1-13.機の深信

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、こうごうよりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなし-機の深信

 祖師は愚禿抄(下)において、二種深信を「他力至極の金剛心、一乗無上の真実信心海なり」(真宗聖典第2版521頁)としながらも、この機の深信について自利の信心なりと釈している箇所(同522頁)があります。その意味は、機の深信だけでは利他の真実信心ではなく、法の深信を伴う機の深信でなければ利他の真実信心ではないと宗学においては解釈されているようです。法の深信を伴わない機の深信とは、どういうものか、ここでは、祖師が上記の自利の信心なりと釈された意味を探ります。

 祖師は、自らも「地獄は一定すみかぞかし」という告白をされたと歎異抄に書かれていますが、このような思いが形成される原因として3つのことが考えられます。 1つは、聖道門の難行の末に自己の悪性に関する思いが上記の思いとして形成された(以下①と表示)。
 2つに、如来の願心を聞き受けたことによって自力無功と知らされ、自己のいかなる行も出離の行となる行ではなかったと思い知らされた(以下②と表示)。
 3つに、信を得たのちも自己のそのような悪性が知らされるにつけ、「地獄は一定すみかぞかし」という思いが深まった(以下③と表示)。

 このうち、①は他力の信ではなく、②が他力信ということになります。③は②の思いに至ったのちの信後の味わいです。このような視点から善導の機の深信の文を眺めると、一方で自利の信を述べたものと理解し、他方で法の深信を伴ったときに利他の信であるとした祖意を理解することができると思います。

 最近、亡くなられた梯和上のご著書を読んでいましたところ、上記に関連すると思われる面白い記述がありました。

「・・・かくて、善導においては、法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ、その懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していくのであった。」
という記述でした。「法然教学の研究」260頁

 「機の深信が呼びおこされ、さらに機の深信と一具なる法の深信が成立していく」というところに、法の深信を伴わない機の深信とそれを伴う機の深信とがあり、それが順次に成立するという理解を梯和上は示されたものと私は理解しました。自利とされた機の深信は、「法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修が行われ(た)」から生じた思いです。

 実は、難行道を経ずとも、これと似た思いに至ることがあります。

 以前にも書きましたが、実機が知らされて自力が無功となるのではありませんが、如来のお救いに遭いたいという思いが深まってきますと、どうしても自力の行を行って助かりたいと思い、如来の救いにあずかるには自己の行や自己の思いがなにがしか役立つだろうと考えます。しかし、そのような自力の計らいに囚われている限り、如来の救いに遭えないことが分かってきますと、救われたいという思いがそのまま自力の計らいとなり、この思いが私の心を覆ってしまい、自分はこの思いに閉じこめられて、そこから脱出することは到底できないと感じるようになり、ついには、このような自力の計らいのまま死んでゆくことを覚悟させられました。自力の思いに囚われている間はその思いからどうしても抜け出ることができないことを身をもって知ります。このときの心理状態としては、如来の救いに自分はもう遭うことはないのだという悲壮な思いに沈みます。この思いは、このまま死んでゆくことを受け入れるしかできない、死が如何ともし難いものである以上、死後の命の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはないという思いに凝縮し、その一点で苦悩します。これが、上記の①に相当する思いです。それはまだ自力から自由になれず、自力に捕縛されて苦しんでいる世界です。

 如来の願心が真実まこと、往生決定の如来の至心を聞き受けることから自力の思いが廃ります。如来の大悲心を聞いてみると、自力の計らいは、如来の救いの前には何の意味もなかった、何の功も無かったということが分かりますから、本願信受ののちは、自力の計らいはきれいに消えてしまいます。自力無功を身をもって知ることになります。こうして、真実信には自力無功の思いが必ず伴います。これが伴わない本願信受は考えられません。「死が如何ともし難いものである以上、死後の行方はなおさら如何ともし難い、自分になすすべはない。」という信前に形成された思いとそれに続く自力無功と知らされた思いとは、信後においても変わることはなく、その思いは残り続けます。法の深信を伴いつつ「自身は現に・・・出離の縁あることなし」と知らされたとき、この言葉の中に、自力が役立たないと知らされた心相があると読み取ることができます。そのため、法の深信を伴ったとき機の深信を真実信心であると祖師は解されたのでありましょうし、法の深信を伴わない機の深信は、自力の信心であると理解することが可能だったのだと言えます。

