもならなくなった悲痛な思いのことだ。三定死はそのような状態になったというだけのことだよ。それでは十八願力の白道を進む事はできない。弥陀招喚の願心があること、その願心は無条件で私をありたけのままで救う願心だという事を聞いていかないと、その願心を受け入れる事はできない。当たり前の事だ、弥陀招喚の願心があることを知らないんだから願心を受け入れようがないじゃないか。それにさっき言ったように諸行往生は自力、願力による往生は全分他力、まったく相容れないから両者は完全に断絶しているのだよ。原理上、連続することはあり得ない。祖師は真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失すと言われている。真仮を知るとは真と仮の生因が自力と全分他力というまったく相容れない性質の独立した別々の生因だと知ることなんだよ。

 

B君 つまり弥陀招喚の願心を聞いていなければ三定死の状態のままそこにとどまってしまう事になるのだね。

A君 そう。仏の十七・十八願の願意を聞かず十九願による諸行往生を目指しても、ただ自力往生の限界を知るだけになってしまう。だから、弥陀招喚の十七・十八願の願意をよく聞く事が大事な事であって、真実になり切れないと分かることは大事ではない。真実になり切れないと分かっても、それが十七・十八願の生因そのものにはならないし、その生因を満たす前提条件にもならない。これが白路と願力の白道が断絶して繋がっていない論拠だよ。

 

B君 じゃ白道の譬えには大事な所、大事な教えが抜けているという事なのかい?

A君 抜けてはいない。「西岸上ニ人有リテ喚バフトハ即弥陀ノ願意ヲ喩フ」とあるからね。弥陀の願意とはそのままの私を無条件で救う、南無阿弥陀仏で救う十七願・十八願の願心のこと。自力の思いしか持ち得ない、他力の信を持ち得ない私のままで私を救うという大悲の事だよ。この弥陀の願意を十九願の願意と理解したのではムチャクチャな事になる。弥陀の願意というところが最も大事な所だ。善導はその大事な所をチャンと押さえている。

 

B君 じゃ肝心なのは三定死の状態に至ることではなく、弥陀の十七・十八の願意を聞くということなんだね。

A君 そう。だから自分の至誠心をもって諸行往生を目指す事は大事ではない。

 

B君 じゃ、弥陀のその願意を聞くことに注意を向けるとどうなるのか?

A君 願意を聞くことに注意を向けても、それが自力である限りは三定死の状態に至り着くだけだ。ただ、ここでの自力というのは先の自力とは意味合いが違ってきているし、三定死の意味合いも全く違うものになる。

 

B君 どういうこと?

A君 諸行往生を目指す者の自力の願生心とは自らの心を至誠心になし替えて浄土往生を目指す思いのことだが、浄土往生に相応しい至誠心を持ち得ないために浄土往生はできず死に臨むという危機的状況に苦悩しているのが善導のいう三定死だ。十七願十八願の願意を聞くことに注意を向けるようになった者の自力というのは願意を聞いて南無阿弥陀仏で救われたいという思いのことだ。同じ自力でも自力の中身が違ってきている。後者の自力の思いをもっと詳細に言えば、至誠心にはなれず南無阿弥陀仏で救われるとしても自分の持ち前の力や思いで南無阿弥陀仏を称えることを利用して仏力にすがり助けられたいという思いに重点が置かれるようになるのだ。これが本願疑惑心と言われるような自力の思いなんだ。ここでいう自力の思いというのは南無阿弥陀仏で救われると聞いてもそのとおりと受けとめられない心の状態をいうのだ。釈迦の発遣と弥陀の招喚を受けるというのは仏の十七・十八願力を受け入れてそのような自力の思いが廃るということだ。

 

B君 それは十七・十八願の願意を聞いていることによってのみ生じる思いなんだね。

A君 そう。その通り。願意を聞いて助かろうとする思いが出てきてそれが強まるほどその思いに囚われてどうにもならなくなるだよ。

 

B君 それは心理的に仏による救いを得られないまま死に臨むという危機的状況に苦悩している状態なんだね。その点で三定死の状態と同じなんだね。君が言う自力地獄の事だね。