 さて、信を頂いた後、毎日毎日、凡夫としての生活が続いて行きますが、その生活の中で自己の悪性が知らされることがあり、人によって知らされる程度がまちまちになるものと思います。より深く悪性が知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、ということもあると思います。ここで、注意をしておかなければならないことは、自力の思いが廃るということと自己の悪性の認識とか罪悪性の認識とは別のものだということです。私は、自力の思いから離れられないためにこのまま本願の救いにも遭えず、後生に飛び込んでゆくのだなぁという思いによって「出離の縁など自分にはないなぁ」という思いに至りましたが、それは、自己の罪悪性からの「出離の縁あること無し」という思いとは別物です。私は法蔵の如く真実心であらねばならぬという教説に呼応して、痛烈な懺悔の実修を行うということを怠った者です。痛烈な懺悔の実修とその懺悔をとおして、「決定深信自身現是罪悪生死凡夫、廣劫已来常没常流転無有出離之縁」という機の深信が呼びおこされた者ではありません。これが善導との違いです。自利真実を徹底して求めて自己の悪性が知らされたた善導のような聖者の機の深信は自己の悪性が知らされていない私のような者にはありませんが、法の深信を伴った自力無効の自覚である機の深信は、そのいずれの者に共通する思いでありましょう。

 本願信受と同時に廃る思いとは、如来の救いに自らの行を足しにしようとする思いです。真心を持ちたいという思いが廃るのではありません。ですから、信後においても真心を持ちたいと強く願うことがあってもおかしくありません。信後の日々の生活の中で自己の悪性が知らされることがあっても、人によって知らされる程度がまちまちだと思います。より深く知らされる人は懺悔し、そうでもない人は懺悔には至らない、という違いが生じるとすれば、それは心根の良い人間になりたいという思いの強弱の違いに求められるのだと思います。ですから、自己の悪性が知らされて懺悔されている方は、本当の意味で素晴らしい人格の人だと言えるでしょう。

1-12.大悲心と信と二種深信

 如来の大悲心は如来の至心であり、満足大悲円融無碍の信心であり、回向心です。疑蓋まじわることがなくなるのは、如来の三心の故にです。心中において、如来の大悲心に対する不信が有ることなし、という状態は、如来の大悲心が心中に来現し、心に刻み込まれ、大悲心があると認識されている状態です。この心中に認識される大悲心は如来の至心、信楽、欲生心が至り届いたものですから、認識されている大悲心が如来の至心であり、私を摂取することに揺るぎのない決定心であり、私を浄土へと召喚する大悲であるという思いになります。

 このように信は如来の大悲心から生じ、大悲心それ自体が信となるものであります。大悲の願と信とは一つのものです。願と信とが別々にあるのではなく、願そのものが信となるので、大悲心と信との間には隙間がありません。この願と信の間に自分の思いを差し挟んで願と信とを分離させようとしても、そのようなことはできません。

 救われたいと思えば思うほど、自分の思いや才覚その他、自分の持ち前のものを利用して助かりたいという思いを強くもたれると思います。それは当然のことであります。ところが、このような思いはすべて不信であり、又、その名号をもって助かろうとする思いはすべて自力の計らい、となってしまいます。また、自分は善ができないから救われないのではないかとか、悪人だから救われないのではないか、という思いも自力の計らいになります。このことは、如来の大悲心があることによって救われるという信とは対立する思いであることことから、おわかりになると思います。このような計らいがない状態とは、如来の大悲心が私の心中に届いている状態です。如来の大悲心を感じている状態です。大悲心が私の心中に届くと自力の計らいがなくなります。自力の計らいが無くなったということは大悲心があると認識し大悲心を感じているということです。

 大悲心を感じ認識しているということには二種の深信があるということです。

 大悲心を感じ認識しているということは、私をそのまま救うという大悲心が私の心の中に届き入り込み、私はこの大悲心によってそのまま浄土へと救われてゆくという思いになります。その大悲心に自分の生死を丸ごと委ねているということです。これが如来の本願に乗じて往生すると深く信じるという法の深信です。

 また、大悲心を感じ認識しているということは、大悲心の他に自分の修善などを付け加えて助かろうなどと思う自力の計らいはまったく無用だったのであり、自力の計らいでは如来の救いには遭えないことと自覚するようになったということです。この自覚が機の深信です。

 大悲心を認識し感じていることが二種深信となるのです。

1-11.「信は願心より生ず。」-実機を知らされたから自力の計らいが無くなるのか?

 自己の罪悪の深さや実機を知らされ、自力では助からないと知らされたことによって自力の計らいがなくなる、という考えは正しいか、これがここでの問題です。

 上記のように考える者は、自己の罪悪の深さや実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自力の計らいが無くなって他力本願に帰命すると説きます。

 しかし、これは間違いです。

 自力疑心がなくなるのは、如来の願心を聞くからです。自己の罪悪の深さや実機を知らされたからではありません。自力の計らいがなくなり信が生じるのは如来の願心、大悲心を感得するからです。

 自力疑心がなくなるのは如来の願心を聞いて感得するからですが、それまでは救われようとする思いが疑蓋となって自らを心の中に閉じこめてしまいます。この状態はどうにもこうにもなりません。この疑蓋から抜け出る方法がありません。このような状態において如来の願心に間違いはないと聞くと、願心に間違いがないのであれば私の側で用意すべきものは何もなかったと気づく(感得する)ので、自力の計らいは何の意味もなかったと分かってしまいます。そのとたん、疑蓋はなくなります。如来の願心を基点として自力の思いが翻ってしまうのです。

 祖師は

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
信楽はすなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われています。

 

 A、故にBという文章です。Bの根拠がAに示されています。如来に至心、満足大悲円融無碍の信心、大悲心なるが故に疑蓋まじわることがなくなると言われているので、疑心がなくなるのは如来の至心、満足大悲円融無碍の信心、大悲心があるためです。ここには、「実機を知らされたことによって地獄に堕ち、そのとき自力の思いが無くなって他力本願に帰命する。」という論理はありません。あるのは、如来の至心、如来の満足大悲円融無碍の信心(如来衆生を摂取することについての揺るぎのない決定信=如来信楽)、如来の大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし、という論理だけです。ここに、如来の願心によって起こった信の純粋性があります。願心以外に衆生が付け加える余分なものは一切介在しないので、信は純粋に願心から起こったものだということが分かります。私の言い方であれば、大悲(願)が信である、信が大悲心であるということになります。

1-10.自力の計らい(疑蓋、疑心)とは何か。

 祖師は三一問答において

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
信楽すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われ、また、「聞というは仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」とも言われています。化身土巻においては「本願の嘉号を己の善根とするが故に信を生じること能わず」と言われています。このように、如来の利他の真心、如来の満足大悲円融無碍の信心、如来の大悲心に対して「疑蓋まじわることなし」というのが信であり、信に対する不信を疑蓋と言われています。自力の計らいとはこの「疑蓋」や「疑心」のことです。信とは不信のない状態、不信は信ではない状態のことです。不信を理解できれば信とはどのようなものかを理解できる、信が理解できれば不信が理解できるように思うかも知れませんが、自分の心の中にある思いのうち、どれが不信なのかと内観したとき、これは不信であると気づくことはなかなか難しいことです。ここが信不信のやっかいなところです。

 信とは、言い換えれば、十七願十八願における如来の救いッぷりについて疑念を入れないことです。如来の救いッぷりについては、既に述べましたが、如来の救いッぷりは如来の至心、満足大悲円融無碍の信心海、大悲心を具現した御名を衆生に聞かせて信受させて救うという救い方です。如来が一方的にご用意された救いですから、衆生においてこの救いにあずかるのに必要とするものは何もありません。如来は大悲心をもってそのまま救うと呼びかけられ、その証として御名を回向され、御名の成就をもって衆生には何も用意するものはないと呼びかけられているので、これを聞いた衆生に、如来の大悲心に疑蓋まじわることなしという信が生じるのです。十八願の至心信楽欲生という信と乃至十念とは、回向された御名を衆生が受け取ったときにあらわれる衆生の心相と行相を示したものですから、この二つは衆生が自前で用意しなければならない救いの条件ではありません。この二つが救いの条件ではないということになれば、衆生が用意する条件はなく、無条件の救いということになってきます。信が生じる条件はただ御名を聞くことだけです。