A君 そう。仏にすがって助かりたいと思った瞬間にその思いはどうしたら助かるかという思いに転化する。念仏を称えて助かりたいという思いに転化する。それが自力の思いである事に気づき呻吟するのだ。助かりたいという思いが瞬時に自力の思いになるのだからね。どうにもならない。自力が廃らないと助からないのに、助かりたいという思いがそのまま自力の思いになるのだから、どうしようもなくなってしまう。助かりたいと思い続けても、今死ぬとなればこの自力の思いのまま臨終を迎えることになる。今日臨終を迎えても10年後に臨終を迎えても、20年後に臨終を迎えても自力の心のまま死んでゆく事態はまったく変わらない事実に気づく。つまり自分は助からないということに気づくのさ。助からないと気づけばますます助かりたい思う。その繰り返しで自力で計い始めた最初の立ち位置から一歩たりとも前に進めない。そこから抜け出る事ができない状態に苦悩するのだ。これが私が自力地獄と言っている状態の事さ。至誠心が行き詰まったことによる三定死とは明らかに異なる。但し、地獄と言っても無間地獄の釜の底に叩き落とされたという経験ではないよ。そんな経験は悪知識の架空の作り話さ。善導も元祖も祖師も誰もそのようなことは言っていない。

 

B君 十九願の諸善を励むことによって至り着く三定死ではなく、南無阿弥陀仏で救うという十七・十八の願意を聞いて至り着く三定死なんだね。よく分かるよ。

A君 私や君がそうであったように願意を聞いている限り誰でもが自然に至り着く所だ。しかし、この願意を聞いてゆく道が最も近道だ。諸行往生の方法を断念するまでの過程が省略されることになるからね。それに仏の救いは念仏を称えつつ、その称える南無阿弥陀仏の意味やいわれを聞いている内側にあるのであり、その外側には無いのだからね。

 

B君 善導は聖道門から浄土門に入った人間としてそれに応じた心構えで至誠心をもって諸行往生に励んだ末に三定死を経験し、その上で仏の十七願十八願の願意を聞いて願力の道に乗じる経験をし、それを白道の比喩に表現したんだね。

A君 そう。元祖も同じだし祖師も同様の道を辿られた。聖道の行たる諸善を浄土往生のために長らくされた期間に比べれば、南無阿弥陀仏で救うという仏の願意を聞かれてからは速やかに願力の道に乗じることができたんだろう。だから、私達は善導や元祖らの辿った十九願の諸行往生の道を辿る必要はない。非常な遠回りになるからね。一生涯かかっても願力の信は得られないかも知れない。祖師がその道は迂遠であるとされ、本願の直道を仰ぐべしと教えられているとおり、南無阿弥陀仏で救うという願意を聞いて聞き開く道を進めばよいことだ。祖師は三願転入の文と言われている箇所で、「宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて双樹林下の往生を離る。・・すみやかに難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す。」と書かれている。この文意はどこにあるかというと、既に万行諸善の仮門に入っている人はその仮門を出ること、既に自力念仏行を行じている人はすみやかに自力の心を離れよと教え、他力の願海に入れと教え勧めるところにある。いまだ諸行往生の願生心を持っていない人に諸行往生のために修善を開始せよと勧める文ではない。先の三願転入の文を生きているうちに必ず通過しなければならない求道の過程を教える文だと誤って理解するからおかしな事になるのだ。教行信証に真実の行信と仮の行信を明確に区分されている趣旨は仮を捨てて真実を取る事を勧めるためだよ。ここを間違えては真宗の教えではなくなるんだ。大切な所なのでもう一度言うが、先の御文はいまだ諸行往生の願生心を持っていない人に往生のために修善を開始せよと教え勧める文ではない。既に諸行往生の願生心を持って諸善を行じている者に万行諸善の仮門を出でよと勧める文だ。

 

A君 元祖は諸行を用いた凡夫の至誠心は真実ではないため往生は不可能であり、阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる以外に往生はあり得ないということを表明しているが、その表明を聞いたとき、どういう思いになるだろうか?

B君 普通であれば、諸善を行じて往生を願う道は避けて、直ちに阿弥陀仏の真実の至誠心による大願業力に乗じる道を選ぶよね。

A君 そう。それが普通の感覚だ。あえて諸善を行じて往生を願う人はいないだろう。三心料簡事の元祖の意はまさしく阿弥陀仏の大願業力に乗じる道を選び取らせることにある。その廃立のために元祖は選択本願念仏集を製作されたのだし、念仏往生を説き続けられた。その結果はご承知の通りだ。

 

B君 つまり元祖は最も近い道を教えられたという事だね。

A君 そう。聖人ならいざ知らず、凡夫にとっては廃立の教えこそが浄土に直結する最短の道を教え勧める教えなんだよ。

 

B君 それなのに凡夫に信を得る方法として諸善を行う事や自己の団体に寄付する事が宿善となり信仰が進むと教える事はどうなんだろうか。

A君 廃立の教えによって廃された諸善をもう一度復活させて、信を得るための手段として諸善を教え勧めることは廃立の教えに反することになる。例えれば、正門から入ることを拒絶しながら裏口から取り込むのと同じだ。

 

B君 他力の信を得るために諸善を行じなければならないと考える前提には、善をなしえない自己の悪性に気づき、善導のいう三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った前提があるということなのかな?