 浄土往生が決定したとの御名の名告りを聞いて信が生じないのを不信といいます。不信とは御名の成就をもって自分が救われるとは思えない心理を言います。祖師は「本願の嘉号を己の善根とするが故に信を生じること能わず」と言われていますが、「本願の嘉号を自分の善根」とするということは、御名を称するという自分の行やその思いをもって救われようとすることですから、回向されている御名の成就では救われないという思いがあるということです。この思いが不信なのです。自分の行やその思いをもって救われようとする場合、行じる行の物柄となるのは称名行だけにとどまりません。称名以外の善根を行って救われようとする思いは、行じる行が五正行であろうと諸善万行であろうとすべて御名に対する不信となるのです。あるいは行の如何を問わず、自分の思いや才覚その他、自分の持ち前のものを利用して助かりたいという思いはすべて不信となるのです。

 この不信は、あくまでも十八願による救いを求める者に生じるものです。十八願の無条件の救いに合致しない思いが不信であり、二十願の果遂を求める者や十九願の臨終来迎を求める者には、この不信は生じません。これらの二十願、十九願にある行をもって救いにあずかろうとする者は、自力の思いでそれらの願で指定されている行を行うものであるから、行と思いとがそれらの願と齟齬することはありません。ただその思いと行とを成就することができるかどうかという問題が残るだけです。ところが十八願においては衆生においてなすべき行や役立つ思いはなく、如来による一方的で無条件の救いですから、その救いのあり方に自力の思いや行を差し挟んで救われようとすることは、十八願の願心にそもそも合致せず、願心と齟齬していることになります。そのため、十八願の救いに自力の思いや行を差し挟んで救われようすることは十八願の救いに対する不信となるのです。たとえ、十九願や二十願にある所定の行や所定の行じる思いを十八願の救いに持ち込むことをしないと自らの意志によって決めたとしても、自らの意志を如来の救いに介入・介在させようとするものであることは同じですから、その態度はやはり不信となります。このような不信が廃るのは、御名、すなわち如来の至心信楽欲生の大悲心をもってそのまま救うと呼びかけられている如来の大悲心を聞くことによってであり、如来の慈悲心を聞くことによってのみ疑蓋まじわることなしという信が生じるのであります。
 十八願による救いを求める者に対して、十九願の修善の行を奨めることは十八願の願心に背理することになることが、これで分かると思います。十九願の臨終来迎を求める者に対して十九願の行信を奨めるのは結構なことですが、報土往生を願う者に対しては、ただ、十七願十八願をお勧めするだけです。十九願の行や二十願の自力の専称行を十八願の救いに持ち込んで救われようとするのですが、これは十七願十八願の願心に背いている思いですから、これを自力の計らいといい、如来に嫌われてしまうのです。

1-9.往生の行因と乃至十念-大行論

 祖師は行巻において、大行とは如来の御名を称する事であると指定しています。その一方で、称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられています。このため、大行とは称名行であるのか、御名であるのか、ということが真宗教学上、問題となりました。大行は私が浄土往生する行因ですが、念仏が行因だとすれば、念仏を称えないときには行因を具足しないということになります。しかし、十八願文では乃至十念とされており、念仏は乃至されています。念仏が乃至されているということは、念仏を称えることができないときでも浄土往生できるということです。称名を大行として理解することと念仏が乃至されているということの関係をどのように考えたらよいのでしょうか。

 十住毘婆沙論には、「ふかく大悲を行する人は、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえになづけて深とす。一切衆生のために仏道をもとむるがゆえににづけて大とする」とあります。大行とは衆生の行ではなく、仏様の救済行のことです。

 祖師が大行を如来の御名を称する事であると指定されたことについては、称名行は衆生の行ではなく、深く大悲を行ずる仏様の救済行のことだと理解しなければなりません。

 そこで、仏様の行とは何か、ですが、仏様の救いの法は御名を衆生に回向し聞かせて如来の大悲心を信ぜしめることです。その大悲心が御名の形をとって衆生に回向されて信となり、念仏として称えられる。如来の救いのあり方をこのような動態としてみたとき、この動態全体が仏の救済行であることから、その全体を大行として理解することが適当です。大行には御名と信と称名行のすべてが揃っていることになります。そこで大行と指定された称名行は、御名がそのまま信となった上での称名行として理解するのが適当であります。このような理解は、称名行から徹頭徹尾、衆生の行であるという側面を排除して理解しようとするものです。称名を如来の大行であると指定しつつも称名は南无阿弥陀仏であるとの解釈を述べられたのは、全分本願乗托・自力無功という信に立って称名念仏は南无阿弥陀仏の働きが具体化した如来の救いであると理解されたからです。

 衆生の念仏行である南无阿弥陀仏如来の救済行であるため、報土への浄土往生・成仏へと繋がってゆき、さらには、還相の菩薩として還ってくることの行因となるものです。この還相の菩薩が再び、誰かの信となり念仏となり、再び、浄土へ還帰してゆきます。この働きが無限に円環してゆくのが法蔵菩薩の大乗菩薩道だと思います。ここには如来の働きがあるのみで、主体的な私というものはありません。この法蔵菩薩の大乗菩薩道が大行ということになります。

 ところで、大行は如来の救済行全体であると考えると、御名を聞き信が開け起こったところに如来の救済行が現実のものとなっていますから、一度も称名できないときでも大行は私をとらえて離さず、浄土往生の行因は私に円満に完備しています。信によって行因が私のものになった、信心に行因が円備している、ということです。このため、十八願文では乃至十念と乃至され、1回も念仏を称えられなくても、それが往生浄土の障りとはならないのです。その後の念仏は、大行たる如来の救済行が口称となったものですから、その口称の念仏も大行であることはいうまでもありません。口称の念仏は音声化された南无阿弥陀仏でありますから、口称の念仏も南无阿弥陀仏そのものです。称名することから衆生の自力の計らいを取り去れば、称名と御名は同じなのであります。ですから、大行とは称名念仏か御名かという議論は実はあまり意味のない議論であることが分かるでしょう。

 さて、以上は、如来の救済行は、如来の一人働きであるということを述べました。その一人働きの如来の救いに私の計らいを入れようとすると、どうなるでしょうか。その結果は、如来の大行を妨げとなり、信が生じることはありません。私は如来の仏行をそのまま受け入れるしかないのです。仏行をそのまま心に受け入れたことを信というのです。仏行が私の心に働きかけ、心の中にあらわれたことを信というのです。信と称名はともに仏行であり、一つのものです。仏行が心に表れたものを信といい、口称となったものを大行というのですから、大行と信とはともに仏行であり、これを2つに分けられるものではありません。

1-8.十八願の三信と出体釈

 如来の大悲心は真実の至心であり、衆生を摂取するについて疑心のない決定心であり、また、衆生を浄土に往生させるとの決定の欲生心です。この大悲心は南无阿弥陀仏の徳号として成就されました。

 ところで、衆生における至心、信楽、欲生の三信につき、祖師は無疑の真実信心(一心)とされました。その一方で、祖師は三信の出体を釈されています。最初は、「如来の至心をもって回施したまへり。この至心は如来の徳号をその体とせるなり」と釈され、続けて「信楽はこの至心を体とする」「欲生は信楽を体とする」と釈されています。

 「この至心は徳号を体とする」の「体とする」とは分かりにくい表現ですが、衆生の至心の本体、ものがら中身という意味でしょう。如来の徳号と衆生の至心とは別々のものではなく、徳号が衆生の至心のものがら・中身であり、徳号とその至心とは一つのものという意味に理解するのが適当だと思います。