A君 そう思う。悪性の自己に苦しむという心理状態に陥って苦悩するときにはじめて弥陀の願心を聞けるという誤った考えに立脚している。二河白道の比喩とその善導の釈を読むとき、そのような誤った読み方をするのは十七・十八願の願意を正しく理解していないからだ。十七・十八願の願意は南無阿弥陀仏で救うということにある。自力は不要で邪魔なだけだ。貪嗔邪偽のために諸善ができないことを経験的に知ることは十七・十八願の救いの条件や前提ではないことを正しく理解していないからだ。二河の譬えの白道は諸行を行じて三定死に行き着いた者がその行き着いた先でたまたま弥陀の悲心招喚の願意を聞いたことから出来上がった比喩だ。諸行を行じず、善導の言う三定死に行き着くことのない者にでも大悲は働き続けている。だから誰でもいつでもどんな状態のときでも悲心招喚の願意を聞き受ければ良いんだよ。

 

A君 二河の比喩は、いわば善導自身の失敗談と成功談を組み合わせて作成したものだと言える。失敗談とは諸行往生の方法では往生できないと途中で放棄せざるを得なくなった失敗のこと、成功談とは願力によって浄土往生が決定したということさ。失敗談を聞いて同じ失敗をしなければ成功しないと諭す比喩ではない。二河の比喩は、諸行往生を求めた善導がその方法では往生できないと知ったときに、願力による往生の道のあることを聞いてその方法に乗り換えることができたことを表すものだ。二河の比喩は諸行往生を求めた者に特有の道程であり、諸行を行うことが難しい凡夫が辿るべき道程ではないのだよ。それは聖道と同じような難行道なのだ。

 

B君 善をなしえない自己の悪性に気づき三定死に到り着くまで善をしなければ他力信を得られないという誤った考えでそれを教えることは、真宗を聞きたいと思っている人の宗教心につけ込んだ宗教的詐欺行為だよね。被害は財産だけではないよね。時間という取り戻せないものを奪ってしまう。一生という時間を奪われる事になるかも知れない。もうそろそろ気がついても良い頃だと思うのだけどね。

C子さん 極悪人、クソ知識といってもいい位よね。

B君 久々に登場したのにそんなにカッカするなよ。それにクソってまがりなりにも美人さんなんだし。

C子さん まがりなりにもっていうのは余計よね。美人は本当だけど。

 

A君 じゃ次に行こうか。どうしたら自力の思いは廃るのかということだが。

C子さん 善導や元祖の指南によって、諸行ではなく念仏を行じるようになっても、南無阿弥陀仏の願意に反する自力の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人が抱えている問題ね。

 

B君 チョット待って。その前に確認したいことがあるんだ。善導は釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前に「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになったとき釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けたと書かれているが、この「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」とはどういう事なんだろうか。この「度ルベシ」という思いも自力の思いだよね。

A君 うん。そうだね。これも自力の思い。

B君 じゃ、「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いになって歩み出そうとしたときの道とは、これまでの道とおなじ至誠心の道のはずだ。ということは、再び諸行往生の道を歩み出そうとしたときに怖れるなとの西岸上の人が喚ばうのを聞いてその道を歩み出したと理解できないか?

A君 それは大きな間違いだ。それでは三定死と合わないし、また諸行往生を成し遂げられることを表す比喩になってしまう。三定死は至誠心が行き詰まってしまいその状態で死を覚悟したときの心境だ。もう自分の至誠心をたよりにすることはできなくなっている。それに諸行往生ができるという事になれば、その人は諸行往生できるような善人であることになるが、善導の深心釈の二種深信のうちの「自身は是罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して出離の縁あること無し」と言われている善導の意図と合わなくなってしまう。善導の意図は、観経下々品の最下の悪人であってすらも転教口称の念仏の教えを受けて浄土往生したことを二河の比喩の願力の白道として表し、二種深信による浄土往生こそが百即百生の道であると教え勧める所にあった。だから、そのような解釈は善導の製作意図に合わないのだよ。

 

A君 じゃ次に行くよ。「弥陀ノ願意」を聞いてどうしたら助かるかという自力の思いになった者は念仏を称える行によって助かろうとする思いになる。これが諸行を廃して念仏の道を進み出した者の思いだよ。念仏で救われようとの思いになった事を指して「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」と言われているのだと思う。ここで善導は自力ながらも廃観立称しているだ。

B君 どうしてそう解釈できるのかな?

A君 「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ。」という思いは三定死の思いになったあとのことだけど弥陀の悲心召喚を聞く前の事だよね。つまり諸行をもって「カナラズ度ルベシ」という思いとは別の思いになったということだ。思いのものがらが変わったということさ。それは南無阿弥陀仏で助かろうとする思い以外には考えられない。だから「スデニコノ道アリ」というのは南無阿弥陀仏によって救われようとする道のことだよ。元祖は二尊ノ意ニ信順シテ願力ノ道ニ乗ジルと書いているね。十八願意に信順するというのは、その意を心に受け入れてそのとおりに実行することをいうのだよ。仏の意は念仏が浄土往生の正行だと言われるのであれば、そのとおりであると心で受けとめて念仏を申すという事だ。念仏行によって助かろうとしている者にこそ弥陀悲心の招喚の願意が速やかに伝わるのだ。二河の比喩では「われむしろこの道を尋ねて前に向かいてゆかん。すでにこの道あり。かならず度るべしと。この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。・・また西の岸の上に人ありて喚ばひていわく・・」とある。この「この念をなすとき・・たちまち」とは、念仏の行をもって往生せんと思い立った人にこそ弥陀の大悲が速やかに到り届けられることを表しているのだよ。

 

C子さん 問題は念仏申す事が仏の願意に称う事だと受けとめられるか否かというところだね。

A君 そう。ここを極難信というのだが、念仏が浄土往生の正行だと気づき、それが仏願であると受け入れるだけのことなのだがね。この「南無阿弥陀仏で救う願意」と「南無阿弥陀仏で救われることへの気づき」というあうんの呼吸は教える事ができない。教えられるようなものであれば極難信とは言わない。自力称名の思いが障害となって文句ばかりの心になっている人には、そのまま浄土に生まれさせる願心だということに気づいて欲しい。それだけだ、念仏行を往生の行として選び取ったあとはね。自力の計らいが生じた人にこそ願心を聞いてその計らいが廃ると言われるのは、あくまでも念仏の行を選び取った人に言えることなんだ。

 

B君 気づくという事は大事な事なんだね。

C子さん 気づくか気づかないかの差のようだけど、脳内の神経細胞ニューロンの発火状態はまったく違ったものになるようね。意識されないときは脳神経細胞の発火は局所的に止まるけど、意識されたときは局所的だった神経細胞の発火が増強され、それが遠位にある前頭前野頭頂葉に発火が伝わり、そこから脳全体に発火が連続し、脳全体が情報をやり取りしているかのように神経細胞の発火が連続して起こってくるって本で読んだわ。きっと願意の意味に気づいて願力の信が開けるときも脳内では活発な活動が起こっているのだと思うわ。念仏を称えて仏の願心を憶念しているときの脳内の活動と未信の者が念仏を称えているときの脳内の活動にはどのような差異があるのか、興味深いわよね。

A君 きっと自力の計らいで心が閉ざされているときの脳内活動が消えて、新たに弥陀の願心を聞き受ける脳内回路が形成されるとともに情動を司っている部位の脳内活動も活発になっていると思うよ。大経に信心歓喜とある。信心には南無阿弥陀仏一つで私は救われてゆく歓喜があるからね。そのまま救うという願意に気づくという事は私の思いや力は何の資助にもならなかった。ただ南無阿弥陀仏だけで私は仏に救われるのであったと気づく事なんだ。これを捨自帰他というし、二種一具の深信ともいうんだ。この気づきは意識の表層で生じるものではなく、心の内奥に根ざしたものであり、意識下で生じた大悲への無疑心が意識によってとらえられたとき信知とか信楽と言われる他力信になるんだろうと思うよ。

 

B君 少しばかり戻るけど、いいかな。善導は東の岸で見た白道を「清浄ノ願往生心ヲ生ジルニ喩フ。スナワチ貪嗔強キユエニ、スナワチ水火ゴトシトイフ。善心微ナルガユエニ白道ノゴトシトイフ。・・善心ヲ染汚スルニ喩フ。マタ火炎ツネニ道ヲ焼クトイフハスナワチ嗔嫌ノ心功徳ヲ焼クニ喩フ」と言われているが、ここでいう清浄の願往生心とは如来の願力の白道の事だろうか、それとも凡夫の起こした浄土往生の至誠心のことだろうか。