 如来の大悲心を聞けば自然と信が生じるようになりますが、その信とは私を救うという大悲心が私の心中において認識されるようになったということです。大悲心があると認識されるようになったということは、心中に大悲心がある、大悲心が印現しているということです。私の心の中で阿弥陀仏に南无している状態=南无阿弥陀仏が成立しているということです。この心中において大悲心があると認識されている状態、ないしは心中に大悲心を感じていることが衆生の至心です。大悲心があると認識し感じる思い以外に私に真実誠の心は見あたりません。ですから、私にとって、私に“ある”と認識されている大悲心が至心です。その大悲心は私の心に移り込んで“ある”と認識されている大悲心ですから、私の(心の中の)至心です。衆生の至心は如来の大悲心である南无阿弥陀仏と一つのものであり、大悲心の他に至心があるのではありません。これを「この至心は徳号を体とする」というのでしょう。

 次に祖師は、「信楽は至心を体とする」と言われましたが、私の心中において認識され、あると感じている「大悲心(=至心)」につき無疑の状態となっている。これが信楽です。ですから、信楽は(私の内心にある)至心に対する信相です。これが「信楽は至心を体とする」ということでしょう。信楽は「私の(心の中にある)至心」に対する無疑の心相ですが、「至心を対する」とはその信楽は至心それ自体をものがらとし、至心に由来して生じているという意味であると理解できます。もちろん、信楽も至心と同様に徳号をその本体、ものがら・中身としています。

 欲生は信楽を体とする、ということについて言えば、この場合の欲生とは浄土に往生できるとの衆生の思いのことを意味していると思われます。如来の浄土に往生させるぞという呼び声に対する無疑信は、往生できるという往生決定の思いになります。ですから、欲生は信楽が浄土往生できるとの思いとなって表れたものということです。
 
 まとめると、心中にあると感じ認識している大悲心、私の心に移り込んだ心中の大悲心が衆生の至心であり、大悲心に対する心相が衆生信楽であり、信楽は決定往生の思いとなる。出体釈の意味は分かりづらいのですが、このような論理ではないかと思います。

 徳号として成就された如来の三心がそのまま衆生の至心、信楽、欲生の三信となるのですが、如来の三心が衆生の心にきれいに反転したのが衆生の三信であり、この衆生の三信はいずれも無疑の信一つになります。徳号がそのまま衆生の至心となるという所をまず押さえた上で、南无阿弥陀仏に対する信じ方は無疑の信楽、無疑の信楽から欲往生の思いが生じるという論理展開が成立することを祖師は言われたかったのでありましょう。

1-7.如来の三心と衆生の三信(一心)

 十八願の三信とは、衆生の生因としての至心、信楽、欲生のことですが、この三信を如来の三心から考えてみましょう。

 祖師は

如来の至心をもって諸有の・・群生界に回施したまへり。すなわちこれ利他の真心を彰す。故に疑蓋まじわることなし。
つぎに信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。この故に疑蓋間雑あることなし。
欲生すなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるが故に疑蓋まじわることなし。

と言われています。

 至心は如来の真実心。
 この如来の至心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の至心に疑心あること無し、となります。衆生如来の至心を聞いて疑心あること無しとなったことを衆生の至心といいます。

 如来信楽如来の疑心のない心。
 如来の疑心のない心とは衆生を摂取することに疑いのない摂取決定心のことです。この如来の摂取決定心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の摂取決定心に疑心あること無し、となります。これを衆生信楽といいます。

 如来の欲生心は浄土に生まれさせるという決定心。
 浄土に生まれさせるという如来の欲生心を衆生が聞き受けるとき衆生如来の欲生心に対して疑心あること無し、となります。この無疑信を衆生の欲生心といいます。衆生の欲生心は浄土に生まれられることに対する無疑信ですから、決定要期の往生心となります。

 如来の三心を衆生がそのまま聞き受けるから、如来の三心が衆生の心にきれいに反転し、衆生の三信になります。如来の三心が衆生の心に反転したのが衆生の三信であり、この衆生の三信はいずれも無疑の信一つになります。衆生の至心は如来の至心に対する無疑である、衆生信楽如来信楽に対する無疑である、衆生の欲生は如来の欲生に対する無疑である、ということです。これが衆生における真実の一心です。