A君 それは釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受ける前で、かつ「スデニコノ道アリ。カナラズ度ルベシ」という思いになる以前のことだよね。そうすると答えは自ずと決まってくる。それは諸行往生の至誠心のことだ。諸行往生の至誠心であっても清浄な浄土を目指している心だから清浄の願往生心ということができる。

B君 その清浄の願往生心は水火によって湿り焼かれるため浄土に至る事が決して出来ない白路なんだね。では、どの時点で諸行往生の白路が願力の白道になるのか、というと釈迦の発遣と弥陀悲心の招喚を受けてそれを聞くときに白路が願力の白道に切り変わるんだね。善導は諸行往生の白道の上を人が弥陀悲心の招喚を聞いて歩んでいったかのように比喩を造っているが、弥陀悲心の招喚を聞いたときにそれまでの白路が願力の白道に切り替わったという理解をするのが適当だということだね。

 

A君 そういうことになる。但し、自力の白路が全分他力の白道に切り替わるといっても、その白路が願力の白道に繋がっているのではなく、白路とは完全に断絶している全分他力の願力の白道が弥陀の悲心招喚によって突然開けるという点に注意をして欲しいな。それに、私や君のような凡夫ははじめから諸行往生の白路を選択せず、南無阿弥陀仏の願力の白道をゆくしかないのだ。善導と元祖によって指南されている廃立の教えのとおり、最初から諸善ではなく念仏の一行を立てるしかない。元祖が専修正行ノ願生心とか専修正行の人とか言われているのは、南無阿弥陀仏で救われると心が決まり称名して浄土に生じる事を願じている真実の行信のことを言われているんだが、専修正行とは南無阿弥陀仏を称する事が浄土の正定業であると受けとめて称名する事を指している。だから念仏を行じつつその念仏が浄土の正定業であると仏が定め置き給うたと心で受けとめて欲しいんだ。

 

C子さん そのように心で受けとめると、「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」ていた気持ちはどうなるの?

A君 諸行往生を目指す際に不可欠な至誠心を損なうものが内心の貪嗔であったため善導が怖れたのはその貪嗔だ。仏の至誠心は真実心だから内心の貪嗔に損われない。この仏の至誠心によって往生すると信知した善導はもう貪嗔を怖れる事はなくなったと思うよ。この点は「水火ノ難ニ堕スルコトヲ怖レ」るという経験のない私は推測するしかないのだが。

 

C子さん あなたはどうだったの?

A君 私は諸善往生を求めてはいなかった。だから貪嗔を怖れる事はなくなかった。貪嗔の心が凡夫にあるのは当たり前の事だと受けとめていた。だからこれをなくそうという思いはなかった。信前信後を通じて貪嗔そのものを怖れる事はなかった。貪嗔が内心にとどまっている限りではね。問題だったのは自力の計らい心だった。弥陀の願意を聞き受けると、さっき述べた自力の計らい心はなくなってしまった。貪嗔そのものは内心に留まっている限り怖れることはないが、それによって世間的な悪業を造る事は今でも怖れている。その悪業は自分に跳ね返ってくるから。そういう意味で身業や口業で罪悪を造ることを怖れる気持ちはある。しかしこの罪悪を怖れる気持ちは浄土往生とは関係のないものだ。ただ南無阿弥陀仏によって往生するばかりと信知しているからね。十七願十八願力による往生は善悪とは無関係なんだ。これを横超の願力というんだ。全非比校は横超の願力のことだ。仏の願力は善悪にかかわらない無条件の大悲であるから、仏の手違いによって救われない事態にはなることはなく、私は必ず救われると聞いて欲しい。このことを善導は百即百生と言われている。仏のされることに1つも間違いがないということを善導は確信していたんだ。だから自力の計らいで苦悩している人は百即百生の願意を心で受けとめて欲しい。いったんそのように受けとめると、自分の行き先は弥陀まかせという気持ちに落ち着く。そうすると今度は、仮に仏に手違いがあったとしても自分の行き先は弥陀まかせだから、仮に地獄に堕ちるようなことがあったとしても常に弥陀の大悲とともにあるという心境になるよ。機法一体の南無阿弥陀仏とか仏凡一体とはこの心境を言うんだ。