 最近、亡くなられた梯和上のご著書を読んでいましたところ、面白い記述がありました。

隆寛は、具三心義に 『所帰之願真実なるが故に、能帰之心を真実心と名くるなり、此義を以ての故に、至誠心を立てる』 といい、極楽浄土宗義にも『是即弥陀の本願を指して、名つけて真実と為す、真実願に帰するの心なるが故に、能帰心を以て、真実心と為す』 といい、至誠心の体を本願の真実と定め、所帰により能帰に名づけて、能帰の心も真実心と名づけられるといわれている。
という記述でした(「法然教学の研究」261頁)。

 

 「所帰之願真実なるが故に、能帰之心を真実心と名くる」、つまり、如来の御名に帰命した能帰の信を至心と名付けるということです。この能帰の心は、所帰の願の真実なるこのに対する無疑信です。隆寛律師の釈を参考にすれば、信楽と欲生についても同じことが言えます。衆生を摂取することに疑心のない如来の決定心に能帰する信を信楽といい、この能帰の心は無疑信であるということです。衆生に回向する如来の欲生心に能帰する信を欲生といい、この能帰の心は無疑信であるということになります。

 以上の隆寛律師の理解は、如来の至心と衆生の至心とは一体のものとして理解していることが分かるでしょうか。能帰心とは、帰命する心、信楽のことですが、帰命する対象は如来の至心です。帰命する対象が如来の至心だから、如来の至心に対する信も至心となるというのですから、帰命の対象となる如来の至心とは別に帰命する至心があるのではありません。
 では、どうして如来の無疑信を衆生の至心というのかと言えば、至心の大悲心を信受するということは如来の大悲心が私に現前するということです。大悲心が現前するということは、私の心中において、大悲心のあることを私はつねに認識するようになるということです。至心の大悲心があると私の心は感じるようになるのです。私によってあると認識されるようになった如来の大悲心は如来の至心です。私の心の中にある如来の至心の大悲心ですから、それがそのまま私の至心です。如来の至心に対する無疑信がそのまま衆生の至心となるのです。
 また、浄土に連れて帰るという大悲心をそのまま無疑で信受すれば、浄土に生まれられるという思いになります。これが衆生の欲生です。
 いずれも、大悲心が私の心に入り込み、私によってあると認識されている大悲心を指して、至心、信楽、欲生と言われたのだと理解できます。私の心に現れ出でた大悲心を指して祖師は真実信心の一心と言われたと理解できます。真実信心は私の心に入り込んでしまった如来の大悲心そのものです。大悲心が真実信心であり、真実信心は大悲心なのです。大悲心の他に信心はありません。

 このように如来の三心と衆生の三信とがピタッと対応しています。如来の三心と衆生の三信との間にはいかなる計らいも介在していません。隙間がありません。信に恵まれるとは、如来の三心をそのまま頂くことであり、信とは如来の三心に自力の計らいをまじえない状態である、ということが分かるでしょうか。

 信に恵まれようとして、自力の計らいをまじえないように努力しようなどと考えてはいけません。如来の三心を聞き受けるだけなのです。


追記

 講談社/浄土仏教の思想十一を読んでいて、証空上人も隆寛律師と同じような考えを述べている事が分かりました。 

法蔵菩薩の因中にして六度万行を捨てたまひし心(衆生には六度万行の行は堪えがたいとして本願の行から外して捨てた心)は真実なりと知るは我らが真実なり。別に法蔵の御心を離れて真実を尋ぬべからず。何を以て知るとならば、願に十方衆生至心信楽と誓いたまへる御心に、その至心とは今我らが真実となるべしと意得るは、凡夫の真実なり。

講談社/浄土仏教の思想十一・114頁

 

 

如来の本願は真実なりと知るは我らが真実ということを述べています。真実なりと知るというのが、隆寛律師の言う「衆生の能帰之心」ということになります。次に「今我らが真実となるべし」と意得る、とは分かりにくいですが、南无阿弥陀仏という真実と我らが一体になると心得る、という意味でしょうか。